インテル攻略プロジェクトへの資源一点集中
1994年実施カーバイド撤退で後がない中堅企業は、なぜ研究開発費のほぼ全額を単一テーマに賭けたか
- 概要
- 1994年、遠藤優社長が半導体パッケージの開発を自らの直轄プロジェクトに据え、研究開発費のほぼ全額と選りすぐりの人材を一点に集めた経営判断。原則2年で量産化できなければ解散という期限を切り、プラスチック製パッケージでインテルへの供給をめざした。
- 背景
- 1991年に最後の電気炉が消えてカーバイドから撤退し、バブル崩壊後は1991年度から3期連続の減収減益に沈んでいた。1994年3月期の連結売上高は599億円、純利益は4億円まで落ち、新事業の立ち上げが生き残りの条件だった。
- 内容
- 統括リーダーに藤川治・社長室長、開発リーダーに伊藤均・技術部次長を据え、もとの部署から切り離して専念させた。売上比3〜5%の研究開発費の大半をプロジェクトへ移し、多いときで約50人が参加。価格をセラミックの3分の1に下げる新しい成型技術に絞り込んだ。
- 含意
- 開発は約束の2年で仕上がり、1996年にインテルとの取引が始まった。連結売上高は1997年3月期に前期比40%増の881億円、翌期は初めて1000億円を超え、2期連続で最高益を更新した。生き残りを賭けた一点集中が、インテルの素材転換と噛み合って実を結んだ。
生き残りが生んだ一点集中
このプロジェクトの特異さは、開発手法の巧みさよりも、負けられない状況が組織の全エネルギーを一点へ集めさせた点にある。カーバイド撤退と3期連続の減収減益で後がないなか、遠藤社長は研究開発費のほぼ全額を単一テーマへ振り向け、中核人材を元の部署から引きはがし、2年で結果が出なければ解散すると期限を切った。石油危機期の200人削減を悔い、社長就任後は人員整理をしないと誓った経営者が、事業では一切の妥協を許さない。人を守る一方で賭けには徹する、その二面が同居していた。
もっとも、賭けが実ったのは、インテルがセラミックからプラスチックへ素材を切り替える時機と重なったからでもある。遠藤社長自身、稼ぎ頭のプラスチックパッケージも来年にはまた別のものへ置き換わるとみて、次の世代を並行して開発する仕掛けを残した。一つの成功に安住しなかったこの構えが、その後のインテル依存と海外への拡大投資を支えていく。生き残りのための一点集中が外部の変化と噛み合ったとき何が起きるか——イビデンの半導体部材メーカーへの変身は、その一つの答えである。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
カーバイド撤退と3期連続の減収減益
イビデンは1912年に揖斐川水系の水力発電会社として生まれ、その後カーバイドや肥料、建材、プリント基板へと事業を替えてきた。1991年に最後の電気炉の火が消え、創業以来の主力だったカーバイドから撤退する。同年に社長へ就いた遠藤優氏が向き合ったのは、バブル崩壊後の1991年度から3期連続の減収減益という業績不振だった。1994年3月期の連結売上高は599億円、純利益は4億円まで落ちていた。後がないなかで、新事業を立ち上げて危機を切り抜けるほかなかった[1]。
セラミック全盛の半導体パッケージ
活路は半導体パッケージにあった。パソコンの頭脳であるMPUを収めるこの基板は、1995年まで京セラや日本特殊陶業のセラミック製が大半を占めていた。イビデンは1980年代初めにプラスチック製を開発していたが、一部の汎用コンピューター向けにとどまり、業界では目立たなかった。ただインテルは2〜3年ごとに新世代のMPUを出し、そのつど部品を切り替える。次世代品が出る1996年に合わせて、セラミックと同等以上の性能と価格を用意できれば、後発でも割り込む余地があった[2]。
決断
社長直轄プロジェクトへの一点集中
1994年、遠藤社長は新事業の立ち上げを自らの直轄プロジェクトにした。統括リーダーには技術開発本部長だった藤川治・取締役社長室長、開発リーダーには伊藤均・電子関連事業本部技術部次長を据える。本社の技術陣が350人足らずのなかで欠かせない中核人材だった。二人はもとの部署から完全に切り離され、どんな応援の求めも断ってプロジェクトに専念した。遠藤社長は、このプロジェクトと心中さえ辞さないと公言した[3]。
資源の集め方も極端だった。遠藤社長は、通常5〜6年かかる開発を半分の期間でやり切るには人材を集中させるほかないとし、既存事業に未練を残したまま新規事業を立ち上げるのは虫がよすぎると言い切った。売上高の3〜5%にあたる研究開発費も、その大半を研究開発本部からプロジェクトへ移す。開発テーマの選定から進め方まで権限はリーダーに委ね、取締役会は事後に追認するだけだった。スピードは最優先で、「原則2年、長引きそうなテーマでも3年で必ず量産化までもっていく。それより1日でも遅れたものは即解散」と期限を切った[4][5]。
価格を3分の1にする
絞り込んだテーマは、プラスチックパッケージの価格だった。プラスチック製はセラミック製より電気特性に優れ、高速でデータをやり取りする半導体に向くが、価格はセラミックの1.5倍もした。チームは、インテルの次のMPUが出る2年後までに価格を3分の1へ下げると決める。高価格の原因は、5枚のプラスチックを1枚ずつ重ねて接合するプレス工程にあった。これを1度に成型する新しい技術を研究開発から立ち上げ、必要な部分だけに人手を絞って集中的に進めた[6]。
結果
2年での量産化とインテル取引の開始
開発は約束どおり2年で仕上がり、1996年にインテルとの取引が始まった。前年にインテルがMPUの基板をセラミック製からプラスチック製へ切り替える方針を打ち出し、イビデンはそこへ数百万個を納入する。1995年までインテルと取引がなかった会社が、一気にMPUパッケージの有力メーカーへ躍り出た。プリント基板とあわせ、電子部品事業は売上高の8割を占めるに至った[7][8]。
業績の伸びは続いた。連結売上高は1997年3月期の881億円から翌1998年3月期に1051億円へ達し、設立以来はじめて1000億円を超える。インテルへの供給を軸に、この不況下で2期連続の最高益を更新した。カーバイドと建材の会社が、ここで半導体部材メーカーへと姿を変えた[9][10]。
- 日経ビジネス 1997年12月1日号「イビデン半導体パッケージで大躍進 社運かけ大胆に資源集中」
- 日経ビジネス 1998年7月27日号「遠藤優氏[イビデン社長]ひと『どんな苦境でも人員整理はしない』」
- イビデン 有価証券報告書(1997年3月期・1998年3月期)