凸版印刷の前身は、1900年1月に創立された凸版印刷合資会社である[1]。内閣印刷局の出身者が相寄って起こした会社であり、彫刻を主とする高級凸版印刷術を応用し、偽造変造を防止できる株券、社債券、その他の有価証券を製造することを設立の目的に掲げた[2]。1908年6月4日に資本金40万円で株式会社へ改組した[3]。もっとも、有価証券だけで工場は回らなかった。民間で有価証券専門の工場を経営することは当初きわめて難しく、煙草包装紙、ポスター、レーベルなど高級印刷技術を要する一般印刷も合わせて営んだ[4]。1908年10月に内外印刷を合併して本所工場とし[5]、1918年2月にはオフセット印刷を買収した[6]。
株券、社債券、勧業債券、政府発行の諸債券といった有価証券の需要が増えるにつれ、設備と技術も進んだ[7]。国内で流通する紙幣を民間会社が印刷した最初の例は凸版印刷であり[8]、戦中戦後にかけても紙幣の印刷を担った[9]。工場と品目は合併で増えた。1926年4月には東京紙器を合併して小石川工場とし、紙製容器の製造を事業に加えた[10]。1927年1月に大阪工場、1938年5月に板橋工場、1943年5月に富士工場を新設し[11]、1944年7月には精版印刷を合併して大阪支社工場とし、資本金を2,250万円へ増やした[12]。
1945年、2度にわたる空襲によって凸版印刷は本社、本社工場、本所工場、大淀工場、小石川工場を焼失した[13]。同じ年の7月に熊本県で九州工場を新設し、あわせて小石川工場の復旧を終えた[14]。1946年8月に大淀工場、1948年4月に本社の両工場、1951年6月に本所工場が復旧し、1949年には仙台工場を開設した[15]。1953年3月には富士工場を閉鎖し、工場は8か所になった[16]。1955年時点の本社は東京都台東区二長町にあり、印刷、製本、紙器を事業とした[17]。山田三郎太社長のもと、1955年5月期の営業収入は21億円、資本金は1954年12月に3億円へ増えた[18]。
復旧と並行して、海外技術の導入と自社研究により印刷できる素材を紙の外へ広げた[19]。ビニール印刷は1949年に印刷加工を始め、精細なグラビア印刷の方式を採用して繊細優雅な効果をあげた[20]。1951年には独自考案の三色印刷機械を作り、54インチ幅のエンドレスものを印刷した[21]。ポリエチレン印刷、アニリン印刷、チューブ成型印刷は1952年に操業を開始した[22]。1968年時点の特殊印刷は、合成樹脂、金属、布地、セロファンを対象とした[23]。証券印刷では、偽造防止の特殊印刷機械であるM・C・F機と並行して、製版法の工夫により繊細で鮮明な印刷の迅速化に成功した[24]。
1962年8月、凸版印刷は朝霞工場を開設し、本社工場をここへ移した[25]。1964年8月には伊丹工場を開設し、大淀工場を移した[26]。1968年時点の工場は仙台、板橋、小石川、本所、朝霞、相模原、大阪、伊丹、九州の9か所を数えた[27]。本社直轄の技術研究所を設け、東京と大阪にアイデアセンターを置いた[28]。1968年5月にはトッパンビルディングとフォトスタジオを新築し、IBMの電子計算機を導入した[29]。海外へは1963年5月に香港の合弁会社、1964年6月にニューヨークの駐在員事務所で臨み、ミルプリント社、レトラセット社、トランスワールド・ディスプレイ社と技術提携を結んだ[30]。
1961年、凸版印刷はシリコントランジスタ製造用フォトマスクの試作に成功した[31]。フォトマスクは、フォトリソグラフィ技術において対象物に任意の図形を転写するための原版となるガラス基板であり、一般に写真のネガにたとえられる[32]。フォトマスクの製造には、印刷技術の1つである微細加工技術を応用した[33]。1900年の創立時に掲げた偽造変造を防ぐ有価証券の製造は彫刻を主とする高級凸版印刷術に支えられ[34]、1952年までに製版法の工夫が繊細で鮮明な印刷の迅速化に達していた[35]。試作の成功から量産の開始までには7年を要した。
1968年3月、朝霞工場の精密部品棟にクリーンルームが完成し、シリコントランジスタマスクの量産が始まった[36]。朝霞工場は1962年8月の開設にあたって本社工場を受け入れた場所であり[37]、1968年時点の凸版印刷が仙台から九州まで持つ9つの工場の1つであった[38]。当時の呼び名はトランジスタマスクであり、1968年の営業品目にフォトマスクや集積回路の語はない[39]。テクセンドフォトマスクの事業は、前身であるTOPPANグループにおいて印刷技術の1つである微細加工技術を応用し、1968年にトランジスタ用のマスクの量産を開始したことに端を発する[40]。
1968年の産業資材部門は、トランジスタマスク、メタルフィルター、シャドウマスク、電子計算機用印字リング、ガラスパターンを品目に並べ、ソノシートとシンクロシートの音響製品、家具・建材向けの化粧板用原紙、メラミン製品、給付用紙、塩ビ製品も同じ部門に含めた[41]。営業品目の総括では、凸版、活版、原色版、オフセット、凹版、グラビアの一般印刷と並んで電気化学機器部品の製造が挙がる[42]。1968年時点の凸版印刷は資本金60億円、従業員6,179名を抱え、沢村嘉一社長が経営にあたった[43]。朝霞の工場は1979年に精密機器工場と呼ばれ、精密電子部品を生産していた[44]。
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|---|---|---|---|---|
| 1900〜1969年証券印刷の製版技術からシリコントランジスタ用マスクへ | 凸版印刷がシリコントランジスタ製造用フォトマスクの試作に成功 | ★★ | ||
| 朝霞工場精密部品棟にクリーンルームが完成しシリコントランジスタマスクの量産を開始 | ★★★ | |||
| 1970〜2004年滋賀と朝霞の工場増設、台湾合弁で組んだ量産体制 | 滋賀精密工場が竣工 | ★ | ||
| 朝霞精密電子第一工場が竣工 | ★ | |||
| 朝霞精密電子第二工場が竣工 | ★ | |||
| 中華映管、揚博科技との合弁で台湾に中華凸版電子(現 中華科盛德光罩)を設立 | ★★ | |||
| 朝霞第三工場が竣工 | ★ | |||
| 2005〜2021年DuPont Photomasks 買収から始まる米欧アジアの生産網 | DuPont Photomasks の株式取得を完了し米国事業を統合 | ★★★ | ||
| 上海凸版光掩模(現 上海徐匯科盛徳半導体)の持分28.5%を買い取り完全子会社化 | ★ | |||
| 中華凸版電子(現 中華科盛德光罩)の株式を取得し子会社化 | ★ | |||
| 上海凸版光掩模が新工場を建設しフォトマスクの生産能力を増強 | ★ | |||
| Toppan Photomasks Round Rock を設立しGlobalFoundries向けに供給開始 | ★★ | |||
| 2022〜2026年インテグラルの49.9%出資と東証プライム上場 | 二ノ宮照雄 | 凸版印刷からのフォトマスク事業の無対価承継と、インテグラルによる49.9%取得 2022年4月1日、テクセンドフォトマスク(当時トッパンフォトマスク)は、凸版印刷とトッパンエレクトロニクスプロダクツのフォトマスク事業を無対価の吸収分割で承継し、事業を開始した。同時に凸版印刷が保有株の49.9%を独立系投資ファンドのインテグラルグループへ譲渡し、凸版印刷50.1%・インテグラル49.9%の合弁会社として発足している。 詳細を読む | ★★★ | |
| 二ノ宮照雄 | 本社を汐留シティセンターに移転 | ★ | ||
| 二ノ宮照雄 | 商号をテクセンドフォトマスクに変更 | ★★ | ||
| 二ノ宮照雄 | 東京証券取引所プライム市場に上場 | ★ |
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事実根拠:出所(テクセンドフォトマスク)