東京応化工業の第一期は、大きい市場を選ばなかったことで成立している。戦後まもなく持ちかけられた塩化ビニールは、技術的にも成長性の面でも手の届く事業だったが、大手が量産と原価低減に本腰を入れれば、資本金5億円規模の会社は価格で競争劣位に落ちる。伊藤毅雄社長が繰り返した、自分の図体に合うものだけを手がけるという言い方は、謙遜ではなく参入可否の判定基準だった。フォトレジストの市場は1984年でも年間60億円程度しかなく、技術的・営業的なめどが立つまで大手は本気にならない。コダックの製品が占めていた市場へ1968年に国産のネガ型で割って入れたのも、そこが小さかったからである。この空白の年数が、東京応化にとっての参入余地であった。
もっとも、狭い市場を選んだだけでは首位にならない。決め手は、劣化しやすく仕様が顧客ごとに違うというフォトレジストの扱いにくさを、弱点ではなく参入の壁として扱ったことにある。300種類以上を作り分ける多品種少量生産も、予算の枠を置かない研究開発も、規模の経済とは逆を向いた投資である。だが半導体メーカーが品質以外の理由で材料を選べば歩留まりに即座に表れる市場では、価格だけの競争は成り立たない。1976年11月期に56億円だった売上高は1985年11月期に430億円へ届いた。東京応化は宇都宮・熊谷・阿蘇と工場を継ぎ足し、この出来たてを近くで渡す配置を、のちに北米へ持ち出すことになる。
東京工業試験所に1920年ごろ入り応用化学に携わった向井繁正は、まだ揺籃期にあった日本の化学工業がドイツ製品の輸入に依存しているのを見て、身につけた技術で世に打って出ようと、輸入品を国内で作ることに力を注いだ技術者だった。その向井(現会長)が1936年4月に個人企業として設けた東京応化研究所が、同社の起点である。研究所の目的は、炭鉱で採掘の明かりに使う安全灯のアルカリ電池向け電解剤、つまり精製水酸化カリウム(苛性カリ)を作ることにあった。1940年10月に改組して法人となり、資本金18万円で川崎市に東京応化工業株式会社が発足した。精製苛性カリは試薬・医薬品・化粧品にも用いられた。当初は感光材料ではなく、苛性カリという基礎化学品の専業メーカーとして歩み始めた。
創業時の1940年から敗戦の1945年までの5年間、戦時計画経済のもとで精製水酸化カリウムと精製水酸化ナトリウムはアルカリ電池の電解剤として重要視され、従来の硫酸電池より高い性能で炭鉱の採掘照明を支えた。戦後は炭鉱向けの精製苛性カリ供給を強く要請されたが、原料の塩化カリが乏しく、生産に20時間を要する工程が停電のたびに頓挫する難題を抱え、GHQに特別配線を依頼するなどして対処した。同時に、耐熱絶縁材料の塩化ナフタリンも戦後まもなく生産を再開し、占領米軍が持ち込んだC4電話機用コンデンサの充てん剤として供給したことが、後の電気・電子分野との関わりを深める契機となった。
戦後復興期には、向井が中心となって技術者を招き有機合成にも進出し、香料原料の塩化ベンジルやベンジル・アセテートとともに、後にフォトレジスト第一号の原料となる桂皮酸を開発していた。1955年5月からは、白黒テレビのブラウン管用蛍光体接着剤オーカシールの開発に成功し、ファイン・ケミカルズが直接エレクトロニクスに関与する転機となった。1964年の東京オリンピックを機にカラーテレビ需要が拡大すると、シャドウ・マスクのエッチングに使う感光剤の研究開発をNHKなど4社と進め、東京工業試験所と共同でTPR(東京応化フォトレジスト)を開発した。1967年1月には相模工場(現 TOK 技術革新センター)を新設し、量産対応と研究開発を両立する拠点を整備、創業から30年弱で感光性レジストの専業という地位を確立した。
フォトレジストは扱いが繊細ですぐに傷むため、輸入品は運ばれてくるまでの時間が長いぶん不具合が出やすく、回路パターンが極めて細かい半導体ではレジスト特性のほんのわずかな差が電子回路の仕上がりを大きく変えた。しかも半導体メーカーは自社の設備や仕様に合う材料を必要としていたのに、既存品には対応できる品種の幅がなかった。国産品を求める声が価格ではなくこうした材料の性質から出ていたなかで、プリント基板用で実績を積んでいた東京応化に高精度品の開発依頼が集まったのは、国内にほかの担い手がいなかったためだろう。同社は1968年3月に半導体用ネガ型フォトレジストOMR-81の製造に乗り出し、米コダック社製品が握っていた市場に食い込んだ。
フォトレジストの品種は300種類を超え、ユーザーごとの製造ラインの仕様に応じて作り分ける多品種少量生産となった。これを支えたのは開発の進め方で、構想から量産までを同じ担当者が通して見届け、その過程でユーザー企業と細部まで詰めを重ねた。工場にはクリーン・ルームを設け、微細加工を損なう塵が入り込まないようにした。輸入品では得られなかった清浄度である。1972年12月には国産初の半導体用ポジ型フォトレジストOFPR-2を開発し、ネガ・ポジの双方を揃えた。顧客ごとに仕様を刻む体制を取れたのは、組織が小さいこと自体が意思決定の速さに変わったからだろう。
大手電機メーカーがゲルマニウム半導体の量産に入ると、創業以来手がけてきた高純度苛性カリもそこで大量に消費されるようになった。感光材料と基礎化学品という二つの系統が、ともにエレクトロニクス向けの需要へつながったのである。電算機メーカー7社が1976年に活動を始めた超LSI技術研究組合では、高性能レジストの開発を素材の側から支え、それが技術を積み上げる一つの段階になった。1978年、半導体の関税を下げるようアメリカから強く迫られた日本の半導体メーカー各社は、自前の技術を固めることに総力を傾ける局面に入り、東京応化もその取り組みに加わって協力した。同じころ、別の角度から感光性樹脂版を開発し、印刷向けの柱に育てている。集積度を上げる国家的な開発計画へ材料の側から加わることは、次に要る材料の仕様を量産が始まる前に知る立場を得ることでもあった。
技術力を買われた東京応化に、塩化ビニールへ乗り出してはどうかという話が持ち込まれたのは、戦後まもない時期である。同社はそれ以前から塩化物を扱っていたので技術の距離は近く、伸びる見込みのある分野でもあった。事業として惹かれる面はあったものの、大手が本格的に量産して原価を押し下げてくれば、同じ規模の会社では勝ち目がない。そう判断して見送った。その代わりに同社が取ったのが、自前の技術がいちばん生きる分野に絞り込み、『あくまで自分の図体に合ったものを手がける』という方針だった。フォトレジストの年間推定売上高は1984年時点で60億円程度と、市場としては大きくなかった。技術的・営業的なめどが立たないうちは大手が必死で取り組む対象になりにくく、その手前で先行できたことが首位を生んだ。
東京応化には研究開発費の予算制度が無く、大枠すら決められていなかった。利益を食い潰さない限り資金を出すという方針のもと、技術者が必要と判断した研究や設備には金を惜しまず、他の部門を切り詰めてでも開発部門へ資金を回した。売上高は1976年11月期の56.39億円から1983年11月期の252.31億円へと伸びたが、その裏には開発費を惜しまない姿勢があった。同社は中長期計画を持たず、ユーザーの求めが出るたびに必要な開発費を工面して応じてきた。支えにあったのは独特の技術観である。技術には目に見えない部分が多く、氷山と同じで水面下が膨らまなければ水面上も伸びないと考えていた。技術がすぐ古くなる半導体の世界では、贅沢に見えるこのやり方が、競り合いの中で落ちこぼれないための手立てにもなっていた。
1980年代に入ると、日本合成ゴム・住友化学・日立化成といった国内勢に加え、コダック、シプレイ、ハントケミカルなどの外資系も日本に工場を設け、レジストを生産するメーカーは十数社に達した。年率20〜30%と言われた成長性に引かれた参入であり、市場規模から見て競争の激化は避けられなかった。追い上げられる側の東京応化が選んだのは、品質での競争と、全国を数ブロックに分けて出来たてのレジストを各地のユーザーへ届ける生産配置であった。1981年6月の宇都宮工場、1983年12月の熊谷工場、1984年12月の阿蘇工場と、首都圏内陸から九州まで工場を立て続けに構え、売上高は1984年11月期に367.72億円、1985年11月期に430.09億円へ達した。この生産基盤の厚みが、創業50年目の株式公開を支える土台となった。
1986年の株式公開は、資金を集めるためというより、寡占の位置を公にするための手続きだった。伊藤毅雄社長が上場の最大の理由に挙げたのは、フォトレジスト関連で70%強、精製水酸化カリウムで90数%というシェアを持つ会社が、社会に対して存在を明らかにし責任を果たすことである。寡占の側にいる材料メーカーが抱えていたのは競争の不足ではなく、互いに競う半導体各社の設備仕様と秘密を同時に預かるという負荷だった。製品がひとつ狂えば翌日には数億円の損害が顧客へ出る。品質管理と守秘は管理部門の仕事ではなく、この会社では営業活動そのものであった。
上場後の十年余りで東京応化が解いたのは、この品質を日本の外でも出せるかという問いである。輸出比率は総売上高の3%程度にすぎず、円高や貿易摩擦に押し出される必然はなかった。それでも1987年にカリフォルニアと英国へ拠点を置いたのは、作りたてを顧客の隣で渡すという国内の分散配置を、そのまま北米へ延ばすためだった。ただし東京応化は、その延長を設計どおりには運べなかった。オレゴンに設けた二社目は三年で吸収され、半導体用フォトレジストを現地で作れるようになるまでに十年を要した。1998年の台湾進出が意味を持つのは、その十年で品質を別の土地へ移す手順を確かめた後だったからである。
上場時点の従業員は800人、売上高は370億円を見込み、製品別の構成比はフォトレジスト36%、化成品27%、印刷材料15%、プロセス機器14%、特殊化学材料等8%で、シェアはフォトレジスト関連が70%強、精製水酸化カリウムが90数%に及んだ。東京応化工業の株式が東京証券取引所市場第二部に上場したのは1986年7月30日である。伊藤毅雄社長が挙げた最大の理由は、フォトレジストを筆頭に製品の大半がファイン・ケミカルで、しかも各分野で高いシェアを持ち寡占に近い状態にある以上、ここまで育った会社として世間に存在を認められ、その責任を果たしたいという点にあった。伊藤社長は上場に際し『創立以来の展開を考えると、誠に感慨深いものがある』と創業からの歩みを振り返った。
品質で選ばず別の理由で材料メーカーを決めれば、その差は半導体メーカーの製品にはっきり出るため、材料メーカー同士の競争は技術力がそのまま評価される場でもあった。寡占の立場には供給する側の責務がついて回った。取引先が非常に多くなるぶん、各社の機密を決して漏らさないことが最大の課題になり、伊藤社長はそれを守り通して顧客の信頼を厚くしている点を同社の特色に挙げた。品質保証の重さも大きく、ひとたび製品を誤れば翌日には顧客に数億円の損失を与え、全額を償っていては三日も持たないため、品質管理は厳しく、細心の注意が要った。互いに競う半導体メーカーを同時に顧客として抱える材料メーカーは、技術の優劣だけでなく、秘密を漏らさない機構そのものを売っていたことになる。
半導体用フォトレジストの値段は、ネガタイプが数千円、ポジタイプが1万数千円の水準にあった。上場した年の半導体は、日米の貿易摩擦と円高に同時に見舞われていた。摩擦の解決には道筋がついたが、円高を含め不安定さは消えず、数量は大きく落ちずに前より増えた製品さえあった反面、価格は円高に強く押された。研究開発では1メガや4メガといった集積度の半導体への対応が既にかなり進んでおり、1990年9月には東京証券取引所市場第一部へ指定替えとなった。為替と通商交渉が単価を削る局面でも、次の世代の材料を先に用意しておけば需要の側から取り残されることはない。
1985年度の輸出は総売上高の3%ほどで、中身は版材や印刷関係の製品が中心だった。もっとも、日本の取引先を経由して海外の拠点へ送られる分は輸出に数えないため、実際に海外で使われた量はこれを上回る。上場の時点で伊藤社長が海外進出に慎重だったのは、フォトレジストの出来が周りの技術や環境で変わりやすく、米国の工場へ持っていってもすぐにうまくいくものではないとみていたからである。それでも上場の翌年にあたる1987年3月、東京応化は米国カリフォルニア州にオーカ・アメリカ社を設立し、同年9月には英国にオーカ(ユー・ケー)社を設けた。先に置いたのは工場ではなく、販売と技術支援の拠点であった。
フォトレジストは作られてからユーザーの手元に届くまでの日数が短いほど良い材料であり、供給の拠点を顧客の近くに置くという考え方を、東京応化は国内の分散配置で先に確かめていた。国内では1987年6月に御殿場工場を新設し、米国では1989年4月、オレゴン州にもう一社、TOKインターナショナル社を設立した。北米の拠点が二社に分かれたこの体制は長く続かず、1992年12月にTOKインターナショナル社をオーカ・アメリカ社へ合併し、米国の機能を一社へ集約した。同じ1992年10月には装置側を担うティーオーケーエンジニアリング社を設立している。進出の設計図は初手から固まっていたわけではなく、走らせながら組み直したのだろう。
上場の時点で伊藤社長が気にかけていたのは、フォトレジストが周囲の技術や環境の影響を受けやすく、米国の工場に移してもすぐには軌道に乗らないという点だった。全体の釣り合いを少しずつ整えてから出ていくという進め方にも、材料メーカーならではの制約がにじむ。東京応化にとって初めての海外製造拠点となるオレゴン工場は1993年5月に動き出し、1997年5月には同じ工場に海外初の半導体用フォトレジスト生産工場が完成した。最初の現地法人を置いた1987年から数えると、日本と同等の品質の半導体材料を他の土地で作れるまでに10年がかかっており、海外進出とは販路を広げることではなく、品質を再現できる製造条件をもう一組そろえることだった。
1994年2月、東京応化は郡山工場を新設した。相模・宇都宮・熊谷・阿蘇・御殿場に続く国内拠点であり、全国を数ブロックに分けて生産拠点を置くという構想が、東北を加えて形を整えたことになる。この配置は輸送費を削るためのものではない。フォトレジストは劣化しやすく、作られてからユーザーの手元に届くまでの日数が短いほど良い材料であるため、需要地の近くで作ること自体が品質の条件であった。半導体メーカーが品質以外の要素で材料を選べば結果が製品に歴然と現れる市場では、供給の地理もまた技術の一部として評価されたのだろう。
1995年5月、東京応化はイタリアにTOKイタリア社を設立した。印刷用の感光性樹脂版は1970年代後半に開発されて柱の一つに育ち、新聞製版では1分間に4枚を処理する高速の凸版用自動製版機も手がけていた。半導体関連以外の製品は比較的安定しており、感光性樹脂版の生産も軌道に乗っていた。上場時点の輸出でも版材と印刷関係の製品が主流であり、半導体の量産集積が無い欧州へ置いた拠点が担ったのは、この別の系統であった。
1998年1月、東京応化は台湾東應化股份有限公司を設立した。北米ではオレゴン工場が1997年5月に半導体用フォトレジストの生産へ入り、欧州には1995年5月にTOKイタリア社を置いていた。顧客の隣で作るという型は、1980年代半ばに国内の全国分散として構想され、米国で十年をかけて実証され、台湾でアジアの量産集積へ届いたことになる。上場の年に総売上高の3%程度だった輸出比率の会社が、十年余りで三つの地域に製造と供給の足場を持つ材料メーカーへ変わった。
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|---|---|---|---|---|
| 東京市品川区に東京応化研究所を設立し精製水酸化カリウムの製造を開始 | ★★ | |||
| 1940〜1985年創業から感光性樹脂専業の確立まで、半導体材料への一点突破 | 資本金180千円をもって川崎市に東京応化工業を設立 | ★ | ||
| TPR(プリント基板用フォトレジスト)の製造を開始 | ★★ | |||
| 相模工場を新設 | ★ | |||
| OMR-81(半導体用ネガ型フォトレジスト)の製造を開始 | ★ | |||
| OFPR-2(国産初の半導体用ポジ型フォトレジスト)を開発 | ★★ | |||
| 宇都宮工場を新設 | ★ | |||
| 塩化ビニールなど大型市場への不参入と、狭い分野への資源の絞り込み 東京応化工業は1970年代を通じてフォトレジストを軸とする半導体材料へ資源を絞り込み、大手化学各社が同じ市場へ入ってきた1980年代半ばにもその配分を変えなかった。技術的に近く成長も見込めた塩化ビニールへの進出は見送り、研究開発には予算の枠を置かずに資金を投じた。自社の規模に見合う領域を選ぶという線を、参入が相次いだ時期にも動かさなかった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 阿蘇工場を新設 | ★ | |||
| 1986〜2000年東証上場と米国オレゴンのフォトレジスト工場、台湾への進出 | 東証二部への株式上場と生産能力投資の資金基盤の確保 1986年7月30日、東京応化工業は東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した。1936年の創業、1940年の法人化から数えて46年目の公開であった。半導体用フォトレジストで国内シェアの7割強を占めながら、資本金5億円台・従業員700人規模で走ってきた会社が、株式市場を投資原資の一つに加えた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 米国現地法人の設立と1992年の二社統合による北米供給体制の構築 1986年7月に東証第二部へ上場した東京応化工業は、翌1987年に米国カリフォルニア州へオーカ・アメリカ社を設立し、1989年にはオレゴン州へT.O.K.インターナショナル社を設けた。1992年12月に両社を合併してオーカ・アメリカ社へ一本化し、翌1993年5月にオレゴン工場を稼働させた。輸出比率が総売上高の3%程度にとどまっていた専業メーカーが、北米の顧客のそばに供給の拠点を開設した判断であった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| オーカ・アメリカ社オレゴン工場が稼働 | ★ | |||
| 郡山工場を新設 | ★ | |||
| TOKイタリア社を設立 | ★ | |||
| オレゴン工場に海外初の半導体用フォトレジスト生産工場が竣工 | ★ | |||
| 台湾東應化股份有限公司を設立 | ★ | |||
| 2001〜2011年ArFエキシマレーザー用フォトレジストの開発と韓国・中国・欧州への拠点展開 | TARF-Pシリーズ(ArFエキシマレーザー用高解像度ポジ型フォトレジスト)を開発 | ★ | ||
| TOK社を設立 | ★ | |||
| 長春応化(常熟)社を設立 | ★ | |||
| TOKヨーロッパ社(TOKYO OHKA KOGYO EUROPE B.V.)を設立 | ★ | |||
| OHKA AMERICA, INC.の社名をTOKYO OHKA KOGYO AMERICA, INC.に変更 | ★ | |||
| 2012〜2026年韓国・台湾の新工場と装置事業の譲渡、micro resist technology買収 | 阿久津郁夫 | TOK尖端材料を設立 | ★ | |
| 阿久津郁夫 | 台湾東應化社銅鑼(トンロー)工場を新設 | ★ | ||
| 種市順昭 | 装置事業をAIメカテックに譲渡 | ★★ | ||
| 種市順昭 | 相模事業所をTOK技術革新センターに商号変更 | ★ | ||
| 種市順昭 | micro resist technology GmbHを完全子会社化 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(東京応化工業)