東京応化工業 の歴史

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創業 1940年
創業者 向井繁正
創業地 東京都川崎市
創業 1936年4月、向井繁正氏が個人企業の東京応化研究所を興した。炭鉱の採掘照明に使
1936年4月、向井繁正氏が個人企業の東京応化研究所を興した。炭鉱の採掘照明に使う安全灯のアルカリ電池向けに、電解剤となる精製水酸化カリウムを作るためである。1940年10月、これを改組して資本金18万円で川崎市に東京応化工業株式会社を設立した。社名の応化は応用化学を縮めたもので、感光材料ではなく基礎化学品の専業として出発している。1955年5月に白黒テレビのブラウン管用蛍光体接着剤オーカシールを開発し、化学品メーカーが電子産業と取引を持つ入口となった。1964年に東京工業試験所と共同でTPRを開発、1967年1月に相模工場を新設し、1972年に国産初の半導体用ポジ型フォトレジストを実用化した。
決断 大手が本気で来ない狭さを選び、その資源配分を40年変えなかった。1984年、技術
大手が本気で来ない狭さを選び、その資源配分を40年変えなかった。1984年、技術的に近く成長も見込めた塩化ビニールへの参入を見送り、大手が入りにくい材料へ研究開発と生産を集中した。伊藤毅雄社長が挙げた理由は技術ではなく規模で、資本金5億円台・従業員700人の中堅にとって、年60億円というフォトレジスト市場の小ささこそが避難場所であった。研究開発には予算の枠も中長期計画も置かず、顧客の製造ラインごとに300種類以上のレジストを作り分けている。半導体用フォトレジストで国内シェア7割強を占めた1986年7月、東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した。利益と銀行借入だけで工場網と研究開発を賄う段階は、ここで終わった。
現況 工場の置き場所が、そのまま売上の地域構成になっている。2025年12月期の売上高
工場の置き場所が、そのまま売上の地域構成になっている。2025年12月期の売上高2,370億円を地域別にみると、首位は台湾の856億円で、中国486億円・日本366億円・韓国304億円・米国240億円がこれに続く。海外比率は85%である。営業利益474億円、売上高営業利益率20.0%、純利益333億円はそろって過去最高となった。顧客の量産ラインごとに拠点を置く今の体制は、1987年3月の米国販売会社設立二つに分かれた現地法人を一社へ集約しから1993年5月のオレゴン工場稼働までの10年間にできあがった。背景には、傷みの早いフォトレジストは作ってから使うまでの日数が短いほど品質がよいという製品の性質がある。
競合 規模で退いた市場で、別の会社が世界首位まで行った。東京応化工業が1984年に参入
規模で退いた市場で、別の会社が世界首位まで行った。東京応化工業が1984年に参入を見送った塩化ビニールは、信越化学工業米国子会社シンテックを完全子会社化して原料まで垂直統合し、世界最大の生産者となった製品である。信越化学の2026年3月期の売上高は2兆5,740億円で、東京応化の10倍を超える。総合化学が複数の素材で規模を積み上げたのに対し、東京応化は顧客の歩留まりを左右する一材料へ人と資金を寄せ続けた。その差が、売上高で10倍離れたまま営業利益率20.0%を保つ現在の位置を作った。
長期業績の推移 1968〜2025年
東京応化工業:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2012年3月期2025年12月期

第1章 1940年〜 創業から感光性樹脂専業の確立まで、半導体材料への一点突破

筆者考察y.sugiura, author

東京応化工業の第一期は、大きい市場を選ばなかったことで成立している。戦後まもなく持ちかけられた塩化ビニールは、技術的にも成長性の面でも手の届く事業だったが、大手が量産と原価低減に本腰を入れれば、資本金5億円規模の会社は価格で競争劣位に落ちる。伊藤毅雄社長が繰り返した、自分の図体に合うものだけを手がけるという言い方は、謙遜ではなく参入可否の判定基準だった。フォトレジストの市場は1984年でも年間60億円程度しかなく、技術的・営業的なめどが立つまで大手は本気にならない。コダックの製品が占めていた市場へ1968年に国産のネガ型で割って入れたのも、そこが小さかったからである。この空白の年数が、東京応化にとっての参入余地であった。

もっとも、狭い市場を選んだだけでは首位にならない。決め手は、劣化しやすく仕様が顧客ごとに違うというフォトレジストの扱いにくさを、弱点ではなく参入の壁として扱ったことにある。300種類以上を作り分ける多品種少量生産も、予算の枠を置かない研究開発も、規模の経済とは逆を向いた投資である。だが半導体メーカーが品質以外の理由で材料を選べば歩留まりに即座に表れる市場では、価格だけの競争は成り立たない。1976年11月期に56億円だった売上高は1985年11月期に430億円へ届いた。東京応化は宇都宮・熊谷・阿蘇と工場を継ぎ足し、この出来たてを近くで渡す配置を、のちに北米へ持ち出すことになる。

売上高の推移 1976年11月期〜1985年11月期(単体)(億円)

56.39 1976 64.84 1977 70.22 1978 84.52 1979 110.55 1980 144.93 1981 192.44 1982 252.31 1983 367.72 1984 430.09 1985
  • 各期は11月決算の単体。
  • 出所は証券 第38巻8号(1986年8月)。

1940年〜川崎発の感光剤メーカーが選んだ専業の道

東京工業試験所に1920年ごろ入り応用化学に携わった向井繁正は、まだ揺籃期にあった日本の化学工業がドイツ製品の輸入に依存しているのを見て、身につけた技術で世に打って出ようと、輸入品を国内で作ることに力を注いだ技術者だったその向井(現会長)が1936年4月に個人企業として設けた東京応化研究所が、同社の起点である。研究所の目的は、炭鉱で採掘の明かりに使う安全灯のアルカリ電池向け電解剤、つまり精製水酸化カリウム(苛性カリ)を作ることにあった。1940年10月に改組して法人となり、資本金18万円で川崎市に東京応化工業株式会社が発足した。精製苛性カリは試薬・医薬品・化粧品にも用いられた。当初は感光材料ではなく、苛性カリという基礎化学品の専業メーカーとして歩み始めた。

    • [1]向井繁正は大正9年(1920年)ごろ東京工業試験所に入所し応用化学に携わった技術者で、ドイツ製品等の国産化を志していた
    • [5]東京応化研究所は昭和11年(1936年)、炭鉱採掘照明用安全灯のアルカリ電池用精製水酸化カリウム(苛性カリ)の生産を目的に向井繁正の個人企業として設立され、昭和15年10月に改組して東京応化工業株式会社となった
    • [6]精製苛性カリは試薬・医薬品・化粧品にも用いられた
  • 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
    • [2]1940年10月に東京応化工業株式会社が設立された
    • [3]設立時の資本金は18万円(180千円)だった
    • [4]設立地は川崎市である

創業時の1940年から敗戦の1945年までの5年間、戦時計画経済のもとで精製水酸化カリウムと精製水酸化ナトリウムはアルカリ電池の電解剤として重要視され、従来の硫酸電池より高い性能で炭鉱の採掘照明を支えた。戦後は炭鉱向けの精製苛性カリ供給を強く要請されたが、原料の塩化カリが乏しく、生産に20時間を要する工程が停電のたびに頓挫する難題を抱え、GHQに特別配線を依頼するなどして対処した。同時に、耐熱絶縁材料の塩化ナフタリンも戦後まもなく生産を再開し、占領米軍が持ち込んだC4電話機用コンデンサの充てん剤として供給したことが、後の電気・電子分野との関わりを深める契機となった。

    • [7]創業時の昭和15年(1940年)から敗戦の昭和20年(1945年)までの5年間、精製水酸化カリウム・精製水酸化ナトリウムがアルカリ電池の電解剤として重要視された
    • [8]戦後は炭鉱向け精製苛性カリの供給を要請されたが原料調達に苦労し、GHQの支援で対処した
    • [9]戦後まもなく塩化ナフタリンの生産を再開し、占領米軍のC4電話機用コンデンサ充てん剤として供給したことが電気・電子分野への関与を深める契機となった

戦後復興期には、向井が中心となって技術者を招き有機合成にも進出し、香料原料の塩化ベンジルやベンジル・アセテートとともに、後にフォトレジスト第一号の原料となる桂皮酸を開発していた。1955年5月からは、白黒テレビのブラウン管用蛍光体接着剤オーカシールの開発に成功し、ファイン・ケミカルズが直接エレクトロニクスに関与する転機となった。1964年の東京オリンピックを機にカラーテレビ需要が拡大すると、シャドウ・マスクのエッチングに使う感光剤の研究開発をNHKなど4社と進め、東京工業試験所と共同でTPR(東京応化フォトレジスト)を開発した。1967年1月には相模工場(現 TOK 技術革新センター)を新設し、量産対応と研究開発を両立する拠点を整備、創業から30年弱で感光性レジストの専業という地位を確立した。

    • [10]向井を中心に技術者を招へいして有機合成に進出し、香料原料とともにフォトレジスト第一号原料の桂皮酸を開発した
    • [11]昭和30年(1955年)5月から白黒テレビのブラウン管用蛍光体接着剤オーカシールを開発した
    • [12]昭和39年(1964年)の東京オリンピックを機にカラーテレビ需要が拡大し、東京工業試験所と共同でTPR(東京応化フォトレジスト)を開発した
  • 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1967年1月に相模工場(現 TOK 技術革新センター)を新設した
参考文献[1]-[13]
    • [1]向井繁正は大正9年(1920年)ごろ東京工業試験所に入所し応用化学に携わった技術者で、ドイツ製品等の国産化を志していた
    • [5]東京応化研究所は昭和11年(1936年)、炭鉱採掘照明用安全灯のアルカリ電池用精製水酸化カリウム(苛性カリ)の生産を目的に向井繁正の個人企業として設立され、昭和15年10月に改組して東京応化工業株式会社となった
    • [6]精製苛性カリは試薬・医薬品・化粧品にも用いられた
    • [7]創業時の昭和15年(1940年)から敗戦の昭和20年(1945年)までの5年間、精製水酸化カリウム・精製水酸化ナトリウムがアルカリ電池の電解剤として重要視された
    • [8]戦後は炭鉱向け精製苛性カリの供給を要請されたが原料調達に苦労し、GHQの支援で対処した
    • [9]戦後まもなく塩化ナフタリンの生産を再開し、占領米軍のC4電話機用コンデンサ充てん剤として供給したことが電気・電子分野への関与を深める契機となった
    • [10]向井を中心に技術者を招へいして有機合成に進出し、香料原料とともにフォトレジスト第一号原料の桂皮酸を開発した
    • [11]昭和30年(1955年)5月から白黒テレビのブラウン管用蛍光体接着剤オーカシールを開発した
    • [12]昭和39年(1964年)の東京オリンピックを機にカラーテレビ需要が拡大し、東京工業試験所と共同でTPR(東京応化フォトレジスト)を開発した
  • 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
    • [2]1940年10月に東京応化工業株式会社が設立された
    • [3]設立時の資本金は18万円(180千円)だった
    • [4]設立地は川崎市である
    • [13]1967年1月に相模工場(現 TOK 技術革新センター)を新設した

1968年〜コダック一辺倒だった市場への斬り込み

フォトレジストは扱いが繊細ですぐに傷むため、輸入品は運ばれてくるまでの時間が長いぶん不具合が出やすく、回路パターンが極めて細かい半導体ではレジスト特性のほんのわずかな差が電子回路の仕上がりを大きく変えた。しかも半導体メーカーは自社の設備や仕様に合う材料を必要としていたのに、既存品には対応できる品種の幅がなかった国産品を求める声が価格ではなくこうした材料の性質から出ていたなかで、プリント基板用で実績を積んでいた東京応化に高精度品の開発依頼が集まったのは、国内にほかの担い手がいなかったためだろう。同社は1968年3月に半導体用ネガ型フォトレジストOMR-81の製造に乗り出し、米コダック社製品が握っていた市場に食い込んだ

  • 日経ビジネス 1984年10月15日号
    • [14]フォトレジストは品質的に非常にデリケートで劣化しやすく、輸入品は輸送に時間がかかるため不都合が生じやすかった
    • [15]半導体のパターン描線は微細な作業のため、レジストのわずかな特性の違いが電子回路の出来を大きく左右した
    • [16]従来のレジストにはユーザーを満足させるほどの品種がなく、半導体メーカーは各社の設備・仕様に適合するレジストの開発を強く望んでいた
    • [18]1968年(昭和43年)にネガ型フォトレジストOMR-81を発表し、コダック一辺倒だった市場へ参入した
    • [17]1968年3月にOMR-81(半導体用ネガ型フォトレジスト)の製造を開始した

フォトレジストの品種は300種類を超え、ユーザーごとの製造ラインの仕様に応じて作り分ける多品種少量生産となった。これを支えたのは開発の進め方で、構想から量産までを同じ担当者が通して見届け、その過程でユーザー企業と細部まで詰めを重ねた。工場にはクリーン・ルームを設け、微細加工を損なう塵が入り込まないようにした。輸入品では得られなかった清浄度である。1972年12月には国産初の半導体用ポジ型フォトレジストOFPR-2を開発し、ネガ・ポジの双方を揃えた顧客ごとに仕様を刻む体制を取れたのは、組織が小さいこと自体が意思決定の速さに変わったからだろう。

  • 日経ビジネス 1984年10月15日号
    • [19]生産するフォトレジストは300種類以上にのぼり、ユーザーの各製造ラインごとの仕様に従った多品種少量生産だった
    • [20]ユーザーとの綿密な打ち合わせに基づき、技術担当者が研究開発から商品化までを一貫して受け持つ体制を取っていた
    • [21]工場にクリーン・ルームを導入するなどの工夫を重ね、塵の混入を抑えて輸入品より品質の高いレジストを生産するようになった
    • [22]1972年12月にOFPR-2(国産初の半導体用ポジ型フォトレジスト)を開発した

大手電機メーカーがゲルマニウム半導体の量産に入ると、創業以来手がけてきた高純度苛性カリもそこで大量に消費されるようになった。感光材料と基礎化学品という二つの系統が、ともにエレクトロニクス向けの需要へつながったのである。電算機メーカー7社が1976年に活動を始めた超LSI技術研究組合では、高性能レジストの開発を素材の側から支え、それが技術を積み上げる一つの段階になった。1978年、半導体の関税を下げるようアメリカから強く迫られた日本の半導体メーカー各社は、自前の技術を固めることに総力を傾ける局面に入り、東京応化もその取り組みに加わって協力した。同じころ、別の角度から感光性樹脂版を開発し、印刷向けの柱に育てている集積度を上げる国家的な開発計画へ材料の側から加わることは、次に要る材料の仕様を量産が始まる前に知る立場を得ることでもあった。

    • [23]大手電機メーカーが大量生産を始めたゲルマニウム半導体に、創業以来手掛けてきた電池用の高純度苛性カリが大量に利用されるようになった
    • [25]昭和53年(1978年)にアメリカから半導体の関税引き下げを強く求められ、日本の半導体メーカー各社が国内技術の確立に全力を挙げ、東京応化も協力した
    • [26]昭和50年代に感光性樹脂版を開発し、印刷用感光性樹脂版として柱の一つに育てた
  • 日経ビジネス 1984年10月15日号
    • [24]1976年(昭和51年)から活動を始めた電算機メーカー7社の超LSI技術研究組合に、素材メーカーとして高性能レジストの開発で協力した
参考文献[14]-[26]
  • 日経ビジネス 1984年10月15日号
    • [14]フォトレジストは品質的に非常にデリケートで劣化しやすく、輸入品は輸送に時間がかかるため不都合が生じやすかった
    • [15]半導体のパターン描線は微細な作業のため、レジストのわずかな特性の違いが電子回路の出来を大きく左右した
    • [16]従来のレジストにはユーザーを満足させるほどの品種がなく、半導体メーカーは各社の設備・仕様に適合するレジストの開発を強く望んでいた
    • [18]1968年(昭和43年)にネガ型フォトレジストOMR-81を発表し、コダック一辺倒だった市場へ参入した
    • [19]生産するフォトレジストは300種類以上にのぼり、ユーザーの各製造ラインごとの仕様に従った多品種少量生産だった
    • [20]ユーザーとの綿密な打ち合わせに基づき、技術担当者が研究開発から商品化までを一貫して受け持つ体制を取っていた
    • [21]工場にクリーン・ルームを導入するなどの工夫を重ね、塵の混入を抑えて輸入品より品質の高いレジストを生産するようになった
    • [24]1976年(昭和51年)から活動を始めた電算機メーカー7社の超LSI技術研究組合に、素材メーカーとして高性能レジストの開発で協力した
    • [17]1968年3月にOMR-81(半導体用ネガ型フォトレジスト)の製造を開始した
    • [22]1972年12月にOFPR-2(国産初の半導体用ポジ型フォトレジスト)を開発した
    • [23]大手電機メーカーが大量生産を始めたゲルマニウム半導体に、創業以来手掛けてきた電池用の高純度苛性カリが大量に利用されるようになった
    • [25]昭和53年(1978年)にアメリカから半導体の関税引き下げを強く求められ、日本の半導体メーカー各社が国内技術の確立に全力を挙げ、東京応化も協力した
    • [26]昭和50年代に感光性樹脂版を開発し、印刷用感光性樹脂版として柱の一つに育てた

1976年〜図体に合う市場だけを手がける

技術力を買われた東京応化に、塩化ビニールへ乗り出してはどうかという話が持ち込まれたのは、戦後まもない時期である。同社はそれ以前から塩化物を扱っていたので技術の距離は近く、伸びる見込みのある分野でもあった。事業として惹かれる面はあったものの、大手が本格的に量産して原価を押し下げてくれば、同じ規模の会社では勝ち目がない。そう判断して見送った。その代わりに同社が取ったのが、自前の技術がいちばん生きる分野に絞り込み、『あくまで自分の図体に合ったものを手がける』という方針だった。フォトレジストの年間推定売上高は1984年時点で60億円程度と、市場としては大きくなかった。技術的・営業的なめどが立たないうちは大手が必死で取り組む対象になりにくく、その手前で先行できたことが首位を生んだ

  • 日経ビジネス 1984年10月15日号
    • [27]戦後間もない頃、技術力を見込まれて塩化ビニールをやらないかという話が持ち込まれた
    • [28]塩化物を以前から手がけており技術的に遠くないことや成長性も分かっていたため、塩化ビニールは事業として魅力的だった
    • [29]大手メーカーが本気で大量生産しコストダウンを始めたら同社の規模では耐えられないと判断し、塩ビ市場には進出しなかった
    • [30]得意技術を最も生かせる分野に絞って深耕する方針を採り、自社の規模に合う事業だけを手がけた
    • [31]フォトレジストの年間推定売上高は60億円程度で、市場規模としてはそれほど大きくなかった
    • [32]技術的・営業的なめどが立たないうちは大手メーカーが必死で取り組む対象になりにくく、大手に先行した開発が同社をフォトレジストの首位に育てた

東京応化には研究開発費の予算制度が無く、大枠すら決められていなかった。利益を食い潰さない限り資金を出すという方針のもと、技術者が必要と判断した研究や設備には金を惜しまず、他の部門を切り詰めてでも開発部門へ資金を回した。売上高は1976年11月期の56.39億円から1983年11月期の252.31億円へと伸びたが、その裏には開発費を惜しまない姿勢があった。同社は中長期計画を持たず、ユーザーの求めが出るたびに必要な開発費を工面して応じてきた。支えにあったのは独特の技術観である。技術には目に見えない部分が多く、氷山と同じで水面下が膨らまなければ水面上も伸びないと考えていた。技術がすぐ古くなる半導体の世界では、贅沢に見えるこのやり方が、競り合いの中で落ちこぼれないための手立てにもなっていた

  • 日経ビジネス 1984年10月15日号
    • [33]研究開発費に予算制度がなく、研究開発費の大枠さえ決められていなかった
    • [34]利益を食い潰さない限り資金を出す方針で、他の部門を切り詰めてでも開発部門へ資金を回した
    • [36]中長期計画も立てず、必要な開発費をその場その場で用立ててユーザーのニーズに追随する方針を取った
    • [37]伊藤社長は技術には「見えない」部分が多いとし、氷山のように水面下の部分が大きくならなければ上の部分は伸びないと説明した
    • [38]技術の陳腐化が早い半導体業界にあって、一見贅沢に見える研究開発体制は競争に生き残るための対応策でもあった
  • 証券 第38巻8号(1986年8月)
    • [35]売上高は1976年11月期の56.39億円から1983年11月期の252.31億円へ拡大した(単体)

1980年代に入ると、日本合成ゴム住友化学日立化成といった国内勢に加え、コダック、シプレイ、ハントケミカルなどの外資系も日本に工場を設け、レジストを生産するメーカーは十数社に達した。年率20〜30%と言われた成長性に引かれた参入であり、市場規模から見て競争の激化は避けられなかった。追い上げられる側の東京応化が選んだのは、品質での競争と、全国を数ブロックに分けて出来たてのレジストを各地のユーザーへ届ける生産配置であった。1981年6月の宇都宮工場、1983年12月の熊谷工場、1984年12月の阿蘇工場と、首都圏内陸から九州まで工場を立て続けに構え、売上高は1984年11月期に367.72億円、1985年11月期に430.09億円へ達したこの生産基盤の厚みが、創業50年目の株式公開を支える土台となった。

  • 日経ビジネス 1984年10月15日号
    • [39]日本合成ゴム・住友化学・日立化成などの国内勢に加え、コダック・シプレイ・ハントケミカル等の外資系も日本に工場を作り、レジストを生産するメーカーは十数社にのぼった
    • [40]年率20〜30%と言われる高い成長性に引かれた参入で、市場規模から見て今後の競争激化は必至だった
    • [41]レジスト工場を全国に分散し、全国を数ブロックに分けてブロックごとに生産拠点を設け、出来たてのレジストで地域の需要をおさえる計画を進めた
  • 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
    • [42]1981年6月に宇都宮工場、1983年12月に熊谷工場、1984年12月に阿蘇工場を新設した
  • 証券 第38巻8号(1986年8月)
    • [43]売上高は1984年11月期に367.72億円、1985年11月期に430.09億円だった(単体)
参考文献[27]-[43]
  • 日経ビジネス 1984年10月15日号
    • [27]戦後間もない頃、技術力を見込まれて塩化ビニールをやらないかという話が持ち込まれた
    • [28]塩化物を以前から手がけており技術的に遠くないことや成長性も分かっていたため、塩化ビニールは事業として魅力的だった
    • [29]大手メーカーが本気で大量生産しコストダウンを始めたら同社の規模では耐えられないと判断し、塩ビ市場には進出しなかった
    • [30]得意技術を最も生かせる分野に絞って深耕する方針を採り、自社の規模に合う事業だけを手がけた
    • [31]フォトレジストの年間推定売上高は60億円程度で、市場規模としてはそれほど大きくなかった
    • [32]技術的・営業的なめどが立たないうちは大手メーカーが必死で取り組む対象になりにくく、大手に先行した開発が同社をフォトレジストの首位に育てた
    • [33]研究開発費に予算制度がなく、研究開発費の大枠さえ決められていなかった
    • [34]利益を食い潰さない限り資金を出す方針で、他の部門を切り詰めてでも開発部門へ資金を回した
    • [36]中長期計画も立てず、必要な開発費をその場その場で用立ててユーザーのニーズに追随する方針を取った
    • [37]伊藤社長は技術には「見えない」部分が多いとし、氷山のように水面下の部分が大きくならなければ上の部分は伸びないと説明した
    • [38]技術の陳腐化が早い半導体業界にあって、一見贅沢に見える研究開発体制は競争に生き残るための対応策でもあった
    • [39]日本合成ゴム・住友化学・日立化成などの国内勢に加え、コダック・シプレイ・ハントケミカル等の外資系も日本に工場を作り、レジストを生産するメーカーは十数社にのぼった
    • [40]年率20〜30%と言われる高い成長性に引かれた参入で、市場規模から見て今後の競争激化は必至だった
    • [41]レジスト工場を全国に分散し、全国を数ブロックに分けてブロックごとに生産拠点を設け、出来たてのレジストで地域の需要をおさえる計画を進めた
  • 証券 第38巻8号(1986年8月)
    • [35]売上高は1976年11月期の56.39億円から1983年11月期の252.31億円へ拡大した(単体)
    • [43]売上高は1984年11月期に367.72億円、1985年11月期に430.09億円だった(単体)
  • 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
    • [42]1981年6月に宇都宮工場、1983年12月に熊谷工場、1984年12月に阿蘇工場を新設した

第2章 1986年〜 東証上場と米国オレゴンのフォトレジスト工場、台湾への進出

筆者考察y.sugiura, author

1986年の株式公開は、資金を集めるためというより、寡占の位置を公にするための手続きだった。伊藤毅雄社長が上場の最大の理由に挙げたのは、フォトレジスト関連で70%強、精製水酸化カリウムで90数%というシェアを持つ会社が、社会に対して存在を明らかにし責任を果たすことである。寡占の側にいる材料メーカーが抱えていたのは競争の不足ではなく、互いに競う半導体各社の設備仕様と秘密を同時に預かるという負荷だった。製品がひとつ狂えば翌日には数億円の損害が顧客へ出る。品質管理と守秘は管理部門の仕事ではなく、この会社では営業活動そのものであった。

上場後の十年余りで東京応化が解いたのは、この品質を日本の外でも出せるかという問いである。輸出比率は総売上高の3%程度にすぎず、円高や貿易摩擦に押し出される必然はなかった。それでも1987年にカリフォルニアと英国へ拠点を置いたのは、作りたてを顧客の隣で渡すという国内の分散配置を、そのまま北米へ延ばすためだった。ただし東京応化は、その延長を設計どおりには運べなかった。オレゴンに設けた二社目は三年で吸収され、半導体用フォトレジストを現地で作れるようになるまでに十年を要した。1998年の台湾進出が意味を持つのは、その十年で品質を別の土地へ移す手順を確かめた後だったからである。

1986年〜寡占ゆえの社会的責任として選んだ株式公開

上場時点の従業員は800人、売上高は370億円を見込み、製品別の構成比はフォトレジスト36%、化成品27%、印刷材料15%、プロセス機器14%、特殊化学材料等8%で、シェアはフォトレジスト関連が70%強、精製水酸化カリウムが90数%に及んだ。東京応化工業の株式が東京証券取引所市場第二部に上場したのは1986年7月30日である。伊藤毅雄社長が挙げた最大の理由は、フォトレジストを筆頭に製品の大半がファイン・ケミカルで、しかも各分野で高いシェアを持ち寡占に近い状態にある以上、ここまで育った会社として世間に存在を認められ、その責任を果たしたいという点にあった。伊藤社長は上場に際し『創立以来の展開を考えると、誠に感慨深いものがある』と創業からの歩みを振り返った。

    • [44]上場時点で従業員800人・売上高370億円(今期見込)、製品別売上構成比はフォトレジスト36%・化成品27%・印刷材料15%・プロセス機器14%・特殊化学材料等8%だった
    • [45]フォトレジスト関連のシェアは70%強、精製水酸化カリウムは90数%を占めていた
    • [47]伊藤毅雄社長は1986年7月30日の東証第二部上場について、製品がほとんどファイン・ケミカルであると同時に業界シェアが高く寡占体制にあるため、社会的に会社の存在を認めてもらい責任を果たしたいことを最大の理由に挙げた
  • 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
    • [46]1986年7月に東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した

品質で選ばず別の理由で材料メーカーを決めれば、その差は半導体メーカーの製品にはっきり出るため、材料メーカー同士の競争は技術力がそのまま評価される場でもあった。寡占の立場には供給する側の責務がついて回った。取引先が非常に多くなるぶん、各社の機密を決して漏らさないことが最大の課題になり、伊藤社長はそれを守り通して顧客の信頼を厚くしている点を同社の特色に挙げた。品質保証の重さも大きく、ひとたび製品を誤れば翌日には顧客に数億円の損失を与え、全額を償っていては三日も持たないため、品質管理は厳しく、細心の注意が要った互いに競う半導体メーカーを同時に顧客として抱える材料メーカーは、技術の優劣だけでなく、秘密を漏らさない機構そのものを売っていたことになる。

  • 日経ビジネス 1984年10月15日号
    • [48]半導体メーカーが品質以外の要素で材料メーカーを選ぶと結果が製品に歴然と現れるため、材料メーカー間の競争は技術力が正当に評価される場だった
    • [49]寡占体制では顧客が多数になるためそれぞれの企業秘密を絶対に守る必要があり、東京応化はこれを完全に守って顧客から高い信頼を得ていた
    • [50]製品がひとつ間違うと翌日には数億円の損害を顧客に与えてしまい全部弁償しては三日ともたないため、厳しい品質管理と細心の注意を払っていた

半導体用フォトレジストの値段は、ネガタイプが数千円、ポジタイプが1万数千円の水準にあった。上場した年の半導体は、日米の貿易摩擦と円高に同時に見舞われていた。摩擦の解決には道筋がついたが、円高を含め不安定さは消えず、数量は大きく落ちずに前より増えた製品さえあった反面、価格は円高に強く押された。研究開発では1メガや4メガといった集積度の半導体への対応が既にかなり進んでおり、1990年9月には東京証券取引所市場第一部へ指定替えとなった為替と通商交渉が単価を削る局面でも、次の世代の材料を先に用意しておけば需要の側から取り残されることはない。

    • [51]半導体用フォトレジストの価格はネガタイプで数千円、ポジタイプで1万数千円だった
    • [52]伊藤社長は半導体の貿易摩擦解決の方向が示されたものの円高を含め不安定な要素が残るとし、量的にはそれほど落ち込んでいないが円高による価格への影響は大きいと述べた
    • [53]伊藤社長は1メガ・4メガといった半導体への研究開発の対応がすでに相当進展していると述べた
  • 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
    • [54]1990年9月に東京証券取引所市場第一部へ指定替えとなった
参考文献[44]-[54]
    • [44]上場時点で従業員800人・売上高370億円(今期見込)、製品別売上構成比はフォトレジスト36%・化成品27%・印刷材料15%・プロセス機器14%・特殊化学材料等8%だった
    • [45]フォトレジスト関連のシェアは70%強、精製水酸化カリウムは90数%を占めていた
    • [47]伊藤毅雄社長は1986年7月30日の東証第二部上場について、製品がほとんどファイン・ケミカルであると同時に業界シェアが高く寡占体制にあるため、社会的に会社の存在を認めてもらい責任を果たしたいことを最大の理由に挙げた
    • [49]寡占体制では顧客が多数になるためそれぞれの企業秘密を絶対に守る必要があり、東京応化はこれを完全に守って顧客から高い信頼を得ていた
    • [50]製品がひとつ間違うと翌日には数億円の損害を顧客に与えてしまい全部弁償しては三日ともたないため、厳しい品質管理と細心の注意を払っていた
    • [51]半導体用フォトレジストの価格はネガタイプで数千円、ポジタイプで1万数千円だった
    • [52]伊藤社長は半導体の貿易摩擦解決の方向が示されたものの円高を含め不安定な要素が残るとし、量的にはそれほど落ち込んでいないが円高による価格への影響は大きいと述べた
    • [53]伊藤社長は1メガ・4メガといった半導体への研究開発の対応がすでに相当進展していると述べた
  • 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
    • [46]1986年7月に東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した
    • [54]1990年9月に東京証券取引所市場第一部へ指定替えとなった
  • 日経ビジネス 1984年10月15日号
    • [48]半導体メーカーが品質以外の要素で材料メーカーを選ぶと結果が製品に歴然と現れるため、材料メーカー間の競争は技術力が正当に評価される場だった

1987年〜販売から始めた北米と、三年で組み直した現地法人

1985年度の輸出は総売上高の3%ほどで、中身は版材や印刷関係の製品が中心だった。もっとも、日本の取引先を経由して海外の拠点へ送られる分は輸出に数えないため、実際に海外で使われた量はこれを上回る。上場の時点で伊藤社長が海外進出に慎重だったのは、フォトレジストの出来が周りの技術や環境で変わりやすく、米国の工場へ持っていってもすぐにうまくいくものではないとみていたからである。それでも上場の翌年にあたる1987年3月、東京応化は米国カリフォルニア州にオーカ・アメリカ社を設立し、同年9月には英国にオーカ(ユー・ケー)社を設けた先に置いたのは工場ではなく、販売と技術支援の拠点であった。

    • [55]1985年度の輸出比率は総売上高の3%程度で、版材・印刷関係製品が主流だった
    • [56]日本の得意先を通じて海外進出先へ出荷されるものは輸出比率に含まれていなかった
    • [57]伊藤社長は海外進出に慎重な構えで、フォトレジスト等は周辺の技術や環境に左右されやすくアメリカの工場に持ち込んで直ちにうまくいくわけではないと述べた
  • 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
    • [58]1987年3月にOHKA AMERICA, INC.を設立し、1987年9月に英国オーカ(ユー・ケー)社を設立した

フォトレジストは作られてからユーザーの手元に届くまでの日数が短いほど良い材料であり、供給の拠点を顧客の近くに置くという考え方を、東京応化は国内の分散配置で先に確かめていた。国内では1987年6月に御殿場工場を新設し、米国では1989年4月、オレゴン州にもう一社、TOKインターナショナル社を設立した。北米の拠点が二社に分かれたこの体制は長く続かず、1992年12月にTOKインターナショナル社をオーカ・アメリカ社へ合併し、米国の機能を一社へ集約した。同じ1992年10月には装置側を担うティーオーケーエンジニアリング社を設立している進出の設計図は初手から固まっていたわけではなく、走らせながら組み直したのだろう。

  • 日経ビジネス 1984年10月15日号
    • [59]フォトレジストは劣化しやすく、作られてからユーザーの手元に届くまでの日数は短いほど良いため、全国を数ブロックに分けて生産拠点を設ける計画を進めていた
  • 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
    • [60]1987年6月に御殿場工場を新設した
    • [61]1989年4月にTOK INTERNATIONAL INC.を設立した
    • [62]1992年12月にTOK INTERNATIONAL INC.はOHKA AMERICA, INC.と合併し、社名をOHKA AMERICA, INC.に変更した
    • [63]1992年10月にティーオーケーエンジニアリング株式会社を設立した

上場の時点で伊藤社長が気にかけていたのは、フォトレジストが周囲の技術や環境の影響を受けやすく、米国の工場に移してもすぐには軌道に乗らないという点だった。全体の釣り合いを少しずつ整えてから出ていくという進め方にも、材料メーカーならではの制約がにじむ。東京応化にとって初めての海外製造拠点となるオレゴン工場は1993年5月に動き出し、1997年5月には同じ工場に海外初の半導体用フォトレジスト生産工場が完成した最初の現地法人を置いた1987年から数えると、日本と同等の品質の半導体材料を他の土地で作れるまでに10年がかかっており、海外進出とは販路を広げることではなく、品質を再現できる製造条件をもう一組そろえることだった。

    • [64]伊藤社長はフォトレジストが周辺の技術や環境に左右されやすく、アメリカの工場に持ち込んで直ちにうまくいくわけではないと述べていた
    • [65]伊藤社長は海外進出について、徐々に全体のバランスを取った上で進出するという進め方を示していた
    • [66]1993年5月にオーカ・アメリカ社オレゴン工場が稼働した
    • [67]1997年5月にオレゴン工場に海外初の半導体用フォトレジスト生産工場が竣工した
参考文献[55]-[67]
    • [55]1985年度の輸出比率は総売上高の3%程度で、版材・印刷関係製品が主流だった
    • [56]日本の得意先を通じて海外進出先へ出荷されるものは輸出比率に含まれていなかった
    • [57]伊藤社長は海外進出に慎重な構えで、フォトレジスト等は周辺の技術や環境に左右されやすくアメリカの工場に持ち込んで直ちにうまくいくわけではないと述べた
    • [64]伊藤社長はフォトレジストが周辺の技術や環境に左右されやすく、アメリカの工場に持ち込んで直ちにうまくいくわけではないと述べていた
    • [65]伊藤社長は海外進出について、徐々に全体のバランスを取った上で進出するという進め方を示していた
  • 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
    • [58]1987年3月にOHKA AMERICA, INC.を設立し、1987年9月に英国オーカ(ユー・ケー)社を設立した
    • [60]1987年6月に御殿場工場を新設した
    • [61]1989年4月にTOK INTERNATIONAL INC.を設立した
    • [62]1992年12月にTOK INTERNATIONAL INC.はOHKA AMERICA, INC.と合併し、社名をOHKA AMERICA, INC.に変更した
    • [63]1992年10月にティーオーケーエンジニアリング株式会社を設立した
  • 日経ビジネス 1984年10月15日号
    • [59]フォトレジストは劣化しやすく、作られてからユーザーの手元に届くまでの日数は短いほど良いため、全国を数ブロックに分けて生産拠点を設ける計画を進めていた
    • [66]1993年5月にオーカ・アメリカ社オレゴン工場が稼働した
    • [67]1997年5月にオレゴン工場に海外初の半導体用フォトレジスト生産工場が竣工した

1994年〜顧客の地理に供給網を合わせる

1994年2月、東京応化は郡山工場を新設した。相模・宇都宮・熊谷・阿蘇・御殿場に続く国内拠点であり、全国を数ブロックに分けて生産拠点を置くという構想が、東北を加えて形を整えたことになる。この配置は輸送費を削るためのものではない。フォトレジストは劣化しやすく、作られてからユーザーの手元に届くまでの日数が短いほど良い材料であるため、需要地の近くで作ること自体が品質の条件であった半導体メーカーが品質以外の要素で材料を選べば結果が製品に歴然と現れる市場では、供給の地理もまた技術の一部として評価されたのだろう。

  • 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
    • [68]1994年2月に郡山工場を新設した
  • 日経ビジネス 1984年10月15日号
    • [69]全国を数ブロックに分け、ブロックごとに生産拠点を設けて地域ごとの需要を出来たてのレジストでおさえる計画を進めていた
    • [70]フォトレジストは劣化しやすいため、作られてからユーザーの手もとに届くまでの日数は短いほど良い
    • [71]半導体メーカーが品質以外の要素で材料メーカーを選ぶと結果が製品に歴然と現れた

1995年5月、東京応化はイタリアにTOKイタリア社を設立した。印刷用の感光性樹脂版は1970年代後半に開発されて柱の一つに育ち、新聞製版では1分間に4枚を処理する高速の凸版用自動製版機も手がけていた。半導体関連以外の製品は比較的安定しており、感光性樹脂版の生産も軌道に乗っていた上場時点の輸出でも版材と印刷関係の製品が主流であり、半導体の量産集積が無い欧州へ置いた拠点が担ったのは、この別の系統であった。

    • [72]1995年5月にTOKイタリア社を設立した
    • [73]昭和50年代に感光性樹脂版を開発し、印刷用感光性樹脂版として柱の一つに育てた
    • [74]新聞製版で1分間4枚という高速の凸版用自動製版機を開発した
    • [75]伊藤社長は半導体関連以外の製品は比較的安定しているとし、感光性樹脂版の生産も軌道に乗ったと述べた
    • [76]1985年度の輸出比率は総売上高の3%程度で、版材・印刷関係製品が主流だった

1998年1月、東京応化は台湾東應化股份有限公司を設立した。北米ではオレゴン工場が1997年5月に半導体用フォトレジストの生産へ入り、欧州には1995年5月にTOKイタリア社を置いていた。顧客の隣で作るという型は、1980年代半ばに国内の全国分散として構想され、米国で十年をかけて実証され、台湾でアジアの量産集積へ届いたことになる。上場の年に総売上高の3%程度だった輸出比率の会社が、十年余りで三つの地域に製造と供給の足場を持つ材料メーカーへ変わった。

  • 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
    • [77]1998年1月に台湾東應化股份有限公司を設立した
    • [78]1997年5月にオレゴン工場に海外初の半導体用フォトレジスト生産工場が竣工した
    • [79]1995年5月にTOKイタリア社を設立した
  • 日経ビジネス 1984年10月15日号
    • [80]1984年時点でレジスト工場を全国に分散し、ブロックごとに生産拠点を設ける計画を進めていた
    • [81]1985年度の輸出比率は総売上高の3%程度だった
参考文献[68]-[81]
  • 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
    • [68]1994年2月に郡山工場を新設した
    • [77]1998年1月に台湾東應化股份有限公司を設立した
  • 日経ビジネス 1984年10月15日号
    • [69]全国を数ブロックに分け、ブロックごとに生産拠点を設けて地域ごとの需要を出来たてのレジストでおさえる計画を進めていた
    • [70]フォトレジストは劣化しやすいため、作られてからユーザーの手もとに届くまでの日数は短いほど良い
    • [71]半導体メーカーが品質以外の要素で材料メーカーを選ぶと結果が製品に歴然と現れた
    • [80]1984年時点でレジスト工場を全国に分散し、ブロックごとに生産拠点を設ける計画を進めていた
    • [72]1995年5月にTOKイタリア社を設立した
    • [78]1997年5月にオレゴン工場に海外初の半導体用フォトレジスト生産工場が竣工した
    • [79]1995年5月にTOKイタリア社を設立した
    • [73]昭和50年代に感光性樹脂版を開発し、印刷用感光性樹脂版として柱の一つに育てた
    • [74]新聞製版で1分間4枚という高速の凸版用自動製版機を開発した
    • [75]伊藤社長は半導体関連以外の製品は比較的安定しているとし、感光性樹脂版の生産も軌道に乗ったと述べた
    • [76]1985年度の輸出比率は総売上高の3%程度で、版材・印刷関係製品が主流だった
    • [81]1985年度の輸出比率は総売上高の3%程度だった

第3章 2001-2011 (気が向いたら執筆します!) ArFエキシマレーザー用フォトレジストの開発と韓国・中国・欧州への拠点展開

第4章 2012-2026 (気が向いたら執筆します!) 韓国・台湾の新工場と装置事業の譲渡、micro resist technology買収

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歴史年表 1936〜2025年

東京応化工業の沿革1936〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
東京市品川区に東京応化研究所を設立し精製水酸化カリウムの製造を開始★★
1940〜1985年創業から感光性樹脂専業の確立まで、半導体材料への一点突破資本金180千円をもって川崎市に東京応化工業を設立
TPR(プリント基板用フォトレジスト)の製造を開始★★
相模工場を新設
OMR-81(半導体用ネガ型フォトレジスト)の製造を開始
OFPR-2(国産初の半導体用ポジ型フォトレジスト)を開発★★
宇都宮工場を新設
塩化ビニールなど大型市場への不参入と、狭い分野への資源の絞り込み

東京応化工業は1970年代を通じてフォトレジストを軸とする半導体材料へ資源を絞り込み、大手化学各社が同じ市場へ入ってきた1980年代半ばにもその配分を変えなかった。技術的に近く成長も見込めた塩化ビニールへの進出は見送り、研究開発には予算の枠を置かずに資金を投じた。自社の規模に見合う領域を選ぶという線を、参入が相次いだ時期にも動かさなかった。

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★★★
阿蘇工場を新設
1986〜2000年東証上場と米国オレゴンのフォトレジスト工場、台湾への進出東証二部への株式上場と生産能力投資の資金基盤の確保

1986年7月30日、東京応化工業は東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した。1936年の創業、1940年の法人化から数えて46年目の公開であった。半導体用フォトレジストで国内シェアの7割強を占めながら、資本金5億円台・従業員700人規模で走ってきた会社が、株式市場を投資原資の一つに加えた。

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★★★
米国現地法人の設立と1992年の二社統合による北米供給体制の構築

1986年7月に東証第二部へ上場した東京応化工業は、翌1987年に米国カリフォルニア州へオーカ・アメリカ社を設立し、1989年にはオレゴン州へT.O.K.インターナショナル社を設けた。1992年12月に両社を合併してオーカ・アメリカ社へ一本化し、翌1993年5月にオレゴン工場を稼働させた。輸出比率が総売上高の3%程度にとどまっていた専業メーカーが、北米の顧客のそばに供給の拠点を開設した判断であった。

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★★★
オーカ・アメリカ社オレゴン工場が稼働
郡山工場を新設
TOKイタリア社を設立
オレゴン工場に海外初の半導体用フォトレジスト生産工場が竣工
台湾東應化股份有限公司を設立
2001〜2011年ArFエキシマレーザー用フォトレジストの開発と韓国・中国・欧州への拠点展開TARF-Pシリーズ(ArFエキシマレーザー用高解像度ポジ型フォトレジスト)を開発
TOK社を設立
長春応化(常熟)社を設立
TOKヨーロッパ社(TOKYO OHKA KOGYO EUROPE B.V.)を設立
OHKA AMERICA, INC.の社名をTOKYO OHKA KOGYO AMERICA, INC.に変更
2012〜2026年韓国・台湾の新工場と装置事業の譲渡、micro resist technology買収阿久津郁夫TOK尖端材料を設立
阿久津郁夫台湾東應化社銅鑼(トンロー)工場を新設
種市順昭装置事業をAIメカテックに譲渡★★
種市順昭相模事業所をTOK技術革新センターに商号変更
種市順昭micro resist technology GmbHを完全子会社化★★
出典・参考 5件
出典・参考

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