1940年〜 創業から感光性樹脂専業の確立まで、半導体材料への一点突破
東京応化工業の業績推移:単体
- 1940年 資本金180千円をもって川崎市に東京応化工業を設立
- 1962年 TPR(プリント基板用フォトレジスト)の製造を開始
- 1967年 相模工場を新設
- 1968年 OMR-81(半導体用ネガ型フォトレジスト)の製造を開始
- 1972年 OFPR-2(国産初の半導体用ポジ型フォトレジスト)を開発
- 1981年 宇都宮工場を新設
- 1984年 塩化ビニールなど大型市場への不参入と、フォトレジストへの資源集中 大手化学各社が相次いで参入するなかで、中堅メーカーはなぜ一分野の深耕を選んだか
川崎発の感光剤メーカーが選んだ専業の道
創業は、1936年4月に現会長の向井繁正が個人企業として設立した東京応化研究所に始まる。向井は1920年ごろ東京工業試験所に入所して応用化学の分野に携わり、当時なお発祥期にあった日本の化学工業がドイツ製品の輸入に頼っていた状況を踏まえ、自ら修得した技術を世に問いたいとの情熱のもと、輸入品の国産化に力を注いだ技術者だった。東京応化研究所は、炭鉱の採掘照明に使う安全灯のアルカリ電池用電解剤となる精製水酸化カリウム(苛性カリ)の生産を目的に設立され、1940年10月に改組・法人化し、資本金18万円をもって川崎市に東京応化工業株式会社が設立された。精製苛性カリは試薬・医薬品・化粧品にも用いられた。社名の「応化」は「応用化学」を縮めたものとされるが、当初は感光材料ではなく苛性カリという基礎化学品の専業メーカーとして歩み始めた。 [1][2][3][4][5][6]
- 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
- [1]1940年10月に東京応化工業株式会社が設立された
- [2]設立時の資本金は18万円(180千円)だった
- [3]設立地は川崎市である
- [4]向井繁正は大正9年(1920年)ごろ東京工業試験所に入所し応用化学に携わった技術者で、ドイツ製品等の国産化を志していた
- [5]東京応化研究所は昭和11年(1936年)、炭鉱採掘照明用安全灯のアルカリ電池用精製水酸化カリウム(苛性カリ)の生産を目的に向井繁正の個人企業として設立され、昭和15年10月に改組して東京応化工業株式会社となった
- [6]精製苛性カリは試薬・医薬品・化粧品にも用いられた
創業時の1940年から敗戦の1945年までの5年間、戦時計画経済のもとで精製水酸化カリウムと精製水酸化ナトリウムはアルカリ電池の電解剤として重要視され、従来の硫酸電池より高い性能で炭鉱の採掘照明を支えた。戦後は炭鉱向けの精製苛性カリ供給を強く要請されたが、原料の塩化カリが乏しく、生産に20時間を要する工程が停電のたびに頓挫する難題を抱え、GHQに特別配線を依頼するなどして対処した。同時に、耐熱絶縁材料の塩化ナフタリンも戦後まもなく生産を再開し、占領米軍が持ち込んだC4電話機用コンデンサの充てん剤として供給したことが、後の電気・電子分野との関わりを深める契機となった。 [7][8][9]
- [7]創業時の昭和15年(1940年)から敗戦の昭和20年(1945年)までの5年間、精製水酸化カリウム・精製水酸化ナトリウムがアルカリ電池の電解剤として重要視された
- [8]戦後は炭鉱向け精製苛性カリの供給を要請されたが原料調達に苦労し、GHQの支援で対処した
- [9]戦後まもなく塩化ナフタリンの生産を再開し、占領米軍のC4電話機用コンデンサ充てん剤として供給したことが電気・電子分野への関与を深める契機となった
戦後復興期には、向井が中心となって技術者を招き有機合成にも進出し、香料原料の塩化ベンジルやベンジル・アセテートとともに、後にフォトレジスト第一号の原料となる桂皮酸を開発していた。1955年5月からは、白黒テレビのブラウン管用蛍光体接着剤オーカシールの開発に成功し、ファイン・ケミカルズが直接エレクトロニクスに関与する転機となった。1964年の東京オリンピックを機にカラーテレビ需要が拡大すると、シャドウ・マスクのエッチングに使う感光剤の研究開発をNHKなど4社と進め、東京工業試験所と共同でTPR(東京応化フォトレジスト)を開発した。1967年1月には相模工場(現 TOK 技術革新センター)を新設し、量産対応と研究開発を両立する拠点を整備、創業から30年弱で感光性レジストの専業という地位を確立した。 [10][11][12][13]
- [10]向井を中心に技術者を招へいして有機合成に進出し、香料原料とともにフォトレジスト第一号原料の桂皮酸を開発した
- [11]昭和30年(1955年)5月から白黒テレビのブラウン管用蛍光体接着剤オーカシールを開発した
- [12]昭和39年(1964年)の東京オリンピックを機にカラーテレビ需要が拡大し、東京工業試験所と共同でTPR(東京応化フォトレジスト)を開発した
- 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
- [13]1967年1月に相模工場(現 TOK 技術革新センター)を新設した
- 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
- [1]1940年10月に東京応化工業株式会社が設立された
- [2]設立時の資本金は18万円(180千円)だった
- [3]設立地は川崎市である
- [13]1967年1月に相模工場(現 TOK 技術革新センター)を新設した
- [4]向井繁正は大正9年(1920年)ごろ東京工業試験所に入所し応用化学に携わった技術者で、ドイツ製品等の国産化を志していた
- [5]東京応化研究所は昭和11年(1936年)、炭鉱採掘照明用安全灯のアルカリ電池用精製水酸化カリウム(苛性カリ)の生産を目的に向井繁正の個人企業として設立され、昭和15年10月に改組して東京応化工業株式会社となった
- [6]精製苛性カリは試薬・医薬品・化粧品にも用いられた
- [7]創業時の昭和15年(1940年)から敗戦の昭和20年(1945年)までの5年間、精製水酸化カリウム・精製水酸化ナトリウムがアルカリ電池の電解剤として重要視された
- [8]戦後は炭鉱向け精製苛性カリの供給を要請されたが原料調達に苦労し、GHQの支援で対処した
- [9]戦後まもなく塩化ナフタリンの生産を再開し、占領米軍のC4電話機用コンデンサ充てん剤として供給したことが電気・電子分野への関与を深める契機となった
- [10]向井を中心に技術者を招へいして有機合成に進出し、香料原料とともにフォトレジスト第一号原料の桂皮酸を開発した
- [11]昭和30年(1955年)5月から白黒テレビのブラウン管用蛍光体接着剤オーカシールを開発した
- [12]昭和39年(1964年)の東京オリンピックを機にカラーテレビ需要が拡大し、東京工業試験所と共同でTPR(東京応化フォトレジスト)を開発した
半導体量産投資に追随する首都圏内陸への多拠点化
1968年6月に東京応化は店頭公開を果たし、同年4月には新潟県内の関連子会社を整理して経営基盤を固めた。日本の半導体産業が国家プロジェクトとして VLSI(超 LSI)共同研究を立ち上げる1970年代に向け、フォトレジスト供給で先行する立ち位置を準備した時期にあたる。半導体の集積度が上がるほど、回路を焼き付ける感光材料の解像力と均質性が歩留まりを左右するため、専業メーカーの技術蓄積に対する半導体各社の依存が強まった。1981年6月には宇都宮工場を新設し、1983年9月に熊谷応化(株)を設立、同年12月には熊谷工場を新設と、首都圏内陸部に立て続けに新工場を構えて量産能力を引き上げた。 [14][15][16]
- 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
- [14]1981年6月に宇都宮工場を新設した
- [15]1983年9月に熊谷応化(株)を設立した
- [16]1983年12月に熊谷工場を新設した
半導体ユーザーの設備投資が増えるのに同期して生産能力を増強する動きが、第1期の後半に集中した。1984年12月には阿蘇工場を新設して九州にも生産拠点を構え、首都圏から東北・九州へ生産網を広げた。半導体の前工程は工場ごとにレジストの供給を止められないため、複数拠点で同一品質の材料を作り分けられる体制が、納入先を増やす条件となる。創業から44年で感光性レジストの専業メーカーとして全国的な供給体制を整え、半導体ユーザーの量産投資に追随できる生産規模を備えた。この生産基盤の厚みが、続く1986年7月30日の東証二部上場を支える土台となり、当時の伊藤毅雄社長は上場に際し「創立以来の展開を考えると、誠に感慨深いものがある」と創業からの歩みを振り返っている。 [17][18]
- 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
- [17]1984年12月に阿蘇工場を新設した
- [18]1986年7月30日に東京証券取引所市場第二部へ上場し、伊藤毅雄社長が上場に際し「創立以来の展開を考えると、誠に感慨深いものがある」と振り返った
- 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
- [14]1981年6月に宇都宮工場を新設した
- [15]1983年9月に熊谷応化(株)を設立した
- [16]1983年12月に熊谷工場を新設した
- [17]1984年12月に阿蘇工場を新設した
- [18]1986年7月30日に東京証券取引所市場第二部へ上場し、伊藤毅雄社長が上場に際し「創立以来の展開を考えると、誠に感慨深いものがある」と振り返った