東京応化工業塩化ビニールなど大型市場への不参入と、フォトレジストへの資源集中
大手化学各社が相次いで参入するなかで、中堅メーカーはなぜ一分野の深耕を選んだか
- 概要
- 東京応化工業は1970年代を通じてフォトレジストを軸とする半導体材料へ資源を絞り込み、大手化学各社が同じ市場へ入ってきた1980年代半ばにもその配分を変えなかった。技術的に近く成長も見込めた塩化ビニールへの進出は見送り、研究開発には予算の枠を置かずに資金を投じた。伊藤毅雄社長は「あくまで自分の図体に合ったものを手がける」と語っている。
- 背景
- 創業以来のファイン・ケミカル技術を土台に、1962年のプリント基板用レジスト、1968年のネガ型OMR-81で半導体材料へ入った。ただし当時は資本金5億円台・従業員700人の中堅企業で、フォトレジストの年間市場規模も60億円程度にとどまっていた。
- 内容
- 大手が本気で量産に入れば規模で負けるという理由から塩ビ市場へは進まず、大企業が必死に取り組みにくい分野に的を絞った。研究開発費には予算制度も中長期計画も置かず、顧客の製造ラインごとの仕様に合わせて300種類以上のレジストを作り分けた。
- 含意
- 半導体用フォトレジストで70%強のシェアを占め、売上高は1976年11月期の56億円から1984年11月期に367億円へ伸びた。1986年7月には東証第二部へ上場し、一分野の深耕で築いた寡占の実績を対外的に示した。
狭さを選んだ側の計算
この路線を選択と集中の成功例として読むと、後から見えた形をなぞるだけに終わる。東京応化が絞ったのは、勝てる市場ではなく、大手が本気で来ない市場であった。塩化ビニールを断った理由が「われわれのような規模のメーカーはひとたまりもない」であったように、判断の出発点は自社の強さではなく、資本力で負ける側の計算にあったとみられる。年60億円という市場の小ささこそが、この会社の避難場所であった。
もっとも、専業に徹したという言い方は正確ではない。1983年度の売上構成は電子材料が半分弱、プロセス機器が2割、印刷材料が1割程度で、同社は自社材料を使う塗布機まで手を伸ばしていた。フォトレジスト単体の比率は1986年でも36%にとどまる。絞ったのは事業の数ではなく、予算を置かずに資金と技術者を向ける先であった。大手が入ってきたときに逃げ場となったのは、その配分を長く変えなかったことだったとみることができる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
苛性カリから感光材料へ続く技術の系譜
東京応化工業は1936年、向井繁正が高純度の精製水酸化カリウムを作る個人企業として興した。戦中戦後はアルカリ電池の電解剤や特殊電線用の絶縁材料を供給し、電気と化学の接点に立つ技術を蓄えた。この蓄積は1955年の白黒テレビ用蛍光体接着剤オーカシールへ引き継がれ、カラーテレビのシャドウマスク用感光剤の開発へ進む。1962年にプリント基板用レジストを発売し、1968年にはネガ型フォトレジストOMR-81を出して、米コダック社の製品一色だった市場へ入った[1][2]。
1970年代に入ると国産コンピューターの伸びとともに半導体の増産が進み、レジストの需要も膨らんだ。1976年から活動した電算機メーカー7社の超LSI技術研究組合では、東京応化が素材メーカーとして高性能レジストの開発に加わっている。ただし当時の同社は資本金5億1150万円・従業員700人の中堅企業で、フォトレジストの年間推定売上高も60億円程度でしかなかった。顧客である日本電気や日立製作所と比べれば、会社の図体ははるかに小さかった[3][4]。
決断
塩化ビニールを断った理由
戦後間もない頃、東京応化には塩化ビニールをやらないかという話が持ち込まれた。同社は塩化物を以前から手がけており、伊藤毅雄社長は「技術的に遠くないことや、成長性もほぼわかっていたので事業として魅力的だった」と振り返っている。それでも塩ビ市場へは進まなかった。大手メーカーが本気で大量生産に入りコストを下げ始めれば「われわれのような規模のメーカーはひとたまりもない」と判断したためであった[5]。
断った理由の裏には、選ぶ側の基準があった。伊藤社長は「あくまで自分の図体に合ったものを手がける」ことに徹したと述べ、大企業に負けない技術力を大企業に負けない分野で伸ばす方針を掲げた。フォトレジストは一流の技術水準を要求される一方、市場が小さく、技術と営業のめどが立たないうちは大手が必死に取り組む対象になりにくい。長島藤夫専務は後年、「大手メーカーが5年早く進出していたら大変だった」と振り返っている[6][7]。
予算を持たない研究開発
絞り込みは資源配分の面でも徹底されていた。同社の研究開発費には予算制度がなく、大枠さえ決めていない。「利益を食い潰さない限り金はどんどん出す」と長島専務は説明し、伊藤社長は「他の部門でケチってでも開発部門にカネを回す」と語っている。中期・長期の計画も立てなかった。技術者が必要と判断した研究や設備には金に糸目をつけず、外から見れば投資効率の悪い資産へ資金を入れ続けた[8]。
投じた先は、顧客の製造ラインごとに合わせる開発であった。半導体メーカーは各社の設備と仕様に合うレジストを求めたため、技術担当者が研究開発から商品化までを一貫して受け持ち、生産品種は300種類以上に及んだ。工場にクリーンルームを入れて塵の混入を抑え、輸入品を上回る品質に届かせている。もっとも材料一色ではなく、1983年度の売上構成は電子材料が半分弱、プロセス機器が2割、印刷材料が1割程度であった[9][10]。
結果
寡占の完成と株式公開
絞り込みの結果は数字に表れた。売上高は1976年11月期の56億円から1984年11月期には367億円へ、経常利益は2億円から92億円へ増えた。フォトレジストではネガ型で国内シェアの7割強を占め、内外の大手化学メーカーを抑えて首位に立った。半導体基板の回路を描く際の感光樹脂という一材料が、中堅企業を8年で6倍を超える規模へ押し上げた形になる[11][12]。
1986年7月30日、東京応化は東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した。同年9月の証券アナリスト協会での講演で伊藤社長は、フォトレジスト関連で70%強、精製水酸化カリウムで90数%というシェアを挙げ、寡占の状態に至った段階で社会的に会社の存在を認めてもらいたかったと上場の理由を説明している。当時の製品別売上構成はフォトレジスト36%、化成品27%、印刷材料15%、プロセス機器14%、特殊化学材料等8%であった[13][14]。
追い上げられる側に回って
絞った当の分野に、やがて大手が入ってきた。日本合成ゴム・住友化学・日立化成といった国内勢に加え、コダック、シプレイ、ハントケミカルなどの外資も日本に工場を構え、レジストを生産するメーカーは十数社に増えた。年率20〜30%と言われた成長性に引かれてのことで、追い上げられる立場となった東京応化は、それまで以上に技術開発へ資金を入れて品質での競争に臨む構えを取った[15]。
守りの手も材料の側から打った。レジストは劣化しやすく、作られてから届くまでの日数が短いほどよい。同社は相模事業所と宇都宮工場に加えて熊本県一の宮町と兵庫県生野町に工場を起こし、全国を数ブロックに分けて地域ごとの需要をまかなう体制へ向かった。海外への進出には慎重で、輸出比率は総売上高の3%程度にとどまる。米国での現地生産に踏み切るのは、この講演から数年を経た後になる[16][17]。
- 日経ビジネス 1984年10月15日号「フォトレジスト深耕で巨人になった東京応化工業」
- 証券アナリストジャーナル(1986年10月号、24巻10号)「東京応化工業 高度化学技術の多角的展開による経営」
- 東京応化工業 有価証券報告書(1976年11月期・1984年11月期・単体)
- 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】