日本合成ゴム株式会社は[1]、合成ゴムの国産化を目的とした合成ゴム製造事業特別措置法に基づき、1957年12月10日に政府および民間会社の出資によって設立された。当時のタイヤや工業用ゴム製品は天然ゴムの輸入に依存しており、外貨負担の軽減と資源の安定確保が国家的な課題とされていた。本社は東京都港区麻布飯倉片町に置かれ[2]、翌1958年には東京都中央区京橋へ移転している。合成ゴムという当時の日本にとって未確立の素材産業を、官民の共同出資という枠組みで立ち上げた点に、この会社の出発点の特殊性がある。
設立から間もなく、会社は生産拠点の整備を急いだ。1960年4月に四日市工場が稼動を開始して合成ゴムの生産[3]に入り、翌1961年には合成ゴムラテックスの生産を始めている。1964年10月には合成樹脂の生産にも踏み出し[4]、ゴムから樹脂へと素材の幅を広げた。日合商事や日本ラテックス加工、日合ゴム加工といった関連会社を相次いで設立し、原料調達から加工・販売までを担うグループの原型を整えた。四日市を母体とする石油化学のコンビナートを軸に、合成ゴムメーカーとしての基盤がこの時期に固まった。
国策会社としての性格は、設立から十年あまりで転機を迎えた。1969年4月、日本合成ゴムに関する臨時措置法を廃止する法律が第61国会で成立・施行され[5]、会社は政府出資を離れた純民間会社となった。合成ゴムの国産化という当初の政策目的が一定の達成をみたことが、この移行の背景にあった。官の後ろ盾を外れた会社は、以後は一民間企業として、需要変動や価格競争、原料市況の波を自らの競争力で受け止めながら事業を伸ばす立場に立つことになる。設立から40年余りをかけて収益構造を[6]大きく組み替えていく長い変容は、この民営化を出発点としている。
純民間会社となったことは、単なる資本構成の変化にとどまらなかった。合成ゴムの国産化という国家的な使命のもとで守られてきた会社は、以後は需要変動や価格競争、原料市況の波をすべて自らの経営判断で受け止めなければならない立場に立った。四日市を中心とする石油化学の生産基盤と、合成ゴム・ラテックス・合成樹脂へと広げてきた製品群は、この時点で相応の厚みを備えていた。だが高度成長という追い風のもとで築かれたその事業構造が、次の時代の環境変化にどこまで耐えられるかは、まだ誰にも見えていなかった。
民営化の翌年にあたる1970年10月、会社は株式を東京・[7]大阪両証券取引所の市場第二部に上場した。翌1971年1月には鹿島工場が稼動を開始し、同年8月には市場第一部への指定替上場を果たしている[8]。設立から十数年で二部上場、そのわずか一年足らずで一部へと駆け上がった歩みは、高度成長期の合成ゴム需要の強さと、それに応えた四日市・千葉・鹿島という生産拠点の拡張力を反映していた。この時期の会社は、自動車産業の拡大に支えられたタイヤ・工業用ゴム向けの合成ゴムを収益の柱とする、典型的な素材メーカーだった。
上場後の会社は、高度成長期の旺盛な需要を背に、合成ゴムを主力とする素材メーカーとして規模を拡げた。1968年に稼動した千葉工場、1971年の鹿島工場と生産拠点を相次いで立ち上げ、1975年12月には本社を東京都中央区築地へ移している[9]。タイヤや工業用ゴム、合成樹脂といった製品は、自動車をはじめとする国内製造業の成長とともに需要を伸ばした。もっとも、こうした汎用素材は景気や原料市況、為替の変動に業績が左右されやすく、規模の拡大が必ずしも安定した収益に直結するわけではない。拡大の裏側には、コモディティ素材ならではの構造的な弱さも潜んでいた。
素材メーカーとしての安定は、1970年代後半から揺らぎ始めた。1978年から82年にかけての第2次石油危機はゴム原料価格を押し上げ、1982年3月期の営業利益[10]は前期に比べて大きく落ち込んだ。さらに1985年のプラザ合意による円高は[11]、輸出依存だった自動車産業を直撃し、その打撃はタイヤ向け合成ゴムの販売不振として会社に跳ね返った。汎用の合成ゴムは価格競争に晒されやすく、需要も景気に連動して振れる。原料高と円高の二重苦のなかで、本業一辺倒からの脱却は避けて通れない経営課題として明確になった。
転換の芽は、危機に先立って蒔かれていた。1979年4月、会社はフォトレジストの販売を開始し[12]、半導体材料の分野に足を踏み入れている。フォトレジストは半導体のシリコンウエハー上に微細な回路を焼き付ける工程で使う感光性の薬品であり、合成ゴムで培った高分子の合成・精製の技術を応用できる領域だった。続く1988年3月には液晶ディスプレイ材料の販売も始め[13]、電子・光関連の素材へと事業の裾野を広げた。石油危機と円高が突きつけた汎用素材の限界が、この電子材料への傾斜を静かに後押ししていた。
フォトレジスト事業は、発売当初から国内の系列取引の壁に阻まれた。ある旧財閥系の大手電機メーカーへの納入が決まりかけた際、同じ系列に属する化学会社の役員が割って入り、商談は流れたという。[14]日本合成ゴムはこの経験を逆手にとり、活路を海外に求めた。1990年2月には欧州での現地生産のためベルギーの化学会社UCBの子会社株を取得し、同年7月には米国市場を開拓するためJSR[15]マイクロエレクトロニクスを設立した。半導体市場の規模で欧州を上回る米国で事業を伸ばさない限り海外戦略は実らない、との判断からだった。
海外での実績づくりの手法も際立っていた。米国進出にあたり担当者がまず行ったのは、半導体メーカーに対しフォトレジストの性能を証明するための実験への協力を申し出ることだった。顧客が使う生産ラインと同じクリーンルームを設け、半導体の性能を検査して結果を報告して回ったという。研究開発部門がフォトレジスト関連の基礎研究を海外の学会で発表していたことも、専門家の間での知名度につながった。こうした地道な顧客密着を通じて、1997年3月期にはフォトレジストの世界シェアで約2割を握り、首位の東京応化工業を追う世界2位の座に立った。[16]
電子材料への傾斜は、潤沢な資金があってのことではなかった。80年代の終わりごろから会社は年間の研究開発費を100億円台に増やし、その半分以上を電子材料分野に充てた。売上高に対する研究開発費の比率は、合成ゴム事業では3%程度だったのに対し、光・電子材料部門[17]では20%に達したという。その原資は本業のリストラで捻り出された。1994年3月期からの3年間で[18]、合成ゴム部門は中核商品のスチレン・ブタジエンゴムの品目数を4割ほどあった水準から半分近くに絞り込み、物流費も圧縮して、毎年100億円を超えるキャッシュフローを電子材料への投資に振り向けた。
この多角化を陣頭で指揮したのが、社長・会長を通算10年務めた朝倉竜夫氏だった。朝倉氏は『多角化の成功のポイントは海外に出たことだった』[引用元]と振り返り、『利益をあげるにはその分野で1位か2位になるしかない』[引用元]と語っている。[19]フォトレジスト・液晶材料・光ファイバー保護樹脂の多角化3部門は1990年代に入って単年度黒字に転じ、電子材料への転換に手応えが見えてきた。こうした変化を象徴するように、会社は1997年12月、社名を日本合成ゴム株式会社からJSR株式会社へと改めた。[20]合成ゴムの社名を外し、電子材料メーカーとしての新たな企業像を打ち出す節目だった。
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|---|---|---|---|---|
| 1957〜1969年合成ゴムの国産化を担う国策会社としての出発と民営化 | 合成ゴム製造事業特別措置法に基づき日本合成ゴムを設立 | ★★ | ||
| 本社を移転 | ★ | |||
| 合成ゴムの生産を開始 | ★ | |||
| 合成ゴムラテックスの生産を開始 | ★ | |||
| 合成樹脂の生産を開始 | ★ | |||
| 千葉工場が稼動を開始 | ★ | |||
| 純民間会社に移行 | ★★ | |||
| 1970〜1988年上場後の石油危機と円高が突きつけたコモディティの限界 | 株式を東京・大阪両証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 鹿島工場が稼動を開始 | ★ | |||
| 本社を移転 | ★ | |||
| フォトレジストを発売 | ★ | |||
| 半導体材料事業に参入 | ★★ | |||
| 液晶ディスプレイ材料の販売を開始 | ★ | |||
| 1989〜2000年電子材料への集中投資と海外進出、そしてJSRへの改称 | 筑波研究所が竣工 | ★ | ||
| JSR Micro N.V.・JSR Micro,Inc.の2社を子会社化 | ★ | |||
| 合成ゴム事業のリストラによる投資原資の捻出と、光・電子材料への集中投資 1990年代前半、日本合成ゴムが本業である合成ゴム事業のリストラで投資原資を捻出し、フォトレジストを中心とする光・電子材料へ配分を寄せた経営判断。1994年3月期から3年間のリストラで中核商品スチレン・ブタジエンゴムの品目数を40から半分近くまで絞り込んだ。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 光・電子材料への集中投資に転換 | ★★ | |||
| ABS樹脂事業を営業譲渡 | ★★ | |||
| 日本合成ゴムからJSRに社名を変更 | ★ | |||
| 2001〜2024年半導体材料の世界的リーダーへ、ライフサイエンス参入とJICによる非公開化 | 吉田淑則 | JSR Micro N.V.の新工場が竣工 | ★ | |
| 吉田淑則 | JSR Micro Korea のフラットパネル・ディスプレイ用材料工場が竣工 | ★ | ||
| 吉田淑則 | JSR Micro Taiwan のフラットパネル・ディスプレイ用材料工場が竣工 | ★ | ||
| 吉田淑則 | テクノポリマーを完全子会社化 | ★ | ||
| 小柴満信 | 本社を移転 | ★ | ||
| 小柴満信 | Bangkok Synthetics と共同でJSR BST Elastomer を設立 | ★ | ||
| 小柴満信 | 産業革新機構・シミックHDと共同でKBI Biopharmaを子会社化 | ★★ | ||
| 小柴満信 | テクノポリマーとユーエムジー・エービーエスの統合によりテクノUMGを設立 | ★★ | ||
| 小柴満信 | Crown Bioscience International を子会社化 | ★ | ||
| 小柴満信 | JSR North America Holdings、JSR Life Sciences を設立 | ★ | ||
| 川橋信夫 | エラストマー事業のENEOSへの譲渡と、半導体材料・ライフサイエンスへの集中 2021年5月11日、JSRが合成ゴムの製造・販売を含むエラストマー事業をENEOSへ譲渡する契約を結んだ経営判断。会社分割で新会社に事業と関係会社株式を承継させ、2022年4月をめどにENEOSがその全株式を取得して完全子会社とする建て付けであった。株式取得価額は第三者評価を参考に合意した1,150億円をベースに置いた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| エリックジョンソン | 産業革新投資機構によるTOBの受け入れと、東証プライム市場からの上場廃止 2023年6月26日、JSRが政府系ファンドである産業革新投資機構の傘下のJICC-02による公開買付けに賛同し、上場企業の座を降りることを決めた経営判断。買付価格は1株4,350円で、非公開化にかかる総額はおよそ9,000億円にのぼった。企業価値を高めたうえでの5〜7年後の再上場を見据えていた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| エリックジョンソン | 東京証券取引所プライム市場において上場廃止 | ★★ |
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事実根拠:出所(JSR)