JSR合成ゴム事業のリストラによる投資原資の捻出と、光・電子材料への集中投資
稼ぎ頭の品目を半分に削ってまで電子材料へ回すか——研究開発費比率3%と20%の落差が示した配分
- 概要
- 1990年代前半、日本合成ゴムが本業である合成ゴム事業のリストラで投資原資を捻出し、フォトレジストを中心とする光・電子材料へ配分を寄せた経営判断。1994年3月期から3年間のリストラで中核商品スチレン・ブタジエンゴムの品目数を40から半分近くまで絞り込んだ。
- 背景
- 第2次石油危機でゴム原料価格が上がり1982年3月期の営業利益は前期比65%減、プラザ合意後の円高ではタイヤ向け合成ゴムの販売が落ちた。1979年に売り出したフォトレジストは国内の系列取引に阻まれ、社内には撤退論もあった。
- 内容
- コスト削減で合成ゴム部門を毎年100億円超のキャッシュフローを稼ぐ体質に変え、それを光・電子材料の投資原資に充てた。研究開発費は年間100億円台へ増やし、半分以上を電子材料へ。売上高研究開発費比率は合成ゴム3%に対し光・電子材料20%に達した。
- 含意
- 1997年3月期にフォトレジストの世界シェアは約2割で第2位、光・電子材料部門の売上構成比は17%となった。同年12月、日本合成ゴムはJSR株式会社へ社名を改め、社名から合成ゴムの文字を外している。
痩せさせた本業が、次の柱を養った
40品目あったスチレン・ブタジエンゴムを半分近くまで削る——1994年3月期から三年かけて日本合成ゴムがやったのは、赤字事業の後始末ではなく、稼いでいる本業の品ぞろえを自ら痩せさせることであった。そこで浮いた毎年100億円超のキャッシュフローが、売上高の20%という研究開発費を光・電子材料へ投じ続ける原資になっている。同じ比率が合成ゴム事業では3%であった以上、この落差そのものが配分の意思であったといえる。
ただ、その配分が最初から通っていたわけではない。フォトレジストは1979年の発売から利益が出ず、社内では撤退すべきだという声が上がっていた。旧財閥系の化学会社に商談を横取りされた一件が示すとおり、国内で売れない商品を抱えた十数年を経て、海外で売るという答えに行き着いている。1997年3月期のシェア2割も世界2位にとどまり、首位の東京応化工業とは10ポイント近い差が残った。朝倉竜夫氏自身、これまでの新規事業は堅調に立ち上がってきたが今後も順調にいくとは限らないと自戒していた。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
二度の外部ショックが示した本業の限界
合成ゴムという本業の限界は、二度にわたって外から示された。1978年から82年にかけての第2次石油危機ではゴム原料価格が上がり、1982年3月期の営業利益は前期に比べて65%も減った。1985年のプラザ合意後の円高不況では、輸出に依存していた自動車産業が打撃を受け、収益の柱であったタイヤ向け合成ゴムの販売が落ち込んだ。本業への依存から抜け出すことが避けられなくなった[1]。
多角化の芽は1979年に出ていた。半導体の回路を焼き付けるときに使うフォトレジストの第1号製品を、研究に10年をかけて売り出している。ただし国内では売れなかった。ある旧財閥系の大手電機メーカーへの納入が決まりかけたところで、同じ旧財閥系の化学会社の役員があわてて間に割って入り、商談は流れた。社内ではフォトレジスト事業がやり玉に上がり、撤退すべきだという声も出ていた[2]。
汎用素材の採算が崩れた1990年代前半
1990年代に入ると、汎用素材の採算はさらに崩れた。国内トップだったABS樹脂は、家電メーカーの海外生産移転で需要が1991年から減り、1993年は前年比7%減の43万4000トンまで縮んでいる。輸入品の攻勢も重なって各メーカーの赤字幅は広がり、日本合成ゴムの1994年3月期も15億円の営業赤字が見込まれた。原料を三菱油化などコンビナートの内部から調達する系列の関係が、国際競争力を弱めていた[3]。
経営陣も入れ替わった。1993年4月28日、前社長の朝倉竜夫会長は19人の取締役に、松本君を次の社長にしたいと思う、異議のある人は休み明けまでに書面で回答するように、という手紙を送っている。5月6日に不信任票はなく、6月29日に松本栄一氏が初の生え抜き社長となった。不況に円高が加わった危機的な環境ではトップダウンの経営が必要だ、というのが新社長の言い分であった[4]。
決断
儲かる事業でも品目を削る
投資の原資は、外から借りるのではなく本業から捻出した。1994年3月期から3年間のリストラで会社全体の人件費や物流費を抑え、合成ゴム部門では、耐熱性や成分に応じて1994年には40品目あった中核商品スチレン・ブタジエンゴムの品目数を半分近くまで絞り込んだ。在庫管理や出荷作業も見直し、物流費は1994年に比べて2割近く減っている。日経ビジネスは1993年9月6日号で、この転換を「儲かる事業でも撤退 電子関連製品に集中投資」と題して取り上げた[5][6]。
削った先で狙ったのは、キャッシュフローの安定であった。一連のコスト削減で合成ゴム部門は毎年100億円を超えるキャッシュフローを安定して稼げる体質へ変わり、これを光・電子材料関連の投資原資に回すことで、借り入れを増やさずに収益構造を組み替えられる仕組みができた。事業の選別には「2001年の事業ポートフォリオ」と題する社内資料が使われ、成長力と収益性を軸に事業を振り分けたうえで、成長力の高い分野へ優先的な予算獲得権を与えている[7]。
研究開発費比率3%と20%
配分の落差は数字にはっきり出た。1980年代の終わりごろから年間の研究開発費を100億円台へ増やし、その半分以上を電子材料分野に充てている。売上高に対する研究開発費の比率は、本業の合成ゴム事業が3%であるのに対し、光・電子材料部門は20%に達した。人の採り方も変えた。1988年から新卒採用の方法を改め、1989年春から1991年春までは毎年、1987年春に比べて2〜3倍の技術職を採っている[8]。
朝倉竜夫会長は1994年初め、ゴムだけつくっていた会社が電子材料などミクロンの世界を相手にするようになった、社風も変わってきた、大胆に組織を変える時を迎えていると語っている。その年の新入社員20人は初めて全員が技術系で、販売も技術系社員がやる時代だという。ひところもてはやされた総合化学といった形態では世の中に対応できず、得意な製品分野に特化した企業同士の競争になる、というのが会長の読みであった[9]。
結果
系列の壁を越えた先の世界2位
国内で売れなかった商品は、外から売った。1990年2月にベルギーの化学会社UCBの子会社株を50%取得して欧州での現地生産に入り、1993年7月には100%子会社にしている。同じ1990年7月には米国市場を開くためJSRマイクロエレクトロニクスを設立した。1997年3月12日には米シリコンバレーに新工場が完成し、完工式にはインテル、IBM、モトローラなど顧客の幹部が並んでいる[10]。
1997年3月期には、世界のフォトレジスト市場で販売シェアの約2割を占めて第2位に着けた。首位の東京応化工業とは10ポイント近い差が残ったものの、海外販売比率は輸出を含めて約3割まで上がっている。多角化3本柱の単年度損益はいずれも黒字へ転じ、光・電子材料部門の売上構成比率は1997年3月期で17%となった。同年12月、日本合成ゴムはJSR株式会社へ社名を改め、社名から合成ゴムの文字を外している[11][12]。
汎用樹脂を本体から切り離す
削られた側の代表はABS樹脂であった。1994年、日本合成ゴムは四日市工場の大型プラントの生産ラインを汎用品向けに組み替え、世界最大の奇美実業(台湾)と同じ低コストの生産プロセスへ切り替える方針を決めている。設備投資は数億円で年間生産能力を13万2000トンから20万トンへ増やし、販売人員も奇美並みに絞る案であった。少量多品種から汎用品の大量生産へという方針転換に、業界では疑問視する声が強かった[13]。
結局、ABS樹脂は本体から離れた。1996年10月にテクノポリマー株式会社を設立して事業を営業譲渡し、1998年4月には製造設備なども譲り渡している。多角化を陣頭指揮して1997年6月末に相談役へ退いた朝倉竜夫氏は、これまでの新規事業は堅調に立ち上がってきたが今後も順調にいくとは限らないと自戒しつつ、利益をあげるにはその分野で1位か2位になるしかないと語った。国策会社として出発した会社の収益構造は、設立から40年で入れ替わっていた[14][15]。
- 日経ビジネス 1997年7月7日号「「成功する多角化」の秘訣 旭硝子、日本合成ゴム、東日本旅客鉄道」
- 日経ビジネス 1994年4月11日号「日本合成ゴム、ABS存続へ「奇美方式」」
- 日経ビジネス 1994年1月31日号「有訓無訓 世界に通じる言葉とロジックを」
- 日経ビジネス 1993年9月6日号「日本合成ゴム 儲かる事業でも撤退 電子関連製品に集中投資」
- 日経ビジネス 1993年8月23日号「新社長登場 松本栄一氏[日本合成ゴム]満を持して「トップダウンの経営」」
- JSR 有価証券報告書【沿革】