非繊維事業への転換「地下茎経営」と、不況に揺るがぬ収益体質づくり

規模で大手に挑まず、独自技術の連鎖で稼ぐ——クラレは繊維専業からどう脱け出そうとしたか

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時期 1994年
意思決定者 松尾博人(社長)・中村尚夫 会長
論点 繊維依存からの脱却と高付加価値多角化
概要
クラレは1988年3月期から4年間の第2次中期経営計画を軸に、繊維事業の高収益化と非繊維事業の拡大を進め、一つの基盤技術が地下でつながり複数の製品群へ枝分かれする「地下茎経営」を掲げた。バブル崩壊後の不況下でも合繊9社で最も落ち込みの小さい収益体質を築いた経営判断である。
背景
石油危機後の1975年から4年間の無配、1985年の円高不況と、繊維業界は荒波を繰り返しかぶってきた。1985年に社長へ就いた中村尚夫氏は、衰退したクラレの求心力を立て直すため4年間の中期計画を作り、輸出偏重の売上構成を内需中心へ転換した。
内容
エバール・クラリーノ・ポバールなど世界シェア1位の独自製品を軸に、イソプレンから接着剤・香料・医薬品材料まで一つの技術基盤から派生させた。同時に10年で総額2,500億円のエクイティファイナンスと赤字会社並みのリストラで借入金を圧縮し、筋肉質の財務体質を固めた。
含意
1994年3月期は2期連続の減収減益だったが、経常利益の落ち込みは12%と東レ26%・帝人38%を大きく下回り、売上高経常利益率7.1%で東レを逆転して業界1位に立った。非繊維事業が経常利益の80%を稼ぐ構造となり、繊維専業からの脱却が数字で裏づけられた。
筆者の見解

規模を追わない企業の強さ

この転換の核心は、大手と同じ土俵で規模を競うことをやめた点にある。汎用の繊維で東レや帝人と生産能力を張り合っても勝てないという冷めた自己認識が、市況に振られにくい高付加価値の独自製品へと経営資源を集める判断を生んだ。基盤技術から派生商品を枝分かれさせる地下茎経営は、限られた研究開発を無駄なく複数の市場へ広げる仕組みでもあった。バブル崩壊後の不況で他社が大きく沈むなか、クラレの減益幅が最も小さかった事実は、規模より質を選んだ長年の積み重ねが不況抵抗力に転じたことを示しているとみることができる。

もっとも、この型が万能というわけではない。得意技術から離れた落下傘的な事業で繰り返し撤退したように、地下茎の外へ踏み出す試みは失敗を伴った。独自性へのこだわりは、裏を返せば市場規模の大きい主戦場を避け続ける選択でもあり、成長の速度には自ずと限りがある。小さな池の大きな鯉であり続けることと、より大きな海へ出て成長を取りにいくことをどう両立させるか——不況に強い体質を築いたクラレが次に向き合ったのは、その問いであったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

繊維不況と、衰えた求心力

繊維業界は30年来、荒波を繰り返しかぶってきた。日米繊維摩擦の時代から石油ショック、円高不況と危機が続き、クラレも第1次石油ショック後の1975年から4年間にわたって無配に転落し、ようやく立ち直りかけたところで1985年の円高不況にぶつかった。同じ1985年に社長へ就いた中村尚夫氏は、当時のクラレを「不況の中でヒト、モノ、カネのすべてにわたって衰退し、社員の人心も疲弊していたように思う」と振り返り、まず沈滞したムードを吹き飛ばして社員の求心力を強くする必要を感じていた[1]

財務も重かった。1985年3月期の長短借入金は1,125億円にのぼり、金融収支は65億円の赤字で、営業利益を金利が食いつぶす状態にあった。中村社長はまず4年間の中期経営計画を作り、海外輸出比率の高かった売上構成を内需中心型へ転換したうえで、「総合化を追うよりユニークでオリジナリティのある会社になる」考えを盛り込んだ。規模で大手と張り合う道を捨て、独自性で生きる方向がここで定まった[2]

決断

地下茎経営という多角化の型

変身のきっかけは、1988年3月期から4年をかけた第2次中期経営計画であった。中村社長が着手したこの計画は、繊維事業の合理化・高収益化と非繊維事業の拡大を柱に据えた。クラレはエバール・クラリーノ・ポバールなど世界シェア1位の独自製品を持ち、なかでも食品容器向けのEVOH樹脂「エバール」は世界で70%のシェアを占め、参入を狙った米デュポンが量産を断念して撤退したほどの技術力を誇った。市況に振られやすい汎用織物から手を引き、高付加価値品に絞り込む方針が貫かれた[3]

松尾博人社長は、この多角化の型を「地下茎経営」「タケノコ経営」と呼んだ。大きな幹になる基盤技術に立脚し、そこから派生する商品を開発するため、出てくる商品は一見無関係でも脈がつながっている。イソプレンケミカルという商品群は、接着剤・ゴム代替品・香料・医薬品材料・食品包装剤へ枝分かれし、収益の柱になった。松尾社長は「規模は小さくとも、その中では負けないというのがよい。小さな池の大きな鯉を目指す。大海のメダカじゃだめ」と、独自技術で世界上位に立つ狙いを語っている[4]

赤字会社並みのリストラで体質を固める

収益体質づくりは製品戦略だけではなかった。クラレは10年間で総額2,500億円に及ぶエクイティファイナンスを実施して借入金を返済し、株主資本を厚くした。借入金は1994年3月期に253億円まで減り、金融収支は40億円の黒字に転じ、株主資本比率は13%から37%へ高まった。設備投資は1993年3月期から自己資金の範囲に抑え、前年216億円から144億円に絞り込んだ[5]

1994年3月期には売上原価を104億円、販管費を42億円削減する「赤字会社並みのリストラ」に踏み切った。国産原料の値引きや海外調達比率の拡大で原材料費を削り、赤字のレーヨン事業では西条工場(愛媛県)の従業員を200人から100人へ減らして労務費を圧縮した。同業他社より1年早く削減に手を着けたことで償却負担に苦しまずに済んだ、と財務担当の役員は説明している[6]

結果

不況に揺るがぬ収益体質

ポリエステル長繊維の価格が1年間で30%以上下がり、合繊メーカーの業績が悪化するなかで、クラレの踏ん張りが目立った。1994年3月期の経常利益は185億円で2期連続の減収減益だったが、落ち込み幅は業界で最も小さかった。東レが前期比26%減、帝人が38%減だったのに対しクラレは12%減にとどまり、売上高経常利益率7.1%は東レを逆転して合繊大手で1位に立った。製品別売上高比率でみた繊維と非繊維の割合は70対30から43対57へ逆転し、非繊維事業が経常利益の80%を稼ぎ出した[7]

収益体質の強化はその後も続いた。経常利益は4期連続の増益で1998年3月期に235億円と過去最高を更新し、売上高経常利益率も8.3%に達した。もっとも、地下茎から離れた事業では躓きもあった。松尾社長は光磁気ディスクやミニ・ディスク、医薬品を「落下傘的な事業展開」と呼んで途中で撤退したことを認め、医薬品は自ら作るのではなく材料を提供する方向へ転換したと明かしている。得意の技術から離れない範囲で枝葉を伸ばすという規律が、独自製品の強さを支えた[8]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1993年8月30日号「意識改革の旗は分かりやすく(中村尚夫・クラレ会長)」
  • 日経ビジネス 1994年9月19日号「クラレ、非繊維で飛躍。不況に揺るがぬ『地下茎経営』」
  • 日経ビジネス 1998年9月14日号「欠かせざる脇役商品で存在感示す(松尾博人・クラレ社長)」
  • クラレ 会社年鑑(連結業績)