JSRエラストマー事業のENEOSへの譲渡と、半導体材料・ライフサイエンスへの集中
売上の3割を占める祖業を手放すか、抱えたまま立て直すか——二期続いた営業赤字が突きつけた問い
- 概要
- 2021年5月11日、JSRが合成ゴムの製造・販売を含むエラストマー事業をENEOSへ譲渡する契約を結んだ経営判断。会社分割で新会社に事業と関係会社株式を承継させ、2022年4月をめどにENEOSがその全株式を取得して完全子会社とする建て付けであった。株式取得価額は第三者評価を参考に合意した1,150億円をベースに置いた。
- 背景
- エラストマーは1957年の設立以来の祖業で、2021年3月期も売上収益の3割を超えていた。ただ市況と原料価格に振られやすく、コア営業損益は前期の17億58百万円の損失から114億20百万円の損失へ赤字が広がっていた。
- 内容
- 2021年5月12日に日本合成ゴム分割準備株式会社を設け、吸収分割でエラストマー事業と子会社・関係会社株式を承継させた。同年11月に商号を株式会社ENEOSマテリアルと決めている。ENEOSは、JSRが約60億円規模のコスト削減を終えることを買収の前提に置いた。
- 含意
- 譲渡後のJSRはデジタルソリューションとライフサイエンスを中核事業とする会社になり、社名の由来であるJapan Synthetic Rubberの合成ゴムは手元から離れた。国策会社として担った国産化の事業が、石油元売り最大手へ渡った。
手放す側が整えてから渡した
1,431億円——譲渡が決まる直前の期にエラストマー事業が上げた売上収益は、全社の3割を超えていた。JSRはこれを、赤字が一期出たから畳んだのではない。前期に17億58百万円だったコア営業損失が114億20百万円へ膨らんだ二年の推移は、規模がありながら利益の読めない事業の姿を数字で示していた。半導体材料とライフサイエンスへ資本を寄せるうえでは、その規模こそが重荷になっていたとみられる。
ただ、この判断が身軽さだけをもたらしたとは言い切れない。ENEOSは同じ事業を、低燃費タイヤに欠かせないSSBRを主力とし今後も確実に成長が期待できる分野だと述べていた。売り手が持ちきれないと見た資産を、買い手は成長事業として受け取っている。しかも譲渡の前提には、JSRが約60億円規模のコスト削減を終えることが置かれていた。採算の立つ形に整えてから渡した点で、身を削ったのは手放す側であったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
国産化を担うために生まれた合成ゴム
JSRは1957年12月、合成ゴム製造事業特別措置法にもとづき、政府と民間各社の出資で日本合成ゴム株式会社として発足した。天然ゴムの輸入に頼っていた国内需要を国産で賄うための会社であり、1960年4月に四日市工場が動き出して合成ゴムの生産が始まった。金融界では当時、アラビア石油やアラスカパルプと並べて「アラ・アラ・ゴム」と呼ばれたと、のちに会長を務めた朝倉竜夫氏が振り返っている[1][2]。
祖業の重みが薄れたのは、1979年にフォトレジストの販売を始めて半導体材料へ入ってからであった。1997年12月には社名を日本合成ゴムからJSRへ改め、社名から合成ゴムの文字が消えている。それでもエラストマー事業は残り、2021年3月期の売上収益は1,431億86百万円と全社4,466億9百万円の3割を超え、デジタルソリューション事業に次ぐ規模を保っていた[3][4]。
二期続いた営業赤字と、772億円の減損
2021年3月期、エラストマー事業部門の売上収益は前期比19.9%減の1,431億86百万円まで落ち込み、コア営業損益は前期の17億58百万円の損失から114億20百万円の損失へ赤字が広がった。主力の溶液重合スチレン・ブタジエンゴム(SSBR)の販売数量は世界のタイヤ生産が減るなかでも前期並みを保ったものの、事業全体の数量が伸びず、原料市況の下落で販売価格も下がった[5]。
痛手は全社の数字にも出た。エラストマー事業の減損などからなる事業構造改革費用874億円を計上した結果、営業損益は前期の328億84百万円の黒字から616億33百万円の赤字へ転じ、親会社の所有者に帰属する当期損益も551億55百万円の赤字となった。日本経済新聞は、合成ゴムの不振にともなう772億円の減損だと伝えている。JSRは同じ事業報告で、エラストマー事業の構造改革の遂行を重要な経営課題に挙げた[6][7]。
決断
会社分割で切り出し、全株式を渡す
2021年5月11日、ENEOSとJSRは、合成ゴムの製造・販売を含むエラストマー事業をENEOSが買収する契約を結んだ。JSRはまず新会社を設立し、会社分割によってエラストマー事業と同事業に係る子会社・関係会社株式を新会社へ承継させる。そのうえで2022年4月をめどにENEOSが全株式を取得して完全子会社とする建て付けであった。株式取得価額は、第三者評価を参考に合意した1,150億円をベースに置いた[8]。
新会社は日本合成ゴム分割準備株式会社の名で2021年5月12日に設けられ、同年11月に商号を株式会社ENEOSマテリアルと決めた。ENEOSは買収の前提として、原料・物流コストの合理化や販売価格の適正化といった構造改革をJSRが実施し、約60億円規模のコスト削減を終えることを条件に置いている。渡す側が採算を整えてから引き渡す取り決めであった[9][10]。
三つの経営課題のうち、祖業だけが売却へ向かう
JSRが2021年3月期の事業報告で掲げた重要な経営課題は、事業環境の変化に対応できる事業構造と経営体制の強化、半導体事業およびライフサイエンス事業という中核事業の成長戦略の実現、そしてエラストマー事業の構造改革の遂行であった。祖業を三番目に置いたうえで、その構造改革の帰着点として事業ごとの譲渡へ行き着いている。譲渡後に残るのはデジタルソリューション、ライフサイエンス、合成樹脂の三つであった[11]。
買い手の見立ては、売り手と反対を向いていた。ENEOSはエラストマー事業について、低燃費・高性能タイヤのトレッドに欠かせないSSBRを主力とし、世界のモビリティ需要の拡大を背景に今後も確実に成長が期待できる分野だと述べている。脱炭素で石油需要が細るなかで相乗効果の見込める素材分野を厚くする狙いであり、JSRが持ちきれないと判断した事業は、ENEOSにとっては取りにいく事業であった[12][13]。
結果
社名の由来だけが残った
2022年4月1日、エラストマー事業と関係会社株式を承継した株式会社ENEOSマテリアルが事業を始め、ENEOSの完全子会社となった。ENEOSは買収完了の知らせのなかで、同事業をJSRの祖業と記している。1957年に合成ゴムの国産化を担って生まれた会社から合成ゴムが離れ、社名の由来であるJapan Synthetic Rubberという三語だけが手元に残った[14]。
切り離しの効果は数字に出た。エラストマー事業を除いた継続事業ベースで、2022年3月期の売上収益は3,410億円、営業利益は438億円、親会社の所有者に帰属する当期利益は373億円となり、551億円の赤字を出した前期から立ち直った。同じ2022年4月には東京証券取引所の市場区分見直しがあり、JSRは第一部からプライム市場へ移っている。素材の総合メーカーから、半導体材料とライフサイエンスの会社へ看板を掛け替えた最初の決算であった[15][16]。
- ENEOS ニュースリリース 2021年5月11日「JSR株式会社のエラストマー事業の買収について」
- ENEOS ニュースリリース 2022年4月1日「JSR株式会社のエラストマー事業の買収完了について」
- JSR ニュースリリース 2021年11月19日「エラストマー事業新会社の商号決定について」
- JSR 第76回定時株主総会招集通知 事業報告(2021年3月期)
- JSR 有価証券報告書(2022年3月期・連結・IFRS)
- JSR 有価証券報告書【沿革】
- 日本経済新聞(2021年5月11日)「ENEOS、JSRの合成ゴム事業を買収 1000億円規模」
- 日本経済新聞(2021年4月27日)「JSR前期、772億円減損 合成ゴム不振」
- 日経ビジネス 1994年1月31日号「有訓無訓 世界に通じる言葉とロジックを」