祖業の綿紡績からの撤退と、ガラス繊維専業への転換
アジア勢に蚕食された祖業の赤字のなかで、相良社長は何を捨て、どこへ絞ろうとしたか
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- 概要
- 1990年代の日東紡績が、アジア勢に押された祖業の綿紡績・合繊紡績から撤退し、ガラス繊維(電子材料など)を主力に据える構造改革を進めた事業判断。1995年に就任した相良敦彦社長のもと、紡績拠点を順次閉鎖し、1998年に創業以来の紡績本業を終えた。
- 背景
- 祖業の綿紡績はアジア勢との競争で採算が悪化し、1993年3月期に営業赤字、1994年・1995年と2期連続の経常赤字で無配に転落した。一方で同社は1938年に日本で初めて工業化したガラス繊維という、もう一つの柱を持っていた。
- 内容
- 相良社長は不良資産の圧縮とコア事業への経営資源集中を骨子に、汎用品を捨てて特殊品に絞る方針を掲げた。1990年の郡山から1998年の泊まで綿・合繊紡績の拠点を順次閉鎖し、ガラス繊維を主力に育てた。1998年7月には社名から「績」の字を外した。
- 含意
- 大手綿紡績がガラス繊維という他業種のメーカーへ転換した例として、当時めずらしい成功例と評された。祖業を畳んで別の柱へ移る痛みをともなう判断であり、綿紡績で生きてきた会社が将来性のない事業にけじめをつけた選択であったとみることができる。
祖業を畳むという、けじめ
この判断の核心は、赤字の祖業をどう縮小するかではなく、会社の主力そのものを別の事業へ入れ替えた点にある。汎用の綿紡績を捨て、技術で差のつくガラス繊維へ資源を集める——相良敦彦社長は、拡大の夢を語る役回りをあえて避け、不良資産を圧縮して一点へ絞る改革に徹した。祖業を畳むには、綿紡績で生きてきた会社としての痛みがともなう。将来的に成り立たない事業にけじめをつけるという相良社長の言葉には、その痛みを引き受ける覚悟がうかがえる。
転換を可能にしたのは、1938年に工業化したガラス繊維という、繊維とは別の技術を早くから抱えていたことであった。逃げ込む先ではなく、育てて主力に据えられる事業が社内にあったからこそ、綿紡績の撤退は単なる縮小ではなく、次の柱への乗り換えになった。もっとも、ガラス繊維に主力を絞った身軽な会社が、その一点でどこまで戦えるのかは、この転換の先に残された問いである。祖業を手放して得た集中が、次の成長につながるのかどうかは、以後のガラス繊維事業の展開が答えていくことになる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
アジア勢に蚕食された祖業の赤字転落
日東紡績の祖業である綿紡績は、1990年代にアジア勢との競争で採算が崩れていった。安価な海外品に本業を蚕食され、1993年3月期には6億円の営業赤字に陥る。続く1994年と1995年には経常損益も2期連続で赤字となり、無配に転落した。成熟した綿紡績を抱えたまま、価格で張り合う道が行き詰まりつつあった[1]。
綿紡績の苦境は、日東紡績に限った話ではなかった。だが同社は、他社に先んじて赤字に沈んだという点で、構造の弱さを早くに露呈した。汎用の綿紡績に依存する事業構成は、アジア勢の攻勢に対してとりわけ脆かった。祖業をそのまま抱え続けるかぎり、赤字と無配から抜け出す展望は開けにくい状況にあった[2]。
1938年以来のガラス繊維という、もう一つの柱
日東紡績は1923年に福島県で綿紡績会社として発足し、絹・綿・合繊の紡績を祖業としてきた。その一方で、同社は繊維とは異なる技術の芽も早くから抱えていた。1938年12月、片倉社長の主導で日本初のガラス繊維の工業化に成功し、翌1939年には量産を始めている。当時としては世界でも先んじた技術で、これがのちに電子材料などへ育つガラス繊維事業の源流となった[3]。
祖業の綿紡績が沈むなかで、このガラス繊維が別の収益源として存在していたことは、その後の転換を可能にする条件であった。繊維一本に頼るのではなく、まったく別の素材の技術を社内に持っていた——赤字の本業をどう畳むかという問いに、逃げ込む先ではなく育てる先があった点が、日東紡績の構造改革を単なる縮小と分けることになる[4]。
決断
経営陣の刷新と「格好の悪い社長」のリストラ
構造改革を担う体制づくりは、経営陣の若返りから始まった。実行計画が軌道に乗ったのを見届けた林眞帆前社長は、1995年4月、生き残りには思い切った若返りが必要だとして、当時5人の常務で末席にあった相良敦彦氏を次期社長に抜擢した。同時に60歳以上の役員5人が退任し、当時55歳の相良氏を含めて12人の役員がすべて50歳代という布陣を敷いた。祖業を畳む痛みをともなう改革を、若い経営陣に託した人事であった[5]。
相良社長は、自らの役回りを新規事業の夢を語ることに置かなかった。就任にあたり、夢を見る社長ではなく格好の悪い社長をやりたい、新規事業への投資といった夢を見てはいけない、と語っている。進めたリストラ策の骨子は、利益を生まない不良資産の圧縮と、コアである中核事業への経営資源の集中投入の二つに絞られた。拡大ではなく、贅肉を落として一点へ資源を集めることに徹する構えであった[6][7]。
汎用を捨て特殊品へ、紡績拠点の連続閉鎖
相良社長が絞り込みの基準に据えたのは、汎用品を捨てて特殊品に絞るという考えであった。小さなメーカーである日東紡が生き残るには、汎用製品を捨て、特殊品に絞る必要がある[8]——泊工場の閉鎖を語る言葉に、その方針は端的に表れている。価格でしか差のつかない汎用の綿紡績を手放し、技術で差をつけられる領域へ経営資源を集めることが、生き残りの条件だと見ていた。
拠点の閉鎖は、1990年代を通じて連続した。1990年9月に郡山工場の合繊紡績を閉鎖したのを皮切りに、1992年に和歌山、1993年に富久山、1995年に静岡と紡績の操業を順に止め、1998年1月には泊工場の綿紡績操業を終えた。1994年3月から4年間で繊維事業の売上高は約80億円減って219億円まで縮み、1992年の515億円と比べれば半分以下になった。有利子負債も1995年3月期の517億円から1998年3月期の374億円へ圧縮した。泊工場では約350人の雇用に配慮し、1995年から3年をかけて操業を段階的に止めている[9][10]。
結果
ガラス繊維専業への転換成功と、社名の変更
紡績を畳んだ先に残ったのは、ガラス繊維を主力とする新しい事業の姿であった。1998年3月期のガラス繊維は、売上高962億円の4割弱を占め、経常利益39億円の約8割を稼ぎ出した。祖業の綿紡績に代わって、電子材料などに使われるガラス繊維が収益の柱になった。大手の綿紡績会社がガラス繊維という他業種のメーカーへ転換した例は当時めずらしく、成功例と評された[11][12]。
転換は、社名にも刻まれた。1998年、創業から75年を経て、絹糸・綿・合繊という同社の祖業である紡績事業は終焉を迎える。同年7月、日東紡績は旧社名から「績」の1文字を外し、「日東紡」と名乗るようになった。紡績で生きてきた会社が、その来歴を示す一字を社名から落とす——事業の入れ替えが、名前のうえでも一区切りをつけた[13]。
- 日経ビジネス 1999年1月4日号「綿紡績からガラス繊維に転換」
- 日東紡績 有価証券報告書【沿革】