JSR産業革新投資機構によるTOBの受け入れと、東証プライム市場からの上場廃止
「上場会社である限り多様な株主が存在する」——半導体材料の再編を主導するために国の資金を選んだが、同業は動いたか
- 概要
- 2023年6月26日、JSRが政府系ファンドである産業革新投資機構の傘下のJICC-02による公開買付けに賛同し、上場企業の座を降りることを決めた経営判断。買付価格は1株4,350円で、非公開化にかかる総額はおよそ9,000億円にのぼった。企業価値を高めたうえでの5〜7年後の再上場を見据えていた。
- 背景
- フォトレジストの世界シェアはJSRが27%で首位、日本メーカー5社で9割を占める一方、材料大手の営業利益率は10〜15%と、製造装置大手の30%に届かない。再編の議論は水面下で続いても、同業からは抵抗が強いという意見が返ってきていた。
- 内容
- 非公開化は2022年11月にJSRからJICへ持ちかけたことがきっかけであった。TOBは中国当局の審査で開始が2024年3月19日までずれ込み、4月16日に成立。4月23日にJICC-02が親会社となり、同年6月に上場を廃止した。
- 含意
- 1957年に日本合成ゴムとして生まれた国策会社が、66年を経て再び国の資金を背にする形で業界の並べ替えに乗り出した。ただし東京応化工業をはじめ同業の反応は冷ややかで、傘下入り後の決算は二期続けて最終赤字となった。
買ったのは事業ではなく、自由であった
同業他社からは再編に対して抵抗があるという意見が強かった——JSRが非公開化の理由として真っ先に挙げたのは、資金でも技術でもなく、話がまとまらないという事実であった。1株4,350円、総額およそ9,000億円という値段は、事業を買うためではなく、単一の株主のもとで長期の戦略を通す自由を買うために払われている。世界シェア27%の首位企業が、その自由を得るために上場企業の座を降りたところに、この判断の性格が表れているとみられる。
ただ、買った自由がそのまま再編に変わったわけではない。東京応化工業の種市順昭社長は独り言で終わってほしいと述べ、原料メーカー各社も同調しなかった。触媒でありたいと語ったジョンソン社長自身、JSR一社で業界全体を変革できるとは思っていないと断っていた。傘下入り後の2025年3月期には、再編とは無縁のライフサイエンス事業ののれん減損1,393億円が営業損益を2,091億円の赤字へ押し下げている。降りた先で最初に迫られたのは、業界の並べ替えではなく自社の立て直しであったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
世界一なのに小さい、という業界
半導体の露光工程に欠かせないフォトレジストで、日本勢の強さは際立っていた。JSRは世界シェアの27%を握る首位で、JSRを含む日本メーカー5社だけで9割を占める。国別でみても日本は48%と、2位の台湾の16%を引き離していた。それでいて一社ごとの規模は小さいままで、売上高4,000億円を超えるJSRの周りには、原料を手がける売上高160億〜440億円の会社が並んでいた[1][2]。
収益力の差は、隣の業界と並べると分かりやすい。製造装置は米アプライド・マテリアルズや東京エレクトロン、オランダのASMLなど5社で世界シェアの9割を占め、大手の営業利益率は30%が標準的な水準であった。これに対してJSRをはじめ材料大手の営業利益率は10〜15%にとどまる。エリック・ジョンソン社長は、装置メーカーの数字が再編の大切さと正しさを実証していると述べている[3]。
話がまとまらない、という制約
JSRは半導体材料分野での業界再編の必要性をかなり以前から認識していたが、水面下で他社と議論しても具体的な動きにはつながらなかった。同業他社からは再編に対して抵抗があるという意見が強かったという。もう一つの制約は自社の株主構成にあった。外国人保有比率は50%を超え、アクティビストファンドの米バリューアクト・キャピタル・マネジメントがJSR株を9%超保有し、取締役も送り込んでいた[4][5]。
ジョンソン社長はのちに、上場会社である限り多様な株主が存在することから長期的な戦略の意図が必ずしも明瞭にならないことがある、という要素が浮かび上がったと説明している。もっとも、当時のJSRが追い込まれていたわけではない。2023年3月期の連結売上収益は4,089億円、営業利益は294億円、親会社の所有者に帰属する当期利益は158億円であり、社長は危機を回避するという理由ではないと明言していた[6][7]。
決断
1株4,350円のTOBに賛同する
動いたのはJSRの側であった。非公開化は2022年11月にJSRからJICへ話を持ちかけたことがきっかけであり、2023年6月26日、JSRはJICC-02による公開買付けに賛同する意見を表明した。買付価格は1株4,350円で、発表前の終値に35%のプレミアムを上乗せした水準にあたる。非公開化にかかる総額はおよそ9,000億円、TOBを実行するのはJICが出資しみずほ銀行が融資する新会社であった[8]。
上場をやめた先に置いたのは、企業価値を高めたうえでの再上場であった。時期は予想が困難としつつ、一般には5〜7年が目安になるとみていた。ジョンソン社長は、政府系ファンドとして大規模・長期・中立的なリスクマネーを供給できるJICキャピタルには業界再編へのコミットメントを期待でき、単一の株主のもとであれば求める戦略を推進できると語っている。取締役会は全会一致でこの賛同を決めた[9]。
業界再編の主導を宣言する
6月26日の会見でジョンソン社長が行ったのは、業界再編の宣言であった。日本の半導体材料セクターにおける業界再編の主導的な役割を担っていきたい、材料業界では再編への抵抗が強かったが政府系ファンドと組むことでパートナーの参加に弾みをつけられる——対象は日本国内の半導体材料業界で、プレーヤーが多く重複した研究開発をしているために効率性を高める余地があるという見立てであった[10][11]。
ただし、自社が全部を担うとは言っていない。ジョンソン社長は、JSRは業界再編の動きのなかで触媒であり促進役となりたい、JSR一社で業界全体を変革できるとは思っていないが業界再編のきっかけになりたい、と語っている。1957年に日本合成ゴムとして設立された国策会社が、66年を経て、ふたたび国の資金を背にする立場で業界の並べ替えに乗り出した[12][13]。
結果
成立と、冷ややかな同業
TOBは中国当局の審査が長引いて開始が2024年3月19日までずれ込み、4月16日に締め切られた。応募は1億7,527万2,231株で、買付予定数の下限である1億3,850万7,100株を上回って成立し、4月23日にJICC-02がJSRの親会社および主要株主である筆頭株主となった。JSRは同年6月、東京証券取引所プライム市場での上場を廃止している[14][15]。
宣言の受け手である同業は冷ややかであった。競合の東京応化工業の種市順昭社長は、どう考えても私には腹落ちするような解が導き出せない、独り言で終わってほしいと思っている、と述べ、日本メーカー同士で動いても逆に海外のレジストメーカーを利するのではないかと指摘した。JSRの元名誉会長である小柴満信氏も、研究開発を効率化したいというのはあくまで自分たちの理論で顧客には関係のないことだと突き放している。原料を手がけるサプライヤー各社も再編には否定的であった[16]。
傘下入り後の二期
傘下入り後の決算は、宣言とは逆の方向へ振れた。2024年3月期は営業利益36億円、親会社の所有者に帰属する当期損益は56億円の赤字。続く2025年3月期は売上高4,050億円ながら、ライフサイエンス事業ののれん減損1,393億円や買収に伴う無形資産の償却などで営業損益が2,091億円の赤字、当期損益が2,177億円の赤字となった。純有利子負債は785億円から4,661億円へ、自己資本比率は48.7%から29.6%へ動いている[17]。
JSRは2025年4月、体外診断用医薬品事業をトクヤマへ株式価値820億円で譲渡すると発表した。同年5月の事業状況説明会では、ライフサイエンスを非中核事業としてあらゆる選択肢の検討を続けるとし、当面は自律成長を優先したうえで、半導体材料業界の再編を伴う再上場を目指す方針に変わりはないと説明している。2025年10月には、非公開化の決定過程の透明性と、実現しなかった独メルクの買収提案を取り上げた記事が日本経済新聞に載った[18][19]。
- 週刊東洋経済 2023年7月15日号「ニュース最前線 JSRが非公開化で狙う半導体材料再編の主役の座」
- 週刊東洋経済 2023年10月7日号「特集 半導体 止まらぬ熱狂 PART2 日本の勝ち筋 JSRの積極姿勢に他社は冷ややか 業界トップが再編主導宣言 虎の子「材料」業界に波紋」
- JSR メディア・アナリスト・機関投資家向け会見 質疑応答要旨(2023年6月26日開催)
- JSR ニュースリリース 2024年4月17日「JICC-02株式会社による当社株式等に対する公開買付けの結果並びに親会社及び主要株主である筆頭株主の異動に関するお知らせ」
- JSR「2025年3月期 事業状況説明会資料」(2025年5月20日)
- JSR 有価証券報告書(2023年3月期・連結・IFRS)
- JSR 有価証券報告書【沿革】
- 日本経済新聞(2025年10月30日)「JSRの苦境招いた分岐点、メルクの買収提案は幻に 問われる透明性」