青山商事食料品・特産品部門から撤退し紳士服販売へ一本化

総合小売として広く扱うか、採算の合う一品目に絞るか——創業3年目の青山商事が選んだ道

時期 1967年10月
意思決定者(推定) 青山五郎 社長
論点 取扱品目の絞り込みと業態の確定
概要
1967年10月、広島県府中市の青山商事が、創業以来手がけてきた食料品・広島県特産品の卸売部門から撤退し、紳士服の小売に営業を一本化した経営判断。婦人服・呉服を含む紳士服以外の部門も同時期に整理された。
背景
1964年5月の創業時、青山商事は青山五郎氏の自宅1階を店舗に充て、紳士服・婦人服・呉服の小売と、広島県特産の食料品を東京の百貨店・ストアへ卸す事業を併営していた。初年度の年商は全部門合計で2300万円にとどまった。
内容
紳士服以外の部門は採算が合わないという判断から、1967年10月に食料品・特産品部門を畳み、洋服店として活動する体制へ改めた。以後の出店先は量販店が作り始めていたショッピングセンターとなり、7店を構えた。
含意
品目を絞ったことで、150坪という売場面積の基準、完全買取仕入による粗利50%、宣伝費を厚く投じる出店モデルという後年の型が成り立つ土台ができた。1974年の郊外1号店も、この一本化の延長線上にある。
筆者の見解

何を捨てたかが、何を作れるかを決めた

1967年の一本化は、危機を脱するための撤退というより、商いの設計図を一枚に描き直す作業であったとみることができる。食料品卸も呉服も、単体では赤字でなかったかもしれない。ただ、品目が並んでいる限り、売場は何坪あればよいのか、仕入はどの形が有利か、宣伝はいくら使えるのかという問いに、会社は一つの答えを出せない。扱いが紳士服だけになってはじめて、150坪という面積も、完全買取という仕入形式も、売上の17%を宣伝に投じるという配分も、同じ物差しの上で決められるようになった。捨てた側の判断が、作れるものの範囲を決めていたとみられる。

創業3年目の小さな会社が、日本一という目標と採算という物差しの二つだけで品目を選び直した点も見過ごしにくい。市場調査も競合分析もない時代の判断であり、当たったのは結果であって、必然ではない。ただ、その後の青山商事が郊外立地でも完全買取仕入でも業界の慣行の逆を選び続けたことを踏まえると、1967年の整理はそうした選び方の最初の実例にあたる。品目を増やして守るか、減らして攻めるか——小売業が規模の節目ごとに直面する問いに、この会社は最初の分岐で後者を選んでいる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

自宅の1階から始まった兼業の洋服屋

青山商事は1964年5月6日、広島県府中市で設立された。府中市は福山市から内陸へ20キロほど入った人口約4万7000人の町で、縫製と家具を特産とする工業地帯にあたる。創業したのは日本専売公社で経理を担当していた青山五郎氏と、その弟、妻の弟2人の4人であった。衣料品を選んだ理由について青山氏は、創業メンバーの1人が紳士服関連の業界にいたからだと述べている。店は青山氏の自宅1階を充てた10坪ほどの規模で、紳士服・婦人服・呉服を並べる一方、広島県特産の食料品を東京の百貨店やストアへ卸してもいた[1][2]

創業の日、4人はささやかな祝いの席で「日本一の洋服屋」にする道筋を話し合っている。青山氏はこのとき弟たちに、経済界に入らない、ゴルフをしない、自家用車に乗らない、という三つの約束をした。経済界の行事や講演で交わされる話題は常識の範囲に収まるため、そこに身を置いては業界で人より先へ進めない、というのが第一の理由であった。掲げた目標に対し、実態は小さい。1965年3月期の年商は、婦人服・呉服を含む全部門を合わせて2300万円にとどまっていた[3][4]

総合小売という選択がもたらした採算の重さ

創業から3年ほどの青山商事は、地方の総合小売と食品問屋を兼ねた会社であった。有価証券報告書の沿革も、設立時の事業内容を紳士既製服の小売を主とし、その他食料品、広島県の特産品販売等と記している。取扱品目を広げれば売上の入口は増えるが、仕入先も在庫の性格も販路も品目ごとに異なる。呉服には呉服の、食料品には食料品の商習慣があり、10坪の店と数人の創業メンバーで同時に扱うには重い構成であった[5]

青山氏はのちの講演で、この時期の判断の理由を短く述べている。紳士服以外のものが採算に合わなかった、という一言であった。青山氏には病気で進学を断念した経緯があり、30歳になったら独立して商売をやろうと考えていた。商売なら学歴によらず一流になれるという見立てであった。日本一を掲げた以上、品目を並べて食いつなぐ商いを続ける理由は薄い。採算という物差しで各部門を測り直したとき、残るものは一つに絞られていた[6][7]

決断

1967年10月、紳士服一本に絞る

1967年10月、青山商事は食料品と特産品の部門から撤退し、紳士服販売の営業に特化した。有価証券報告書の沿革はこの一行を、設立の次に置いている。青山氏自身の説明はさらに広く、紳士服以外のすべての部門から撤退したというもので、婦人服・呉服も同時期に整理されたことになる。創業からわずか3年半、年商が数千万円の段階での品目整理であった[8][9]

一本化は、売上を削る決定でもあった。東京の百貨店やストアへの特産品卸は、地方の小売店にとって都市の販路と現金収入をもたらす仕事である。それを畳んで残したのは、粗利の作り方を一つの品目で説明できる商いであった。品目が一つなら、仕入先も、売場の広さも、宣伝の打ち方も、すべて紳士服という基準で決められる。青山商事が後年に持ち出す150坪という売場面積の基準も、完全買取仕入という仕入形式も、扱うものが一つでなければ成り立たない設計であった[10]

絞った直後の出店先はショッピングセンターであった

洋服店として立ち直った青山商事が向かった先は、量販店が各地で作り始めていたショッピングセンターであった。7店を出している。景気がよく衝動買いの盛んな時期で、ウィンドーショッピングを楽しむ客の回転にショッピングセンターは支えられていた。品目を絞った小さな洋服店が、他人の集客力に相乗りして店数を増やす段階であった[11]

商圏そのものを動かす出来事も重なった。創業6年目の1970年、府中市長を務めていた兄・青山春雄氏が2期目の選挙で地元の名士である北川鉄工所社長の北川実夫氏と対立し、敗れる。青山商事は同社内の職域販売指定店から外され、府中市の外へ出て商売をせざるをえなくなった。福山市や尼崎市のショッピングセンターへの出店は、この事情のなかで進んだものであった。地縁に頼らない売り方を探す条件が、意図せず整えられている[12]

結果

目的買いへの変化と、田んぼの中の1号店

1972年ごろ、客の買い方が変わる。ウィンドーショッピングをしながら買う人が減り、半年前・1年前に買った客が目的を持って買いに来る比率が高まった。回転に頼るショッピングセンターは、目的買いの時代に向かない。青山氏はそう見て、同年に業界関係者と米国西海岸を視察する。サンフランシスコから約100キロの平原に立つショッピングセンターへ、周囲に家がないのに客が自家用車で集まっていた。理由を確かめるため、青山氏はもう一度単独で渡米している[13][14]

帰国後、自社の店で2000人にアンケートを実施した。背広をどこで買うかという問いへの回答は、品揃えの豊富な店が36%、買い物に立地のよい所が26%で、青山氏は両者を合わせた62%を郊外店を求める数字と読んだ。多様なサイズと柄を並べるには150坪が要り、その広さは都心では手に入らない。郊外立地の紳士服専門店「洋服の青山」1号店は、1974年4月に広島県東広島市西条の田んぼの中で開いている。物販店として日本で最初の郊外店にあたり、自動車ディーラーが1975年、外食産業が1977年、量販店ユニーが1978年と続いた。紳士服業界が郊外へ動くのは1983年ごろで、それまでの約9年間、この業態を採ったのは青山商事だけであった[15][16][17]

完全買取仕入が生んだ粗利50%と、118店への到達

品目を一つに絞った会社は、仕入の形も業界慣行から外れた。当時の洋服店はメーカーとの委託仕入で、売れ残りは返品するのが常であった。青山商事は売れ残りのリスクを自社で負う完全買取仕入を選ぶ。返品分の金利を負担せずに済むメーカーは納入価格を下げられ、青山商事は仕入原価を落とせる。紳士服業界の平均粗利率が36%のところ、青山商事は50%前後を23年間保った。粗利が厚い分を宣伝費に投じれば売上が伸び、仕入ロットがまとまってさらに安く仕入れられる。青山氏はこれを循環と呼び、他社より約10%安く売れる根拠に挙げている[18][19]

数字は品目を絞った側に付いた。1984年3月期の売上高は128億7615万円、経常利益は7億3031万円、店舗数は39店であった。1987年11月には四国・香川の観音寺と熊本の八代に開店して118店に達し、同年度の売上高見込みは340億円である。売上の内訳は、スーツ・ブレザー・礼服・コート・スラックスといった重衣料が81.6%を占めた。青山商事は同年11月に大阪証券取引所市場第二部と広島証券取引所へ株式を上場し、府中市ではリョービ、北川鉄工所に次ぐ3番目の上場会社となった。20年前に食料品と特産品を畳んだ会社が、重衣料で日本のスーツ年間販売量800万着のうち40万着を売る規模に届いている[20][21][22]

出典・参考
  • 証券アナリストジャーナル 1987年25巻12号「青山商事」(青山五郎社長 講演要旨・1987年11月30日 大阪)
  • 日経ビジネス 1984年11月26日号「郊外出店ズバリ、紳士服で群抜く成長の青山商事」
  • 日経ビジネス 1993年6月28日号 編集長インタビュー「企業はスピードが最も重要 10年後には売上高1兆円に」
  • 日経ビジネス 1994年1月31日号「青山五郎氏 公取委にも譲らぬ負けん気 常識排し価格破壊へ闘志新た」
  • 青山商事 有価証券報告書【沿革】

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