1967年の一本化は、危機を脱するための撤退というより、商いの設計図を一枚に描き直す作業であったと思われる。食料品卸も呉服も、単体では赤字でなかったかもしれない。ただ、品目が並んでいる限り、売場は何坪あればよいのか、仕入はどの形が有利か、宣伝はいくら使えるのかという問いに、会社は一つの答えを出せない。扱いが紳士服だけになってはじめて、150坪という面積も、完全買取という仕入形式も、売上の17%を宣伝に投じるという配分も、同じ物差しの上で決められるようになった。捨てた側の判断が、作れるものの範囲を決めていたのだろう。
創業3年目の小さな会社が、日本一という目標と採算という物差しの二つだけで品目を選び直した点も見過ごしにくい。市場調査も競合分析もない時代の判断であり、当たったのは結果であって、必然ではない。ただ、その後の青山商事が郊外立地でも完全買取仕入でも業界の慣行の逆を選び続けたことを踏まえると、1967年の整理はそうした選び方の最初の実例にあたる。品目を増やして守るか、減らして攻めるか——小売業が規模の節目ごとに直面する問いに、この会社は最初の分岐で後者を選んでいる。