家電敗北から自動販売機への転換と富士電機冷機の自立

家電で先発大手に敗れた総合電機は、どの市場で稼ぐ体制に組み替えたか

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時期 1988年2月
意思決定者 和田恒輔 富士電機 自動販売機事業の提案者(のち社長)
論点 事業構成と選択と集中
概要
家電ブームに乗り遅れた富士電機が、後発参入した自動販売機事業を子会社の富士電機冷機に集約し、1987年に国内シェア約4割で首位に立ち、1988年に同社を東証二部へ上場させて自立させた業態の組み替え。
背景
重電の後発として総合電機に手を広げた富士電機は、家庭用電化製品で先発大手に及ばず、昭和40年代後半から家電部門が停滞した。三重工場では生産すべき家電が不足していた。
内容
1966年の和田恒輔氏の提案で1969年に自動販売機へ後発参入し、製造・リース・材料までの一貫体制で約4年で国内首位に立った。事業を子会社の富士電機冷機へ集約し、1988年に独立上場させた。
含意
先発に勝てない家電を見切り、後発でも勝てる自販機へ資源を移した判断は、2002年の変電機器移管や2004年の富士物流譲渡といった後年の選択と集中の原型となった。
筆者の見解

どの市場で戦い、どの市場から退くか

この判断の核心は、負けた市場に固執せず、勝てる隣接市場へ人と設備を移し替えた点にある。家電という一般消費市場では、先発の大手に対して富士電機の後発の不利は覆しにくかった。自販機という、当時まだ中規模ながら伸びしろのある業務用の市場を選び、製造から金融・材料まで抱える一貫体制で臨んだことが、遊びかけていた三重工場を稼ぎ手に変え、やがて子会社の独立上場にまで結び付いたとみることができる。負けを認めて資源を動かす速さが、この転換を支えていた。

もっとも、自販機もまた安泰ではなかった。清涼飲料の自販機市場はコンビニの成長とともに縮小へ向かい、かつて家電を救った事業自体が次の環境変化に洗われていく。それでも、先発に勝てない領域を早めに見切り、後発でも勝てる場所へ移るという1960年代からの判断軸は、変電機器や物流の切り出しに至るまで、富士電機の事業再編に繰り返し現れた。どの市場で戦い、どの市場から退くか——家電の敗北から始まったこの問いは、パワー半導体への集中に至る後年の選択にも通じている。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

家電ブームに乗り遅れた総合電機

富士電機は、古河電気工業とドイツ・シーメンスの合弁として1923年に生まれた重電の後発メーカーであった。戦後は発電機や変圧器といった重電機を軸に総合電機へ手を広げ、家庭用の電化製品にも参入する。しかし高度成長期の家電ブームには乗り遅れ、昭和40年代後半から家電部門は停滞に沈んだ。三重工場では生産すべき家電が不足し、量産拠点が遊びかねない状態に近づく。日立・東芝・三菱電機・松下という先発の壁は厚く、後発の富士電機が一般消費者向けの家電で地歩を築くのは難しかった[1][2]

総合電機としての富士電機は、東芝・日立・三菱電機に比べれば小型のプレイヤーにとどまっていた。1952年の業界評も「電動機メーカーとしては東芝、日立、三菱に比べると小型」と記しており、水車や整流器では定評を得ながらも、個別の事業で先発大手と拮抗する収益力を築くには至らない。事業を広く抱えるほど一つひとつが中途半端になりかねない構造を、家電の不振はあらためて突きつけた[3]

決断

自動販売機への後発参入と一貫体制

富士電機が家電の不振を埋める新事業に選んだのは、自動販売機であった。「1966年、私は自動販売機部門に進出することを提案した」——のちに社長となる和田恒輔氏はこう振り返っている。自販機は当時まだ中規模の市場ながら伸びが見込め、業務用の民生品ゆえ販売網づくりに要する人材や資金も比較的少なくてすむ。首脳はただちに参入を決め、1969年9月に製造を始めた。業界では10年遅れの参入であった[4][5]

参入にあたって富士電機は、機械をつくって売るだけの供給者にとどまらなかった。自販機の製造に加え、設置資金のリース、中に詰める飲料や食品といったベンディング材料の取り扱いまで、最初から一貫して自社で担う体制を組んだ。家電で行き場を失いかけていた三重工場が、この新事業の量産拠点に変わる。ツガミや三菱重工といった先発企業がいたなかで、製造から販売・金融まで抱え込むモデルをとり、参入から約4年で国内シェアの首位を得た。先発に勝てない領域を見切り、後発でも勝てる隣接領域へ人と設備を移し替える判断であった[6][7]

富士電機冷機への集約と独立上場

自販機事業は、やがて子会社の富士電機冷機が担う体制へと集約された。冷機は自販機で国内需要の伸びをとらえ、1987年末には国内シェアの約4割を握って首位に立つ。街角の清涼飲料の自販機の多くが同社製という状態になり、「あの地味な富士電機が、街角で良く見かける自販機では断然トップ」(日経ビジネス)と評されるまでになった[8][9]

1988年2月、富士電機は富士電機冷機の株式を東京証券取引所市場第二部に上場させ、翌1989年9月には第一部へ指定替えとなった。子会社を親会社の一部門にとどめず、独立した資本市場のプレイヤーとして立たせる形をとる。家電で沈みかけた事業が、自販機という別の市場で、子会社の独立上場にまでたどり着いた[10]

結果

家電敗北を埋めた自販機、選択と集中の原型

家電ブームに乗り遅れて沈みかけた部門は、自販機によって息を吹き返した。日経ビジネスは「その瀬戸際で、1969年に自販機を始め、家電部門は生き返った」と、家電の敗北を自販機で補った構図を記している。2002年4月には三洋電機自販機を買収して吹上富士自販機とし、自販機事業の規模をさらに広げた。もっとも、清涼飲料の自販機市場はのちにコンビニエンスストアの攻勢で縮小へ向かい、この事業もまた新たな環境変化に洗われていく[11][12][13]

先発に勝てない事業を見切り、後発でも勝てる隣接領域へ資源を移すという自販機参入の判断は、以降の富士電機の事業再編の作法として残った。2002年10月には変電機器事業を日本AEパワーシステムズへ移し、2004年には富士物流の株式の一部を豊田自動織機へ譲渡して連結から外す。日経ビジネスが「"総合"に固執した3社は…年々、看板が色あせている」と総合電機モデルの限界を指摘したように、富士電機も規模だけで競う領域を外へ出し、単独で首位を狙える事業を残す仕分けへと向かった。合弁を出自とする同社にとって、他社との共同運営や事業の受け渡しは相性の良い手段でもあった[14][15]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1985年1月7日号「会社の寿命・3つの栄枯盛衰」
  • 日経産業新聞(1987年12月23日)
  • 日経ビジネス 1988年7月18日号
  • 日経ビジネス 1997年10月27日号「"総合"企業の終焉はさけられない」
  • 新日本経済(1952年6月)
  • 日経産業新聞(2016年9月5日)「自販機ビジネス(1)コンビニ強く」
  • 富士電機 有価証券報告書 第149期(2025年3月期)【沿革】
  • 富士電機 会社年鑑(単体業績)