東芝 の歴史

更新:

創業 1875年
創業者 田中久重
創業地 東京都中央区
創業・決断・現況・競合について
創業
1875年7月、田中久重氏が東京・新橋に田中製造所を創設し、電信機の製作を始めた。1881年に田中久重氏が世を去ると養子の田中大吉氏が事業を引き継ぎ、工場を芝浦へ移し、1904年6月に資本金100万円の株式会社芝浦製作所へ改組した。もう一つの源流は1890年に創業した白熱舎で、1896年に東京白熱電燈球製造として法人化し、1899年に東京電気へ改称している。重電の芝浦製作所と弱電の東京電気は1939年9月に合併して東京芝浦電気となり、発電機から電球・真空管・家庭電器まで一社で供給する総合電機が生まれた。商号を東芝へ改めたのは1984年4月である。
決断
集中させる先を、そのつど一つに絞ってきた。1965年に社長となった土光敏夫氏は事業部へ権限を委譲して採算の見える経営を敷き、2001年には世界一を築いた汎用DRAMから撤退してNAND型フラッシュメモリへ資源を集中させた。参入も撤退も、当時の市況に照らせば合理的な判断だった。2006年の約54億ドルでのウェスチングハウス買収も、温暖化対策と新興国の電力需要で原子力の新設が見込まれるなかの投資である。誤算は前提の側にあった。2011年の福島第一原発事故で世界の新設計画が凍結し、ウェスチングハウスが取得した建設会社で費用が膨張すると、2017年3月に同社は米連邦倒産法第11章を申請した。一つに絞る速さが競争優位の源泉だった会社で、前提が崩れたときの損失も一つに集まった。
現況
現在の東芝は上場企業ではなく、投資ファンド連合が全株を持つ非上場の事業会社である。最終期となる2023年3月期の連結売上高は3兆3,617億円で、2008年3月期の7兆6,681億円から半分以下へ縮んだ。2015年には社長月例で示された過大な収益目標を発端とする不正会計が明るみに出て歴代3社長が退任し、2017年3月のウェスチングハウス破綻で債務超過に陥ると、同年12月の約6,000億円の第三者割当増資で上場廃止を回避した。2018年6月には自ら発明したメモリ事業を約2兆円で売却した。増資で入った物言う株主との対立は2022年3月の分割案否決まで続き、翌2023年に東芝は日本産業パートナーズ連合の約2兆円の買収を受け入れ、同年12月20日に1949年以来74年続いた上場を終えた。株主と方針が合わない状態は解けたが、四半期ごとに市場から値付けされる立場も同時に失った。
競合
同じ原子力へ入った総合電機でも、撤退を決める期限を持っていたかどうかで帰趨が分かれた。2006年のウェスチングハウス取得で、東芝は加圧水型と沸騰水型の双方を持つ唯一の企業となり、世界一の原子力事業を擁した。日立製作所も英国のホライズン計画に出資したが、総事業費が約3兆円へ膨らみ非連結化に必要な出資者を確保できないと見て、2019年1月に計画を凍結して撤退した。東芝はウェスチングハウスの建設子会社で費用が膨張したまま止められず、2017年に原子力関連で1兆円超の損失を計上して債務超過に陥った。原子力の需要見通しは各社とも同じで、損失を止める時点を先に決めていなかったことが、東芝からだけ上場を奪った。

創業ストーリー 電信機の田中製造所と電球の白熱舎、二つに分かれていた源流 (1875年〜) 会社設立の経緯

電信機の田中製造所と電球の白熱舎、二つに分かれていた源流

田中久重の電信機工場から芝浦製作所への強電の系譜

東芝の源流のひとつは、幕末から明治にかけて活動した発明家、田中久重氏の工場[1]にさかのぼる。1875年7月、田中久重氏は東京・新橋に田中製造所を創設し[2]、電信機の製作を始めた。東芝はこの年を創業年とし、工場が田中製造所の名を用いたのは1882年から[3]である。田中久重氏が1881年に世を去ったあと、事業は養子の田中大吉氏が[4]引き継ぎ、工場を東京・芝浦へ移して芝浦製作所と名を改めた。そして1904年6月25日、資本金100万円の株式会社芝浦製作所へ改組[5]した。当初は一般機械類を主力とし、あわせて発電機・電動機・変圧器・電灯器具などの電気機械[6]を製作した。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
    • [1]東芝の源流の一つ 発明家 田中久重の工場
    • [2]1875年7月 田中久重が東京・新橋に田中製造所を創設し電信機の製作を開始
    • [5]1904年6月25日 資本金100万円で株式会社芝浦製作所へ改組
    • [6]創業当初の製品 一般機械類と発電機・電動機・変圧器・電灯器具
  • 東芝 有価証券報告書【沿革】
    • [3]東芝の創業年 1875年/田中製造所の名は1882年から
  • 国立公文書館「公文書にみる発明のチカラ」
    • [4]田中久重の死後 養子の田中大吉が事業を継承し工場を芝浦へ移転

株式会社となった芝浦製作所は、国内の電力開発の活況に伴い、大型発電機・変圧器・電動機など強電機器の製造へ重点を移した[7]。1922年2月には現在の鶴見工場の所在地に[8]工場を建設し、わが国最大の重電機メーカー[9]として各種の重電機器を製作した。容量や規模で記録を更新する製品を次々に完成させ、輸入品に頼っていた重電の分野を[10]国産で置き換えた。官営工場や電力会社に大型設備を納める[11]ことで、発電から送配電に至る電力インフラの一角を担った。個人の発明工房として始まった事業は、資本と組織を備えた重電メーカーへ姿を変え、のちの東芝の重電・産業機器部門の母体[12]となった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
    • [7]電力開発の活況に伴う強電機器への重点移行
    • [8]1922年2月 現鶴見工場所在地に工場を建設
    • [9]芝浦製作所 わが国最大の重電機メーカー
    • [10]記録を更新する重電機器の完成と重電分野の国産化
  • 国立公文書館「公文書にみる発明のチカラ」
    • [11]官営工場・電力会社への大型設備の納入
    • [12]芝浦製作所 のちの東芝の重電・産業機器部門の母体
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
    • [1]東芝の源流の一つ 発明家 田中久重の工場
    • [2]1875年7月 田中久重が東京・新橋に田中製造所を創設し電信機の製作を開始
    • [5]1904年6月25日 資本金100万円で株式会社芝浦製作所へ改組
    • [6]創業当初の製品 一般機械類と発電機・電動機・変圧器・電灯器具
    • [7]電力開発の活況に伴う強電機器への重点移行
    • [8]1922年2月 現鶴見工場所在地に工場を建設
    • [9]芝浦製作所 わが国最大の重電機メーカー
    • [10]記録を更新する重電機器の完成と重電分野の国産化
  • 東芝 有価証券報告書【沿革】
    • [3]東芝の創業年 1875年/田中製造所の名は1882年から
  • 国立公文書館「公文書にみる発明のチカラ」
    • [4]田中久重の死後 養子の田中大吉が事業を継承し工場を芝浦へ移転
    • [11]官営工場・電力会社への大型設備の納入
    • [12]芝浦製作所 のちの東芝の重電・産業機器部門の母体

藤岡市助の白熱舎とマツダランプによる電球国産化

東芝のもうひとつの源流は、電球の国産化に挑んだ弱電の系譜[13]にある。1890年4月、電気工学者の藤岡市助氏と三吉正一氏らが東京・京橋に白熱舎を創立し[14]、白熱電球の製造を開始した。当時の電球はほぼ輸入品で占められており、白熱舎は舶来電球と競い[15]ながら国産電球の開拓に努めた。1896年1月には資本金5万円の東京白熱電燈球株式会社[16]となり、1899年1月に社名を東京電気と改めた[17]。1907年5月には現在の川崎工場の所在地に[18]堀川町工場を建設し、照明用電球のほかX線管や電気計器、各種真空管[19]へ製品を広げた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
    • [13]東芝のもう一つの源流 電球国産化の弱電系譜
    • [14]1890年4月 藤岡市助・三吉正一らが東京・京橋に白熱舎を創立
    • [15]舶来電球との競争のなかでの国産電球の開拓
    • [16]1896年1月 資本金5万円の東京白熱電燈球株式会社を設立
    • [17]1899年1月 東京電気へ社名変更
    • [18]1907年5月 現川崎工場所在地に堀川町工場を建設
    • [19]製品の広がり 照明用電球・X線管・電気計器・各種真空管

東京電気を率いた藤岡市助氏は、日本のエジソンとも呼ばれた電気事業の先駆者[20]であった。藤岡市助氏は1905年に米国のゼネラル・エレクトリック社と資本・技術の提携を[21]結び、電球の特許と量産の技術を取り込んだ。1911年には長寿命のタングステン電球"マツダランプ"を発売し[22]、安価で丈夫な国産電球として全国に広めた。マツダの名は光の神に由来し、1910年に世界の主要な電球会社が集まって[23]タングステン電球をマツダランプと称すると決めた際、東京電気もこれを製品に付ける[24]ことにした。輸入品に対抗できる品質と価格[25]を手にしたことで、東京電気は日本の照明の近代化を電球の側から支えた。

  • 国立公文書館「公文書にみる発明のチカラ」
    • [20]藤岡市助 東京電気を率いた電気事業の先駆者
    • [21]1905年 ゼネラル・エレクトリックと資本・技術提携
    • [22]1911年 タングステン電球「マツダランプ」の発売
    • [25]輸入品に対抗する品質と価格の獲得
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
    • [23]1910年 世界の主要電球会社がタングステン電球をマツダランプと称すると決定
    • [24]東京電気による製品へのマツダランプ名称の採用

東京電気は電球にとどまらず、弱電の広い分野へ製品を伸ばした[26]。1917年には最初の国産真空管を製作し[27]、1925年には内面艶消電球の研究を世界に先がけて完成させ[28]、1926年には国産ネオンサインの先鞭[29]をつけた。蛍光灯を日本で初めて製作したのも[30]東京電気で、1936年には世界最初の二重コイル電球の製作に成功した[31]。一方の芝浦製作所は強電機器で国内最大の地位にあり、両社は資本の面でも技術の面でも早くから[32]提携関係にあった。大正から昭和初期にかけての東京電気は、電球・真空管・照明器具・[33]送受信機など各種の弱電機器のメーカーであった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
    • [26]東京電気 電球以外の弱電分野への製品拡大
    • [27]1917年 最初の国産真空管を製作
    • [28]1925年 内面艶消電球の研究を世界に先がけて完成
    • [29]1926年 国産ネオンサインの先鞭
    • [30]日本初の蛍光灯製作 東京電気
    • [31]1936年 世界最初の二重コイル電球の製作に成功
    • [32]芝浦製作所と東京電気の資本・技術の提携関係
    • [33]東京電気の製品 電球・真空管・照明器具・送受信機
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
    • [13]東芝のもう一つの源流 電球国産化の弱電系譜
    • [14]1890年4月 藤岡市助・三吉正一らが東京・京橋に白熱舎を創立
    • [15]舶来電球との競争のなかでの国産電球の開拓
    • [16]1896年1月 資本金5万円の東京白熱電燈球株式会社を設立
    • [17]1899年1月 東京電気へ社名変更
    • [18]1907年5月 現川崎工場所在地に堀川町工場を建設
    • [19]製品の広がり 照明用電球・X線管・電気計器・各種真空管
    • [23]1910年 世界の主要電球会社がタングステン電球をマツダランプと称すると決定
    • [24]東京電気による製品へのマツダランプ名称の採用
    • [26]東京電気 電球以外の弱電分野への製品拡大
    • [27]1917年 最初の国産真空管を製作
    • [28]1925年 内面艶消電球の研究を世界に先がけて完成
    • [29]1926年 国産ネオンサインの先鞭
    • [30]日本初の蛍光灯製作 東京電気
    • [31]1936年 世界最初の二重コイル電球の製作に成功
    • [32]芝浦製作所と東京電気の資本・技術の提携関係
    • [33]東京電気の製品 電球・真空管・照明器具・送受信機
  • 国立公文書館「公文書にみる発明のチカラ」
    • [20]藤岡市助 東京電気を率いた電気事業の先駆者
    • [21]1905年 ゼネラル・エレクトリックと資本・技術提携
    • [22]1911年 タングステン電球「マツダランプ」の発売
    • [25]輸入品に対抗する品質と価格の獲得

合併で生まれた総合電機、財閥解体による縮小、土光敏夫の権限委譲

合併による総合電機の成立と戦時下の膨張

強電を担う芝浦製作所と、弱電を担う東京電気は、資本と技術の提携を重ねたのち、1939年9月に合併して東京芝浦電気株式会社となった[34]。合併時の資本金は9417万5000円[35]で、発電から重電機器、通信機、家庭電器、電球・真空管までを一社で手がける[36]総合電機メーカーが生まれた。合併後は東芝の略称が広く使われ、強電と弱電の両部門を兼ね備えた一大電機メーカー[37]として国内に並ぶものがなくなった。電気を消費する照明・家電が売れれば電気が不足して発電機の注文が増え、電気が余れば再び照明・家電が売れるという循環[38]が、総合経営の狙いとして社内で語られた。

  • 東芝 有価証券報告書【沿革】
    • [34]1939年9月 芝浦製作所と東京電気が合併し東京芝浦電気が発足
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
    • [35]合併時の資本金 9417万5000円
    • [36]合併後の事業範囲 発電・重電機器・通信機・家庭電器・電球・真空管
    • [37]合併後の東芝 強電・弱電を兼備した一大電機メーカー
  • 証券アナリストジャーナル 1981年19巻12号
    • [38]総合経営の狙い 電気を消費する製品と電気を作る機器の需要循環

合併後の東京芝浦電気は、軍需の拡大に応じて事業を広げた[39]。1941年10月に東邦鋼業を、1942年10月に芝浦マツダ工業と日本医療電気を[40]、1943年7月に東京電気と東洋耐火煉瓦[41]をそれぞれ吸収した。合併の結果、事業は強電・弱電機器にとどまらず、製鋼・特殊合金・耐火物といった素材部門から乾電池などの電気化学工業[42]、薬品類にまで及んだ。資本金は1945年4月に6億2200万円へ達し[43]、戦争中の東芝は全国に65を超える工場を持つ最大の[44]電気機器製作会社であった。柳町工場や小向工場では通信機製品の生産を拡充し[45]、家庭電器製品の品目も広げた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
    • [39]合併後の軍需拡大に応じた事業拡張
    • [40]1941年10月 東邦鋼業を吸収/1942年10月 芝浦マツダ工業・日本医療電気を吸収
    • [42]事業範囲 製鋼・特殊合金・耐火物・電気化学工業・薬品類
    • [43]1945年4月 資本金6億2200万円
  • 東芝 有価証券報告書【沿革】
    • [41]1943年7月 東京電気・東洋耐火煉瓦を吸収
    • [45]柳町工場・小向工場での通信機製品の拡充
  • 証券アナリストジャーナル 1981年19巻12号
    • [44]戦争中 全国65超の工場を持つ最大の電気機器製作会社
  • 東芝 有価証券報告書【沿革】
    • [34]1939年9月 芝浦製作所と東京電気が合併し東京芝浦電気が発足
    • [41]1943年7月 東京電気・東洋耐火煉瓦を吸収
    • [45]柳町工場・小向工場での通信機製品の拡充
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
    • [35]合併時の資本金 9417万5000円
    • [36]合併後の事業範囲 発電・重電機器・通信機・家庭電器・電球・真空管
    • [37]合併後の東芝 強電・弱電を兼備した一大電機メーカー
    • [39]合併後の軍需拡大に応じた事業拡張
    • [40]1941年10月 東邦鋼業を吸収/1942年10月 芝浦マツダ工業・日本医療電気を吸収
    • [42]事業範囲 製鋼・特殊合金・耐火物・電気化学工業・薬品類
    • [43]1945年4月 資本金6億2200万円
  • 証券アナリストジャーナル 1981年19巻12号
    • [38]総合経営の狙い 電気を消費する製品と電気を作る機器の需要循環
    • [44]戦争中 全国65超の工場を持つ最大の電気機器製作会社

財閥解体による3分の1への縮小と高度成長への復帰

敗戦は膨張した事業構成を一挙に反転させ、戦災による焼失工場や疎開工場の一部を廃した東芝は41工場・2研究所の体制となった[46]。1950年2月、東芝は企業再建整備計画に基づく大規模な再編[47]を迫られた。15工場・1研究所を切り出して東京電気器具を含む第二会社14社を設立し[48]、10工場を売却、1工場を閉鎖したうえで、17工場・1研究所を[49]もって新たに発足した。財閥解体と企業再建整備、持株会社の制限という一連の制約により、会社の規模は約3分の1へ縮小した[50]。再建にも法律の制約が重く[51]、東芝の立ち後れはこのときに始まった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
    • [46]戦災焼失・疎開工場の一部廃止後 41工場・2研究所
  • 東芝 有価証券報告書【沿革】
    • [47]1950年2月 企業再建整備計画に基づく再編
    • [48]15工場・1研究所を切り出し 東京電気器具を含む第二会社14社を設立
    • [49]10工場を売却 1工場を閉鎖 17工場・1研究所で新発足
  • 証券アナリストジャーナル 1981年19巻12号
    • [50]財閥解体・企業再建整備・持株会社制限による規模の約3分の1への縮小
    • [51]再建に対する法律上の制約と東芝の立ち後れ

1949年4月、石坂泰三氏が社長に就任[52]した。労働攻勢の代表的な標的とされて数次の[53]ストライキが起きていた東芝は、石坂泰三氏(社長)のもとで労使の協調を得て、生産設備の増強と新製品の開発[54]によって回復に向かった。重電では、1950年4月に東芝車輛を合併して鉄道車両を、1955年11月に[55]電業社原動機製造所を合併して水車を、1961年11月に石川島芝浦タービンを合併して[56]蒸気タービンを取り込み、発電設備メーカーとしての厚みを増した。1955年2月には資本金が60億円となり[57]、本社・8営業所・15工場・2研究所に従業員2万5000人[58]を擁した。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
    • [52]1949年4月 石坂泰三が社長に就任
    • [53]労働攻勢の代表的な標的 数次のストライキの発生
    • [54]石坂泰三社長のもとでの労使協調と生産設備の増強・新製品開発による回復
    • [57]1955年2月 資本金60億円
    • [58]1955年時点の体制 本社・8営業所・15工場・2研究所 従業員2万5000人
  • 東芝 有価証券報告書【沿革】
    • [55]1950年4月 東芝車輛を合併/1955年11月 電業社原動機製造所を合併
    • [56]1961年11月 石川島芝浦タービンを合併し蒸気タービンを取り込み

戦後10年を経た1955年の売上高は339億円[59]だった。1960年には1539億円へ伸び[60]、その内訳は家電製品が54パーセント、重電製品が34パーセント[61]、残る12パーセントに電波機器・通信機器・医療機のほか半導体やコンピューターが含まれていた。1970年の売上高は6001億円に達し[62]、家電グループが48パーセント、重電グループが34パーセント、産業用エレクトロニクス・グループが18パーセント[63]を占めた。15年で売上高は17倍を超え[64]、家電が全社売上の半分を割る一方、電子部門が2割に迫った。会社所得の番付で第1位となった年度も数回あり[65]、総合経営はこの時期に成果を上げた。

  • 証券アナリストジャーナル 1981年19巻12号
    • [59]1955年 売上高339億円
    • [60]1960年 売上高1539億円
    • [61]1960年の売上構成 家電54%・重電34%・その他12%
    • [62]1970年 売上高6001億円
    • [63]1970年の売上構成 家電48%・重電34%・産業用エレクトロニクス18%
    • [64]1955年から1970年で売上高17倍超
    • [65]会社所得の番付で第1位となった年度が数回
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
    • [46]戦災焼失・疎開工場の一部廃止後 41工場・2研究所
    • [52]1949年4月 石坂泰三が社長に就任
    • [53]労働攻勢の代表的な標的 数次のストライキの発生
    • [54]石坂泰三社長のもとでの労使協調と生産設備の増強・新製品開発による回復
    • [57]1955年2月 資本金60億円
    • [58]1955年時点の体制 本社・8営業所・15工場・2研究所 従業員2万5000人
  • 東芝 有価証券報告書【沿革】
    • [47]1950年2月 企業再建整備計画に基づく再編
    • [48]15工場・1研究所を切り出し 東京電気器具を含む第二会社14社を設立
    • [49]10工場を売却 1工場を閉鎖 17工場・1研究所で新発足
    • [55]1950年4月 東芝車輛を合併/1955年11月 電業社原動機製造所を合併
    • [56]1961年11月 石川島芝浦タービンを合併し蒸気タービンを取り込み
  • 証券アナリストジャーナル 1981年19巻12号
    • [50]財閥解体・企業再建整備・持株会社制限による規模の約3分の1への縮小
    • [51]再建に対する法律上の制約と東芝の立ち後れ
    • [59]1955年 売上高339億円
    • [60]1960年 売上高1539億円
    • [61]1960年の売上構成 家電54%・重電34%・その他12%
    • [62]1970年 売上高6001億円
    • [63]1970年の売上構成 家電48%・重電34%・産業用エレクトロニクス18%
    • [64]1955年から1970年で売上高17倍超
    • [65]会社所得の番付で第1位となった年度が数回

土光敏夫の権限委譲とチャレンジ・レスポンス経営

1965年5月、東京芝浦電気会長の石坂泰三氏の懇請を受けて、石川島播磨重工業社長だった土光敏夫氏が東芝の社長に就任した[66]。与えられた責務は、減配が続いていた東芝の立て直し[67]である。人事は正式に話がまとまらないうちに新聞へ出たため、土光敏夫氏(社長)にとっては要請から内定まで一週間の余裕[68]しかなかった。当時の東芝は資本金も従業員数も石川島の3倍ほどあり、従業員6万3000人と全国30を超える[69]工場・営業所を抱えていた。

  • 私の履歴書 経済人20「土光敏夫」(日本経済新聞社、1986年)
    • [66]1965年5月 石坂泰三会長の懇請で土光敏夫が東芝社長に就任
    • [67]土光敏夫に与えられた責務 減配続きの東芝の立て直し
    • [68]人事の新聞先行報道 要請から内定まで一週間
    • [69]就任時の東芝 資本金・従業員数とも石川島の約3倍 従業員6万3000人 全国30超の工場・営業所

土光敏夫氏(社長)は人材の活用を再建の柱に据え[70]、二つの策を立てた。組織に活力を与えることと、各事業部に権限を全面的に委ねること[71]である。従来の専務会と常務会を[72]廃して常務以上の役員が社長と一体で経営方針を決める経営幹部会を設け、事業部グループ制も廃した[73]。事業部長の上にいた担当役員を機能別の分担役員へ改め、決裁権を事業部長へ移して100パーセントの権限委譲[74]を実施した。この仕組みは1969年に目標管理制度と結びついて事業部内閣制へ発展し[75]、事業部が自ら目標と予算を決める形になった。土光敏夫氏(社長)はこの運営をチャレンジ・レスポンス経営と名付けた[76]

  • 私の履歴書 経済人20「土光敏夫」(日本経済新聞社、1986年)
    • [70]土光敏夫の再建の柱 人材の活用と二つの策
    • [71]二策 組織への活力付与と事業部への全面的な権限委譲
    • [72]専務会・常務会の廃止
    • [73]経営幹部会の設置と事業部グループ制の廃止
    • [74]担当役員の機能別分担役員への改組と事業部長への100%権限委譲
    • [75]1969年 目標管理制度と結んだ事業部内閣制への発展
    • [76]土光敏夫による運営の呼称 チャレンジ・レスポンス経営

チャレンジとは挑戦ではなく、参加を促す議論や説明の要求[77]を指す言葉だった。事業部が自ら決めた目標を達成できなかったとき、なぜできなかったかの説明を求め[78]、議論を呼びかけた。就任の翌年からいざなぎ景気が始まり、東芝は1966年下期に2分の増配へ[79]転じ、以後は年に二分ずつ配当を上げて1969年上期に1割二分配当となった[80]。1969年下期の売上高2869億円は過去最高で、当期利益も102億円[81]を計上し、この年の年間売上高は5000億円を超えた。1967年度から始めた長期経営計画は、売上高で計画より2年早く[82]達成された。8期連続の増収増益を確かめた土光敏夫氏(社長)は、1972年8月に[83]社長を退任した。

  • 私の履歴書 経済人20「土光敏夫」(日本経済新聞社、1986年)
    • [77]チャレンジの語義 参加を促す議論・説明の要求
    • [78]目標未達時の説明要求と議論の呼びかけ
    • [79]就任翌年からのいざなぎ景気と1966年下期の二分増配
    • [80]1969年上期 1割二分配当
    • [81]1969年下期 売上高2869億円 当期利益102億円 年間売上高5000億円超
    • [82]1967年度開始の長期経営計画 売上高で2年前倒し達成
    • [83]8期連続の増収増益と1972年8月の土光敏夫の社長退任
  • 私の履歴書 経済人20「土光敏夫」(日本経済新聞社、1986年)
    • [66]1965年5月 石坂泰三会長の懇請で土光敏夫が東芝社長に就任
    • [67]土光敏夫に与えられた責務 減配続きの東芝の立て直し
    • [68]人事の新聞先行報道 要請から内定まで一週間
    • [69]就任時の東芝 資本金・従業員数とも石川島の約3倍 従業員6万3000人 全国30超の工場・営業所
    • [70]土光敏夫の再建の柱 人材の活用と二つの策
    • [71]二策 組織への活力付与と事業部への全面的な権限委譲
    • [72]専務会・常務会の廃止
    • [73]経営幹部会の設置と事業部グループ制の廃止
    • [74]担当役員の機能別分担役員への改組と事業部長への100%権限委譲
    • [75]1969年 目標管理制度と結んだ事業部内閣制への発展
    • [76]土光敏夫による運営の呼称 チャレンジ・レスポンス経営
    • [77]チャレンジの語義 参加を促す議論・説明の要求
    • [78]目標未達時の説明要求と議論の呼びかけ
    • [79]就任翌年からのいざなぎ景気と1966年下期の二分増配
    • [80]1969年上期 1割二分配当
    • [81]1969年下期 売上高2869億円 当期利益102億円 年間売上高5000億円超
    • [82]1967年度開始の長期経営計画 売上高で2年前倒し達成
    • [83]8期連続の増収増益と1972年8月の土光敏夫の社長退任

選択経営とエレクトロニクスへの主役交替、世界一の半導体とココム事件

オイルショックとメインフレームからの撤退

1973年11月の第1次オイルショック[84]で、東芝の成長は足踏みした。1975年の売上高は8939億円[85]にとどまり、産業用エレクトロニクスの構成比がようやく全社の20パーセントを超えて22パーセントに達した[86]。1977年度の売上高は1兆609億円[87]となり、初めて1兆円の大台を超えた。前年度の9643億円に対する伸びは10パーセントで、同業では日立が7パーセント、三菱が14パーセント[88]だった。この年度は家電と通信・電子の不振を重電が補い、重電の売上高は前年度の2934億円から3907億円へ約33パーセント[89]増えた。

  • 証券アナリストジャーナル 1981年19巻12号
    • [84]1973年11月 第1次オイルショックによる成長の足踏み
    • [85]1975年 売上高8939億円
    • [86]1975年 産業用エレクトロニクスの構成比22%
  • 証券アナリストジャーナル 1978年16巻8号
    • [87]1977年度 売上高1兆609億円で初の1兆円超
    • [88]1976年度売上高9643億円 対前年度比10%増 日立7%・三菱14%
    • [89]1977年度 重電売上高が2934億円から3907億円へ約33%増

重電が支えた一方で、通信・電子では電子部品が悪化した[90]。カラーブラウン管と半導体の操業度は1977年度に前年度比で約2割低下し[91]、通信・電子グループの不振の主因となった。カラーテレビの国内向け出荷が全メーカーで530万台程度と前年度より約40万台減り[92]、対米輸出も1977年7月からの数量規制で約4割減った[93]。不振の続く分野を抱えたまま、東芝は大中型コンピューターの営業を切り離し、1978年4月に日電東芝情報システムへ移管した[94]。以後の売上は青梅工場で製造するハードの引渡価格のみ[95]に減り、東芝の営業は小型コンピューター部門だけになった。

  • 証券アナリストジャーナル 1978年16巻8号
    • [90]重電が支える一方での通信・電子の電子部品の落ち込み
    • [91]1977年度 カラーブラウン管・半導体の操業度が前年度比約2割低下
    • [92]カラーテレビ国内向け出荷 全メーカー530万台程度 前年度比約40万台減
    • [93]1977年7月からの対米輸出数量規制による約4割減
    • [94]1978年4月 大中型コンピューターの営業を日電東芝情報システムへ移管
    • [95]移管後の売上は青梅工場のハード引渡価格のみ 営業は小型コンピューター部門に限定

1980年度の売上高は1兆5476億円[96]で、5年前の1.7倍、10年前の2.6倍に伸びた。売上構成は重電グループが37パーセント、家電グループが[97]35パーセント、産業用エレクトロニクス・グループが28パーセントとなり、家電の比重が下がって電子部門が近づいた。東芝は1985年度に売上高約3兆円を掲げ[98]、産業用エレクトロニクスを年率21.8パーセントで伸ばして構成比38パーセント[99]とし、事業の主役を交替させる計画を立てた。

  • 証券アナリストジャーナル 1981年19巻12号
    • [96]1980年度 売上高1兆5476億円 5年前の1.7倍・10年前の2.6倍
    • [97]1980年度の売上構成 重電37%・家電35%・産業用エレクトロニクス28%
    • [98]1985年度の目標 売上高約3兆円
    • [99]産業用エレクトロニクスの年率21.8%成長と構成比38%への計画
  • 証券アナリストジャーナル 1981年19巻12号
    • [84]1973年11月 第1次オイルショックによる成長の足踏み
    • [85]1975年 売上高8939億円
    • [86]1975年 産業用エレクトロニクスの構成比22%
    • [96]1980年度 売上高1兆5476億円 5年前の1.7倍・10年前の2.6倍
    • [97]1980年度の売上構成 重電37%・家電35%・産業用エレクトロニクス28%
    • [98]1985年度の目標 売上高約3兆円
    • [99]産業用エレクトロニクスの年率21.8%成長と構成比38%への計画
  • 証券アナリストジャーナル 1978年16巻8号
    • [87]1977年度 売上高1兆609億円で初の1兆円超
    • [88]1976年度売上高9643億円 対前年度比10%増 日立7%・三菱14%
    • [89]1977年度 重電売上高が2934億円から3907億円へ約33%増
    • [90]重電が支える一方での通信・電子の電子部品の落ち込み
    • [91]1977年度 カラーブラウン管・半導体の操業度が前年度比約2割低下
    • [92]カラーテレビ国内向け出荷 全メーカー530万台程度 前年度比約40万台減
    • [93]1977年7月からの対米輸出数量規制による約4割減
    • [94]1978年4月 大中型コンピューターの営業を日電東芝情報システムへ移管
    • [95]移管後の売上は青梅工場のハード引渡価格のみ 営業は小型コンピューター部門に限定

商号変更と半導体・パソコンで世界の先頭に立った1980年代

1984年4月、東京芝浦電気は商号を株式会社東芝へ変更した[100]。各社が256キロビットへ移るなかで一挙に1メガビットへ先行投資した東芝はDRAMで世界一となり[101]、川西剛副社長は[102]DRAMエンペラーと呼ばれた。

  • 東芝 有価証券報告書【沿革】
    • [100]1984年4月 東京芝浦電気から株式会社東芝へ商号変更
  • 日経ビジネス 1991年7月1日号
    • [101]256キロビット世代での1メガビット先行投資とDRAM世界一
    • [102]川西剛副社長の異名 DRAMエンペラー

半導体のなかでも、のちの東芝を象徴する発明がフラッシュメモリ[103]であった。東芝の技術者だった舛岡富士雄氏は、電源を切っても記憶が消えない不揮発性メモリの新方式を考案し[104]、1987年、東芝は国際学会でNAND型フラッシュメモリを世界で初めて発表した[105]。1991年には東芝が世界に先駆けて[106]NAND型フラッシュメモリの量産を開始した。小型で大容量、衝撃にも強いこの半導体は、のちにデジタルカメラやスマートフォンの記録媒体[107]として世界に広がった。東芝が生み出したNAND型フラッシュメモリは、その後の半導体事業の[108]中核を長く支えた。

  • ITmedia(2019年12月20日)
    • [103]東芝を象徴する発明 フラッシュメモリ
    • [104]舛岡富士雄による不揮発性メモリの新方式の考案
    • [105]1987年 国際学会でNAND型フラッシュメモリを世界初発表
    • [106]1991年 NAND型フラッシュメモリの世界初量産
    • [107]NAND型フラッシュメモリの用途 デジタルカメラ・スマートフォンの記録媒体
    • [108]NAND型フラッシュメモリ 半導体事業の中核

原子力では1989年12月に日本原子力事業を合併した[109]。東芝は米ゼネラル・エレクトリック社の技術を導入した沸騰水型軽水炉を手がけ[110]、家電・重電・半導体・情報機器・原子力という五つの事業を並べる形になった。

  • 東芝 有価証券報告書【沿革】
    • [109]1989年12月 日本原子力事業を合併
  • 東芝 プレスリリース(2006年2月6日)「ウェスチングハウス社の買収について」
    • [110]東芝の原子炉方式 ゼネラル・エレクトリックの技術による沸騰水型軽水炉
  • 東芝 有価証券報告書【沿革】
    • [100]1984年4月 東京芝浦電気から株式会社東芝へ商号変更
    • [109]1989年12月 日本原子力事業を合併
  • 日経ビジネス 1991年7月1日号
    • [101]256キロビット世代での1メガビット先行投資とDRAM世界一
    • [102]川西剛副社長の異名 DRAMエンペラー
  • ITmedia(2019年12月20日)
    • [103]東芝を象徴する発明 フラッシュメモリ
    • [104]舛岡富士雄による不揮発性メモリの新方式の考案
    • [105]1987年 国際学会でNAND型フラッシュメモリを世界初発表
    • [106]1991年 NAND型フラッシュメモリの世界初量産
    • [107]NAND型フラッシュメモリの用途 デジタルカメラ・スマートフォンの記録媒体
    • [108]NAND型フラッシュメモリ 半導体事業の中核
  • 東芝 プレスリリース(2006年2月6日)「ウェスチングハウス社の買収について」
    • [110]東芝の原子炉方式 ゼネラル・エレクトリックの技術による沸騰水型軽水炉

ココム違反事件と選択と集中への転換

1987年、東芝は子会社の起こした事件で信用を落とした[111]。東芝機械と伊藤忠商事、和光交易がソ連へ輸出した大型NC工作機がココムの規制に触れ[112]、通商産業省は1987年5月15日に行政処分を決めた[113]。東芝機械には5月21日から1年間、ソ連・東欧など共産圏14カ国向けの輸出禁止[114]が科され、同社の飯村和雄社長が辞任、5月27日には幹部2人が外国為替及び外国貿易法違反の容疑で逮捕された[115]

  • 日経ビジネス 1987年6月8日号
    • [111]1987年 子会社が起こした事件による信用の失墜
    • [112]東芝機械・伊藤忠商事・和光交易によるソ連向け大型NC工作機のココム違反
    • [113]1987年5月15日 通商産業省による行政処分の決定
    • [114]5月21日から1年間の共産圏14カ国向け輸出禁止
    • [115]東芝機械 飯村和雄社長の辞任と5月27日の幹部2人の外為法違反容疑での逮捕

渡里杉一郎氏は社長在任について『期間の長短ではなく社長として何をしなければならないのかを考えた』と語っている。後任の社長には技術畑の青井舒一氏が就任した[116]。1991年、これまで収益源だった半導体と[117]パソコンの不振が東芝を直撃し、経営の立て直しが迫られた。欧米のパソコンは日本から部品を供給して現地で組み立てる方式をとっていたが、販売前線の情報が日本へ届かず、現地では危険水域を超える在庫[118]を抱えた。東芝はヒト・モノ・カネを集中して投じる[119]選択経営を掲げ、液晶など新規事業の早期の立ち上げに資源を配分した。

  • 日経ビジネス 1987年7月号(No.471)
    • [116]後任社長 技術畑の青井舒一
  • 日経ビジネス 1991年12月16日号
    • [117]1991年 半導体・パソコンの不振と経営の立て直し
    • [118]欧米向けパソコンの現地組立方式と在庫の積み上がり
    • [119]選択経営 ヒト・モノ・カネの集中投入と液晶など新規事業の早期立ち上げ

1996年に社長へ就任した西室泰三氏は、社内カンパニー制を敷いて[120]事業ごとの採算を明らかにした。2000年6月に社長を承継した岡村正氏は、資本コストを意識した経営指標[121]を入れ、稼げる事業と稼げない事業を選別する方針を示した。2001年のITバブル崩壊で半導体市況が急落すると、東芝は同年12月に汎用DRAM事業からの撤退を発表し[122]、米ドミニオン・セミコンダクターを[123]マイクロンへ売却した。2002年10月に電力系統・変電事業を、2003年3月にブラウン管[124]事業を会社分割で切り出し、2003年6月には委員会等設置会社へ移行した[125]。2005年6月、岡村正氏(社長)の提案を受けて西田厚聰氏が[126]社長に選任された。

  • 東芝 アニュアルレポート2001(1999年度版)
    • [120]1996年 西室泰三の社長就任と社内カンパニー制の導入
  • 東芝 アニュアルレポート2002(2000年度版)
    • [121]2000年6月 岡村正の社長就任と資本コストを意識した経営指標の導入
  • 東芝 プレスリリース(2001年12月18日)「汎用DRAM事業からの撤退について」
    • [122]2001年12月 汎用DRAM事業からの撤退の発表
  • 東芝 アニュアルレポート2003(2001年度版)
    • [123]米ドミニオン・セミコンダクターのマイクロンへの売却
  • 東芝 有価証券報告書【沿革】
    • [124]2002年10月 電力系統・変電事業と2003年3月のブラウン管事業の会社分割
    • [125]2003年6月 委員会等設置会社へ移行
  • 東芝 アニュアルレポート2006(2005年度版)
    • [126]岡村正社長の提案を受けた西田厚聰の社長選任
  • 日経ビジネス 1987年6月8日号
    • [111]1987年 子会社が起こした事件による信用の失墜
    • [112]東芝機械・伊藤忠商事・和光交易によるソ連向け大型NC工作機のココム違反
    • [113]1987年5月15日 通商産業省による行政処分の決定
    • [114]5月21日から1年間の共産圏14カ国向け輸出禁止
    • [115]東芝機械 飯村和雄社長の辞任と5月27日の幹部2人の外為法違反容疑での逮捕
  • 日経ビジネス 1987年7月号(No.471)
    • [116]後任社長 技術畑の青井舒一
  • 日経ビジネス 1991年12月16日号
    • [117]1991年 半導体・パソコンの不振と経営の立て直し
    • [118]欧米向けパソコンの現地組立方式と在庫の積み上がり
    • [119]選択経営 ヒト・モノ・カネの集中投入と液晶など新規事業の早期立ち上げ
  • 東芝 アニュアルレポート2001(1999年度版)
    • [120]1996年 西室泰三の社長就任と社内カンパニー制の導入
  • 東芝 アニュアルレポート2002(2000年度版)
    • [121]2000年6月 岡村正の社長就任と資本コストを意識した経営指標の導入
  • 東芝 プレスリリース(2001年12月18日)「汎用DRAM事業からの撤退について」
    • [122]2001年12月 汎用DRAM事業からの撤退の発表
  • 東芝 アニュアルレポート2003(2001年度版)
    • [123]米ドミニオン・セミコンダクターのマイクロンへの売却
  • 東芝 有価証券報告書【沿革】
    • [124]2002年10月 電力系統・変電事業と2003年3月のブラウン管事業の会社分割
    • [125]2003年6月 委員会等設置会社へ移行
  • 東芝 アニュアルレポート2006(2005年度版)
    • [126]岡村正社長の提案を受けた西田厚聰の社長選任

2010年ビジョンが招いた原子力とメモリへの集中、そして解体

ウェスチングハウス買収と過去最高益、HD DVDからの撤退

2005年6月に社長へ就任した西田厚聰氏は2010年ビジョンを掲げ[127]、原子力とNAND型フラッシュメモリを成長の両輪に据えた。売上高を9兆円台へ引き上げる目標[128]のもと、東芝は大型の成長投資へ着手した。2006年2月、東芝は英国核燃料会社が保有する米原子力大手ウェスチングハウスを約54億ドルで取得する契約[129]を結び、同年10月17日に株式取得を完了した[130]。当時の為替で約6600億円にのぼる買収額[131]は1999年の取得額の4倍を超え、三菱重工業や米ゼネラル・エレクトリックなど日米4社の争奪戦[132]を制したものだった。東芝が約77パーセント、米ショー・グループが20パーセント[133]石川島播磨重工業が3パーセントを出資した。

  • 東芝 アニュアルレポート2007(2005年度版)
    • [127]2005年6月 西田厚聰の社長就任と2010年ビジョン 原子力とNAND型フラッシュメモリの両輪
    • [128]2010年ビジョンの目標 売上高9兆円台
  • 東芝 プレスリリース(2006年2月6日)「ウェスチングハウス社の買収について」
    • [129]2006年2月 英国核燃料会社保有のウェスチングハウスを約54億ドルで取得する契約
    • [131]買収額 当時の為替で約6600億円 1999年の取得額の4倍超
    • [132]三菱重工業・米ゼネラル・エレクトリックなど日米4社の争奪戦
  • 東芝 ニュースリリース(2006年10月17日)「ウェスチングハウス社の株式取得完了について」
    • [130]2006年10月17日 ウェスチングハウス株式取得の完了
    • [133]出資比率 東芝約77% 米ショー・グループ20% 石川島播磨重工業3%

加圧水型のウェスチングハウスを傘下に収めた東芝は、沸騰水型と合わせて原子炉の二方式を押さえ[134]、世界一の原子力事業を擁する企業となった。西田厚聰氏(社長)は投資回収に自信を置いていた——『買収資金の回収計画も17年から14年に短縮できる見通しだ』(週刊ダイヤモンド 2008年4月12日号)。半導体の好調に支えられ、東芝は2007年3月期に純利益1374億円を計上し[135]、2008年3月期には売上高7兆6681億円という過去最高[136]の売上を記録した。

  • 東芝 アニュアルレポート2008(2006年度版)
    • [134]加圧水型の取得による原子炉二方式の保有と世界一の原子力事業
  • 東芝 有価証券報告書(2007年3月期)
    • [135]2007年3月期 純利益1374億円
  • 東芝 有価証券報告書(2008年3月期・連結・米国会計基準)
    • [136]2008年3月期 売上高7兆6681億円で過去最高

同じ時期、東芝は自ら主導した次世代DVD規格[137]からも退いた。2008年2月19日、西田厚聰氏(社長)は記者会見でHD DVD事業の終息を宣言し[138]、3月末までに出荷を止めて撤退した。HD DVD事業は2008年3月期に営業損失602億円と事業終息費用483億円[139]を計上した。同年秋のリーマンショックで半導体とパソコンの需要が急減し、東芝は2009年3月期に3436億円の最終赤字[140]へ転落した。

  • AV Watch(2008年2月19日)
    • [137]自ら主導した次世代DVD規格からの撤退
    • [138]2008年2月19日 西田厚聰社長によるHD DVD事業終息の宣言と3月末での撤退
  • 東芝 有価証券報告書(2008年3月期・連結・米国会計基準)
    • [139]2008年3月期 HD DVD事業の営業損失602億円と事業終息費用483億円
  • 東芝 有価証券報告書(2009年3月期)
    • [140]2009年3月期 最終赤字3436億円
  • 東芝 アニュアルレポート2007(2005年度版)
    • [127]2005年6月 西田厚聰の社長就任と2010年ビジョン 原子力とNAND型フラッシュメモリの両輪
    • [128]2010年ビジョンの目標 売上高9兆円台
  • 東芝 プレスリリース(2006年2月6日)「ウェスチングハウス社の買収について」
    • [129]2006年2月 英国核燃料会社保有のウェスチングハウスを約54億ドルで取得する契約
    • [131]買収額 当時の為替で約6600億円 1999年の取得額の4倍超
    • [132]三菱重工業・米ゼネラル・エレクトリックなど日米4社の争奪戦
  • 東芝 ニュースリリース(2006年10月17日)「ウェスチングハウス社の株式取得完了について」
    • [130]2006年10月17日 ウェスチングハウス株式取得の完了
    • [133]出資比率 東芝約77% 米ショー・グループ20% 石川島播磨重工業3%
  • 東芝 アニュアルレポート2008(2006年度版)
    • [134]加圧水型の取得による原子炉二方式の保有と世界一の原子力事業
  • 東芝 有価証券報告書(2007年3月期)
    • [135]2007年3月期 純利益1374億円
  • 東芝 有価証券報告書(2008年3月期・連結・米国会計基準)
    • [136]2008年3月期 売上高7兆6681億円で過去最高
    • [139]2008年3月期 HD DVD事業の営業損失602億円と事業終息費用483億円
  • AV Watch(2008年2月19日)
    • [137]自ら主導した次世代DVD規格からの撤退
    • [138]2008年2月19日 西田厚聰社長によるHD DVD事業終息の宣言と3月末での撤退
  • 東芝 有価証券報告書(2009年3月期)
    • [140]2009年3月期 最終赤字3436億円

福島第一事故後の集中投資と不正会計による歴代3社長の辞任

財務が痛んだ東芝は2009年6月に3192億円の公募増資[141]へ踏み切り、資本を厚くした。同じ2009年6月、原子力畑を歩んだ佐々木則夫氏が社長に就任し[142]、原発とメモリへの積極投資という西田路線を引き継いだ。佐々木則夫氏(社長)は原子力路線を維持した——『長期的には原発の必要性は変わらない』(日本経済新聞 2011/4/14)。ウェスチングハウスは新設需要を取り込もうと、2015年に原発建設会社ストーン・アンド・ウェブスターを[143]買収した。

  • 東芝 アニュアルレポート2010(2008年度版)
    • [141]2009年6月 3192億円の公募増資
    • [142]2009年6月 佐々木則夫の社長就任と西田路線の継承
  • ITmedia MONOist(2017年3月30日)
    • [143]2015年 ウェスチングハウスによるストーン・アンド・ウェブスターの買収

西田厚聰氏が『固定費を削ったことで売上高がどんどん落ちている』と不満をあらわにすれば、佐々木則夫氏も『利益を出しているので文句を言われる筋合いはない』と応じた。西田厚聰氏はのちに『私が間違っていた』と述べた。

2015年、証券取引等監視委員会の指摘を受けて設けられた第三者委員会は、東芝が2008年度から2014年度にかけて税引前損益で累計約1518億円の修正[144]を要する不適切な会計処理を行っていたと認定した。手口は工事進行基準の案件、映像事業の経費計上、半導体事業の在庫評価、パソコン事業の部品取引[145]の4分野に及び、原因として当期利益至上主義と上司の意向に逆らいにくい企業風土[146]が挙げられた。社長月例で各部門に示された収益目標は"チャレンジ"[147]と呼ばれ、土光敏夫氏が説明の要求と議論の呼びかけを指して用いた[148]同じ語が、現場への圧力を意味する言葉に変わっていた。2015年7月21日、田中久雄氏(社長)が引責辞任し、前社長の佐々木則夫氏、前々社長の西田厚聰[149]も相次いで退いた。

  • 東芝 プレスリリース 2015年7月21日「第三者委員会の調査報告書全文の公表及び当社の今後の対応並びに経営責任の明確化についてのお知らせ」
    • [144]第三者委員会の認定 2008年度から2014年度に税引前損益で累計約1518億円の修正
    • [145]不適切会計の4分野 工事進行基準・映像事業の経費計上・半導体の在庫評価・パソコンの部品取引
    • [146]第三者委員会が挙げた原因 当期利益至上主義と上司の意向に逆らいにくい企業風土
    • [147]社長月例で示された収益目標の呼称 チャレンジ
    • [149]2015年7月21日 田中久雄社長の引責辞任と佐々木則夫・西田厚聰の退任
  • 私の履歴書 経済人20「土光敏夫」(日本経済新聞社、1986年)
    • [148]土光敏夫が用いたチャレンジの語義 説明の要求と議論の呼びかけ
  • 東芝 アニュアルレポート2010(2008年度版)
    • [141]2009年6月 3192億円の公募増資
    • [142]2009年6月 佐々木則夫の社長就任と西田路線の継承
  • ITmedia MONOist(2017年3月30日)
    • [143]2015年 ウェスチングハウスによるストーン・アンド・ウェブスターの買収
  • 東芝 プレスリリース 2015年7月21日「第三者委員会の調査報告書全文の公表及び当社の今後の対応並びに経営責任の明確化についてのお知らせ」
    • [144]第三者委員会の認定 2008年度から2014年度に税引前損益で累計約1518億円の修正
    • [145]不適切会計の4分野 工事進行基準・映像事業の経費計上・半導体の在庫評価・パソコンの部品取引
    • [146]第三者委員会が挙げた原因 当期利益至上主義と上司の意向に逆らいにくい企業風土
    • [147]社長月例で示された収益目標の呼称 チャレンジ
    • [149]2015年7月21日 田中久雄社長の引責辞任と佐々木則夫・西田厚聰の退任
  • 私の履歴書 経済人20「土光敏夫」(日本経済新聞社、1986年)
    • [148]土光敏夫が用いたチャレンジの語義 説明の要求と議論の呼びかけ

ウェスチングハウス破綻、メモリ売却、74年の上場に幕

取締役8名が同日付で辞任する[150]異例の事態となり、会長の室町正志氏が社長を兼務した[151]。東京証券取引所は東芝株を特設注意市場銘柄に指定し[152]、証券取引等監視委員会は2015年12月7日に課徴金73億円という当時として過去最高額[153]の納付を勧告した。金融庁は同月25日に課徴金納付命令[154]を決定している。ストーン・アンド・ウェブスターの建設費が想定を超えて膨らみ[155]、東芝は2016年3月期に営業損益4994億円、最終損益4600億円の赤字[156]を計上した。2016年6月には綱川智氏が社長に就任し[157]、内部管理体制の立て直しに取り組んだ。ウェスチングハウスは2017年3月末に米連邦倒産法第11章の適用を申請して経営破綻し[158]、債務を保証していた東芝は原子力関連で1兆円を超える損失[159]を被った。

  • 東芝 プレスリリース 2015年7月21日「第三者委員会の調査報告書全文の公表及び当社の今後の対応並びに経営責任の明確化についてのお知らせ」
    • [150]取締役8名の同日付辞任
    • [151]室町正志会長の社長兼務
  • 東芝 アニュアルレポート2016(2015年度版)
    • [152]東京証券取引所による特設注意市場銘柄への指定
  • Bloomberg(2015年12月7日)
    • [153]2015年12月7日 証券取引等監視委員会による課徴金73億円の勧告 当時の過去最高額
  • 金融庁(2015年12月25日)「株式会社東芝に係る有価証券報告書等の虚偽記載に対する課徴金納付命令の決定について」
    • [154]2015年12月25日 金融庁による課徴金納付命令の決定
  • ITmedia MONOist(2017年3月30日)
    • [155]ストーン・アンド・ウェブスターの建設費の膨張
    • [158]2017年3月末 ウェスチングハウスの米連邦倒産法第11章の適用申請
  • 東芝 有価証券報告書(2016年3月期)
    • [156]2016年3月期 営業損益4994億円の赤字 最終損益4600億円の赤字
  • 東芝 アニュアルレポート2017(2016年度版)
    • [157]2016年6月 綱川智の社長就任と内部管理体制の立て直し
  • 東芝 有価証券報告書(2017年3月期)
    • [159]東芝の原子力関連損失 1兆円超

2017年3月期の最終赤字は9657億円[160]に達し、東芝は同月末に債務超過へ転落して、2期連続なら上場廃止という規定[161]に直面した。東芝は2018年3月末に債務超過を解消した[162]。さらに東芝は2018年6月1日、半導体メモリ事業を分社した東芝メモリの全株式を、米ベインキャピタルを軸とする日米韓連合の受け皿会社へ約2兆3億円で譲渡した[163]。自ら発明したNAND型フラッシュメモリの事業を手放した東芝は、3505億円を再出資して議決権ベースで40.2パーセント[164]を残し、東芝メモリは2019年にキオクシアへ社名を変更した[165]

  • 東芝 有価証券報告書(2017年3月期)
    • [160]2017年3月期 最終赤字9657億円と債務超過への転落
  • 東芝 アニュアルレポート2017(2016年度版)
    • [161]2期連続の債務超過による上場廃止規定への直面
    • [162]2018年3月末 債務超過の解消
  • 東芝 適時開示(2018年6月1日)「東芝メモリ株式会社の株式譲渡完了及び特定子会社の異動に関するお知らせ」
    • [163]2018年6月1日 東芝メモリ全株式をベインキャピタル軸の日米韓連合へ約2兆3億円で譲渡
  • EE Times Japan(2017年9月28日)
    • [164]譲渡後の再出資3505億円と議決権ベース40.2%の保有
  • キオクシア ニュースリリース(2019年7月18日)「東芝メモリ株式会社を「キオクシア株式会社」に社名変更」
    • [165]2019年 東芝メモリのキオクシアへの社名変更

2022年3月、島田太郎氏が社長CEOに就任した[166]。東芝は2023年に日本産業パートナーズを中心とする国内連合の買収を受け入れ[167]、1株4620円・総額約2兆円の公開買付けは応募割合78.65パーセントで成立した[168]

  • 東芝 統合報告書2023(2022年度版)
    • [166]2022年3月 島田太郎の社長CEO就任
  • Bloomberg(2023年3月23日)
    • [167]2023年 日本産業パートナーズ中心の国内連合による買収の受け入れ
  • EE Times Japan(2023年9月22日)
    • [168]1株4620円・総額約2兆円の公開買付けが応募割合78.65%で成立
  • 東芝 プレスリリース 2015年7月21日「第三者委員会の調査報告書全文の公表及び当社の今後の対応並びに経営責任の明確化についてのお知らせ」
    • [150]取締役8名の同日付辞任
    • [151]室町正志会長の社長兼務
  • 東芝 アニュアルレポート2016(2015年度版)
    • [152]東京証券取引所による特設注意市場銘柄への指定
  • Bloomberg(2015年12月7日)
    • [153]2015年12月7日 証券取引等監視委員会による課徴金73億円の勧告 当時の過去最高額
  • 金融庁(2015年12月25日)「株式会社東芝に係る有価証券報告書等の虚偽記載に対する課徴金納付命令の決定について」
    • [154]2015年12月25日 金融庁による課徴金納付命令の決定
  • ITmedia MONOist(2017年3月30日)
    • [155]ストーン・アンド・ウェブスターの建設費の膨張
    • [158]2017年3月末 ウェスチングハウスの米連邦倒産法第11章の適用申請
  • 東芝 有価証券報告書(2016年3月期)
    • [156]2016年3月期 営業損益4994億円の赤字 最終損益4600億円の赤字
  • 東芝 アニュアルレポート2017(2016年度版)
    • [157]2016年6月 綱川智の社長就任と内部管理体制の立て直し
    • [161]2期連続の債務超過による上場廃止規定への直面
    • [162]2018年3月末 債務超過の解消
  • 東芝 有価証券報告書(2017年3月期)
    • [159]東芝の原子力関連損失 1兆円超
    • [160]2017年3月期 最終赤字9657億円と債務超過への転落
  • 東芝 適時開示(2018年6月1日)「東芝メモリ株式会社の株式譲渡完了及び特定子会社の異動に関するお知らせ」
    • [163]2018年6月1日 東芝メモリ全株式をベインキャピタル軸の日米韓連合へ約2兆3億円で譲渡
  • EE Times Japan(2017年9月28日)
    • [164]譲渡後の再出資3505億円と議決権ベース40.2%の保有
  • キオクシア ニュースリリース(2019年7月18日)「東芝メモリ株式会社を「キオクシア株式会社」に社名変更」
    • [165]2019年 東芝メモリのキオクシアへの社名変更
  • 東芝 統合報告書2023(2022年度版)
    • [166]2022年3月 島田太郎の社長CEO就任
  • Bloomberg(2023年3月23日)
    • [167]2023年 日本産業パートナーズ中心の国内連合による買収の受け入れ
  • EE Times Japan(2023年9月22日)
    • [168]1株4620円・総額約2兆円の公開買付けが応募割合78.65%で成立

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

歴史年表 1875〜2023年

東芝の沿革1875〜2023年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1875〜1938年電信機の田中製造所と電球の白熱舎、二つに分かれていた源流電信機の工場を創業★★
白熱舎が発足★★
芝浦製作所を設立★★
東京電気がゼネラル・エレクトリックと資本業務提携★★
東京電気が堀川町工場を新設
東京電気がタングステン電球「マツダランプ」を発売★★
東京電気が国産初の真空管を製作
鶴見工場を新設
1939〜1972年合併で生まれた総合電機、財閥解体による縮小、土光敏夫の権限委譲東京電気と合併し東京芝浦電気を設立★★★
芝浦マツダ工業・日本医療電気を吸収合併
東京電気・東洋耐火煉瓦を吸収合併
石坂泰三東京証券取引所に上場
石坂泰三石坂泰三氏が社長に就任★★
石坂泰三企業再建整備計画により第二会社14社を設立★★
岩下文雄岩下文雄氏が社長に就任★★
岩下文雄石川島芝浦タービンを吸収合併★★
土光敏夫土光敏夫氏が社長に就任★★
土光敏夫事業部内閣制に移行★★
土光敏夫売上高が6001億円に到達
玉置敬三玉置敬三氏が社長に就任★★
1973〜2005年選択経営とエレクトロニクスへの主役交替、世界一の半導体とココム事件玉置敬三合成樹脂・絶縁材料事業を東芝ケミカルに譲渡
岩田弍夫売上高が1兆609億円に到達★★
岩田弍夫大中型コンピューターの営業を日電東芝情報システムに移管
佐波正一東芝に商号変更★★
青井舒一NAND型フラッシュメモリを世界で初めて発表★★
青井舒一東芝機械のココム違反で通商産業省が行政処分を決定★★
青井舒一渡里杉一郎氏が社長を引責辞任★★
青井舒一ノートパソコン「ダイナブック」を発売★★
青井舒一日本原子力事業を吸収合併★★
青井舒一NAND型フラッシュメモリの量産を開始★★
佐藤文夫佐藤文夫氏が社長に就任★★
西室泰三西室泰三氏が社長に就任
西室泰三社内カンパニー制を導入★★
岡村正岡村正氏が社長に就任★★
岡村正本社を移転
岡村正汎用DRAM事業からの撤退と、主力メモリの入れ替え

1980年代に1メガビットDRAMで世界の先頭に立った東芝が、2001年12月に汎用DRAM事業からの撤退を決めた。米国の生産拠点ドミニオン・セミコンダクタ社をマイクロン・テクノロジー社へ売却し、主としてDRAMの組み立てを担っていた100%子会社1社の閉鎖もあわせて決めた。 撤退に伴う建物・製造機械設備等の評価損及び廃棄損は5,125百万円、契約破棄損失や固定資産の解体費用を含むその他の損失は31,083百万円。半導体製品向けに保有する製造用機械装置等には55,247百万円の減損を計上した。空いた資源は、みずから発明したNAND型フラッシュメモリとシステムLSIへ寄せた。

詳細を読む
★★★
岡村正電力系統・変電事業をティーエム・ティーアンドディーに会社分割
岡村正ブラウン管事業をエムティ映像ディスプレイに会社分割
岡村正委員会等設置会社に移行★★
西田厚聰経営方針「2010年ビジョン」を策定★★
西田厚聰西田厚聰氏が社長に就任★★
2006〜2023年2010年ビジョンが招いた原子力とメモリへの集中、そして解体西田厚聰約54億ドルを投じた世界一の原子力事業の構築

2006年2月、東芝は英国原子燃料会社(BNFL)が保有する米原子力大手ウェスチングハウスを総額54億米ドルで取得する売買契約を締結し、同年10月16日に買収を完了した。西田厚聰社長が掲げた2010年ビジョンの中核をなす成長投資であった。

詳細を読む
★★★
西田厚聰自ら仕掛けた次世代規格戦争の終息と、敗北の受け入れ

2008年に入ってからの事業環境の大幅な変化を受け、今後の事業戦略を総合的に検討した結果として、HD DVD事業を終息させた。現行のDVDプレーヤー及びレコーダーは従来どおり事業を継続しており、畳んだのは次世代規格に賭けた部分だけである。 2007年度の連結決算に計上した事業終息費用は48,328百万円。内訳は棚卸資産廃却損及び評価損25,112百万円、その他長期性資産減損損失11,614百万円、固定資産減損損失5,094百万円、その他6,508百万円で、費用に係る債務の大部分は同じ年度のうちに支払われた。

詳細を読む
★★★
西田厚聰売上高7兆6681億円で過去最高を更新★★
西田厚聰最終赤字3436億円を計上★★
佐々木則夫公募増資により3192億円を調達
佐々木則夫佐々木則夫氏が社長に就任★★
田中久雄田中久雄氏が社長に就任★★
室町正志ウェスチングハウスがストーン・アンド・ウェブスターを子会社化★★
室町正志不正会計(不適切会計)の発覚と歴代3社長の引責辞任

2015年、証券取引等監視委員会の指摘を端緒に設けられた第三者委員会が、東芝で2008年度から2014年度にかけて税引前損益で累計約1,518億円の修正を要する不適切な会計処理があったと認定した。同年7月21日、田中久雄社長ら取締役8名が辞任し、佐々木則夫前社長・西田厚聰前々社長を含む歴代3社長が経営の座を退任した。長く優良企業とされた東芝の信頼が損なわれ、その後の事業解体へと連なる歳月の入口にあった。

詳細を読む
★★★
室町正志証券取引等監視委員会が課徴金73億円の納付を勧告★★
室町正志最終赤字4600億円を計上★★
綱川智ウェスチングハウスが米連邦倒産法第11章の適用を申請★★
綱川智債務超過に転落★★
綱川智第三者割当増資により6000億円を調達★★
綱川智車谷暢昭氏が会長CEOに就任
綱川智生え抜きによる社長継承の打ち切りと、10年で5人が替わった経営トップ人事

2018年4月1日、三井住友銀行副頭取とシーヴィーシー・アジア・パシフィック・ジャパン会長を経た車谷暢昭氏が代表執行役会長CEOに就任した。それまで社長を務めていた綱川智氏は代表執行役社長COOへ移り、最高経営責任者と社長が別の人物に割れた。 2013年6月の田中久雄氏から2022年3月の島田太郎氏まで、社長または最高経営責任者の座に就いたのは5人。田中久雄氏は2年1か月、室町正志氏は11か月、綱川智氏は1期目が1年10か月、車谷暢昭氏は社長CEOとして1年で、いずれも3年に満たない。

詳細を読む
稼ぎ頭であった半導体メモリ事業の切り出しと売却

2018年6月1日、東芝が半導体メモリ事業を分社した東芝メモリ株式会社の全株式を、ベインキャピタルを軸とする企業コンソーシアムが組成した買収目的会社Pangeaへ譲渡価格2兆3億円で譲渡し、売却を完了した経営判断。ウェスチングハウスの破綻で債務超過に陥り上場廃止の瀬戸際に立った東芝が、綱川智社長のもとで、グループの利益の大半を稼ぐ半導体メモリ事業を手放して資本を立て直した。

詳細を読む
★★★
車谷暢昭エフィッシモの株主提案による独立調査と、経営陣への信任の否定

2020年12月17日、Effissimo Capital Management Pte LtdとECM Master Fundが、会社法第297条第1項に基づいて臨時株主総会の招集を請求した。目的は、2020年7月31日の第181期定時株主総会が公正に運営されたか否かを調べる調査者の選任である。 2021年3月18日の臨時株主総会で、弁護士3名を会社法第316条第2項の調査者に選ぶ議案は賛成57.90%で可決された。取締役会は反対の意見を表明し、株主に反対の議決権行使を推奨していた。同じ総会に上程されたもう1つの株主提案、資本政策案の総会承認を義務づける定款変更は39.33%で否決されている。

詳細を読む
★★★
綱川智外資ファンドによる非公開化提案の受け止めと、その頓挫

2021年4月6日、英投資ファンドのCVCから買収・非公開化に関する初期的かつ法的拘束力のない提案書を受領した。会社の要請によるものではなく、翌7日朝の報道で存在が表沙汰になり、東芝は同日、詳細情報を求めて慎重に検討すると公表した。だが14日に車谷暢昭社長CEOが辞任し、19日にCVCから届いた新たな書面には具体的な詳細情報がなく、非公開化が経営陣と取締役会の戦略的目的に合致するかについてのガイダンスを待つため暫時検討を中断する、とだけ記されていた。受領から13日で、買付価格も買付比率も示されないまま提案は失効した。

詳細を読む
★★★
綱川智車谷暢昭氏が社長を辞任
綱川智綱川智氏が代表執行役社長CEOに就任★★
綱川智3分割による再編計画を発表★★
島田太郎2分割で自力再建を図る構想の提示と、支持を得られぬまま迎えた2022年の破談

2021年11月12日、中核事業であるエネルギー・インフラ事業とデバイス・ストレージ事業をそれぞれ新規上場会社としてスピンオフし、東芝本体を含め3つの独立した上場会社となる計画を公表した。大規模なスピンオフは本邦初であり、公表後に関係各所の参画を得て詳細を確認した結果、当初想定していなかった考慮すべき点が判明したため、2022年2月7日にデバイス・ストレージ事業のみを分離する2分割案へ改めた。 2022年3月24日の臨時株主総会に諮った会社提案の第1号議案は賛成39.53%・反対59.69%で否決。非公開化やマイノリティ出資の積極的な検討を求めた株主提案の第3号議案も、賛成44.60%・反対54.84%で否決された。

詳細を読む
★★★
島田太郎島田太郎氏が社長CEOに就任
島田太郎日本産業パートナーズ連合による公開買付けが成立★★
島田太郎国内連合による約2兆円の提案受け入れと、株式の非公開化

2023年、東芝が日本産業パートナーズ(JIP)を中心とする国内連合による約2兆円の買収を受け入れ、TBJH合同会社による株式公開買付けの成立を経て、同年12月20日に東京証券取引所プライム市場などでの上場を終えた経営判断。島田太郎社長と取締役会が主導した。

詳細を読む
★★★
出典・参考 39件
出典・参考
  • 東芝 アニュアルレポート2001(1999年度版)
  • 東芝 プレスリリース(2001年12月18日)「汎用DRAM事業からの撤退について」
  • 東芝 アニュアルレポート2002(2000年度版)
  • 東芝 アニュアルレポート2003(2001年度版)
  • 東芝 プレスリリース(2006年2月6日)「ウェスチングハウス社の買収について」
  • 東芝 アニュアルレポート2006(2005年度版)
  • 東芝 ニュースリリース(2006年10月17日)「ウェスチングハウス社の株式取得完了について」
  • 東芝 アニュアルレポート2007(2005年度版)
  • 東芝 有価証券報告書(2007年3月期)
  • 東芝 アニュアルレポート2008(2006年度版)
  • 東芝 有価証券報告書(2008年3月期・連結・米国会計基準)
  • 東芝 有価証券報告書(2009年3月期)
  • 東芝 アニュアルレポート2010(2008年度版)
  • 東芝 プレスリリース 2015年7月21日「第三者委員会の調査報告書全文の公表及び当社の今後の対応並びに経営責任の明確化についてのお知らせ」
  • 金融庁(2015年12月25日)「株式会社東芝に係る有価証券報告書等の虚偽記載に対する課徴金納付命令の決定について」
  • 東芝 アニュアルレポート2016(2015年度版)
  • 東芝 有価証券報告書(2016年3月期)
  • 東芝 アニュアルレポート2017(2016年度版)
  • 東芝 有価証券報告書(2017年3月期)
  • キオクシア ニュースリリース(2019年7月18日)「東芝メモリ株式会社を「キオクシア株式会社」に社名変更」
  • 東芝 統合報告書2023(2022年度版)
  • 東芝 有価証券報告書【沿革】
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
  • 証券アナリストジャーナル 1978年16巻8号
  • 証券アナリストジャーナル 1981年19巻12号
  • 日経ビジネス 1987年6月8日号
  • 日経ビジネス 1987年7月号(No.471)
  • 日経ビジネス 1991年7月1日号
  • 日経ビジネス 1991年12月16日号
  • 私の履歴書 経済人20「土光敏夫」(日本経済新聞社、1986年)
  • AV Watch(2008年2月19日)
  • Bloomberg(2015年12月7日)
  • ITmedia MONOist(2017年3月30日)
  • EE Times Japan(2017年9月28日)
  • 東芝 適時開示(2018年6月1日)「東芝メモリ株式会社の株式譲渡完了及び特定子会社の異動に関するお知らせ」
  • ITmedia(2019年12月20日)
  • Bloomberg(2023年3月23日)
  • EE Times Japan(2023年9月22日)
  • 国立公文書館「公文書にみる発明のチカラ」

免責事項およびポリシー