東芝の源流のひとつは、幕末から明治にかけて活動した発明家、田中久重氏の工場[1]にさかのぼる。1875年7月、田中久重氏は東京・新橋に田中製造所を創設し[2]、電信機の製作を始めた。東芝はこの年を創業年とし、工場が田中製造所の名を用いたのは1882年から[3]である。田中久重氏が1881年に世を去ったあと、事業は養子の田中大吉氏が[4]引き継ぎ、工場を東京・芝浦へ移して芝浦製作所と名を改めた。そして1904年6月25日、資本金100万円の株式会社芝浦製作所へ改組[5]した。当初は一般機械類を主力とし、あわせて発電機・電動機・変圧器・電灯器具などの電気機械[6]を製作した。
株式会社となった芝浦製作所は、国内の電力開発の活況に伴い、大型発電機・変圧器・電動機など強電機器の製造へ重点を移した[7]。1922年2月には現在の鶴見工場の所在地に[8]工場を建設し、わが国最大の重電機メーカー[9]として各種の重電機器を製作した。容量や規模で記録を更新する製品を次々に完成させ、輸入品に頼っていた重電の分野を[10]国産で置き換えた。官営工場や電力会社に大型設備を納める[11]ことで、発電から送配電に至る電力インフラの一角を担った。個人の発明工房として始まった事業は、資本と組織を備えた重電メーカーへ姿を変え、のちの東芝の重電・産業機器部門の母体[12]となった。
東芝のもうひとつの源流は、電球の国産化に挑んだ弱電の系譜[13]にある。1890年4月、電気工学者の藤岡市助氏と三吉正一氏らが東京・京橋に白熱舎を創立し[14]、白熱電球の製造を開始した。当時の電球はほぼ輸入品で占められており、白熱舎は舶来電球と競い[15]ながら国産電球の開拓に努めた。1896年1月には資本金5万円の東京白熱電燈球株式会社[16]となり、1899年1月に社名を東京電気と改めた[17]。1907年5月には現在の川崎工場の所在地に[18]堀川町工場を建設し、照明用電球のほかX線管や電気計器、各種真空管[19]へ製品を広げた。
東京電気を率いた藤岡市助氏は、日本のエジソンとも呼ばれた電気事業の先駆者[20]であった。藤岡市助氏は1905年に米国のゼネラル・エレクトリック社と資本・技術の提携を[21]結び、電球の特許と量産の技術を取り込んだ。1911年には長寿命のタングステン電球"マツダランプ"を発売し[22]、安価で丈夫な国産電球として全国に広めた。マツダの名は光の神に由来し、1910年に世界の主要な電球会社が集まって[23]タングステン電球をマツダランプと称すると決めた際、東京電気もこれを製品に付ける[24]ことにした。輸入品に対抗できる品質と価格[25]を手にしたことで、東京電気は日本の照明の近代化を電球の側から支えた。
東京電気は電球にとどまらず、弱電の広い分野へ製品を伸ばした[26]。1917年には最初の国産真空管を製作し[27]、1925年には内面艶消電球の研究を世界に先がけて完成させ[28]、1926年には国産ネオンサインの先鞭[29]をつけた。蛍光灯を日本で初めて製作したのも[30]東京電気で、1936年には世界最初の二重コイル電球の製作に成功した[31]。一方の芝浦製作所は強電機器で国内最大の地位にあり、両社は資本の面でも技術の面でも早くから[32]提携関係にあった。大正から昭和初期にかけての東京電気は、電球・真空管・照明器具・[33]送受信機など各種の弱電機器のメーカーであった。
強電を担う芝浦製作所と、弱電を担う東京電気は、資本と技術の提携を重ねたのち、1939年9月に合併して東京芝浦電気株式会社となった[34]。合併時の資本金は9417万5000円[35]で、発電から重電機器、通信機、家庭電器、電球・真空管までを一社で手がける[36]総合電機メーカーが生まれた。合併後は東芝の略称が広く使われ、強電と弱電の両部門を兼ね備えた一大電機メーカー[37]として国内に並ぶものがなくなった。電気を消費する照明・家電が売れれば電気が不足して発電機の注文が増え、電気が余れば再び照明・家電が売れるという循環[38]が、総合経営の狙いとして社内で語られた。
合併後の東京芝浦電気は、軍需の拡大に応じて事業を広げた[39]。1941年10月に東邦鋼業を、1942年10月に芝浦マツダ工業と日本医療電気を[40]、1943年7月に東京電気と東洋耐火煉瓦[41]をそれぞれ吸収した。合併の結果、事業は強電・弱電機器にとどまらず、製鋼・特殊合金・耐火物といった素材部門から乾電池などの電気化学工業[42]、薬品類にまで及んだ。資本金は1945年4月に6億2200万円へ達し[43]、戦争中の東芝は全国に65を超える工場を持つ最大の[44]電気機器製作会社であった。柳町工場や小向工場では通信機製品の生産を拡充し[45]、家庭電器製品の品目も広げた。
敗戦は膨張した事業構成を一挙に反転させ、戦災による焼失工場や疎開工場の一部を廃した東芝は41工場・2研究所の体制となった[46]。1950年2月、東芝は企業再建整備計画に基づく大規模な再編[47]を迫られた。15工場・1研究所を切り出して東京電気器具を含む第二会社14社を設立し[48]、10工場を売却、1工場を閉鎖したうえで、17工場・1研究所を[49]もって新たに発足した。財閥解体と企業再建整備、持株会社の制限という一連の制約により、会社の規模は約3分の1へ縮小した[50]。再建にも法律の制約が重く[51]、東芝の立ち後れはこのときに始まった。
1949年4月、石坂泰三氏が社長に就任[52]した。労働攻勢の代表的な標的とされて数次の[53]ストライキが起きていた東芝は、石坂泰三氏(社長)のもとで労使の協調を得て、生産設備の増強と新製品の開発[54]によって回復に向かった。重電では、1950年4月に東芝車輛を合併して鉄道車両を、1955年11月に[55]電業社原動機製造所を合併して水車を、1961年11月に石川島芝浦タービンを合併して[56]蒸気タービンを取り込み、発電設備メーカーとしての厚みを増した。1955年2月には資本金が60億円となり[57]、本社・8営業所・15工場・2研究所に従業員2万5000人[58]を擁した。
戦後10年を経た1955年の売上高は339億円[59]だった。1960年には1539億円へ伸び[60]、その内訳は家電製品が54パーセント、重電製品が34パーセント[61]、残る12パーセントに電波機器・通信機器・医療機のほか半導体やコンピューターが含まれていた。1970年の売上高は6001億円に達し[62]、家電グループが48パーセント、重電グループが34パーセント、産業用エレクトロニクス・グループが18パーセント[63]を占めた。15年で売上高は17倍を超え[64]、家電が全社売上の半分を割る一方、電子部門が2割に迫った。会社所得の番付で第1位となった年度も数回あり[65]、総合経営はこの時期に成果を上げた。
1965年5月、東京芝浦電気会長の石坂泰三氏の懇請を受けて、石川島播磨重工業社長だった土光敏夫氏が東芝の社長に就任した[66]。与えられた責務は、減配が続いていた東芝の立て直し[67]である。人事は正式に話がまとまらないうちに新聞へ出たため、土光敏夫氏(社長)にとっては要請から内定まで一週間の余裕[68]しかなかった。当時の東芝は資本金も従業員数も石川島の3倍ほどあり、従業員6万3000人と全国30を超える[69]工場・営業所を抱えていた。
土光敏夫氏(社長)は人材の活用を再建の柱に据え[70]、二つの策を立てた。組織に活力を与えることと、各事業部に権限を全面的に委ねること[71]である。従来の専務会と常務会を[72]廃して常務以上の役員が社長と一体で経営方針を決める経営幹部会を設け、事業部グループ制も廃した[73]。事業部長の上にいた担当役員を機能別の分担役員へ改め、決裁権を事業部長へ移して100パーセントの権限委譲[74]を実施した。この仕組みは1969年に目標管理制度と結びついて事業部内閣制へ発展し[75]、事業部が自ら目標と予算を決める形になった。土光敏夫氏(社長)はこの運営をチャレンジ・レスポンス経営と名付けた[76]。
チャレンジとは挑戦ではなく、参加を促す議論や説明の要求[77]を指す言葉だった。事業部が自ら決めた目標を達成できなかったとき、なぜできなかったかの説明を求め[78]、議論を呼びかけた。就任の翌年からいざなぎ景気が始まり、東芝は1966年下期に2分の増配へ[79]転じ、以後は年に二分ずつ配当を上げて1969年上期に1割二分配当となった[80]。1969年下期の売上高2869億円は過去最高で、当期利益も102億円[81]を計上し、この年の年間売上高は5000億円を超えた。1967年度から始めた長期経営計画は、売上高で計画より2年早く[82]達成された。8期連続の増収増益を確かめた土光敏夫氏(社長)は、1972年8月に[83]社長を退任した。
1973年11月の第1次オイルショック[84]で、東芝の成長は足踏みした。1975年の売上高は8939億円[85]にとどまり、産業用エレクトロニクスの構成比がようやく全社の20パーセントを超えて22パーセントに達した[86]。1977年度の売上高は1兆609億円[87]となり、初めて1兆円の大台を超えた。前年度の9643億円に対する伸びは10パーセントで、同業では日立が7パーセント、三菱が14パーセント[88]だった。この年度は家電と通信・電子の不振を重電が補い、重電の売上高は前年度の2934億円から3907億円へ約33パーセント[89]増えた。
重電が支えた一方で、通信・電子では電子部品が悪化した[90]。カラーブラウン管と半導体の操業度は1977年度に前年度比で約2割低下し[91]、通信・電子グループの不振の主因となった。カラーテレビの国内向け出荷が全メーカーで530万台程度と前年度より約40万台減り[92]、対米輸出も1977年7月からの数量規制で約4割減った[93]。不振の続く分野を抱えたまま、東芝は大中型コンピューターの営業を切り離し、1978年4月に日電東芝情報システムへ移管した[94]。以後の売上は青梅工場で製造するハードの引渡価格のみ[95]に減り、東芝の営業は小型コンピューター部門だけになった。
1980年度の売上高は1兆5476億円[96]で、5年前の1.7倍、10年前の2.6倍に伸びた。売上構成は重電グループが37パーセント、家電グループが[97]35パーセント、産業用エレクトロニクス・グループが28パーセントとなり、家電の比重が下がって電子部門が近づいた。東芝は1985年度に売上高約3兆円を掲げ[98]、産業用エレクトロニクスを年率21.8パーセントで伸ばして構成比38パーセント[99]とし、事業の主役を交替させる計画を立てた。
1984年4月、東京芝浦電気は商号を株式会社東芝へ変更した[100]。各社が256キロビットへ移るなかで一挙に1メガビットへ先行投資した東芝はDRAMで世界一となり[101]、川西剛副社長は[102]DRAMエンペラーと呼ばれた。
半導体のなかでも、のちの東芝を象徴する発明がフラッシュメモリ[103]であった。東芝の技術者だった舛岡富士雄氏は、電源を切っても記憶が消えない不揮発性メモリの新方式を考案し[104]、1987年、東芝は国際学会でNAND型フラッシュメモリを世界で初めて発表した[105]。1991年には東芝が世界に先駆けて[106]NAND型フラッシュメモリの量産を開始した。小型で大容量、衝撃にも強いこの半導体は、のちにデジタルカメラやスマートフォンの記録媒体[107]として世界に広がった。東芝が生み出したNAND型フラッシュメモリは、その後の半導体事業の[108]中核を長く支えた。
原子力では1989年12月に日本原子力事業を合併した[109]。東芝は米ゼネラル・エレクトリック社の技術を導入した沸騰水型軽水炉を手がけ[110]、家電・重電・半導体・情報機器・原子力という五つの事業を並べる形になった。
1987年、東芝は子会社の起こした事件で信用を落とした[111]。東芝機械と伊藤忠商事、和光交易がソ連へ輸出した大型NC工作機がココムの規制に触れ[112]、通商産業省は1987年5月15日に行政処分を決めた[113]。東芝機械には5月21日から1年間、ソ連・東欧など共産圏14カ国向けの輸出禁止[114]が科され、同社の飯村和雄社長が辞任、5月27日には幹部2人が外国為替及び外国貿易法違反の容疑で逮捕された[115]。
渡里杉一郎氏は社長在任について『期間の長短ではなく社長として何をしなければならないのかを考えた』と語っている。後任の社長には技術畑の青井舒一氏が就任した[116]。1991年、これまで収益源だった半導体と[117]パソコンの不振が東芝を直撃し、経営の立て直しが迫られた。欧米のパソコンは日本から部品を供給して現地で組み立てる方式をとっていたが、販売前線の情報が日本へ届かず、現地では危険水域を超える在庫[118]を抱えた。東芝はヒト・モノ・カネを集中して投じる[119]選択経営を掲げ、液晶など新規事業の早期の立ち上げに資源を配分した。
1996年に社長へ就任した西室泰三氏は、社内カンパニー制を敷いて[120]事業ごとの採算を明らかにした。2000年6月に社長を承継した岡村正氏は、資本コストを意識した経営指標[121]を入れ、稼げる事業と稼げない事業を選別する方針を示した。2001年のITバブル崩壊で半導体市況が急落すると、東芝は同年12月に汎用DRAM事業からの撤退を発表し[122]、米ドミニオン・セミコンダクターを[123]マイクロンへ売却した。2002年10月に電力系統・変電事業を、2003年3月にブラウン管[124]事業を会社分割で切り出し、2003年6月には委員会等設置会社へ移行した[125]。2005年6月、岡村正氏(社長)の提案を受けて西田厚聰氏が[126]社長に選任された。
2005年6月に社長へ就任した西田厚聰氏は2010年ビジョンを掲げ[127]、原子力とNAND型フラッシュメモリを成長の両輪に据えた。売上高を9兆円台へ引き上げる目標[128]のもと、東芝は大型の成長投資へ着手した。2006年2月、東芝は英国核燃料会社が保有する米原子力大手ウェスチングハウスを約54億ドルで取得する契約[129]を結び、同年10月17日に株式取得を完了した[130]。当時の為替で約6600億円にのぼる買収額[131]は1999年の取得額の4倍を超え、三菱重工業や米ゼネラル・エレクトリックなど日米4社の争奪戦[132]を制したものだった。東芝が約77パーセント、米ショー・グループが20パーセント[133]、石川島播磨重工業が3パーセントを出資した。
加圧水型のウェスチングハウスを傘下に収めた東芝は、沸騰水型と合わせて原子炉の二方式を押さえ[134]、世界一の原子力事業を擁する企業となった。西田厚聰氏(社長)は投資回収に自信を置いていた——『買収資金の回収計画も17年から14年に短縮できる見通しだ』(週刊ダイヤモンド 2008年4月12日号)。半導体の好調に支えられ、東芝は2007年3月期に純利益1374億円を計上し[135]、2008年3月期には売上高7兆6681億円という過去最高[136]の売上を記録した。
同じ時期、東芝は自ら主導した次世代DVD規格[137]からも退いた。2008年2月19日、西田厚聰氏(社長)は記者会見でHD DVD事業の終息を宣言し[138]、3月末までに出荷を止めて撤退した。HD DVD事業は2008年3月期に営業損失602億円と事業終息費用483億円[139]を計上した。同年秋のリーマンショックで半導体とパソコンの需要が急減し、東芝は2009年3月期に3436億円の最終赤字[140]へ転落した。
財務が痛んだ東芝は2009年6月に3192億円の公募増資[141]へ踏み切り、資本を厚くした。同じ2009年6月、原子力畑を歩んだ佐々木則夫氏が社長に就任し[142]、原発とメモリへの積極投資という西田路線を引き継いだ。佐々木則夫氏(社長)は原子力路線を維持した——『長期的には原発の必要性は変わらない』(日本経済新聞 2011/4/14)。ウェスチングハウスは新設需要を取り込もうと、2015年に原発建設会社ストーン・アンド・ウェブスターを[143]買収した。
西田厚聰氏が『固定費を削ったことで売上高がどんどん落ちている』と不満をあらわにすれば、佐々木則夫氏も『利益を出しているので文句を言われる筋合いはない』と応じた。西田厚聰氏はのちに『私が間違っていた』と述べた。
2015年、証券取引等監視委員会の指摘を受けて設けられた第三者委員会は、東芝が2008年度から2014年度にかけて税引前損益で累計約1518億円の修正[144]を要する不適切な会計処理を行っていたと認定した。手口は工事進行基準の案件、映像事業の経費計上、半導体事業の在庫評価、パソコン事業の部品取引[145]の4分野に及び、原因として当期利益至上主義と上司の意向に逆らいにくい企業風土[146]が挙げられた。社長月例で各部門に示された収益目標は"チャレンジ"[147]と呼ばれ、土光敏夫氏が説明の要求と議論の呼びかけを指して用いた[148]同じ語が、現場への圧力を意味する言葉に変わっていた。2015年7月21日、田中久雄氏(社長)が引責辞任し、前社長の佐々木則夫氏、前々社長の西田厚聰氏[149]も相次いで退いた。
取締役8名が同日付で辞任する[150]異例の事態となり、会長の室町正志氏が社長を兼務した[151]。東京証券取引所は東芝株を特設注意市場銘柄に指定し[152]、証券取引等監視委員会は2015年12月7日に課徴金73億円という当時として過去最高額[153]の納付を勧告した。金融庁は同月25日に課徴金納付命令[154]を決定している。ストーン・アンド・ウェブスターの建設費が想定を超えて膨らみ[155]、東芝は2016年3月期に営業損益4994億円、最終損益4600億円の赤字[156]を計上した。2016年6月には綱川智氏が社長に就任し[157]、内部管理体制の立て直しに取り組んだ。ウェスチングハウスは2017年3月末に米連邦倒産法第11章の適用を申請して経営破綻し[158]、債務を保証していた東芝は原子力関連で1兆円を超える損失[159]を被った。
2017年3月期の最終赤字は9657億円[160]に達し、東芝は同月末に債務超過へ転落して、2期連続なら上場廃止という規定[161]に直面した。東芝は2018年3月末に債務超過を解消した[162]。さらに東芝は2018年6月1日、半導体メモリ事業を分社した東芝メモリの全株式を、米ベインキャピタルを軸とする日米韓連合の受け皿会社へ約2兆3億円で譲渡した[163]。自ら発明したNAND型フラッシュメモリの事業を手放した東芝は、3505億円を再出資して議決権ベースで40.2パーセント[164]を残し、東芝メモリは2019年にキオクシアへ社名を変更した[165]。
2022年3月、島田太郎氏が社長CEOに就任した[166]。東芝は2023年に日本産業パートナーズを中心とする国内連合の買収を受け入れ[167]、1株4620円・総額約2兆円の公開買付けは応募割合78.65パーセントで成立した[168]。
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|---|---|---|---|---|
| 1875〜1938年電信機の田中製造所と電球の白熱舎、二つに分かれていた源流 | 電信機の工場を創業 | ★★ | ||
| 白熱舎が発足 | ★★ | |||
| 芝浦製作所を設立 | ★★ | |||
| 東京電気がゼネラル・エレクトリックと資本業務提携 | ★★ | |||
| 東京電気が堀川町工場を新設 | ★ | |||
| 東京電気がタングステン電球「マツダランプ」を発売 | ★★ | |||
| 東京電気が国産初の真空管を製作 | ★ | |||
| 鶴見工場を新設 | ★ | |||
| 1939〜1972年合併で生まれた総合電機、財閥解体による縮小、土光敏夫の権限委譲 | 東京電気と合併し東京芝浦電気を設立 | ★★★ | ||
| 芝浦マツダ工業・日本医療電気を吸収合併 | ★ | |||
| 東京電気・東洋耐火煉瓦を吸収合併 | ★ | |||
| 石坂泰三 | 東京証券取引所に上場 | ★ | ||
| 石坂泰三 | 石坂泰三氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 石坂泰三 | 企業再建整備計画により第二会社14社を設立 | ★★ | ||
| 岩下文雄 | 岩下文雄氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 岩下文雄 | 石川島芝浦タービンを吸収合併 | ★★ | ||
| 土光敏夫 | 土光敏夫氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 土光敏夫 | 事業部内閣制に移行 | ★★ | ||
| 土光敏夫 | 売上高が6001億円に到達 | ★ | ||
| 玉置敬三 | 玉置敬三氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 1973〜2005年選択経営とエレクトロニクスへの主役交替、世界一の半導体とココム事件 | 玉置敬三 | 合成樹脂・絶縁材料事業を東芝ケミカルに譲渡 | ★ | |
| 岩田弍夫 | 売上高が1兆609億円に到達 | ★★ | ||
| 岩田弍夫 | 大中型コンピューターの営業を日電東芝情報システムに移管 | ★ | ||
| 佐波正一 | 東芝に商号変更 | ★★ | ||
| 青井舒一 | NAND型フラッシュメモリを世界で初めて発表 | ★★ | ||
| 青井舒一 | 東芝機械のココム違反で通商産業省が行政処分を決定 | ★★ | ||
| 青井舒一 | 渡里杉一郎氏が社長を引責辞任 | ★★ | ||
| 青井舒一 | ノートパソコン「ダイナブック」を発売 | ★★ | ||
| 青井舒一 | 日本原子力事業を吸収合併 | ★★ | ||
| 青井舒一 | NAND型フラッシュメモリの量産を開始 | ★★ | ||
| 佐藤文夫 | 佐藤文夫氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 西室泰三 | 西室泰三氏が社長に就任 | ★ | ||
| 西室泰三 | 社内カンパニー制を導入 | ★★ | ||
| 岡村正 | 岡村正氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 岡村正 | 本社を移転 | ★ | ||
| 岡村正 | 汎用DRAM事業からの撤退と、主力メモリの入れ替え 1980年代に1メガビットDRAMで世界の先頭に立った東芝が、2001年12月に汎用DRAM事業からの撤退を決めた。米国の生産拠点ドミニオン・セミコンダクタ社をマイクロン・テクノロジー社へ売却し、主としてDRAMの組み立てを担っていた100%子会社1社の閉鎖もあわせて決めた。 撤退に伴う建物・製造機械設備等の評価損及び廃棄損は5,125百万円、契約破棄損失や固定資産の解体費用を含むその他の損失は31,083百万円。半導体製品向けに保有する製造用機械装置等には55,247百万円の減損を計上した。空いた資源は、みずから発明したNAND型フラッシュメモリとシステムLSIへ寄せた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 岡村正 | 電力系統・変電事業をティーエム・ティーアンドディーに会社分割 | ★ | ||
| 岡村正 | ブラウン管事業をエムティ映像ディスプレイに会社分割 | ★ | ||
| 岡村正 | 委員会等設置会社に移行 | ★★ | ||
| 西田厚聰 | 経営方針「2010年ビジョン」を策定 | ★★ | ||
| 西田厚聰 | 西田厚聰氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 2006〜2023年2010年ビジョンが招いた原子力とメモリへの集中、そして解体 | 西田厚聰 | 約54億ドルを投じた世界一の原子力事業の構築 2006年2月、東芝は英国原子燃料会社(BNFL)が保有する米原子力大手ウェスチングハウスを総額54億米ドルで取得する売買契約を締結し、同年10月16日に買収を完了した。西田厚聰社長が掲げた2010年ビジョンの中核をなす成長投資であった。 詳細を読む | ★★★ | |
| 西田厚聰 | 自ら仕掛けた次世代規格戦争の終息と、敗北の受け入れ 2008年に入ってからの事業環境の大幅な変化を受け、今後の事業戦略を総合的に検討した結果として、HD DVD事業を終息させた。現行のDVDプレーヤー及びレコーダーは従来どおり事業を継続しており、畳んだのは次世代規格に賭けた部分だけである。 2007年度の連結決算に計上した事業終息費用は48,328百万円。内訳は棚卸資産廃却損及び評価損25,112百万円、その他長期性資産減損損失11,614百万円、固定資産減損損失5,094百万円、その他6,508百万円で、費用に係る債務の大部分は同じ年度のうちに支払われた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 西田厚聰 | 売上高7兆6681億円で過去最高を更新 | ★★ | ||
| 西田厚聰 | 最終赤字3436億円を計上 | ★★ | ||
| 佐々木則夫 | 公募増資により3192億円を調達 | ★ | ||
| 佐々木則夫 | 佐々木則夫氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 田中久雄 | 田中久雄氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 室町正志 | ウェスチングハウスがストーン・アンド・ウェブスターを子会社化 | ★★ | ||
| 室町正志 | 不正会計(不適切会計)の発覚と歴代3社長の引責辞任 2015年、証券取引等監視委員会の指摘を端緒に設けられた第三者委員会が、東芝で2008年度から2014年度にかけて税引前損益で累計約1,518億円の修正を要する不適切な会計処理があったと認定した。同年7月21日、田中久雄社長ら取締役8名が辞任し、佐々木則夫前社長・西田厚聰前々社長を含む歴代3社長が経営の座を退任した。長く優良企業とされた東芝の信頼が損なわれ、その後の事業解体へと連なる歳月の入口にあった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 室町正志 | 証券取引等監視委員会が課徴金73億円の納付を勧告 | ★★ | ||
| 室町正志 | 最終赤字4600億円を計上 | ★★ | ||
| 綱川智 | ウェスチングハウスが米連邦倒産法第11章の適用を申請 | ★★ | ||
| 綱川智 | 債務超過に転落 | ★★ | ||
| 綱川智 | 第三者割当増資により6000億円を調達 | ★★ | ||
| 綱川智 | 車谷暢昭氏が会長CEOに就任 | ★ | ||
| 綱川智 | 生え抜きによる社長継承の打ち切りと、10年で5人が替わった経営トップ人事 2018年4月1日、三井住友銀行副頭取とシーヴィーシー・アジア・パシフィック・ジャパン会長を経た車谷暢昭氏が代表執行役会長CEOに就任した。それまで社長を務めていた綱川智氏は代表執行役社長COOへ移り、最高経営責任者と社長が別の人物に割れた。 2013年6月の田中久雄氏から2022年3月の島田太郎氏まで、社長または最高経営責任者の座に就いたのは5人。田中久雄氏は2年1か月、室町正志氏は11か月、綱川智氏は1期目が1年10か月、車谷暢昭氏は社長CEOとして1年で、いずれも3年に満たない。 詳細を読む | |||
| 稼ぎ頭であった半導体メモリ事業の切り出しと売却 2018年6月1日、東芝が半導体メモリ事業を分社した東芝メモリ株式会社の全株式を、ベインキャピタルを軸とする企業コンソーシアムが組成した買収目的会社Pangeaへ譲渡価格2兆3億円で譲渡し、売却を完了した経営判断。ウェスチングハウスの破綻で債務超過に陥り上場廃止の瀬戸際に立った東芝が、綱川智社長のもとで、グループの利益の大半を稼ぐ半導体メモリ事業を手放して資本を立て直した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 車谷暢昭 | エフィッシモの株主提案による独立調査と、経営陣への信任の否定 2020年12月17日、Effissimo Capital Management Pte LtdとECM Master Fundが、会社法第297条第1項に基づいて臨時株主総会の招集を請求した。目的は、2020年7月31日の第181期定時株主総会が公正に運営されたか否かを調べる調査者の選任である。 2021年3月18日の臨時株主総会で、弁護士3名を会社法第316条第2項の調査者に選ぶ議案は賛成57.90%で可決された。取締役会は反対の意見を表明し、株主に反対の議決権行使を推奨していた。同じ総会に上程されたもう1つの株主提案、資本政策案の総会承認を義務づける定款変更は39.33%で否決されている。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 綱川智 | 外資ファンドによる非公開化提案の受け止めと、その頓挫 2021年4月6日、英投資ファンドのCVCから買収・非公開化に関する初期的かつ法的拘束力のない提案書を受領した。会社の要請によるものではなく、翌7日朝の報道で存在が表沙汰になり、東芝は同日、詳細情報を求めて慎重に検討すると公表した。だが14日に車谷暢昭社長CEOが辞任し、19日にCVCから届いた新たな書面には具体的な詳細情報がなく、非公開化が経営陣と取締役会の戦略的目的に合致するかについてのガイダンスを待つため暫時検討を中断する、とだけ記されていた。受領から13日で、買付価格も買付比率も示されないまま提案は失効した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 綱川智 | 車谷暢昭氏が社長を辞任 | ★ | ||
| 綱川智 | 綱川智氏が代表執行役社長CEOに就任 | ★★ | ||
| 綱川智 | 3分割による再編計画を発表 | ★★ | ||
| 島田太郎 | 2分割で自力再建を図る構想の提示と、支持を得られぬまま迎えた2022年の破談 2021年11月12日、中核事業であるエネルギー・インフラ事業とデバイス・ストレージ事業をそれぞれ新規上場会社としてスピンオフし、東芝本体を含め3つの独立した上場会社となる計画を公表した。大規模なスピンオフは本邦初であり、公表後に関係各所の参画を得て詳細を確認した結果、当初想定していなかった考慮すべき点が判明したため、2022年2月7日にデバイス・ストレージ事業のみを分離する2分割案へ改めた。 2022年3月24日の臨時株主総会に諮った会社提案の第1号議案は賛成39.53%・反対59.69%で否決。非公開化やマイノリティ出資の積極的な検討を求めた株主提案の第3号議案も、賛成44.60%・反対54.84%で否決された。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 島田太郎 | 島田太郎氏が社長CEOに就任 | ★ | ||
| 島田太郎 | 日本産業パートナーズ連合による公開買付けが成立 | ★★ | ||
| 島田太郎 | 国内連合による約2兆円の提案受け入れと、株式の非公開化 2023年、東芝が日本産業パートナーズ(JIP)を中心とする国内連合による約2兆円の買収を受け入れ、TBJH合同会社による株式公開買付けの成立を経て、同年12月20日に東京証券取引所プライム市場などでの上場を終えた経営判断。島田太郎社長と取締役会が主導した。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(東芝)