明治時代初頭に発明家の田中久重が、当時最先端の技術であった電気に着目して田中製作所を創業した。主に、電信設備を製造する会社として経営され、1983年には拠点のあった東京芝(品川区)の地名を冠した「芝浦製作所」に社名を変更している。芝浦製作所は発電機などのモーターに注力した。

明治時代初頭に発明家の田中久重が、当時最先端の技術であった電気に着目して田中製作所を創業した。主に、電信設備を製造する会社として経営され、1983年には拠点のあった東京芝(品川区)の地名を冠した「芝浦製作所」に社名を変更している。芝浦製作所は発電機などのモーターに注力した。
1980年に藤岡市助が東京京橋にて「白熱舎」を創業し、日本で初めてとなる一般家庭向けの白熱電球の製造を開始した。藤岡はエジソンから「白熱電球が将来有望である」という助言を受けて、電球の国産化を志した。当時は日本全国の家庭に電気が普及しつつある時代であり、白熱舎は電球という画期的な製品を供給することで業容を拡大した。1899年には「東京電気」に社名を変更している。
大正時代に突入すると水力発電が全国各地に新設されたことで、白熱電球の需要が急増した。そこで、東京電気は増加する需要に応えるために、1908年に神奈川県川崎市に電球の量産工場を新設して対応した。この工場はのちの東芝堀川町工場・川崎事業所となり、東芝の主力生産拠点の1つとなった。
1939年に東京に拠点を置く重電機メーカーの芝浦製作所と、同じく東京に拠点を置く電球メーカーの東京電気が合併を決断し、両社の社名を冠した「東芝」が合併により設立された。合併の理由は、第二次世界大戦に際して軍需生産を増強するためであり、戦時体制によって東芝は軍需企業として業容を拡大する。
1945年に終戦を迎えたことで、東芝は軍需という顧客を失い経営危機に陥り、職を失うことを危惧した労働者がストライキを起こすようになった。そこで、1950年に東芝は工場閉鎖を伴うリストラを決断し、43工場のうち15工場を売却、1工場を閉鎖することで再起を図る。
1960年代初頭に東芝は重電機分野における積極投資を敢行するが、1965年に日本経済が不況に陥ると課題な東芝の業績に悪い影響を与えて経営危機に陥った。1965年に経営再建のために石川島播磨重工業出身の土光敏夫が東芝の社長に就任し、徹底した合理化や、海外市場の開拓により東芝の再建をスタートさせる。
1965年から1970年代にかけて、東芝は土光敏夫による経営改革によって業績を復活させた。1972年に土光敏夫は東芝の社長を退任し、東芝を再建した名経営者としての評価を獲得し、1980年代には日本政府の要職を歴任する。以後、東芝の経営陣には「財界活動および政府の要職つくことが良し」とされる風潮が生まれたものと推察される。
1970年代を通じて東芝は発電機などの充電分野と、カラーテレビなどの家電分野ではシェアを確保したものの、半導体などの最先端の分野に弱いことが問題視されていた。そこで、1982年に佐波正一(東芝・社長)は3年間で1400億円を半導体(DRAM)に投資する方針を決め、1M-DRAMで世界トップ企業になる目標を宣言した。以後、東芝は半導体にも投資する総合電機メーカーへと変貌する。
1988年までに東芝は、日本電気や日立製作所などのライバルを押しのけて1M DRAMで世界首位の座を確保した。だが、1990年代を通じて韓国のサムスンがDRAMに巨額投資を実施したことで、東芝のDRMA事業を取り巻く競争環境が悪化したため、DRAMの世界首位は長続きしなかった。
東芝の堀川町工場は、東京電気時代からの電球の主力生産拠点として発展してきた工場で、東芝にとっても特別な工場であった。だが、電球事業の競争力低下や、工場の老朽化に加え、川崎駅前という一等地に工場を稼働し続けることの難しさにより、2000年に東芝は堀川町工場を閉鎖した。
サムスンのDRAM攻勢の前に東芝はDRAMの撤退を決断。以降、東芝はDRAMではなく、NAND(フラッシュメモリ/SSD)への投資を舵を切り、2000年代を通じて四日市の半導体工場に集中投資することで、半導体業界で世界市場を奪還することを目指した。
2000年代を通じて環境団体が「クリーンなエネルギー」を押し出す社会的風潮が生まれ、東芝は原子力発電のグローバル展開を決断。2006年に東芝はウェスチングハウス社から6000億円で原子力発電事業を買収した。だが、2011年の東日本大震災による福島原子力発電所の事故により原子力発電への批判が高まると、東芝の原子力発電事業は巨額損失を抱える問題事業に化けてしまった。
2015年に東芝では本社における不正会計が発覚。米ウエスチングハウスの事業や、テレビ事業において不正な会計処理が露呈し、東芝に対する社会的信用が失われた。
不正会計の発覚に加えて、原子力発電事業の壊滅的な赤字により東芝本社はキャッシュの流出により債務超過に陥った。そこで、東芝は優良事業の切り出しを相次いで決定し、2018年には東芝の収益源だった東芝メディカルをキヤノンに6555億円で売却した。
東芝は2006年に買収したウスチングハウス社の業績向上が望めないもの判断し、企業価値の減少を見込んでのれんを償却する形で7000億円の特別損失を計上した。
医療機器事業の売却だけでは東芝のキャッシュを賄うことができず、優良資産の切り出しを続けた。そして、2018年には東芝の収益源だった半導体事業(NAND)を2兆円でベインキャピタルに売却した。