1964年〜 専売公社を辞めた四人が府中市で始めた洋服屋と郊外立地への転換
- 1964年広島県府中市において紳士既製服の小売を主に、その他食料品、広島県の特産品販売等の事業を行う青山商事株式会社を設立
- 1967年食料品、特産品部門から撤退し、紳士服販売の営業に特化
- 1974年郊外立地の紳士服専門店「洋服の青山」の1号店(西条店)を開店。以後の出店はほとんど郊外型店舗となる
- 1977年本社を広島県府中市府中町554番地から広島県府中市鵜飼町43番地の1に移転
- 1983年全店にPOSレジを設置し、大型コンピューターと直結したPOSシステム(販売時点情報管理システム)を導入
青山商事の業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
日本一の洋服屋を誓った四人と紳士服への一本化
青山商事は1964年5月、広島県府中市で設立された。府中市は福山市から内陸へ20キロほど入った人口約4万7000人の町で、縫製と家具を特産とする工業地帯にあたる。創業したのは日本専売公社で経理を担当していた青山五郎氏と、その弟、妻の弟2人の4人である。青山氏は病気で進学を断念した経緯があり、30歳になったら独立して商売をやろうと考えていた。衣料品を選んだのは、創業メンバーの1人が紳士服関連業界にいたためだった。設立当初は青山氏の自宅1階を洋服屋に充て、紳士服・婦人服・呉服に加えて広島県特産の食料品を東京の百貨店やストアへ卸してもいた。 [1][2][3][4]
- 青山商事 有価証券報告書【沿革】
- [1]1964年5月に広島県府中市で青山商事株式会社を設立し、紳士既製服の小売を主に食料品・広島県特産品販売を行った
- 証券アナリストジャーナル 1987年25巻12号「青山商事」(青山五郎社長 講演要旨・1987年11月30日 大阪)
- [2]府中市は福山市から約20km内陸の人口約4万7000人の都市で、リョービ・北川鉄工に次ぐ3番目の上場会社となった
- [3]青山五郎氏は日本専売公社の経理担当社員で、自身と弟、家内の弟2人の4人で青山商事を創業した
- 日経ビジネス 1993年6月28日号 編集長インタビュー「企業はスピードが最も重要 10年後には売上高1兆円に」
- [4]青山五郎氏は病気で進学できず「30歳になったら、独立して商売をやろう。商売なら東大に行かなくても一流になれる」と考えていた
創業の日、4人はささやかな祝いの席で「日本一の洋服屋」にする道筋を話し合った。青山氏はこのとき弟たちに、経済界に入らない、ゴルフをしない、自家用車に乗らない、という三つの約束をしている。平均的な物の見方しかできない場所に身を置けば同業者と同じ発想しか出てこない、という判断だった。創業時の店は10坪ほどで、1965年3月期の年商は婦人服・呉服を含めて2300万円にとどまる。1967年10月、採算の合わなかった食料品と特産品の部門から撤退し、紳士服販売に一本化した。三つの約束のうち、自家用車に乗らないという項目だけは後に崩れている。 [5][6][7]
- 証券アナリストジャーナル 1987年25巻12号「青山商事」(青山五郎社長 講演要旨・1987年11月30日 大阪)
- [5]創業の日(昭和39年5月6日)に4人で「日本一の洋服屋」にする方法を話し合い、経済界に入らない・ゴルフをしない・自家用車に乗らないの三つの約束をした
- [6]創業時の紳士服の店は10坪程度で、初年度(昭和40年3月決算)の年商は婦人服・呉服等すべてで2300万円だった
- 青山商事 有価証券報告書【沿革】
- [7]1967年10月に食料品・特産品部門から撤退し紳士服販売の営業に特化した
- 青山商事 有価証券報告書【沿革】
- [1]1964年5月に広島県府中市で青山商事株式会社を設立し、紳士既製服の小売を主に食料品・広島県特産品販売を行った
- [7]1967年10月に食料品・特産品部門から撤退し紳士服販売の営業に特化した
- 証券アナリストジャーナル 1987年25巻12号「青山商事」(青山五郎社長 講演要旨・1987年11月30日 大阪)
- [2]府中市は福山市から約20km内陸の人口約4万7000人の都市で、リョービ・北川鉄工に次ぐ3番目の上場会社となった
- [3]青山五郎氏は日本専売公社の経理担当社員で、自身と弟、家内の弟2人の4人で青山商事を創業した
- [5]創業の日(昭和39年5月6日)に4人で「日本一の洋服屋」にする方法を話し合い、経済界に入らない・ゴルフをしない・自家用車に乗らないの三つの約束をした
- [6]創業時の紳士服の店は10坪程度で、初年度(昭和40年3月決算)の年商は婦人服・呉服等すべてで2300万円だった
- 日経ビジネス 1993年6月28日号 編集長インタビュー「企業はスピードが最も重要 10年後には売上高1兆円に」
- [4]青山五郎氏は病気で進学できず「30歳になったら、独立して商売をやろう。商売なら東大に行かなくても一流になれる」と考えていた
地元を離れた青山商事が米国視察から掴んだ郊外立地
紳士服に絞った後の出店先は、量販店が作り始めていたショッピングセンターだった。7店を出したが、1972年ごろから客の買い方が変わる。衝動買いで回転していたショッピングセンターに、目的を持って買いに来る客が増え、売れ行きが鈍った。創業6年目の1970年には、府中市長を務めていた兄・春雄氏の再選挙で地元の名士である北川鉄工所社長と対立し、選挙に敗れて同社の職域販売指定店から外れている。青山商事は府中市外に出て商売をせざるをえなくなり、福山市や尼崎市のショッピングセンターへ出店した。 [8][9]
- 証券アナリストジャーナル 1987年25巻12号「青山商事」(青山五郎社長 講演要旨・1987年11月30日 大阪)
- [8]1967年10月に紳士服一本に絞った後、量販店が作り始めたショッピングセンターに7店舗出店した。1972年頃から衝動買いの買い物形態が変わりショッピングセンターが衰退した
- 日経ビジネス 1994年1月31日号「青山五郎氏 公取委にも譲らぬ負けん気 常識排し価格破壊へ闘志新た」
- [9]創業6年目の1970年、府中市長だった兄・青山春雄氏の2期目の選挙で北川鉄工所社長の北川実夫氏と対立し敗北。北川鉄工所内の職域販売指定店を外され、市外に出て商売をせざるをえなくなった
1972年、青山氏は同業者とともに米国の流通業を視察し、サンフランシスコから100キロほど離れた平原に立つショッピングセンターを見る。周囲に住宅がないのに客が自家用車で集まる光景の理由を確かめるため、もう一度単独で渡米した。帰国後は自社の店で2000人にアンケートを実施している。背広をどこで買うかという問いへの回答は、品揃えの豊富な店が36%、買い物に立地のよい所が26%で、両者を合わせた62%が郊外店を要求する数字と読んだ。多様なサイズと柄を並べるには150坪が必要で、その広さは都心では確保できない。 [10][11]
- 証券アナリストジャーナル 1987年25巻12号「青山商事」(青山五郎社長 講演要旨・1987年11月30日 大阪)
- [10]1972年に業界関係者とアメリカ西海岸のショッピングセンターを視察し、その後単独で再渡米して調査した
- [11]自社の店で2000人にアンケートを実施し、背広を買う店の条件は1位が品揃いの豊富な店36%、2位が買い物に立地のいい所26%で、合計62%を郊外店の必要性を示す数字と判断した。品揃えには最低150坪が必要と考えた
郊外立地の紳士服専門店「洋服の青山」1号店は、1974年4月に広島県東広島市西条の田んぼの中で開いた。物販店として日本で最初の郊外店にあたり、自動車ディーラーの郊外店が1975年、外食産業が1977年、量販店ユニーが1978年と続く。当初は店の前の国道2号線を長距離トラックばかりが走り、自家用車が通らなかったため、場所を知らせる宣伝から始めている。郊外店は宣伝費がかかる反面、買う目的を持った客しか来ないため販売員が少なくて済み、地価も家賃も安く上がった。紳士服業界が郊外へ動き出すのは1983年ごろで、それまでの約9年間、この業態を採ったのは青山商事だけだった。 [12][13][14]
- 青山商事 有価証券報告書【沿革】
- [12]1974年4月に郊外立地の紳士服専門店「洋服の青山」1号店(西条店)を開店し、以後の出店はほとんど郊外型店舗となった
- 日経ビジネス 1994年1月31日号「青山五郎氏 公取委にも譲らぬ負けん気」/同 1993年6月28日号 編集長インタビュー
- [13]郊外1号店は広島県・西条の田んぼの中に1974年4月開店。青山五郎氏の略歴でも「74年4月 広島県東広島市に郊外型ロードサイド店の1号店を出店」と記載
- 証券アナリストジャーナル 1987年25巻12号「青山商事」(青山五郎社長 講演要旨・1987年11月30日 大阪)
- [14]物販店で最初に郊外店舗を出したのが青山商事で、ディーラーは1975年、外食産業は1977年、量販店ユニーは1978年に続いた。紳士服業界の郊外進出は1983年頃からで、それまでは青山商事だけだった
- 証券アナリストジャーナル 1987年25巻12号「青山商事」(青山五郎社長 講演要旨・1987年11月30日 大阪)
- [8]1967年10月に紳士服一本に絞った後、量販店が作り始めたショッピングセンターに7店舗出店した。1972年頃から衝動買いの買い物形態が変わりショッピングセンターが衰退した
- [10]1972年に業界関係者とアメリカ西海岸のショッピングセンターを視察し、その後単独で再渡米して調査した
- [11]自社の店で2000人にアンケートを実施し、背広を買う店の条件は1位が品揃いの豊富な店36%、2位が買い物に立地のいい所26%で、合計62%を郊外店の必要性を示す数字と判断した。品揃えには最低150坪が必要と考えた
- [14]物販店で最初に郊外店舗を出したのが青山商事で、ディーラーは1975年、外食産業は1977年、量販店ユニーは1978年に続いた。紳士服業界の郊外進出は1983年頃からで、それまでは青山商事だけだった
- 日経ビジネス 1994年1月31日号「青山五郎氏 公取委にも譲らぬ負けん気 常識排し価格破壊へ闘志新た」
- [9]創業6年目の1970年、府中市長だった兄・青山春雄氏の2期目の選挙で北川鉄工所社長の北川実夫氏と対立し敗北。北川鉄工所内の職域販売指定店を外され、市外に出て商売をせざるをえなくなった
- 青山商事 有価証券報告書【沿革】
- [12]1974年4月に郊外立地の紳士服専門店「洋服の青山」1号店(西条店)を開店し、以後の出店はほとんど郊外型店舗となった
- 日経ビジネス 1994年1月31日号「青山五郎氏 公取委にも譲らぬ負けん気」/同 1993年6月28日号 編集長インタビュー
- [13]郊外1号店は広島県・西条の田んぼの中に1974年4月開店。青山五郎氏の略歴でも「74年4月 広島県東広島市に郊外型ロードサイド店の1号店を出店」と記載
完全買取仕入が生んだ粗利五割と広告費の好循環
当時の洋服店はメーカーとの委託仕入で、売れ残りは返品するのが慣行だった。青山商事は売れ残りのリスクを自社で負う完全買取仕入を選ぶ。返品分の金利を負担せずに済むメーカーは納入価格を下げられ、青山商事は仕入原価を落とせる。紳士服業界の平均粗利率が36%のところ、青山商事は50%前後を23年間保った。粗利が厚い分を宣伝費に投じると売上が伸び、仕入ロットがまとまってさらに安く仕入れられる。委託で返品された商品をメーカーから仕入れる場合は前年の4割引きで買え、洋服は型がほとんど変わらないため新品との違いは素人には分からなかった。青山五郎社長はこれを好循環と呼び、他社より約10%安く売れる根拠に挙げている。 [15][16]
- 証券アナリストジャーナル 1987年25巻12号「青山商事」(青山五郎社長 講演要旨・1987年11月30日 大阪)
- [15]紳士服業界の平均粗利が36%に対し青山商事は50%程度で、これを23年間保った。完全買取と委託形式の差から上代で約1万円、25%の純利益に該当する差が生じ、結果として他社より約10%安く売れた
- 日経ビジネス 1984年11月26日号「郊外出店ズバリ、紳士服で群抜く成長の青山商事」
- [16]青山五郎社長は「郊外店舗は目的買いの客が多いので店員が少なくて済み粗利益率が上がる。その分で広告・宣伝を集中的に展開でき、宣伝をすれば売り上げが増え、大量仕入れが可能になり仕入れ価格を安くできる。これが粗利益率をさらに高める。この好循環です」と述べた
郊外店は幹線道路沿いに150坪、駐車場40台分という規格で、商圏50万人・年商5億円・経常利益4000万〜5000万円を単位に置いた。広告宣伝費は売上高の17%に達し、郊外立地の同業アオキファッションの6%を大きく上回る。1984年10月に開いた静岡県袋井店は、事前の大量広告で開店初日に来店1800人・売上3000万円を記録した。仕入れはグンゼ産業など国内メーカーへの直接委託によるオリジナルブランドで、1つの柄につき3000着を発注し、出来上がった製品は全量を買い取っている。 [17][18][19]
- 証券アナリストジャーナル 1987年25巻12号「青山商事」(青山五郎社長 講演要旨・1987年11月30日 大阪)
- [17]単位150坪・商圏50万人・年商5億円・経常利益4000〜5000万円という店を出してきた
- 日経ビジネス 1984年11月26日号「郊外出店ズバリ、紳士服で群抜く成長の青山商事」
- [18]広告宣伝費は売上高の17%相当で、同業アオキファッションの6%を大きく上回った。1984年10月27日開店の静岡県袋井店は初日来店客1800人・売上3000万円
- [19]多くはグンゼ産業などのメーカーに直接委託製造させたオリジナルブランドで、1つの柄の注文は3000着ほど、返品はしない
数字の扱いも独特だった。1982年ごろから各店にPOSを入れ、1983年7月には全店のPOSレジを大型コンピューターと直結する。1982年からは電通と組んで商圏住民の意識調査を実施し、開店後に売上が落ちた高知店では県民性まで踏み込んで商品構成と接客を組み替えた。福山店では、買わずに帰った客の理由を縫製・広告・色柄・ブランド・接客のどれかに分類してカードに書かせる売り逃し分析を始めている。1984年3月期の売上高は128億7615万円、経常利益は7億3031万円、店舗数は39店だった。 [20][21][22]
- 青山商事 有価証券報告書【沿革】
- [20]1983年7月に全店にPOSレジを設置し大型コンピューターと直結したPOSシステムを導入
- 日経ビジネス 1984年11月26日号「郊外出店ズバリ、紳士服で群抜く成長の青山商事」
- [21]1982年から電通とタイアップし商圏住民の意識調査(プロジェクト名ブルースカイ)を実施。高知店は初年度売上7億円が数年で5億円に低下し、調査結果から商品構成・接客を関東スタイルへ転換した。福山店では売り逃し分析を実施
- [22]1984年3月期の売上高128億7615万円、経常利益7億3031万円、店舗数39店
- 証券アナリストジャーナル 1987年25巻12号「青山商事」(青山五郎社長 講演要旨・1987年11月30日 大阪)
- [15]紳士服業界の平均粗利が36%に対し青山商事は50%程度で、これを23年間保った。完全買取と委託形式の差から上代で約1万円、25%の純利益に該当する差が生じ、結果として他社より約10%安く売れた
- [17]単位150坪・商圏50万人・年商5億円・経常利益4000〜5000万円という店を出してきた
- 日経ビジネス 1984年11月26日号「郊外出店ズバリ、紳士服で群抜く成長の青山商事」
- [16]青山五郎社長は「郊外店舗は目的買いの客が多いので店員が少なくて済み粗利益率が上がる。その分で広告・宣伝を集中的に展開でき、宣伝をすれば売り上げが増え、大量仕入れが可能になり仕入れ価格を安くできる。これが粗利益率をさらに高める。この好循環です」と述べた
- [18]広告宣伝費は売上高の17%相当で、同業アオキファッションの6%を大きく上回った。1984年10月27日開店の静岡県袋井店は初日来店客1800人・売上3000万円
- [19]多くはグンゼ産業などのメーカーに直接委託製造させたオリジナルブランドで、1つの柄の注文は3000着ほど、返品はしない
- [21]1982年から電通とタイアップし商圏住民の意識調査(プロジェクト名ブルースカイ)を実施。高知店は初年度売上7億円が数年で5億円に低下し、調査結果から商品構成・接客を関東スタイルへ転換した。福山店では売り逃し分析を実施
- [22]1984年3月期の売上高128億7615万円、経常利益7億3031万円、店舗数39店
- 青山商事 有価証券報告書【沿革】
- [20]1983年7月に全店にPOSレジを設置し大型コンピューターと直結したPOSシステムを導入