青山商事 の歴史

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創業 1964年
創業者 青山五郎
創業地 広島県府中市
創業
1964年5月、広島県府中市で青山商事が設立された。始めたのは日本専売公社で経理を担当していた青山五郎氏と、その弟、妻の弟2人の4人で、青山氏の自宅1階を売場に充て、紳士服・婦人服・呉服に加えて広島県特産の食料品を東京の百貨店へ卸してもいた。1965年3月期の年商は2,300万円にとどまる。1967年10月、採算の合わない食料品と特産品から撤退し、紳士服販売へ一本化した。府中市は人口約4万7,000人の町で、地元だけでは商売が続かないことは、この時点ですでに明らかだった。
決断
客が車で来る前提を、日本の物販でいちばん早く置いた。1972年ごろ、量販店のショッピングセンターに出した7店の売れ行きが鈍り、青山五郎氏は米国へ渡って住宅のない平原に立つ商業施設へ客が自家用車で集まる光景を確かめた。帰国後に自社の客2,000人へ尋ねると、背広を買う店を選ぶ理由は品揃えが36%、立地が26%で、多様なサイズと柄を並べる150坪は都心では取れない。1974年4月、東広島市西条の田の中に『洋服の青山』1号店を開設する。物販の郊外店としてはこれが日本で最初で、同業が郊外へ動く1983年ごろまでの9年間、この業態を採ったのは青山商事だけである。安い地価と、買う目的を持った客しか来ないための少ない販売員が、そのまま値段の差を生んだ。
現況
郊外の店を、紳士服以外の商売でも使う会社になった。2021年3月期はテレワークの普及と出張の減少で連結営業損失144億円・当期純損失389億円を出し、青山商事は159店を統廃合し創業以来初の希望退職を募った。2026年3月期には連結売上高1,890億円・営業利益106億円まで戻り、ビジネスウェア事業が売上1,242億円・セグメント利益52億円を占める。残る6事業では、焼肉きんぐなどのフランチャイジー事業が175億円、雑貨のWTWが153億円、靴修理の総合リペアサービスが145億円を売り、売上55億円のカード事業が24億円、不動産事業が11億円のセグメント利益を出す。利益の半分は紳士服の外から来ている。
競合
作る側へ入る発想は同じでも、扱う品目の寿命で道が分かれた。青山商事は1986年ごろから毛織メーカーとアパレルの取引に直接入り、1柄3,000着・年118万着を約30社へ作らせて、紳士服業界の平均粗利率36%に対し50%前後を23年間保った。ほぼ同じ時期に香港経由の直接調達で製造小売の原型を作ったファーストリテイリングも調達を自社へ引き寄せたが、伸びたカジュアルに対し、スーツは1世帯あたりの年間支出が1991年の1.9万円から2017年の5,217円へ4分の1に減る品目だった。青山商事が2015年に靴修理のミスターミニットを買収したのは、同業と店数で競うより、店の運営をそのまま移せる別の品目を選んだからである。
青山商事:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2006年3月期2026年3月期

創業ストーリー 専売公社を辞めた四人が府中市で始めた洋服屋と郊外立地への転換 (1964年〜)

日本一の洋服屋を誓った四人と紳士服への一本化

青山商事は1964年5月、広島県府中市で設立[1]された。府中市は福山市から内陸へ20キロほど入った人口約4万7000人の町で、縫製と家具を特産とする工業地帯にあたる[2]。創業したのは日本専売公社で経理を担当していた青山五郎氏と、その弟、妻の弟2人の4人である[3]。青山氏は病気で進学を断念した経緯があり、30歳になったら独立して商売[4]をやろうと考えていた。衣料品を選んだのは、創業メンバーの1人が紳士服関連業界にいたためだった。設立当初は青山氏の自宅1階を洋服屋に充て、紳士服・婦人服・呉服に加えて広島県特産の食料品を東京の百貨店やストアへ卸してもいた。

  • 青山商事 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1964年5月に広島県府中市で青山商事株式会社を設立し、紳士既製服の小売を主に食料品・広島県特産品販売を行った
  • 証券アナリストジャーナル 1987年25巻12号(青山五郎社長 講演要旨・1987年11月30日 大阪)
    • [2]府中市は福山市から約20km内陸の人口約4万7000人の都市で、リョービ・北川鉄工に次ぐ3番目の上場会社となった
    • [3]青山五郎氏は日本専売公社の経理担当社員で、自身と弟、家内の弟2人の4人で青山商事を創業した
  • 日経ビジネス 1993年6月28日号 編集長インタビュー
    • [4]青山五郎氏は病気で進学できず「30歳になったら、独立して商売をやろう。商売なら東大に行かなくても一流になれる」と考えていた

創業の日、4人はささやかな祝いの席で『日本一の洋服屋』にする道筋を話し合った。青山氏はこのとき弟たちに、経済界に入らない、ゴルフをしない、自家用車に乗らない[5]、という三つの約束をしている。平均的な物の見方しかできない場所に身を置けば同業者と同じ発想しか出てこない、という判断だった。創業時の店は10坪ほどで、1965年3月期の年商は婦人服・呉服を含めて2300万円[6]にとどまる。1967年10月、採算の合わなかった食料品と特産品の部門から撤退し[7]、紳士服販売に一本化した。青山五郎氏はのちの講演で、このとき紳士服以外のすべての部門から撤退したと述べており、婦人服[8]・呉服もあわせて整理されている。三つの約束のうち、自家用車に乗らないという項目だけは後に崩れている。

  • 証券アナリストジャーナル 1987年25巻12号(青山五郎社長 講演要旨・1987年11月30日 大阪)
    • [5]創業の日(昭和39年5月6日)に4人で「日本一の洋服屋」にする方法を話し合い、経済界に入らない・ゴルフをしない・自家用車に乗らないの三つの約束をした
    • [6]創業時の紳士服の店は10坪程度で、初年度(昭和40年3月決算)の年商は婦人服・呉服等すべてで2300万円だった
    • [8]紳士服、婦人服、呉服という総合的な業種として発展したが、昭和42年(1967年)に紳士服以外のすべての部門から撤退した。理由は紳士服以外が採算に合わなかったこと
  • 青山商事 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1967年10月に食料品・特産品部門から撤退し紳士服販売の営業に特化した
  • 青山商事 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1964年5月に広島県府中市で青山商事株式会社を設立し、紳士既製服の小売を主に食料品・広島県特産品販売を行った
    • [7]1967年10月に食料品・特産品部門から撤退し紳士服販売の営業に特化した
  • 証券アナリストジャーナル 1987年25巻12号(青山五郎社長 講演要旨・1987年11月30日 大阪)
    • [2]府中市は福山市から約20km内陸の人口約4万7000人の都市で、リョービ・北川鉄工に次ぐ3番目の上場会社となった
    • [3]青山五郎氏は日本専売公社の経理担当社員で、自身と弟、家内の弟2人の4人で青山商事を創業した
    • [5]創業の日(昭和39年5月6日)に4人で「日本一の洋服屋」にする方法を話し合い、経済界に入らない・ゴルフをしない・自家用車に乗らないの三つの約束をした
    • [6]創業時の紳士服の店は10坪程度で、初年度(昭和40年3月決算)の年商は婦人服・呉服等すべてで2300万円だった
    • [8]紳士服、婦人服、呉服という総合的な業種として発展したが、昭和42年(1967年)に紳士服以外のすべての部門から撤退した。理由は紳士服以外が採算に合わなかったこと
  • 日経ビジネス 1993年6月28日号 編集長インタビュー
    • [4]青山五郎氏は病気で進学できず「30歳になったら、独立して商売をやろう。商売なら東大に行かなくても一流になれる」と考えていた

地元を離れた青山商事が米国視察から掴んだ郊外立地

紳士服に絞った後の出店先は、量販店が作り始めていたショッピングセンターだった。7店を出したが、1972年ごろから客の買い方が変わる[9]。衝動買いで回転していたショッピングセンターに、目的を持って買いに来る客が増え、売れ行きが鈍った。創業6年目の1970年には、府中市長を務めていた兄・春雄氏の再選挙で地元の名士である北川鉄工所社長と対立し、選挙に敗れて同社の職域販売指定店から外れている[10]。青山商事は府中市外に出て商売をせざるをえなくなり、福山市や尼崎市のショッピングセンターへ出店した。

  • 証券アナリストジャーナル 1987年25巻12号(青山五郎社長 講演要旨・1987年11月30日 大阪)
    • [9]1967年10月に紳士服一本に絞った後、量販店が作り始めたショッピングセンターに7店舗出店した。1972年頃から衝動買いの買い物形態が変わりショッピングセンターが衰退した
  • 日経ビジネス 1994年1月31日号
    • [10]創業6年目の1970年、府中市長だった兄・青山春雄氏の2期目の選挙で北川鉄工所社長の北川実夫氏と対立し敗北。北川鉄工所内の職域販売指定店を外され、市外に出て商売をせざるをえなくなった

1972年、青山氏は同業者とともに米国の流通業を視察し[11]、サンフランシスコから100キロほど離れた平原に立つショッピングセンターを見る。周囲に住宅がないのに客が自家用車で集まる光景の理由を確かめるため、もう一度単独で渡米した。帰国後は自社の店で2000人にアンケートを実施している。背広をどこで買うかという問いへの回答は、品揃えの豊富な店が36%、買い物に立地のよい所が26%で[12]、両者を合わせた62%が郊外店を要求する数字と読んだ。多様なサイズと柄を並べるには150坪が必要で、その広さは都心では確保できない。

  • 証券アナリストジャーナル 1987年25巻12号(青山五郎社長 講演要旨・1987年11月30日 大阪)
    • [11]1972年に業界関係者とアメリカ西海岸のショッピングセンターを視察し、その後単独で再渡米して調査した
    • [12]自社の店で2000人にアンケートを実施し、背広を買う店の条件は1位が品揃いの豊富な店36%、2位が買い物に立地のいい所26%で、合計62%を郊外店の必要性を示す数字と判断した。品揃えには最低150坪が必要と考えた

郊外立地の紳士服専門店『洋服の青山』1号店は[13]、1974年4月に広島県東広島市西条の田んぼの中で開いた[14]。物販店として日本で最初の郊外店にあたり、自動車ディーラーの郊外店が1975年、外食産業が1977年、量販店ユニーが1978[15]年と続く。当初は店の前の国道2号線を長距離トラックばかりが走り、自家用車が通らなかったため、場所を知らせる宣伝から始めている。郊外店は宣伝費がかかる反面、買う目的を持った客しか来ないため販売員が少なくて済み、地価も家賃も安く上がった。紳士服業界が郊外へ動き出すのは1983年ごろで、それまでの約9年間、この業態を採ったのは青山商事だけだった。

  • 青山商事 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1974年4月に郊外立地の紳士服専門店「洋服の青山」1号店(西条店)を開店し、以後の出店はほとんど郊外型店舗となった
  • 日経ビジネス 1994年1月31日号 /同 1993年6月28日号 編集長インタビュー
    • [14]郊外1号店は広島県・西条の田んぼの中に1974年4月開店。青山五郎氏の略歴でも「74年4月 広島県東広島市に郊外型ロードサイド店の1号店を出店」と記載
  • 証券アナリストジャーナル 1987年25巻12号(青山五郎社長 講演要旨・1987年11月30日 大阪)
    • [15]物販店で最初に郊外店舗を出したのが青山商事で、ディーラーは1975年、外食産業は1977年、量販店ユニーは1978年に続いた。紳士服業界の郊外進出は1983年頃からで、それまでは青山商事だけだった
  • 証券アナリストジャーナル 1987年25巻12号(青山五郎社長 講演要旨・1987年11月30日 大阪)
    • [9]1967年10月に紳士服一本に絞った後、量販店が作り始めたショッピングセンターに7店舗出店した。1972年頃から衝動買いの買い物形態が変わりショッピングセンターが衰退した
    • [11]1972年に業界関係者とアメリカ西海岸のショッピングセンターを視察し、その後単独で再渡米して調査した
    • [12]自社の店で2000人にアンケートを実施し、背広を買う店の条件は1位が品揃いの豊富な店36%、2位が買い物に立地のいい所26%で、合計62%を郊外店の必要性を示す数字と判断した。品揃えには最低150坪が必要と考えた
    • [15]物販店で最初に郊外店舗を出したのが青山商事で、ディーラーは1975年、外食産業は1977年、量販店ユニーは1978年に続いた。紳士服業界の郊外進出は1983年頃からで、それまでは青山商事だけだった
  • 日経ビジネス 1994年1月31日号
    • [10]創業6年目の1970年、府中市長だった兄・青山春雄氏の2期目の選挙で北川鉄工所社長の北川実夫氏と対立し敗北。北川鉄工所内の職域販売指定店を外され、市外に出て商売をせざるをえなくなった
  • 青山商事 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1974年4月に郊外立地の紳士服専門店「洋服の青山」1号店(西条店)を開店し、以後の出店はほとんど郊外型店舗となった
  • 日経ビジネス 1994年1月31日号 /同 1993年6月28日号 編集長インタビュー
    • [14]郊外1号店は広島県・西条の田んぼの中に1974年4月開店。青山五郎氏の略歴でも「74年4月 広島県東広島市に郊外型ロードサイド店の1号店を出店」と記載

完全買取仕入が生んだ粗利五割と広告費の好循環

当時の洋服店はメーカーとの委託仕入で、売れ残りは返品するのが慣行だった。青山商事は売れ残りのリスクを自社で負う完全買取仕入を選ぶ。返品分の金利を負担せずに済むメーカーは納入価格を下げられ、青山商事は仕入原価を落とせる。紳士服業界の平均粗利率が36%のところ、青山商事は50%前後を23年間保[16]った。粗利が厚い分を宣伝費に投じると売上が伸び、仕入ロットがまとまってさらに安く仕入れられる。委託で返品された商品をメーカーから仕入れる場合は前年の4割引きで買え、洋服は型がほとんど変わらないため新品との違いは素人には分からなかった。青山五郎社長はこれを好循環と呼び[17]、他社より約10%安く売れる根拠に挙げている。

  • 証券アナリストジャーナル 1987年25巻12号(青山五郎社長 講演要旨・1987年11月30日 大阪)
    • [16]紳士服業界の平均粗利が36%に対し青山商事は50%程度で、これを23年間保った。完全買取と委託形式の差から上代で約1万円、25%の純利益に該当する差が生じ、結果として他社より約10%安く売れた
  • 日経ビジネス 1984年11月26日号
    • [17]青山五郎社長は「郊外店舗は目的買いの客が多いので店員が少なくて済み粗利益率が上がる。その分で広告・宣伝を集中的に展開でき、宣伝をすれば売り上げが増え、大量仕入れが可能になり仕入れ価格を安くできる。これが粗利益率をさらに高める。この好循環です」と述べた

郊外店は幹線道路沿いに150坪、駐車場40台分という規格で、商圏50万人・年商5億円・経常利益4000万〜5000万円を単位[18]に置いた。広告宣伝費は売上高の17%に達し、郊外立地の同業アオキファッションの6%を大きく上回る。1984年10月に開いた静岡県袋井店は、事前の大量広告で開店初日に来店1800人・売上3000万円を記録した[19]。仕入れはグンゼ産業など国内メーカーへの直接委託によるオリジナルブランドで、1つの柄につき3000着を発注し[20]、出来上がった製品は全量を買い取っている。

  • 証券アナリストジャーナル 1987年25巻12号(青山五郎社長 講演要旨・1987年11月30日 大阪)
    • [18]単位150坪・商圏50万人・年商5億円・経常利益4000〜5000万円という店を出してきた
  • 日経ビジネス 1984年11月26日号
    • [19]広告宣伝費は売上高の17%相当で、同業アオキファッションの6%を大きく上回った。1984年10月27日開店の静岡県袋井店は初日来店客1800人・売上3000万円
    • [20]多くはグンゼ産業などのメーカーに直接委託製造させたオリジナルブランドで、1つの柄の注文は3000着ほど、返品はしない

数字の扱いも独特だった。1982年ごろから各店にPOSを入れ、1983年7月には全店のPOSレジを大型コンピューターと直結する[21]。1982年からは電通と組んで商圏住民の意識調査を実施し[22]、開店後に売上が落ちた高知店では県民性まで踏み込んで商品構成と接客を組み替えた。福山店では、買わずに帰った客の理由を縫製・広告・色柄・ブランド・接客のどれかに分類してカードに書かせる売り逃し分析を始めている。1984年3月期の売上高は128億7615万円、経常利益[23]は7億3031万円、店舗数は39店だった。

  • 青山商事 有価証券報告書【沿革】
    • [21]1983年7月に全店にPOSレジを設置し大型コンピューターと直結したPOSシステムを導入
  • 日経ビジネス 1984年11月26日号
    • [22]1982年から電通とタイアップし商圏住民の意識調査(プロジェクト名ブルースカイ)を実施。高知店は初年度売上7億円が数年で5億円に低下し、調査結果から商品構成・接客を関東スタイルへ転換した。福山店では売り逃し分析を実施
    • [23]1984年3月期の売上高128億7615万円、経常利益7億3031万円、店舗数39店
  • 証券アナリストジャーナル 1987年25巻12号(青山五郎社長 講演要旨・1987年11月30日 大阪)
    • [16]紳士服業界の平均粗利が36%に対し青山商事は50%程度で、これを23年間保った。完全買取と委託形式の差から上代で約1万円、25%の純利益に該当する差が生じ、結果として他社より約10%安く売れた
    • [18]単位150坪・商圏50万人・年商5億円・経常利益4000〜5000万円という店を出してきた
  • 日経ビジネス 1984年11月26日号
    • [17]青山五郎社長は「郊外店舗は目的買いの客が多いので店員が少なくて済み粗利益率が上がる。その分で広告・宣伝を集中的に展開でき、宣伝をすれば売り上げが増え、大量仕入れが可能になり仕入れ価格を安くできる。これが粗利益率をさらに高める。この好循環です」と述べた
    • [19]広告宣伝費は売上高の17%相当で、同業アオキファッションの6%を大きく上回った。1984年10月27日開店の静岡県袋井店は初日来店客1800人・売上3000万円
    • [20]多くはグンゼ産業などのメーカーに直接委託製造させたオリジナルブランドで、1つの柄の注文は3000着ほど、返品はしない
    • [22]1982年から電通とタイアップし商圏住民の意識調査(プロジェクト名ブルースカイ)を実施。高知店は初年度売上7億円が数年で5億円に低下し、調査結果から商品構成・接客を関東スタイルへ転換した。福山店では売り逃し分析を実施
    • [23]1984年3月期の売上高128億7615万円、経常利益7億3031万円、店舗数39店
  • 青山商事 有価証券報告書【沿革】
    • [21]1983年7月に全店にPOSレジを設置し大型コンピューターと直結したPOSシステムを導入

上場を機に商圏を縮めた点から面への出店転換

1987年11月、青山商事は大阪証券取引所市場第二部[24]と広島証券取引所に株式を上場した。上場を控えた1987年3月期は既存店を前年比6%減とみる控えめな計画を立てたが、実際には6.6%伸び、経費は12.6%安く済んでいる。1987年11月時点の店舗数は118店で、重衣料が売上の81.6%を占めた。全国のスーツ年間販売量800万着のうち40万着を売り、重衣料では首位に立っていた[25]。売上高は当初計画の320億円から340億円へ上方修正している。上場に際しては社内機構を整え、1店当たりの人員を減らす少数精鋭の運営へ改めた。

  • 青山商事 有価証券報告書【沿革】
    • [24]1987年11月に大阪証券取引所市場第二部、広島証券取引所に株式上場
  • 証券アナリストジャーナル 1987年25巻12号(青山五郎社長 講演要旨・1987年11月30日 大阪)
    • [25]1987年11月時点で118店舗、重衣料が全売上高の81.6%・軽衣料17.5%。全国のスーツ年間販売量800万着のうち40万着(約5%)を販売し重衣料では1位。通期売上高予測を320億円から340億円へ上方修正

上場後の出店は加速する。1987年度に29店を開き1988年3月期末で127店に達し、九州では1987年7月末の15店が1988年3月末に31[26]店へ倍増した。同時に商圏の設計を組み替えている。全国の郊外紳士服店が900店近くに増えて、車で30分・人口50万人という従来の商圏では隙間から客を奪われるため、車で15分・人口20万人の商圏に100坪前後の店を多数置く方式に移した[27]。青山五郎社長はこれを、拠点の全国展開[28]から点を面に広げるローラー展開への移行と説明している。1989年10月には東京事務所を開いた。

  • 日経ビジネス 1988年5月23日号
    • [26]1987年度に29店舗をオープンし1988年3月期末で全127店。九州は1987年7月末15店舗から1988年3月末31店舗へ倍増
    • [27]全国で900店近い紳士服郊外店がひしめき、従来の車で30分・人口50万人の商圏では隙間が大きいため、車で15分・20万人商圏に100坪前後の店を多数出す戦略へ移行した
    • [28]青山五郎社長は「これまでは営業の基盤を作るために拠点の全国展開を進めてきた。今後は展開を点から面に広げるローラー展開に移る」と述べた

商圏を縮めた効果は費用に表れた。広告費は売上高の20%から1988年3月期に12[29]%まで下がり、1986年度からは利益重視の運営に移っている。人の面では1987年度からパートタイマーを増やし、30人弱だった人数を1988年3月末に319人、繁忙期には470人まで広げた。売上高は1986年度274億円から1987年度365[30]億円へ、経常利益は16億円から46億円へ伸び、売上高経常利益率は12%を超えている。本社機構は1990年8月に府中市から福山市の新本社ビル[31]へ移り、同年12月に東京証券取引所市場第二部へ上場した。

  • 日経ビジネス 1988年5月23日号
    • [29]商圏縮小の結果、広告費は従来の売上の20%から1988年3月期には12%へ減少。1986年度から利益重視の経営体制へ移行。パートタイマーは30名弱から3月末319名、ピーク時470名へ
    • [30]売上高は1986年度274億円から1987年度365億円(推定)へ、経常利益は16億円から46億円へ増加し、売上高経常利益率は12%を上回った
  • 青山商事 有価証券報告書【沿革】
    • [31]1990年8月に広島県福山市王子町へ本社ビルを新築し本社機構を府中市から福山市へ移転、1990年12月に東京証券取引所市場第二部へ上場
  • 青山商事 有価証券報告書【沿革】
    • [24]1987年11月に大阪証券取引所市場第二部、広島証券取引所に株式上場
    • [31]1990年8月に広島県福山市王子町へ本社ビルを新築し本社機構を府中市から福山市へ移転、1990年12月に東京証券取引所市場第二部へ上場
  • 証券アナリストジャーナル 1987年25巻12号(青山五郎社長 講演要旨・1987年11月30日 大阪)
    • [25]1987年11月時点で118店舗、重衣料が全売上高の81.6%・軽衣料17.5%。全国のスーツ年間販売量800万着のうち40万着(約5%)を販売し重衣料では1位。通期売上高予測を320億円から340億円へ上方修正
  • 日経ビジネス 1988年5月23日号
    • [26]1987年度に29店舗をオープンし1988年3月期末で全127店。九州は1987年7月末15店舗から1988年3月末31店舗へ倍増
    • [27]全国で900店近い紳士服郊外店がひしめき、従来の車で30分・人口50万人の商圏では隙間が大きいため、車で15分・20万人商圏に100坪前後の店を多数出す戦略へ移行した
    • [28]青山五郎社長は「これまでは営業の基盤を作るために拠点の全国展開を進めてきた。今後は展開を点から面に広げるローラー展開に移る」と述べた
    • [29]商圏縮小の結果、広告費は従来の売上の20%から1988年3月期には12%へ減少。1986年度から利益重視の経営体制へ移行。パートタイマーは30名弱から3月末319名、ピーク時470名へ
    • [30]売上高は1986年度274億円から1987年度365億円(推定)へ、経常利益は16億円から46億円へ増加し、売上高経常利益率は12%を上回った

賃料が下がった銀座への出店と公正取引委員会との対決

1992年9月、青山商事は東京・大阪両証券取引所の市場第一部銘柄に指定[32]された。翌10月、東京・銀座2丁目に都心部初の『洋服の青山』銀座店を開く。バブル全盛なら保証金だけで4億3000万円、賃借料は坪当たり月15万円という物件が、賃料の下落で坪6万円まで下がっていた。銀座店は開店1カ月で平均的な郊外店の年商の85%にあたる3億円を売り、平日でも1日1000人[33]、土日は2000人が購入している。青山五郎社長は郊外型紳士服店が全国2000[34]店で飽和に近づいたとみて、都心部への集中出店を打ち出した。

  • 青山商事 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1992年9月に東京証券取引所、大阪証券取引所の市場第一部銘柄に指定
  • 日経ビジネス 1992年12月14日号
    • [33]1992年10月8日に東京・銀座2丁目へ都心部初の洋服の青山銀座店を開店。バブル全盛なら保証金4億3000万円・賃借料坪月15万円のところ、実際は保証金約3億円・坪6万円。開店1カ月で郊外店の年商の85%にあたる3億円を売り上げ、平日1000人・土日2000人が購入
    • [34]青山五郎社長は「郊外型紳士服店は、もう全国で2000店に達し、飽和状態に近くなっている。一方、都心部は専門店の郊外へのシフトもあり供給が足りず、大きな市場ができている」と述べ、東京23区内や大阪市内への集中出店を掲げた

安さの源泉は川上へ遡っていた。最低1万着という発注量を背景に、約30社のアパレルへスーツだけで年118万着を作らせ[35]、1986年ごろからは毛織メーカーからアパレルが生地を仕入れる段階で青山商事が直接価格交渉に入っている。一部の取引先には中国など人件費の安い国での生産を促し、中国製スーツは全体の10%に達した。取引アパレルの粗利益率は百貨店向けの30〜40%に対し12〜15[36]%にとどまる。1992年12月末のチェーンは全店直営で417店、店舗網[37]はこの年に全都道府県へ届き、紳士スーツ市場で11%の首位シェアを占めた。

  • 日経ビジネス 1992年12月14日号
    • [35]発注量は最低1万着で、約30社のアパレルにスーツだけで年約118万着を生産させた。1986年頃から毛織メーカーからの生地仕入れ段階で青山商事が直接価格交渉を行い、中国製スーツは全体の10%に達した
    • [36]取引先アパレルの粗利益率は百貨店向けなら納入価格の30〜40%だが青山商事向けは12〜15%程度
    • [37]1992年12月末時点でチェーンは417店ですべて直営店。店舗網は1992年に業界で唯一全都道府県に広がり、紳士スーツ市場でシェアトップの11%を占めた

1993年、青山五郎社長は既存店750店に米国流通業と組むカジュアル1000店、海外1000店を積み上げ、2003年に売上高1兆円[38]という構想を語っている。その一方で摩擦も増えた。1993年春にはオンワード樫山から取引停止の通告を受けたが、樫山製スーツを百貨店価格の半額[39]と銘打って売り、一方的な取引停止は不当だと押し通す。同年11月、公正取引委員会は不当な二重価格表示があるとして大手紳士服チェーン4社に排除命令を出した。アオキインターナショナル、コナカ、大三が受け入れるなか、青山商事だけが不服を申し立て、受諾は4カ月後の1994年3月まで延びた[40]

  • 日経ビジネス 1993年6月28日号 編集長インタビュー
    • [38]青山五郎社長は既存タイプの店の上限を750店とし、カジュアル1000店(1店2億8000万円で2800億円)、海外1000店程度を加え、2003年に3部門合わせて売上高1兆円にする構想を語った
  • 日経ビジネス 1994年1月31日号
    • [39]1993年春にオンワード樫山から取引停止の通告を受けた後、樫山製スーツを百貨店価格の半額と銘打って販売。樫山側の警告書に対し「一方的な取引停止は不当だ」として強行突破した
    • [40]1993年11月に公正取引委員会が青山商事・アオキインターナショナル・コナカ・大三の4社へ不当な二重価格表示を理由に排除命令。3社は受け入れたが青山商事のみ不服申立てを行い、1994年3月に受託した
  • 青山商事 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1992年9月に東京証券取引所、大阪証券取引所の市場第一部銘柄に指定
  • 日経ビジネス 1992年12月14日号
    • [33]1992年10月8日に東京・銀座2丁目へ都心部初の洋服の青山銀座店を開店。バブル全盛なら保証金4億3000万円・賃借料坪月15万円のところ、実際は保証金約3億円・坪6万円。開店1カ月で郊外店の年商の85%にあたる3億円を売り上げ、平日1000人・土日2000人が購入
    • [34]青山五郎社長は「郊外型紳士服店は、もう全国で2000店に達し、飽和状態に近くなっている。一方、都心部は専門店の郊外へのシフトもあり供給が足りず、大きな市場ができている」と述べ、東京23区内や大阪市内への集中出店を掲げた
    • [35]発注量は最低1万着で、約30社のアパレルにスーツだけで年約118万着を生産させた。1986年頃から毛織メーカーからの生地仕入れ段階で青山商事が直接価格交渉を行い、中国製スーツは全体の10%に達した
    • [36]取引先アパレルの粗利益率は百貨店向けなら納入価格の30〜40%だが青山商事向けは12〜15%程度
    • [37]1992年12月末時点でチェーンは417店ですべて直営店。店舗網は1992年に業界で唯一全都道府県に広がり、紳士スーツ市場でシェアトップの11%を占めた
  • 日経ビジネス 1993年6月28日号 編集長インタビュー
    • [38]青山五郎社長は既存タイプの店の上限を750店とし、カジュアル1000店(1店2億8000万円で2800億円)、海外1000店程度を加え、2003年に3部門合わせて売上高1兆円にする構想を語った
  • 日経ビジネス 1994年1月31日号
    • [39]1993年春にオンワード樫山から取引停止の通告を受けた後、樫山製スーツを百貨店価格の半額と銘打って販売。樫山側の警告書に対し「一方的な取引停止は不当だ」として強行突破した
    • [40]1993年11月に公正取引委員会が青山商事・アオキインターナショナル・コナカ・大三の4社へ不当な二重価格表示を理由に排除命令。3社は受け入れたが青山商事のみ不服申立てを行い、1994年3月に受託した

新店効果が途切れて表面化した急成長の歪み

増殖モデルは新店の利益で次の出店費用を賄う仕組みに支えられていた。1994年春までの新店は開店の土日2日間だけで6000万〜7000万円を売り、1店で年間4億円超の売上と1億円近い経常利益を稼ぐ。標準店の出店費用約1億5000万円のうち3分の2を新店自身が生み出し、過去3年間で212店の出店を可能[41]にした。ところが1994年秋以降、開店後の土日の売上は2000万円、年間でも3億円程度に落ちる。出店費用は本社の負担に変わり、増殖の連鎖が切れた[42]。1993年12月末の店舗数は514店に達し、1993年9月中間期の売上高は前年同期比38.7%増と伸びていた最中の反転だった。

  • 日経ビジネス 1995年6月12日号
    • [41]1994年春まで新店は開店の土日だけで6000万〜7000万円、1店で年間4億円超の売上と1億円近い経常利益を稼いだ。150坪標準店の出店費用約1億5000万円の3分の2を新店の利益が賄い、過去3年間で212店の出店を可能にした
    • [42]1994年秋以降は開店後の土日で2000万円、年間で3億円程度しか売上を見込めなくなり、出店費用が本社の負担となった

品質と組織にも歪みが出た。出店数に調達が追いつかず品質の劣る商品が紛れ込み、クリーニングで型崩れするといった苦情が安かろう悪かろうという評価を定着させる。取引アパレルからは、納入価格をあと2000円上げてくれれば安定した品質[43]で作れる、という声が出ていた。1994年春には新入社員を1200人採用したが売上が減り[44]、売上高人件費率は11.04%から12.64%へ上がる。1995年3月期は上場以来初の減収減益となり、既存店売上高は前年比14%減、東京23区内の都心店は1店当たり6億8600万円[45]から3億8200万円へ1年で44%落ちた。

  • 日経ビジネス 1995年6月12日号
    • [43]出店数が多すぎて調達が間に合わず品質の悪い商品を仕入れ、クリーニングで型崩れするなどの苦情が「安かろう悪かろう」の印象を定着させた。取引先社長は「納入価格をあと2000円上げてくれれば、文句のない、安定した品質で作れる」と述べた
    • [44]1994年春に新入社員を1200人採用したが売上高が減少し、売上高人件費率は11.04%から12.64%へ上昇した
    • [45]1995年3月期に上場以来初の減収減益。既存店売上高は前年比14%減、東京23区内の都心店は1店当たり売上高が1994年3月期6億8600万円から1995年3月期3億8200万円へ44%減少

1995年3月30日、青山商事は東京のホテル[46]で緊急記者会見を開いた。オウム真理教の顧問弁護士が社長の息子ではないかという噂で株価が急落したためだったが、記者の質問はデリバティブ取引の内容に集まる。青山五郎社長ら5人の幹部は担当者も資料もないとして詳細を答えられず、翌日に中南米債投資の通貨スワップに関する文書を配った。管理部門を束ねていた伊藤寛治元常務が同年1月に健康上の理由で退いた直後で[47]、危機対応そのものが働かなかった。立て直しは、1994年10月に始めたカジュアル専門店『キャラジャ』と、1995年3月に東京・八重洲[48]へ開いた高級志向の実験店に託された。

  • 日経ビジネス 1995年6月12日号
    • [46]1995年3月30日に東京・赤坂のホテルで緊急記者会見を実施。オウム真理教の青山吉伸顧問弁護士が社長の息子ではないかとの噂で株価が急落したため。質問はデリバティブ取引に集中し、幹部5人は「担当者がいないし、資料がないので投資内容の詳しいことは分からない」と答えるにとどまり、翌日に「中南米債への投資に関する通貨スワップ」の文書を配布した
    • [47]広島総合銀行出身で1984年入社の伊藤寛治氏は経理・人事を束ねる管理本部長として資金運用の詳細まで把握していたが、1995年1月に健康上の理由で取締役相談役へ退いた。取引先幹部は「伊藤さんがいれば、あんな会見はしなかった」と述べた
  • 青山商事 有価証券報告書【沿革】/日経ビジネス 1995年6月12日号
    • [48]1994年10月にカジュアル専門店「キャラジャ」1号店(姫路太子店)を開店。1995年3月に東京・八重洲へ高級志向の実験店を開いた
  • 日経ビジネス 1995年6月12日号
    • [41]1994年春まで新店は開店の土日だけで6000万〜7000万円、1店で年間4億円超の売上と1億円近い経常利益を稼いだ。150坪標準店の出店費用約1億5000万円の3分の2を新店の利益が賄い、過去3年間で212店の出店を可能にした
    • [42]1994年秋以降は開店後の土日で2000万円、年間で3億円程度しか売上を見込めなくなり、出店費用が本社の負担となった
    • [43]出店数が多すぎて調達が間に合わず品質の悪い商品を仕入れ、クリーニングで型崩れするなどの苦情が「安かろう悪かろう」の印象を定着させた。取引先社長は「納入価格をあと2000円上げてくれれば、文句のない、安定した品質で作れる」と述べた
    • [44]1994年春に新入社員を1200人採用したが売上高が減少し、売上高人件費率は11.04%から12.64%へ上昇した
    • [45]1995年3月期に上場以来初の減収減益。既存店売上高は前年比14%減、東京23区内の都心店は1店当たり売上高が1994年3月期6億8600万円から1995年3月期3億8200万円へ44%減少
    • [46]1995年3月30日に東京・赤坂のホテルで緊急記者会見を実施。オウム真理教の青山吉伸顧問弁護士が社長の息子ではないかとの噂で株価が急落したため。質問はデリバティブ取引に集中し、幹部5人は「担当者がいないし、資料がないので投資内容の詳しいことは分からない」と答えるにとどまり、翌日に「中南米債への投資に関する通貨スワップ」の文書を配布した
    • [47]広島総合銀行出身で1984年入社の伊藤寛治氏は経理・人事を束ねる管理本部長として資金運用の詳細まで把握していたが、1995年1月に健康上の理由で取締役相談役へ退いた。取引先幹部は「伊藤さんがいれば、あんな会見はしなかった」と述べた
  • 青山商事 有価証券報告書【沿革】/日経ビジネス 1995年6月12日号
    • [48]1994年10月にカジュアル専門店「キャラジャ」1号店(姫路太子店)を開店。1995年3月に東京・八重洲へ高級志向の実験店を開いた

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青山商事の沿革1964〜2022年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1964〜1986年専売公社を辞めた四人が府中市で始めた洋服屋と郊外立地への転換青山商事を設立
食料品・特産品部門から撤退し紳士服販売へ一本化

1967年10月、広島県府中市の青山商事が、創業以来手がけてきた食料品・広島県特産品の卸売部門から撤退し、紳士服の小売に営業を一本化した経営判断。婦人服・呉服を含む紳士服以外の部門も同時期に整理された。

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★★★
紳士服販売に特化★★
紳士服専門店「洋服の青山」1号店(西条店)を開店★★
本社を広島県府中市府中町554番地から移転
全店にPOSレジを設置
POSシステムを導入★★
1987〜1995年株式上場で全国400店へ広がった増殖モデルと価格破壊の旗手の失速大阪証券取引所市場第二部、広島証券取引所に株式上場
東京事務所(2018年4月東京オフィスに商号変更)を開設
東京証券取引所市場第二部に株式上場
衣料品の製造・販売の合弁会社 上海青山服装有限公司を設立
カジュアル専門店「キャラジャ」1号店(姫路太子店)を開店
1996〜2014年外債損失と創業者の退場を経てツープライス業態に活路を求めた時期青山キャピタルを設立
カード事業に参入★★
青五の第三者割当を引き受け(出資比率40%)
「ザ・スーツカンパニー」の1号店(日本橋店)を開店★★
「ユニバーサル ランゲージ」の1号店(渋谷店)を開店
青山洋服商業(上海)有限公司を100%出資で設立
青山理会社分割によりキャラジャ事業を分離
青山理住金物産との合弁でイーグルリテイリングを設立
青山理物語コーポレーションのFCとして glob を設立
青山理「アメリカンイーグルアウトフィッターズ」1号店(表参道店)を開店
2015〜2026年靴修理事業の買収と創業以来初の希望退職を経たスーツ依存からの脱却青山理創業50周年を機にミスターミニットを買収しスーツ依存からの脱却をはかる

2015年11月27日、青山商事が靴修理・鍵複製の『ミスターミニット』を運営するミニット・アジア・パシフィックの全株式と新株予約権をユニゾン・キャピタル等から取得すると発表し、同年12月に完全子会社とした経営判断。買収金額は146億円であった。

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★★★
青山理「ユニバーサル ランゲージ メジャーズ」1号店(渋谷神南店)を開店
青山理連結子会社イーグルリテイリングを解散(2020年4月6日をもって清算結了)
青山理SYGを完全子会社化
青山理コロナ禍で159店の統廃合・創業以来初の希望退職・リーバイス事業撤退に踏み切る

2020年11月から2021年5月にかけ、青山商事が不採算店舗159店の統廃合、創業以来初となる希望退職の募集、リーバイス事業からの撤退を実施した経営判断。2021年3月期に特別損失192億円を計上した。

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★★★
青山理エススクエアードを完全子会社化
出典・参考
  • 青山商事 有価証券報告書【沿革】/日経ビジネス 1995年6月12日号
  • 青山商事 有価証券報告書【沿革】
  • 日経ビジネス 1984年11月26日号
  • 証券アナリストジャーナル 1987年25巻12号(青山五郎社長 講演要旨・1987年11月30日 大阪)
  • 日経ビジネス 1988年5月23日号
  • 日経ビジネス 1992年12月14日号
  • 日経ビジネス 1993年6月28日号 編集長インタビュー
  • 日経ビジネス 1994年1月31日号
  • 日経ビジネス 1994年1月31日号 /同 1993年6月28日号 編集長インタビュー
  • 日経ビジネス 1995年6月12日号

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