1901年7月1日、光永星郎氏は資本金10万円で日本広告株式会社を設立した。光永星郎氏は1866年に熊本県八代郡で生まれ、創業時は36歳だった。光永星郎氏は台湾総督府を退官したのち1900年に上京し、蓄えた300円を準備金として通信社の構想を練った。相談を受けた人の多くは、政党に属さない通信社は存続できないとして計画の中止を勧めた。光永星郎氏は出資を求めて大広告主を回り、売薬・化粧品・出版・タバコの経営者を役員に迎えた。会長は衆議院議員の日向輝武氏、専務は山崎帝国堂の山崎嘉太郎氏で、創業者の光永星郎氏は常務取締役にとどまった。定款は社長の席を設けておらず、発足時の主導権は出資した広告主が握っていたと思われる。
1901年11月、光永星郎氏は日本広告株式会社の社屋内に電報通信社を併設し、通信社の業務を始めた。同時に切抜通信社も置き、両社の経営を取締役の権藤震二氏に任せた。政治青年だった光永星郎氏の本来の目標は、通信社の経営にあった。日清戦争の特派員として、得た情報を内地へ送る機関が無い不便を経験していた。しかし両通信社の規模は小さく、創業当初は大株主の意向を尊重して通信業に力を注がなかった。光永星郎氏は銀座裏に拠って、資金も後ろ盾もないところから事業を起こした。光永星郎氏自身も後年、創業を非常な難産だったと振り返っている。広告会社は、通信社を持つための足場として置かれたと推察される。
光永星郎氏が通信より先に広告を手がけたのは、地方紙の求めが広告の取次にあったからである。郷里で小新聞を出していた弟の光永真三氏は、地方紙は通信より広告のサービスを欲していると伝えた。山崎嘉太郎氏は広告代理業からの出発を勧め、談合を排した公正な取引と低い手数料率なら歓迎されると助言した。光永星郎氏は、広告代理業が利潤を生めば兼営の通信業も成り立つとの見通しを得た。当時の有力な代理業者は談合で料金と手数料をつり上げ、直取引の広告主や新聞社には取次を拒んでいた。徳富猪一郎氏は、光永星郎氏が村井商会主の村井吉兵衛氏を100回訪ねたという逸話を記した。広告を先にした創業の順序は、通信を続けるための資金源を先に確保する判断だったのだろう。
1906年12月、株式会社日本電報通信社が設立され、電報通信社の事務を引き継いだ。翌1907年8月には日本広告株式会社を合併し、資本金を26万円に増資した。徳富猪一郎氏も、両社の合併によって日本電報通信社が創立されたと回想している。合併の時点で光永星郎氏は専務取締役として、大株主に遠慮せずに采配を振るえる立場を得ていた。合併を終えた光永星郎氏は通信部門の拡充へ向かい、明治末期には福岡日日新聞と通信契約を結んだ。暗号を使わない書き流し式の電報で、地方紙の速報需要に応えた。広告の勘定と通信の勘定を一社に収め、広告部門の利益を通信部門の投資に充当する仕組みが整ったとみられる。
1923年、光永星郎氏は社長の肩書きを得た。それまでの定款には社長の席が無く、光永星郎氏は専務取締役として実務を率いていた。同年春に入社した田嶋一雄氏は、社屋が京橋区加賀町にあり、社員は300人余りで、通信と広告の2部門があったと回想している。大正期には通信部門の責任者に甥の上田碩三氏を据え、1918年にアメリカのUP通信社とニュース契約を結んだ。1914年のシーメンス事件では常務取締役の権藤震二氏が引責辞職し、通信部門の信用が一時揺らいだ。1923年9月1日の関東大震災で加賀町の社屋は焼失したものの、光永星郎氏は営業成績を前年より引き上げた。社長制は、大きくなった2部門を1人の決裁でつなぐための整理だったと考えられる。
1928年11月1日、日本電報通信社はドイツのシーメンス社のテレフォン式電送を実用に供した。大阪毎日と東京日日が先に写真電送を試み、東西の朝日も実用化を進めていた。両大紙の電送は自社専用だったのに対し、日本電報通信社は受信した写真を全国の日刊紙に供給した。日本電報通信社の方式は搬送式で、朝日が1本に17〜18分を要したのに対し3分で足りたという。同年11月6日には京都と東京の間で、試送を含め50本余りを交換した。通信部門の好敵手だった帝国通信社は1928年に倒産し、1926年発足の新聞連合社が新たな競争相手となっていた。電送への投資は、全国紙に対する速報の競争劣位を避けるための備えと解される。
1928年時点で、全国に200社弱ある輪転機を備えた日刊紙のうち、9割が日本電報通信社の特約先だった。国内外の支局は35か所に及び、アメリカの合同通信と特約して海外ニュースを取り入れた。同じ記事は、日本電報通信社が広告の取扱いでも地方ごとに強い地盤を持っていたと伝えている。地方紙は通信料金を広告料金で差し引いて決済する方式を歓迎し、通信の特約先が広告枠の仕入れ先を兼ねた。通信部門は独立の勘定では万年赤字だったものの、広告部門の利益が赤字を補って余りあった。1928年時点の総資本金は100万円、払込資本は63万円で、年1割の配当を続けていた。通信網と広告網が互いの収益を支える構造が、30年近い経営で全国に広がったと推測される。
1933年11月、日本電報通信社の東京の新社屋が銀座西七丁目に竣工した。設計は横河工務所、施工は大林組で、建物は1972年時点でも電通の別館として残っていた。同じ時期、新聞連合社の幹部は国策通信社の構想を政府要人に説き、日本電報通信社との合併を働きかけていた。1932年には関東軍の圧力で両社の満州支局が合併し、満州国通信社が設立された。光永星郎氏は言論の自由と民業圧迫への反対を掲げ、赤字の新聞連合社と黒字の日本電報通信社の対等合併の不合理を数字で示した。1933年に政府は光永星郎氏を貴族院の勅選議員とし、光永星郎氏はその後に示された合併の条件を受け入れた。新社屋の完成と前後して、通信部を切り離す条件が固まりつつあったとうかがえる。
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|---|---|---|---|---|
| 1901〜1935年光永星郎氏の日本広告と電報通信社、通信と広告を一体にした日本電報通信社 | 光永星郎氏が日本広告を設立 | ★★ | ||
| 電報通信社を併設し通信社業務を開始 | ★ | |||
| 日本電報通信社を設立 | ★ | |||
| 日本広告を合併し通信・広告を一体化 | ★★ | |||
| 1936〜1966年通信部の同盟通信移管で広告専業となり、戦時統制を経て電通へ改称 | 通信部を同盟通信社へ移管、聯合通信社広告部を吸収 | ★★ | ||
| 商号を電通に変更 | ★ | |||
| 1967〜2000年築地移転と電通国際情報サービスの設立、地域電通と営業局の組織改革 | 本店を中央区築地に移転 | ★ | ||
| 電通国際情報サービス(ISID)を設立 | ★ | |||
| 成田豊 | 地域電通5社(東日本・西日本・九州・北海道・東北)を設立 | ★ | ||
| 成田豊 | 電通アクティス等4社を統合し電通テックを発足 | ★ | ||
| 成田豊 | 3つの構造変化に直面した営業局の組み替えと、株式公開・海外展開への備え 1998年、日本の広告市場でシェア2割超を占める電通が、メディアの多様化・広告主の要求の変化・外資系広告会社の日本進出という3つの構造変化に直面した。同社は同年11月をめどに、営業局を集約し直す組織改革に踏み出し、2001年の株式上場と海外展開の拡大を布石として掲げた。広告枠の確保という強みが相対的に弱まるなかで、事業モデルを組み替えようとした転換の試みであった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 成田豊 | 米SIPS最大手と組んだネット時代のコンサルティング事業への進出 2000年10月、電通が米国のSIPS(ストラテジック・インターネット・プロフェッショナル・サービス)最大手マーチファースト(シカゴ市)と提携し、合弁会社"電通マーチファースト"を同年11月に設立、2001年1月から本格的なコンサルティング事業へ参入すると発表した経営判断。広告枠の取次を軸としてきた電通が、インターネット時代の総合コンサルティングへ越境する試みであった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 成田豊 | コンサルティング事業に参入 | ★ | ||
| 成田豊 | 電通国際情報サービス(ISID)が東京証券取引所一部に上場 | ★ | ||
| 2001〜2026年東証上場と汐留移転、イージス買収と過労自殺事件、持株会社化と巨額減損 | 成田豊 | 創業から100年を経ての株式公開——資金需要のないまま選んだ資本市場入り 2001年11月30日、電通は創業から約100年を経て東京証券取引所市場第一部に直接上場した。資金調達の必要は乏しく、公募・売り出しは全株式の1割弱にとどまったが、大株主の売却ニーズと経営の透明化、世界戦略への布石が重なった資本判断であった。 詳細を読む | ★★★ | |
| 俣木盾夫 | 本店を港区東新橋(汐留)に移転 | ★ | ||
| 石井直 | 取得原価3,651億円を投じ、海外本社を英国に置いた 2012年7月11日にイージス社との間で買収実施契約を、翌12日に筆頭株主Bolloré Groupとの間で1株240ペンスで株式を取得する譲渡契約を締結し、2013年3月26日に英国法上のスキーム・オブ・アレンジメントによって全発行済株式を取得した経営判断。取得原価は365,119百万円で、同日付でイージス社はDentsu Aegis Network Ltd.へ商号を変更した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 石井直 | 電通デジタルを設立 | ★ | ||
| 石井直 | Merkle Group Inc.を買収 | ★★ | ||
| 石井直 | 新入社員の過労自殺を機とした働き方改革と社長交代 2015年12月の新入社員・高橋まつりさんの過労自殺を機に、電通は2016年末に石井直社長の引責辞任を決め、2017年に山本敏博社長の下で"労働環境改革基本計画"を打ち出した。長時間労働を是としてきた広告最大手が、成長一辺倒の企業風土の転換と働き方改革に着手した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 山本敏博 | CARTA HOLDINGSを株式交換で子会社化 | ★ | ||
| 山本敏博 | 海外事業を中心にのれん減損、初の営業赤字 | ★★ | ||
| 山本敏博 | 純粋持株会社体制へ移行、電通グループに商号変更 | ★★ | ||
| 山本敏博 | コロナ禍で過去最大の最終赤字、海外のれん大型減損 | ★ | ||
| 五十嵐博 | 五十嵐博氏が社長に就任 | ★ | ||
| 五十嵐博 | 海外事業(電通インターナショナル)の巨額減損とM&A路線の転換 2013年に英広告大手イージスを約4000億円で買収して海外へ広げた電通グループが、海外事業(電通インターナショナル)で2024年12月期・2025年12月期と2期連続の巨額のれん減損を計上し、人員削減と中期経営計画の見直しで再建に取り組んだ経営判断。国内広告が堅調な一方、海外のデジタル事業の不振とのれんの重さが対照をなした。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(電通グループ)