ペンタックス距離計連動式を採らない一眼レフカメラへの集中と、専業メーカーへの転換

主流の距離計連動式に付くか、量産の前例がない一眼レフに絞るか——レンズ研磨だけが残った会社の事業選択

時期 1957年
意思決定者(推定) 旭光学工業 経営陣
論点 事業構成と技術選択
概要
戦災で工場も製品も焼けた旭光学工業が、1948年に始めたカメラの試作の的を一眼レフに絞り、1954年のクイックリターン装置、1957年のペンタプリズム式「アサヒペンタックス」を経て、一眼レフの専門メーカーとして立った経営判断。
背景
1948年2月に合資会社が解散し、残ったのは1919年以来のレンズ研磨技術だけだった。当時の国産カメラは距離計連動式が主流で、一眼レフはミラーが戻らないという難点を抱え、ほとんど量産されていなかった。
内容
1951年5月にわが国初の一眼レフの試作に成功し、1952年にアサヒフレックスⅠ型を発売。1954年にクイックリターン装置を世界に先がけ開発し、1957年にペンタプリズム式「アサヒペンタックス」、1964年にTTL方式のSP型へ到達した。販売は分離した旭光学商事へ一括委託し、本体は製造に専念した。
含意
1970年6月期には売上の96.2%を一眼レフとその付属品が占め、輸出比率は5割を超えた。一方、1965年ごろから各社が一眼レフへ切り換えると、方式を先に確立した同社の市場占有率は年々下がっている。
筆者の見解

売れている方式を採らなかったこと

1948年9月に始めた双眼鏡と望遠鏡が当座の食いぶちで、同時に着手したカメラは売り先も定まらない試作にすぎなかった。その試作の的を、ミラーが戻らないという難点のために誰も量産していなかった一眼レフに置いた点が、この判断の中身である。距離計連動式で各社が稼いでいた時期に、その方式には付かなかった。クイックリターン装置もペンタプリズムもその選択の後に来た成果で、1970年6月期には売上の96.2%を一眼レフとその付属品が占める会社になった。

集中の代償も、その96.2%に含まれている。一つの方式が売れ続けることを前提にした構造でもあったからである。1965年ごろに各社が距離計連動式から一眼レフへ移ると、方式を先に確立した同社の市場占有率は年ごとに落ちた。生産能力は限界に達し、在庫は半月分の予定に対して9日分しか積めていない。方式を最初に実用化した会社が、その方式の普及からいちばん多くを得るとは限らない——この時期の占有率は、そのことを示している。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

焼け跡に残ったレンズ研磨技術

旭光学工業の出発点は、1919年11月に東京都豊島区西巣鴨で創立された旭光学工業合資会社にある。掛眼鏡と映画用映写レンズを作り、仕事の中身はレンズの研磨にあった。1938年12月、この合資会社が軍の管理工場に指定されたため、民需品の製造販売を続ける受け皿として旭光学工業株式会社が設立され、梶原熊雄氏が社長に就いた。ところが株式会社もまた管理工場に指定され、二つの法人は併存したまま終戦を迎え、ともに戦災で全焼した[1][2]

再建は双方で試みられたものの、1948年2月に合資会社は解散した。株式会社の手元に残ったのは、1919年以来のレンズを研磨する技術だけであった。同年9月、輸出向けの双眼鏡と望遠鏡の生産を始め、同時にカメラの試作に着手している。双眼鏡は占領下の日本で外貨を稼げる数少ない民需品で、当座の食いぶちになった。これに対してカメラは、売り先も方式も定まらない試作にすぎなかった[3]

誰も量産していない方式に的を絞る

同社は試作の的を一眼レフカメラに置いた。レンズを通った像をそのまま見て撮る方式で、ファインダーに映るものが撮影される画そのものになる。当時の国産カメラは距離計連動式が主流で、各社はその方式で稼いでいた。一眼レフには積年の難点が一つあり、シャッターを切るとミラーが跳ね上がったまま戻らず、切った直後からファインダーの像が消える。この不便が量産を阻んでいた。各社が稼いでいる方式ではなく、誰も量産していない方式を選んだ[4][5]

1951年5月、わが国初の一眼レフカメラの試作に成功した。翌1952年にはアサヒフレックスⅠ型として製造を始め、株式会社服部時計店と特約店契約を結んで販売に入っている。焼け跡から再建した会社が全国の販路を自力で敷くには時間がかかり、時計商の店頭を借りるほうが早かった。同じ1952年4月、本社と工場を東京都板橋区前野町へ移し、生産の拠点も改めた[6][7]

決断

クイックリターン装置とペンタプリズム

1954年、旭光学工業はミラーを自動で復帰させるクイックリターン装置を世界に先がけて開発し、一眼レフ最大の不便を取り除いた。撮った直後に次の構図を追える一眼レフは、ここで初めて実用の道具になっている。会社側はのちに、この開発を「今日の1眼レフカメラ隆昌時代への第一歩」と説明した。わが国初という称号よりも、この機構のほうが後年の製品系列を支えた[8]

1957年、同社はペンタプリズムを載せた一眼レフ「アサヒペンタックス」を開発する。五角形のプリズムで像の左右と上下を正し、ファインダーを覗いたまま構図を追えるようにした機構で、以後の一眼レフの標準となった。K型、S2型、S3型、SV型と改良を重ね、1964年にはレンズを通った光をそのまま測るTTL方式のSP型に到達している。試作から13年をかけて、一眼レフでの地位が定まった[9]

販売を外に出し、製造に専念する

集中は製品だけでなく組織にも及んだ。1955年3月、販売拡充のため営業部門を分離独立させ、旭光学商事株式会社を設立して製品販売を一括委託している。本体は一眼レフの製造に専念した。国内では1952年から1959年にかけて特約店とした8問屋が販売の93.3%を扱い、その下に中間問屋と小売店673社で構成するAP会が置かれた。8社はいずれも国内カメラ問屋の有力どころだった[10][11]

輸出では一国一代理店主義を採り、一般の輸出商社も現地の輸入商社も通さず、現地法人・代理店・小売店へ直接売る方法をとった。1959年に米ハネウエル社と全米およびメキシコの代理店契約を結び、1962年にはベルギー、1967年にはブラジルへ旭光学商事との折半出資で現地法人を置いている。代理店は83に達した。扱う製品が一つの系列に収まっていたから、販路も一本の系列で通せた[12][13]

結果

売上の96.2%を一つの製品群が占める会社

1970年6月期、売上高135億円のうち96.2%を一眼レフカメラとその付属品が占めた。カメラ以外の光学製品で売上の20〜50%を稼ぐ同業各社とは事業の形が違い、総合光学工業に分類されながら、実態は一眼レフの専門メーカーであった。同じ専業はミランダカメラとゼンザブロニカ工業の2社しかなく、しかも前者は輸出向けのみ、後者は6×6型のみを手がけている。専業と呼べる会社は、事実上この1社であった[14][15]

集中は成長として表れた。売上高は最近10年間で10倍、税引利益は8倍になり、輸出比率は1967年6月期の48.8%から1969年6月期には57.5%へ上がっている。1970年6月期に51.4%へ下がったのは、万国博の開催期間中は国内需要に極力応じるというカメラ業界の申し合わせに従った結果で、下がったのはこの期だけである。従業員は2,453人、平均年齢24.6歳で、年功序列を避けた職能給を敷き、年間税引利益の6分の1を決算賞与として配っていた[16][17][18]

方式が普及したことで減る取り分

一方、市場占有率は逆を向いた。1965年ごろを境に各メーカーが35ミリ距離計連動式から一眼レフの生産へ切り換え、国内生産台数が増えたため、同社の一眼レフ市場占有率は年々下がっている。先に方式を確立した会社が、方式そのものの普及によって取り分を減らした。会社側は、カメラの在庫を半月分は持ちたいところ9日分しか積めておらず、生産能力が限界に達していたことにも原因の一端があるとみていた[19][20]

産業全体でみれば、各社の転換はカメラ輸出の膨張と重なっている。輸出額は1955年の460万ドルから1965年には5,800万ドルへ増え、生産の半分以上が海外に出た。1964年の生産454万台は、カメラ王国と呼ばれた西ドイツの247万台を大きく上回っている。『日本産業史』はこの時期の内訳を「『アサヒペンタックス』に象徴される一眼レフの永続的な漸増ブーム」と記した。一つの機種名が方式の代名詞になる一方で、その方式の市場は同社の手を離れて広がった[21][22]

出典・参考
  • 証券 1971年「旭光学株式会社」
  • ペンタックス 有価証券報告書【沿革】
  • 有沢広巳監修『日本産業史 2』(日経文庫, 日本経済新聞社, 1994)

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