シチズン時計軍需会社からの再転換でミシン・農具案を退け腕時計専業へ戻した決断

敗戦で仕事を失った工場は何を作るべきか——五百人の手が知っていた仕事へ戻るまで

時期 1946年3月
意思決定者(推定) 山田栄一 社長
論点 敗戦後の事業選択と時計事業への復帰
概要
1945年末から1946年3月にかけて、大日本時計(現シチズン時計)が軍需生産から腕時計専業へ戻る方針を固め、山田栄一氏の社長就任とともに実行に移した経営判断である。ミシン・農具・ラジオ・家庭用品といった転換案が並ぶなかで、時計以外を選ばなかった。
背景
同社は1938年に田無工場へ兵器工場を新設し、同年12月に社名を大日本時計へ改めて軍需会社へ変わっていた。信州伊那谷への疎開は工場が稼働しないまま終戦を迎え、戦時中に二千人いた工員は約五百名まで減っていた。
内容
山田栄一氏は「餅は餅屋」として時計への復帰を主張し、残った五百名の特技を調べて大半が時計工であることを確かめたうえで、1945年末に腕時計製作事業専門で行く方針を決めた。翌1946年3月に社長へ就いて再出発を主導した。
含意
戦時下に軍の意向へ抗して月産二千個足らずの時計製造を続けた分の技術が残っており、それが復帰を可能にした。終戦の年の11月には月産二千個の腕時計を売り出し、1948年2月の社名復帰と1949年5月の東京証券取引所上場につながった。
筆者の見解

五百人の手が決めた事業選択

1946年の判断は、新しい事業を探す作業ではなく、手元に残ったものを数え直す作業であった。ミシンも農具もラジオも、終戦直後の機械工場ではどこでも挙がった候補で、実際にそちらへ移って伸びた会社もある。シチズンが時計に戻ったのは、市場の見通しよりも先に、残った五百名の特技という具体的な事実があったからだといえる。時計は資材よりも技術を売る仕事だという山田栄一氏の見立ては、資材の乏しい時期にはむしろ有利に働いた。

判断を可能にしたのは、戦時下に月産二千個足らずの時計を作り続けた分の技術であった。軍の意向に抗して残したその細い生産がなければ、1945年11月に同じ月産二千個から再出発することもできなかったとみられる。1963年に山田氏が挙げた東洋時計、英光舎、富士時計、高野精密という社名は、いずれも戦後に消えた時計会社である。残るか消えるかを分けたものが何であったかは一言では言えないが、シチズンの場合、戻る先を決めたのは経営の構想ではなく、五百人の手が覚えていた仕事であった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

時計会社の看板を掲げたまま軍需会社になっていた

日中戦争の拡大とともに、シチズンは時計会社の看板を掲げながら軍需会社への転換を求められた。1938年4月に田無工場へ兵器工場を新設して兵器部品の製作に着手し、同年12月には社名を大日本時計へ改めた。1941年には日東精機を合併して工作機械の生産に入り、尚工舎以来の時計工の多くは信管製造へ回された。腕時計は人手と資材と価格の制約から、表立った禁止こそ受けないまま事実上の製造禁止に近い状態へ落ちた[1][2]

それでも全工場が軍需化するなかで、工場の一部では月産二千個足らずの時計製造が続けられた。軍の意向に抗して細く残されたこの生産が、時計製造の技術と人を戦後まで持ち越す働きをした。山田栄一氏自身は1944年4月の軍需会社指定と同時に常務となり、1945年10月に専務へ就いている。会社の実体はすでに時計会社ではなく工作機械会社へ変わっていたと、後年に本人が振り返っている[3][4]

疎開から戻った工場に仕事がなかった

戦況の悪化にともない、軍の命令で工場は信州の伊那谷へ移された。ところが移設は混乱のうちに進み、モーターが一度も動かないまま終戦を迎えた。苦労して運んだ機械設備を再び元へ戻したところで、今度は作るものがない。事態収拾のために専務となった山田氏も、しばらくは手をこまぬいた。この二年間について本人は「何もやらなかった、何もやれなかった」と書き残している[5][6]

戦時中に二千人からいた工員は、疎開と復員を経て約五百名まで減っていた。それでも会社の責任で職と食を確保しなければならない頭数として、五百名は重かった。戦前のシチズンは1933年に十型、1935年に八型、1940年に五型と国産初の腕時計を送り出し、従業員六、七百人・腕時計月産一万個の規模まで来ていた。その水準へ戻せるかどうかが、戦後の再出発をどこに置くかという問いに直結していた[7][8]

決断

ミシンでも農具でもなく時計を選んだ

工場の整理が一段落すると、次に何を作るかで社内の意見が分かれた。ミシンをやろうという話が出て、農具をやろうという案も出た。ラジオや家庭用品まで、可能性の有無にかかわらず思いつくままの提案が並んだ。終戦直後の機械工場が一様に通った道であり、時計へ戻ることが自明であったわけではない。そのなかで山田栄一氏は「餅は餅屋」で、シチズンは「時計屋の時計」に戻るべきだと主張した[9]

主張の根拠は、残った五百名の特技を一人ずつ調べたことにあった。調べてみると、大半が時計工で押しとおした者であった。戦争以前、あるいは戦争最中の小さな規模に戻った時計工場であれば、この顔ぶれで必ず再出発できる。山田氏は自分が時計屋であるために時計へ横車を押したのではないと断り、シチズンが時計工場の生まれで、残った人々の多くが時計工場育ちであることを理由に挙げている。この選択には社内でついに異論が出なかった[10][11]

昭和二十年末の方針決定と翌年三月の社長就任

山田氏はこの復帰を、軍需産業から平和産業への当然の再転換としてだけ捉えてはいなかった。シチズンが過去に大成すべくして大成しなかった国産時計へ、もう一度進むための機会と見ていた。技術は温存されており、設備も整えられる。資材面でも間に合わせが利く見込みが立った。時計は資材よりも技術を売りに出す仕事であり、平和に戻った国民生活で良品廉価の時計は必需品になる。この読みのもとで、終戦の年の暮れに腕時計製作事業専門で行く方針が決まり、翌1946年3月に山田氏が社長へ選任された[12][13]

復帰の実務では、設備と技術よりも資材が制約になった。質的に信用できる材料が容易に入らず、ある時期には生産量を自ら抑える判断も要した。作っても作っても間に合わない需要のなかで、時計業界には粗い製品も出回った。それでも品質を落とさず「製品第一」で押しとおしたことを、山田氏は後年、シチズンが今日あるための最も大きな基石だと書いている。品不足の時期に量へ走らなかった選択が、復帰後の信用を決めた[14]

結果

月産二千個からの再出発と社名の復帰

シチズンが時計を始めると伝わると、都下はもちろん全国の時計商から注文が集まった。終戦の年の11月には、混乱のなかで月産二千個の腕時計を売り出すまでになった。戦時下に細々と守った生産量と同じ水準からの再出発であった。1948年2月には大日本時計から社名をシチズン時計へ戻し、戦後五回の増資を重ねて工場設備の近代化と作業能率の改善に充てた。1949年5月には東京証券取引所へ上場している[15][16]

製品の側でも復帰は続いた。1949年6月に中三針型、1952年3月にカレンダー時計を完成させ、高級十七石時計や振動不感時計を送り出した。山田氏は二度にわたって海外の時計生産と市場を見て回り、時計工業はやはり人が中心で精神が基盤だという確信を持ち帰った。スイスには依然として学ぶべき点が多いという見方も、このとき固まっている。戦後の再出発は、規模の回復と同時に技術の水準を戻す作業でもあった[17][18]

生産の桁が変わるまでの十五年

復帰の効き目は、生産性の数字にはっきり出た。1950年には2,500人の従業員が月間2万個の時計を作るのに骨を折っていたが、1966年には自動巻や日付付きへ工程が複雑化したうえで、4,500人で月間40〜43万個を作る水準へ達した。部品加工の工作機械を自社で設計・製造し、自動化を進めたことが差を生んだ。時計の工作機械を自前で持てるかどうかが合理化の分かれ目になるという見方も、この時期に社内で共有されていた[19]

一方で、腕時計会社が育ちにくい産業であることを、山田氏は繰り返し語っている。1963年5月の証券アナリスト向けの説明では、戦後に倒産した会社として東洋時計、英光舎、富士時計、そして高野精密を挙げ、いま残っている会社より倒産した会社のほうが多いと述べた。そのうえで、大手4社のうちシチズンとセイコーで全生産の約8割を占めるに至った経過を、楽な道程ではなかったと振り返っている。同社自身も30数年前に一度倒産を経験していた[20][21]

出典・参考

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