1946年の判断は、新しい事業を探す作業ではなく、手元に残ったものを数え直す作業であった。ミシンも農具もラジオも、終戦直後の機械工場ではどこでも挙がった候補で、実際にそちらへ移って伸びた会社もある。シチズンが時計に戻ったのは、市場の見通しよりも先に、残った500名の特技という具体的な事実があったからだといえる。時計は資材よりも技術を売る仕事だという山田栄一氏の見立ては、資材の乏しい時期にはむしろ有利に働いた。
判断を可能にしたのは、戦時下に月産二千個足らずの時計を作り続けた分の技術であった。軍の意向に抗して残したその細い生産がなければ、1945年11月に同じ月産二千個から再出発することもできなかったと思われる。1963年に山田氏が挙げた東洋時計、英光舎、富士時計、高野精密という社名は、いずれも戦後に消えた時計会社である。残るか消えるかを分けたものが何であったかは一言では言えないが、シチズンの場合、戻る先を決めたのは経営の構想ではなく、500人の手が覚えていた仕事であった。