シチズン時計の源流は、銀座の貴金属商山崎商店を率いた山崎亀吉氏[1]が興した時計事業にさかのぼる。山崎氏は1906年に本郷富士前町で尚工舎を起こして懐中時計のケース製造に着手し、上戸塚を経て1918年に角筈へ工場を移し、時計機械そのものの製造へと踏み込んだ。[2]目標に据えたのは、当時すでに国際水準に達していた精工舎の国産時計であり、スイス製の工作機械を入れ、尚工舎時計学校で優秀な技工を養成して品質を高めた。[3]国産愛用の機運のなかで摂政宮(後の昭和天皇)が御愛用したことで『シチズン』[4]の名は一時高まったと、後年に山田栄一社長は回顧している。
しかし技術で精工舎に並んでも、『シチズン』は『セイコー』の商標と同列には売れず、量産でもコストでも及ばないまま、安く売らざるを得ない経営難に追い込まれた。山崎氏は尚工舎に私財を何百万円とつぎ込んで支えたが[5]、ついに行き詰まり、銀座の山崎商店もその破綻に巻き込まれて失われた。13歳で山崎家の養子に入り、宝石類の行商から身を起こして銀座の大貴金属商、東京商工会議所副会頭にまで上り詰めた人物が、国産時計のために大きな犠牲を払って退いた格好である。[6]創業の完成がいかに容易でないかを示す挫折であり、この犠牲の上にシチズン時計の種がまかれた。
安田銀行(現富士)の担保に入って閉鎖されていた尚工舎の工場は、1930年5月に資本金20万円の新会社として再発足し、尚工舎時計研究所の名をここで初めてシチズンと改めた。[7]発起人代表となって初代社長に就いた中島与三郎氏は、1918年創立の尚工舎時計研究所の施設一切を買収して母体とし[8]、スイス時計の組立てを手がけ、静岡の時計商鈴木氏との共同経営で再生会社を引き受け、1932年にはスター商会を合併してケース製作を取り込んだ。[9][10]技術面では尚工舎以来の人材を集めれば充実は容易で、懐中時計から腕時計への転換期を捉え、1933年に十型、1935年に八型、1940年に五型と国産初の腕時計を相次いで送り出した。[11]1934年5月には淀橋工場を拡張し、1936年には中国・南方[12]への腕時計輸出を始めて貴石製作所を合併した。従業員は六、700人、腕時計の月産は一万個に達し、小さいながらも時計会社としての基礎を固めかけた。[13]
ところが日中戦争の拡大とともに、シチズンは時計会社の看板を掲げながら軍需会社への転換を迫られた。1938年4月には田無工場に兵器工場を新設して兵器部品の製作に着手し[14]、同年12月に社名を大日本時計へ改め、1941[15]年には日東精機を合併して工作機械の生産に踏み込み、尚工舎以来の時計工の多くは信管製造に回された。腕時計は人手・資材・価格の制約から事実上の製造禁止状態に陥ったが、全工場が軍需化するなかでも経営陣は本来が時計工場であることを忘れず、軍の意向に抗して工場の一部で月産二千個足らずの時計製造を続けた。[16]この抵抗が時計製造の技術を戦後へ温存する結果となり、終戦後の時計会社復帰を支える素地となった。
終戦時に2,000人いた工員は、信州への疎開と復員を経て約500名にまで減っていた。[17]1946年3月に社長へ就いた山田栄一氏は[18]、残った従業員の職と食を確保しながら次の事業を模索し、ミシンや農具、ラジオといった転換案が出るなかで、シチズンは『時計屋の時計』に戻るべきだと判断した。残存した工員の特技を調べると大半が時計工であり、戦前または戦中の小規模に戻った時計工場であれば必ず再出発できるという確信があった。終戦の年の11月には早くも月産二千個の腕時計を売り出し、全国の時計商から注文が殺到する状況となった。[19]
商品不足のブームのなかでも品質本位を貫いたことが後の信用につながり、1948年には大日本時計から社名を元のシチズン時計へ復し、1949年5月に東京証券取引所へ上場した。[20]同年6月に中三針型、1952年3月にカレンダー時計を完成させ、高級十七石時計や振動不感時計を相次いで送り出して、戦後復興期の主要な時計メーカーとしての地位を固めた。[21]山田栄一社長は二度にわたり海外の時計生産と市場を視察し、『時計工業はやはり人が中心であり、精神が基盤である』[引用元]という確信を得て[22]、スイスに学ぶべき点が多いと見て取っている。こうした戦後の再出発が、後年の量産戦略への土台となった。
1970年代を通じて水晶振動子の軽量小型化が進み、腕時計へと組み込めるクオーツ時計の時代が到来した。クオーツでは1969年の世界初商品化を果たしたセイコーが先行しており、シチズンは後発の立場にあった。シチズンは1976年に時計用シリンダー型音叉水晶振動子などを開発してクオーツへの参入を整えた後、同年[23]から思い切った戦略に踏み切った。完成品時計ではなく、腕時計のムーブメント、つまり動力部分だけを他の時計メーカーに売る外販という戦略である[24]。この決定は時計業界の常識を根底から覆すものであり、社内でも激しい議論を呼んだ。同社の事業構造の転換期にあたる象徴的な決断として社史に記録されている。
この判断は社内で紛糾した。時計メーカーにとってムーブメントは商品の心臓部であり、外販すればそれを買った側がシチズンと同じ市場で競合するという根本的な問題を抱えていた。それでも大量生産のコストメリットを取るために外販を決定し、1979年には国内量産のための増産投資に踏み切った。生産されたムーブメントは香港などへ輸出され、現地で組み立てられた10ドル級の低価格腕時計として欧米市場に広がった。後年、春田博社長は『時計屋としては清水の舞台から飛び降りるような決断でしたが、これが一つの転機となって、当社の腕時計を世界的な規模で事実上のスタンダードとすることができた』[引用元](春田博 日経ビジネス 1998/08/24)と回顧[25]している。長い歴史のなかでも当時の判断は、後年まで議論される重要な岐路として振り返られている。
ムーブメント外販によって生産規模は跳ね上がり、1986年度にシチズンは腕時計の生産量で世界シェア1位を獲得した。[26]それまで長年にわたって業界首位の地位にいたセイコーを、技術開発ではなく量産戦略によって抜いた格好であり、時計業界の歴史における転換点として記録された。春田博社長は同じインタビューで『生産の規模が増え、貴重品だった時計の値段が大幅に下がって大衆のものとなり、品質面でも『どんな環境で使われようとも、どんなに安い品であろうとも止まらない』ものになった』[引用元](春田博 日経ビジネス 1998/08/24)と語り[27]、外販戦略の本質的な意味を端的に表現した。
この1970〜1980年代の外販戦略は、シチズンを日本製腕時計の代名詞から世界の低価格帯時計産業の素材供給元へと変える転換をもたらした。米国に1975年のシチズン・ウオッチ・カンパニー・オブ・アメリカ[28]、香港に1970年の新星工業[29]および1976年の星辰表香港[30]、ドイツに1979年のシチズン・ウオッチ・ヨーロッパ[31]といった海外販売会社を矢継ぎ早に設立し、ムーブメント輸出と完成品販売の二面で世界規模の事業展開を完成させた。シチズンブランドの地位は、量産メーカーとしての経営判断の積み重ねによって築かれた。
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|---|---|---|---|---|
| 1918〜1945年創業者山崎亀吉の挫折を経て再生したシチズン時計の誕生と軍需転換 | 尚工舎時計研究所設立 | ★ | ||
| シチズン時計創立 | ★ | |||
| スター商会を合併し側製作を開始 | ★ | |||
| 社名を大日本時計に商号変更 | ★ | |||
| 日東精機を合併し工作機械生産開始 | ★★ | |||
| 1946〜1989年終戦からの時計会社復帰とムーブメント外販による世界シェア首位への到達 | 軍需会社からの再転換とミシン・農具案の不採用、腕時計専業への復帰 1945年末から1946年3月にかけて、大日本時計(現シチズン時計)が軍需生産から腕時計専業へ戻る方針を固め、山田栄一氏の社長就任とともに実行に移した経営判断である。ミシン・農具・ラジオ・家庭用品といった転換案が並ぶなかで、時計以外を選ばなかった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 腕時計専業へ復帰 | ★★ | |||
| 社名をシチズン時計に復名 | ★ | |||
| 東京証券取引所に上場 | ★ | |||
| 御代田精密を設立 | ★ | |||
| 事務用機器の生産を開始 | ★★ | |||
| 合弁会社新星工業有限公司を設立 | ★ | |||
| シチズン・ウオッチ・アメリカを設立 | ★ | |||
| 腕時計の心臓部であるムーブメントを他社へ売る外販に踏み切り量産で世界一を取った戦略 シチズン時計が1976年に腕時計用ムーブメント(駆動部分)の外販を決め、1980年代を通じて量産規模を積み上げた戦略である。完成品の腕時計ではなく、他の時計メーカーが自社ブランドの時計を作るための心臓部を売った。1986年に腕時計の生産個数でセイコーグループを抜き、世界一に達した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 星辰表を設立 | ★ | |||
| シチズン・ウオッチ・ヨーロッパGmbHを設立 | ★ | |||
| 中島迪男 | 腕時計の生産量で世界シェア1位 | ★ | ||
| 1990〜2015年電子デバイス多角化の膨張と段階的な清算期 | 梅原誠 | 電子デバイスの選択と集中、携帯電話向けカメラ部品と小型液晶パネルからの撤退 2007年3月、シチズン時計が中期経営計画で電子デバイス事業の選択と集中を掲げ、カメラ用CMOSモジュール事業、小型液晶パネル事業(C-STN、TFT)、フロッピーディスク装置事業からの撤退を決めた経営判断である。2009年度に営業利益率10%を取り戻すことを目標に据えた。 詳細を読む | ★★★ | |
| 梅原誠 | シチズンHDに商号変更・持株会社体制へ | ★★ | ||
| 梅原誠 | Bulova Corporationの株式を取得 | ★★ | ||
| 金森充行 | 公開買付けでミヤノを取得 | ★★ | ||
| 金森充行 | 純損失▲258億円に転落 | ★★ | ||
| 戸倉敏夫 | 戸倉敏夫が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 戸倉敏夫 | Prothor Holding S.A.(Manufacture La Joux-Perret)の株式を取得 | ★ | ||
| 戸倉敏夫 | 純損失▲89億円(デバイス事業減損) | ★ | ||
| 2016〜2025年時計事業への回帰と大治良高体制への移行 | 戸倉敏夫 | Frederique Constant Holding SAの株式を取得 | ★ | |
| 佐藤敏彦 | 佐藤敏彦が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 佐藤敏彦 | 純損失▲167億円 | ★ | ||
| 佐藤敏彦 | 営業損失▲96億円・純損失▲252億円 | ★★ | ||
| 佐藤敏彦 | 営業利益223億円・純利益221億円でV字回復 | ★ | ||
| 大治良高 | 大治良高が代表取締役社長に就任 | ★ |
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事実根拠:出所(シチズン時計)