決断
作る品目より、どれだけ作るかを先に決めてきた。1946年3月に社長へ就任した山田栄一氏は、終戦時に2,000人いた工員が約500名へ減るなか、ミシンや農具の案を採らず腕時計専業への復帰を選んだ。残った従業員の大半が時計工であり、戦中の規模に戻った工場なら再出発できると見たためである。1970年代に入るとクオーツで1969年のセイコーに3年遅れた後発の立場が固まり、1976年、完成品ではなく腕時計の動力部だけを他社へ売るムーブメント外販へ踏み切る。買い手が同じ市場の競合に変わることを承知で数量を取りに行き、1979年には国内量産のための増産投資に踏み切った。数量で取った位置は部品の値段が下がる市場でしか効かず、2000年代に同じ考えで広げた電子デバイスは、韓国・台湾勢との価格競争のなかで二度の減損を経て清算された。
2007年3月 電子デバイス事業から撤退
電子デバイス事業から撤退韓国・台湾勢の台頭で電子部品の価格競争が激化し、多角化で拡大したデバイス事業が収益を失ったため、不採算品目を名指しして撤退し重点品目へ資源を配分した選択同じ経営論点に直面した企業 | 事業売却・撤退業績の推移2006 2007 2012 売上高(億円) 3,359 3,361 2,797 経常利益率(%) 10.3 7.7 6.0 1976年 ムーブメントの外販開始
ムーブメントの外販開始クオーツ化でパーツを購入すれば時計を製造できる時代に入り、完成品の低価格競争が激化したため、駆動部分の量産と外販でコスト競争力を取りに行った選択同じ経営論点に直面した企業 | 経営計画・中期戦略業績の推移1975 1976 1981 売上高(億円) 514 464 1,321 経常利益率(%) 6.6 4.8 9.3 1946年3月 腕時計専業への復帰