1881年〜 服部金太郎の創業と精工舎による精密時計の国産化
- 1881年 服部金太郎が東京で時計商・服部時計店を創業
- 1892年 時計製造工場・精工舎を設立し時計製造を開始
- 1917年 会社組織に改めの服部時計店が発足
- 1932年 東京銀座に本社社屋が完成
- 1937年 精工舎のウオッチ部門が分離独立し第二精工舎に
- 1947年 小売部門を分離し和光を設立
時計商から製造工場を持つまでの二本立て体制
服部金太郎氏が1881年に東京で時計商の服部時計店を開き、輸入時計の販売と修理から事業を始めた。舶来の時計が高級品として流通していた時代に、金太郎氏は中古時計の売買と修繕で信用と資金を蓄え、やがて自前の製造へと踏み込む足場を築いた。翌1892年には時計製造工場の精工舎を設立し、掛時計の製造を開始した。販売を担う服部時計店と製造を担う精工舎という二本立ての体制が、のちのセイコーグループの原型になった。舶来品を売り歩く商人が、国内で時計をつくる工場主へと事業を広げた点に、この会社の技術志向の出発点があった。 [1][2][3]
- セイコーグループ 有価証券報告書【沿革】
- [1]1881年12月 服部金太郎が創業(服部時計店)
- [2]創業者は服部金太郎
- [3]1892年3月 時計製造工場の精工舎を設立し時計製造を開始
精工舎は掛時計から目覚時計、懐中時計へと製造の幅を広げ、輸入品に頼っていた国内の時計需要を自前の量産で置き換えた。時計は多数の微小部品を精度よく組み上げる機械であり、その製造は日本の近代工業の中でも高い加工技術を要する分野だった。精工舎で蓄えた精密加工と組立の力は、のちに電子部品や半導体、プリンタといった時計以外の精密製品へ枝分かれしていく技術の土台になった。ものづくりを通じて社会の不便を解くという性格は、この創業期に形づくられ、その後のセイコーグループへ受け継がれた。
- セイコーグループ 有価証券報告書【沿革】
- [1]1881年12月 服部金太郎が創業(服部時計店)
- [2]創業者は服部金太郎
- [3]1892年3月 時計製造工場の精工舎を設立し時計製造を開始
株式会社化と戦前・戦後に生まれた分社の系譜
1917年には会社組織へ改め、資本金500万円の株式会社服部時計店が発足した。個人商店から資本を集める株式会社への転換は、製造設備への投資と事業拡大を支える資本基盤を整える意味を持った。1932年には東京銀座に本社社屋が完成し、銀座の時計塔は東京の街の景観に溶け込む象徴になった。1937年には精工舎のウオッチ部門が分離独立して株式会社第二精工舎となり、腕時計の製造を担う専門会社が生まれた。この第二精工舎が、現在のセイコーインスツル株式会社へと連なる。製造機能を用途ごとに切り出して独立会社に育てる分社の手法は、この時期から始まった。 [4][5][6]
- セイコーグループ 有価証券報告書【沿革】
- [4]1917年10月 会社組織に改め資本金500万円の株式会社服部時計店となる
- [5]1932年6月 東京銀座に本社社屋完成
- [6]1937年9月 精工舎のウオッチ部門が分離独立し第二精工舎(現セイコーインスツル)となる
戦後の1947年には小売部門を分離して株式会社和光を設立し、銀座の高級時計・宝飾店として販売の顔を独立させた。製造は第二精工舎、小売は和光と、機能ごとに会社を分ける体制が戦後復興のなかで整った。時計は精密部品の集合体であり、腕時計の量産技術は戦後日本の機械工業を底上げする役割も担った。服部時計店を頂点に、製造・小売・部品供給が別会社として連なる緩やかな企業連合の姿は、のちの持株会社体制やグループ再編を先取りするものだった。機能ごとに会社を分けて束ねる仕組みが、この会社には早くから根づいていた。 [7]
- セイコーグループ 有価証券報告書【沿革】
- [7]1947年4月 小売部門を分離し株式会社和光を設立
- セイコーグループ 有価証券報告書【沿革】
- [4]1917年10月 会社組織に改め資本金500万円の株式会社服部時計店となる
- [5]1932年6月 東京銀座に本社社屋完成
- [6]1937年9月 精工舎のウオッチ部門が分離独立し第二精工舎(現セイコーインスツル)となる
- [7]1947年4月 小売部門を分離し株式会社和光を設立