日本ビクターの前半生は、持ち主が繰り返し入れ替わる会社が、それでも自分の技術で立とうとした記録である。1927年に米ビクタートーキングマシンの全額出資で横浜に生まれ、三菱・住友、東京芝浦電気、そして1954年の松下電器産業と、資本の主体は四度変わった。親会社が替わるたびに社長は外から送り込まれ、経営の方針もその都度引き直された。それでも蓄音器から受け継いだ音の技術だけは手放さず、レコードとステレオでは国内首位を保った。外から与えられる資本と、内に蓄えた技術。この二つの綱引きが、戦前から1970年代までの日本ビクターを動かし続けた。
だが、音で守った独自性は、家電の本流では競争優位にならなかった。カラーテレビはソニーより早く1960年に出しながら月産5万台にとどまり、ステレオの首位もパイオニアとテクニクスに明け渡した。1974年度の売上高1,125億円は6年前の1.78倍で、同じ期間に5倍を超えた両社との差は大きく広がった。増資を1967年で止め、時価発行に一度も踏み切らなかった安全第一の財務は、負債も金利も抑えた代わりに、攻めるための資金を手元に残さなかった。この行き詰まりのなかで細々と続いていたのが、1956年に始まり20年赤字を出し続けたVTRの開発である。打ち切られずに済んだその継続が、次章の世界標準を用意した。
1927年9月、蓄音機市場の拡大を見据えた米ビクタートーキングマシンが対日直接進出の形で日本ビクター蓄音機を設立した。外資系現地法人として横浜市南区中村町に最初の工場を構え、初代社長には米国側のB・ガードナー氏が就任して、蓄音機の製造と販売の体制を一から構築していく歩みを始めた。正義と奉仕を掲げる"大家族主義"を創業精神とし、輸入品に課された高率の関税が国産化を促す追い風となった。1929年1月には三菱合資・住友合資が資本参加し、日米合弁会社となった。戦前の日本市場における音響機器事業の草分けとして、同社は独特の位置を占めた。米国資本の直接進出として戦前日本に入った数少ない事例の一つとしても記憶されている。草創期から資本の主体が定まらない不安定さが常について回った。
1937年12月には戦時統制が強まるなかで東京芝浦電気(東芝)が資本参加し、1938年2月には米ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ(RCA)が資本を撤収して外資色が薄れた。1943年4月には政府の要請を受けて同社は社名を日本音響へと変更し軍管理工場に指定されたが、空襲で横浜工場の大半を焼失して全機能が停止する打撃を被った。1945年には商号を日本ビクターへと改め、国内資本の電機メーカーとしての歩みを始めている。戦後は経営難に陥って銀行管理下での再建を模索し、1954年に松下電器と資本提携を締結した。松下電器の支援のもと"ブイワン計画"による事業再構築をしたが、家電市場では松下電器やシャープなど大手との競争が激しく、苦戦が続いた。複雑な来歴は同社の経営に長く独特の制約を課した。親会社の変遷のたびに経営方針が揺らぎ、独立性の確保という課題が常に突きつけられた時期だった。揺れる資本構造が事業判断の制約となり続けた。
家電市場での苦戦が音響分野への特化を促し、同社は高品質なオーディオ機器の開発へと経営資源を集中させた。1960年には東京証券取引所への上場を上場し、1961年にはオーディオ専用の生産拠点を新設して音響機器の量産体制を構築した。蓄音機メーカーとしての出自を活かし、レコードプレーヤーやアンプなどの音響製品で独自の地位を確立することで、大手総合家電との直接競合を避けるという戦略を固めた。音響専業という立ち位置に、この時期から舵を切り直した。独立性を確保する意図が、この時期に打ち出された。音響を軸とする独自の立ち位置が、この時期からはっきりした形で固まった。
しかし1975年3月期には競争の激化による減益に直面し、オーディオ市場そのものの頭打ちが経営課題として重くのしかかった。米ビクター、三菱・住友、東芝、松下電器と親会社が四度にわたって変わる類例の少ない来歴のなかで、同社は常に自社の技術と製品で市場を開拓する独自路線を模索し続けた。長年の模索の果てに到達した成果こそが、次の時代の同社の命運を左右する家庭用ビデオテープレコーダー規格の開発だった。模索と試行錯誤の積み重ねが、後のビデオ戦争勝利という果実を準備した。音響から映像記録へと事業領域を連続的に広げる構想が少しずつ姿を現し始めた。
松下電器の資本参加を受けた直後の同社は、終戦以来ほぼ毎期赤字を重ねる状態から抜け出した。1954年3月期以降は毎期2割の配当を維持できるまで収益が戻り、電気蓄音機では国内生産の65%を占めた。1960年代半ばには、ステレオとレコードで高いシェアを持つ一方、この二つだけでは規模をもう一回り拡大できないとの見通しを経営陣自身が示していた。育成対象に挙げたのはカラーテレビ・VTR・楽器・特殊テープレコーダーで、いずれも同社には未経験の分野であり、大手電機各社と同じ出発点から始める競争だと自覚されていた。品質では劣らない代わりに価格は高いという高級品中心の売り方を、同社は自社の性格として掲げた。
1975年3月期、日本ビクターは競争の激化による減益に沈んだ。1967年10月からの1年間で631億円だった売上高は、1974年度に1,125億円と1.78倍になったにとどまる。同じ6年間でソニーは5.33倍の3,114億円、パイオニアは5.11倍の1,011億円へ伸ばし、1974年の税引利益で日本ビクターはソニーの12分の1、パイオニアの3分の1に置かれた。ラジオとテレビの生産金額が1973年に1968年の2.72倍へ拡大するなかで、中堅・零細までを含む業界平均の成長率にすら届かなかった。社長の百瀬結氏が1968年に掲げた、2年後に年商1,000億円という中期計画の水準へ実際に届いたのは、4年遅れてのことだった。
1954年3月期に2割配当へ戻った日本ビクターは、以後7回の増資を経ても2割の配当を維持した。増資は1967年11月で途絶え、多くの企業が手がけた時価での増資には最後まで手を出していない。こうした姿勢の根にあったのは、何より安全を重んじる財務の考え方だった。1974年9月期の自己資本比率はソニーの48.9%に対し36.7%と見劣りしたものの、現金比率は34.8%で家電専業15社のうち3番目に高かった。人員は重く、工場6,155人・営業1,798人の陣容は、売上規模がほぼ並ぶパイオニアを2,980人上回っていた。人件費率をパイオニア並みに抑えるなら2,768人、在籍者の33%が過剰という試算も立つ。1975年2月には本社を縮小し、本部を9から4へ、部課を133から76へ削減している。
日本ビクターがVTRの開発に着手したのは1956年、顧問の高柳健次郎氏をリーダーに据えてのことだった。米アンペックス社が回転ヘッドによる実用機を発表したのを機に、RCAをはじめ欧米各社が開発から退いていく局面での着手である。1959年10月には2ヘッド・ヘリカルスキャン方式の特許を、ソニー・松下電器より1週間ほど早く出願した。1968年に事業部制を敷いた際、放送用VTRは九つの事業部の一つである業務機器事業部が担う。家庭用では1970年にビデオ事業部を置いたが、翌年10月に3社共通のU規格で売り出したカラーVTRは月に数百台しか出ず、赤字は20年に及んで打ち切りを求める声が社内で高まった。それでも1972年春、ビデオ事業を支えてきた高野鎮雄氏は白石勇磨氏を呼び、U規格を超える家庭用VTRの開発を命じた。長期の不採算に耐える余力が残っていたことが、次の10年の競争優位を用意した。
日本ビクターがVHSで手に入れたのは市場そのものであり、失ったのはその市場で稼ぐ力だった。1976年に売り出した第1号機の値は25万6,000円。後発の日本ビクターが先行するソニーのベータマックスに対して選んだのは、規格を自社で抱え込まず他社へライセンスとして開き、味方を増やすことで標準を取る道だった。1984年には敵陣営にいた東京芝浦電気までが転向し、12年後にはソニー自身がVHSへの参入を表明する。売上高は1976年3月期の1,104億円から1985年3月期の6,501億円へ、経常利益は19倍の428億円へ膨らんだ。
しかし、味方を増やす戦い方は、標準を取った瞬間に自分へ跳ね返った。VHSの作り手は韓国企業まで含めて世界中に広がり、市場の成熟と重なって生産過剰の構図ができあがる。1987年3月期、日本ビクターは上場以来初の営業赤字に転じた。それを覆い隠したのは、皮肉にも規格を配った見返りである技術料収入であり、1988年度には130億円と経常利益の6割強を占めた。開発者としての取り分だけが残り、製品を作って売る本業からは利益が消えていた。1992年の2,400人削減と無配は、その構造がもはや隠せなくなった地点である。規格を開いて市場を作る企業は、作った市場の外に自分の居場所を用意しておかなければならない。
1976年10月、日本ビクターはVHS方式の第1号機HR-3300を25万6,000円で発売した。家庭用VTRでは前年にソニーがベータマックス方式を売り出して先行しており、後発として採ったのが、規格を自社で囲わず他社へライセンスを与えて陣営を広げる道だった。1984年にはベータ陣営にいた東京芝浦電気が転向し、日本ビクターは前日まで敵として争ったことにこだわらず、技術者を東芝の工場へ送って量産を助けた。12年続いた規格の争いは1988年1月、最後までベータを守ったソニーがVHSへ参入すると表明したことで終わる。ライセンスを配るほど味方は増え、標準としての地位は固まっていった。
VHS陣営づくりの交渉は、松野幸吉社長と当時副社長の徳光博文氏、常務の高野鎮雄氏らが担った。他社への呼びかけでは規格の採用を迫らず、『みなさん一緒にこのVTRシステムの完成に努力しましょう』と共同の完成事業として持ちかけた。企業間の交渉では製品の良し悪しに劣らずトップ同士の信頼が重要であり、それがなければ協力は得られないと、後を継いだ宍道一郎社長は述べた。ライセンスの供与に加えて膨大なOEM供給も行われ、VHSは1988年時点で年間生産4,000万台、累積普及2億1,000万台という産業に育った。
1975年3月期の日本ビクターは、売上高1,066億円のうちオーディオが52%、テレビが3割弱で、輸出は24%にすぎない、国内市場頼みの中堅メーカーだった。1976年3月期に売上1,104億円・税引利益10億円だった業績は、1981年3月期には売上3,600億円・利益140億円に達し、オーディオの構成比は5年前の48%から31%へ下がって、発売の時点では市場に存在すらしなかった製品であるVTRの比率が51%に達した。VHSの登場から5年で収益源が入れ替わった理由として、宍道社長は、業績の底でも研究費に手を付けなかったことを挙げた。苦しいときは研究費や宣伝費から削減するのが普通だが、同社は人も資金も注ぎ続け、それが新技術の芽を守ったという見方である。
1981年3月、日本ビクターは藤枝工場を新設した。VTRの需要は世界で一斉に立ち上がり、テープは作っても作っても伸びに追いつかない状態にあった。生産を増やして輸出へ振り向けた結果、1982年3月期の輸出比率は7割を超え、1981年から1982年にかけてのオーディオ不況も難なく乗り切っている。1979年6月に初の生え抜き社長となった宍道一郎氏の下で、1985年3月期の売上高は10年前の6.1倍にあたる6,501億円、経常利益は19倍の428億円に達し、ビデオ部門は売上の68%を占める最大の収益源に育った。
1982年に売り出したコンパクトビデオHR-C3は、バッテリーを含めて2キロと、従来のポータブル型の半分の重量に収まった。据え置き型からポータブルへという流れのなかで各社が100グラム単位の軽量化を競い、買い手はまだ小さくなるとみて購入を控えていた。カセットを小型にしつつテープ幅は2分の1インチのまま残し、専用アダプターで既存のVHSとの互換を保つ。回路にICを大幅に取り入れて部品点数を40%削減し、消費電力を半分に落としてバッテリー重量も半減させた。モーターをシリンダー内に収め、基板の裏にも部品を付けて空間を三層に使い、CADで設計精度を高めている。35ミリ映写機と16ミリ撮影機を作っていた時代のプレス・機械加工のノウハウが社内に残り、心臓部を25年間外注しなかったことが、この精度を可能にした。
1982年3月期を頂点に、日本ビクターの利益率は反転して下がり続けた。輸出が8割を超えるVTR業界は1985年秋からの円高で軒並み低採算に陥り、そこへ製品の値崩れが重なる。1987年3月期には上場以来初の営業赤字に転落し、50億円強の金融収支の黒字と年100数十億円の技術料収入によって、辛うじて経常赤字を免れた。頂点で10%近くあった売上高経常利益率は2%台まで落ち、売上高は3年続けて減少した。同じ1987年8月には親会社の松下電器産業がハイファイVTRに10万円の値を付けて安値攻勢をかけ、国内市場の値崩れは一段と進む。円高不況を海外生産と成長商品でしのげたのはこの時が最後だったと、のちに坊上卓郎社長は振り返っている。
1987年1月、日本ビクターは新たなVHS高画質時代の始まりと銘打ってS-VHSを発表した。周波数帯域を大幅に広げ、当時のテレビ放送を上回る水平解像度430本を実現した規格で、VHSに対しては上方への片側互換性しか持たない。互換性を金科玉条としてきた陣営にとって一大決断を要したと、ビデオ研究所長の廣田昭氏は述べている。1988年にはS-VHSを製造する会社が8社に増え、国内のVTRデッキ生産に占める比率は前年の5%から20%程度へ高まる見通しとなり、S-VHSの売上高も前期の約200億円から600億円へ拡大する見込みとなった。同年11月には30億円を投じたショールームを東京・銀座に開き、弱いとされてきた販売の側を補おうとした。
三星電子にも1983年にライセンスを出すなど、供与先は韓国企業を含めて世界中に広がった。VHSが世界標準の座を得たその時点から、VTRは利益の出ない産業になっていた。高野鎮雄副社長は、ファミリーが膨らみすぎたと感じながらも、政治問題をはじめ各方面の圧力を受け、技術の供与を断れなかったと認めている。市場が成熟する時期とも重なって作りすぎの構図が固まり、1988年度には130億円の技術料収入が経常利益の6割強を占めた。その半分は韓国勢を含む下位メーカーから入ったものだった。S-VHSでは同じ失敗を繰り返さないため、市場が広がる速さを見極めつつ供与先を少しずつ増やす方針をとる。その特許料収入も1990年3月期の166億円を頂点に、保護期間の満了とともに減り始めた。
売上の83%をAV機器が占め、その47%がビデオ、輸出比率は56%という単品頼みの構成だったため、世界的なAV不況はそのまま業績を直撃した。1991年3月期の営業利益は40億円と6年前の7分の1に落ち、売上高営業利益率0.63%は電機業界平均の5.08%に1桁及ばなかった。カメラ一体型VTRでも、1989年に出たソニーの8ミリTR-55に先を越されたまま巻き返せていない。1990年に54歳で社長に就任したのが坊上卓郎氏である。細分化していた事業部は1992年2月に七つの事業本部へ統合され、各本部は社内資本金を割り当てられて独力で稼ぐよう求められた。同じ年の4月には全国の販売子会社を本体に取り込んで流通を短くし、8月には2,400人の削減と無配を決めた。世界標準を取った企業が、その標準ゆえに稼げなくなる——VHSの17年は、規格を開くことの代償を示している。
1993年3月期、日本ビクターの単体売上高は前期比15.4%減の5131億6200万円に減少した。経常損益は261億2600万円の赤字となり、1960年の上場以来初めて配当を見送った。赤字の穴を埋めてきた特許収入も、頂点の166億円から1992年度は122億円へ減っていた。前年8月の再建策に沿って国内外の在庫を1年で640億円分処分し、出向と契約社員の雇い止めを含めて3,000人を減らした。VTRの組立は横須賀と横浜の2工場へ寄せ、ドイツのオーディオテープ工場を閉じ、ハードディスク駆動装置からも退いた。ドイツの工場清算に伴う税の負担は、5年後の1998年3月期まで尾を引いた。
1990年に就任した坊上卓郎社長は、事業本部ごとに分かれていた研究から製品化の近い題目を選び、社長直属の新風事業として開発の優先権を与えた。1992年10月に売り出したDVカラオケは、動画をCDに収める方式で、発売から半年で約1万2000台を納めた。米ヒューズエアクラフトと共同で開発した業務用ILAプロジェクターは、1台1800万円で国内に投入された。ILAはその後、大画面の投写機で大きなシェアを握る製品へ育った。一方、セガと組んだゲーム機ワンダーメガは価格と小型化で評価を得られなかったという。弱みの実装技術を補うため、1993年6月から松下電器の生産技術研究所の技術者を横浜工場へ迎えた。
1994年6月、松下電器産業で台湾松下の総経理などを務めた守随武雄氏が社長に就任した。内部から昇格した社長が15年続いた後の、親会社からの起用だった。就任時には経常赤字から抜け出す見通しが立っており、守随氏は技術主導でコスト意識が浸透していない点を課題に挙げた。連結の最終損益は1995年3月期に5億9100万円の黒字に転じ、1997年3月期には45億8600万円まで持ち直した。1995年10月にはシンガポールにアジア・中近東の本社機能を担うJVC ASIAを置き、海外を地域ごとに任せる体制づくりに入った。開発への自負を収益へつなぐ仕組みを、親会社から来た社長のもとで組み直す段階に入った。
1998年3月期を最終年度とする3カ年計画「ビクター・ビジョン」は、値下がりの続く従来型のAV機器に頼らない収益構造を目標に置いた。デジタルビデオカメラやMD、ハイビジョンテレビなどの新AV商品は、民生機器の売上に占める比率を14%から16%へ上げた。最終年度の連結売上高は9163億600万円と2.9%増えたが、国内は3.9%減り、伸びたのは8.6%増の海外だった。製品の値下がりで営業利益は100億3300万円と12.9%減った。フランスの工場清算などの特別損失も重なり、最終損益は47億300万円の赤字に転じた。計画は業績を底から戻したものの、稼ぐ力を立て直すところまでは届かなかった。
1998年1月に発表した後継計画「Re-Value 21」は、2001年3月までに戦略事業の強化とグローバル化、構造改革を進める内容だった。日本・米州・欧州・アジア・中国の5極に、開発から販売までを現地で立案する経営陣を置いた。1997年6月の米州統括会社に続き、1998年4月にはロンドンにJVC Europeを設け、海外の統括会社は4社となった。為替に左右されない体制を目指し、海外生産比率は36%から41%へ上がった。放送のデジタル化に向けては、VHSを土台にした業務用のDigital-Sが米Foxテレビや英BBCに採用された。家庭用では1997年秋に米国でデジタル記録のD-VHS規格を発表した。
1999年3月期は83億1500万円の最終赤字となり、守随氏は固定費と在庫をともに1割以上減らす方針を打ち出した。映画の権利取得を担った米子会社ラルゴ・エンタテインメントは1999年4月に大きく縮めた。同年11月にはテイチクへ資本参加し、音楽ソフトの品揃えを厚くした。2000年3月期は売上高9500億円、最終黒字45億円を目標に掲げた。実績は売上高8702億3500万円と前期から8.1%減り、最終損益は53億4100万円の赤字に終わった。守随氏は業務用・部品・ソフトへ比重を移そうとしたが、それらの伸びが止まり、民生機器頼みの収益構造はほぼ変わらなかったと認めた。
2000年4月、AV・マルチメディアや部品・デバイスなど4つの社内カンパニーを設け、開発から販売までの権限を各カンパニーへ移した。守随氏は2003年3月期に連結売上高1兆円を掲げ、営業利益を民生・部品・エンタテインメントで3割ずつ稼ぐ構成を描いた。同年10月には、松下電器と独立して競う従来の方針を改め、松下グループとの協業を検討すると表明した。2001年6月に社長を継いだ寺田雅彦氏は、同年4月に始まった「創生21計画」で営業利益率3.9%を目標に据えた。しかし2002年3月期は営業損益121億円、最終損益446億円の赤字となり、寺田氏は計画と実態の乖離を認めた。
寺田氏はまず、在庫を積んで工場の稼働益を出す循環を断ち、2002年3月期に総資産を733億円圧縮した。拠点は37から30へ減り、製品はフルラインをやめてビデオカメラ・ディスプレイ・DVDに絞った。最終損益は2003年3月期に63億3500万円の黒字に転じ、翌期の営業利益も13%伸びた。2004年1月の「躍進21計画」は、2007年3月期に売上高1兆1000億円、営業利益550億円を目標とした。ところが2006年3月期の売上高は8068億9900万円にとどまり、最終損益は306億700万円の赤字となった。上期の悪化を受けて2005年11月にカンパニー制を解き、小さな事業グループへ組み替えた。
2007年3月期も78億9100万円の最終赤字となり、会社は創業80周年の年を自主再建の元年と位置付けた。同年6月には欧州カンパニーを率いた佐藤国彦氏が社長に就任した。7月にケンウッド、スパークス、松下電器と契約を結び、8月に第三者割当で350億円を調達した。松下電器の議決権比率は52.7%から36.9%へ下がり、親会社ではなくなった。2008年3月にはモータ事業とサーキット事業を手放し、同期の最終赤字は475億2100万円に膨らんだ。5月にケンウッドとの統合契約を結び、9月に上場を廃止して、10月設立のJVC・ケンウッド・ホールディングスの傘下に入った。VHSで世界の標準を握った会社は、規模の小さな同業と持株会社を組み、独立の歴史を閉じた。
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|---|---|---|---|---|
| 1927〜1975年親会社交代下での音響特化 | 外資の出先としての出発と、その後四度に及ぶ資本の移り変わり 1927年、米ビクタートーキングマシン社が高率の輸入関税を避ける国産化拠点として、資本金200万円を全額出資して横浜に日本ビクター蓄音器を設立した創業の判断。レコードと蓄音器の製造販売から出発し、"音に生きるビクター"の伝統がここに始まった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 三菱合資・住友合資が資本参加し日米合弁会社に | ★ | |||
| 横浜本社工場を新設 | ★ | |||
| 東京芝浦電気が資本参加 | ★ | |||
| RCAが資本撤収 | ★★ | |||
| 日本音響株式会社に商号変更(軍管理工場に指定) | ★★ | |||
| 日本ビクターに商号変更 | ★ | |||
| 松下電器産業の資本参加 | ★★ | |||
| 東京・大阪両証券取引所市場第一部に上場 | ★ | |||
| オーディオ生産拠点を新設 | ★ | |||
| US JVC CORP.を設立 | ★ | |||
| 音楽事業部門をビクター音楽産業として分離独立 | ★★ | |||
| 競争激化により減益へ | ★ | |||
| 1976〜1992年オープン標準化と収益基盤の喪失 | 独自開発したVTR規格を他社へ広く供与して押し広げた標準化の戦い 1976年9月、日本ビクターがビデオ事業部長の高野鎮雄氏を中心に独自の家庭用VTR規格VHSを商品化し、親会社・松下電器の採用を得たうえで、日立製作所・シャープ・三菱電機など他社へも規格を供与した経営判断。オーディオ専業から映像記録への転身を決めた一手にあたる。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 藤枝工場を新設 | ★ | |||
| S-VHSを発売 | ★ | |||
| 1993〜2008年VHS後の赤字と守随体制の再建、カンパニー制からケンウッドとの経営統合まで | 上場以来初の無配に沈んだ経営再建と、単一規格に偏った体質の改造 1993年3月期、日本ビクターは連結で約430億円の最終赤字、単体で約261億円の経常赤字を計上し、1960年の上場以来初めて無配へ転落した。坊上卓郎社長は前年来の大規模なリストラと、社長直属の"新風事業"による個性派開発企業への転換を進め、VHSの成功が固めたVTR偏重の体質からの脱却を図った経営判断である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| アジア統括拠点を設立 | ★ | |||
| 傑偉世投資有限公司を設立 | ★ | |||
| JVC Europe Limited(欧州統括会社)を設置 | ★ | |||
| テイチクに資本参加 | ★ | |||
| カンパニー制を導入 | ★ | |||
| 佐藤国彦 | 松下電器の連結からの離脱と、共同株式移転による単独上場会社としての幕引き 2007年7月24日、日本ビクターはケンウッド、スパークス インターナショナル(ホンコン)リミテッド、親会社の松下電器産業との間で株式引受契約書と資本業務提携契約書を締結した。8月10日に払い込まれた第三者割当増資は107,693千株・350億円で、ケンウッドが17.00%、スパークスが運用する2つのファンドが合わせて12.75%を持った。 松下電器産業の所有株式数133,227千株は動かないまま、持株比率だけが52.40%から36.81%へ下がり、親会社からその他の関係会社へ退いた。53年続いた連結子会社の関係は、株式の譲渡ではなく希薄化によって解かれている。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 佐藤国彦 | モータ事業を日本産業パートナーズ設立の新会社へ譲渡 | ★★ | ||
| 佐藤国彦 | サーキット事業をメイコーへ譲渡 | ★ | ||
| 吉田秀俊 | ケンウッドと共同で株式移転によりJVC・ケンウッド・HDを設立 | ★★ | ||
| 旧日本ビクター川崎本社工場を売却 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(日本ビクター)