シチズン時計電子デバイスの選択と集中で携帯電話向けカメラ部品と小型液晶パネルから撤退した決定

時計に次ぐ第二の柱をどこまで抱えるか——韓台勢との価格競争が奪った収益と358億円の特別損失

時期 2007年3月
意思決定者(推定) 梅原誠 社長
論点 電子デバイス事業の選択と集中
概要
2007年3月、シチズン時計が中期経営計画で電子デバイス事業の選択と集中を掲げ、カメラ用CMOSモジュール事業、小型液晶パネル事業(C-STN、TFT)、フロッピーディスク装置事業からの撤退を決めた経営判断である。2009年度に営業利益率10%を取り戻すことを目標に据えた。
背景
1990年前後から時計で培った小型精密加工の技術を電子部品へ振り向け、非時計部門は売上の半分を占めるまで伸びていた。しかし2006年3月期の売上高3,359億円・営業利益305億円を頂点に収益が崩れ、営業利益率は2004年度の10.4%から2006年度は6.7%の見込みへ落ちた。
内容
撤退3事業を名指しし、液晶バックライト事業と音響事業は品種を絞って収益改善を図る一方、チップLED、水晶デバイス、自動車部品、キーシート・モジュールを重点に据えた。2008年1月には米Bulovaを取得し、時計側への資源配分と同時に進めた。
含意
リーマンショックが重なった2009年3月期に不採算3事業の撤退で特別損失358億円を計上し、当期純損失258億円へ沈んだ。電子デバイスの売上は2008年3月期の992億円から2010年3月期620億円へ縮み、2013年3月期にも減損で特別損失257億円を計上した。
筆者の見解

削った事業と残した事業

2007年の決定を難しくしていたのは、電子デバイスが失敗した事業ではなく、直前まで時計に並ぶ規模を持っていた事業だったことである。2006年3月期のセグメント売上は時計1,250億円に対して電子デバイス1,111億円で、第二の柱という言い方は誇張ではなかった。撤退の判断は、赤字事業を切る作業というより、伸びると信じて集めた事業のうちどれを手放すかを品目の水準で決める作業であった。カメラ用CMOSモジュール、小型液晶パネル、フロッピーディスク装置という3つの名前は、当時の日本の電子機器産業がどこで競争力を失ったかの記録にもなっている。

判断の当否は、その後の数字が答えている。2009年3月期の特別損失358億円は、2007年の中期経営計画が掲げた営業利益率10%という目標を最初の年に無効にした。一方で、削られた資源が向かった先の時計事業は、2025年3月期に1,771億円へ達し、電子デバイスの405億円と4倍以上の開きがついた。1991年に前川日出夫氏が語った「本業で成功しない企業が多角化に乗り出してもほとんど失敗に終わる」という前提は正しかったとしても、本業で世界一を取った会社の多角化もまた失敗し得たという事実が、この撤退の後に残っている。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

時計で稼いだ精密加工技術を電子部品へ振り向けた十五年

電子デバイスへの傾斜は1990年前後から始まっていた。時計製造で培った精密加工技術を電子技術へ応用し、フロッピーディスク駆動装置やプリンター、ICカード事業を伸ばす方針であった。中島迪男社長は1991年に、5年後の売上高5,000億円のうち非時計部門で3,000億円を稼ぎ、利益率も時計部門並みにすると語っている。売上構成では1988年度に時計40%・非時計60%、1990年度には時計50%・非時計50%へと非時計側が半分を占めた[1][2]

参入の考え方は、本業で首位を取ったうえで隣接領域へ移るというものであった。前川日出夫取締役特販事業部長は、本業で成功しない企業が多角化に乗り出してもほとんど失敗に終わる、時計で確固たる基盤を築いたうえで多角化事業へ経営資源を集中投下すべきだと述べている。狙う商品もHDDは2.5インチ、液晶ディスプレイは4インチ以下と、小型で量産の効く領域へ絞られた。ムーブメントで成功した型を、そのまま電子部品へ持ち込む発想であった[3][4]

2006年3月期を頂点に崩れた収益

数字の頂点は2006年3月期であった。連結売上高3,359億円・営業利益305億円を記録した後、業績は頭打ちに転じる。2007年3月期は売上高3,361億円と横ばいながら営業利益は219億円へ、当期純利益は71億円へと半減した。営業利益率で見れば、2004年度の10.4%を頂に下降線をたどり、2006年度は6.7%になる見込みであった。組織を広げた分の負担が、収益の側から先に表れた[5][6]

収益が崩れる一方で、グループの形は固められていた。2005年10月には株式交換によってシチズン電子、ミヨタ、シメオ精密、狭山精密工業、河口湖精密の5社を完全子会社化した。2007年4月には持株会社シチズンホールディングスへ移行し、時計・工作機械・電子デバイスを並べる体制が整った。撤退の決定は、この統合が完成する直前に置かれている。器を整える作業と、中身を減らす作業が同じ時期に進んだ[7]

決断

撤退する品目を名指しした中期経営計画

2007年3月、シチズン時計は中期経営計画で電子デバイス事業の選択と集中を掲げた。撤退するのはカメラ用CMOSモジュール事業、小型液晶パネル事業(C-STN、TFT)、そしてフロッピーディスク装置事業である。液晶バックライト事業と音響事業については、撤退ではなく品種を絞り込んで収益の改善を図る方針が示された。どの事業をやめるかを品目の水準まで下ろして明示した点で、それまでの多角化路線からの転換が読み取れる[8][9]

残す側も同時に示された。チップLED事業、水晶デバイス事業、自動車部品事業、キーシート・モジュール事業を重点に据え、市場で先行できる領域へ資源を寄せる方針である。数値目標としては、2009年度に営業利益率10%を掲げた。2004年度に一度到達した水準へ3年で戻すという設定であり、撤退はその逆算から出てきた。韓国・台湾のメーカーの台頭で日本の電子部品が収益性を失った産業の変化が、その前提にあった[10]

時計への資源配分と同時に進めた

撤退の決定は、時計側の買収と並行して進められた。2008年1月に米Bulova Corporationの株式を取得し、北米の時計ブランドを手に入れている。同じ2008年の10月には公開買付けで株式会社ミヤノを取得し、工作機械事業を強化した。電子デバイスを縮める一方で、時計と工作機械には資金を投じるという配分であり、削る事業と伸ばす事業の選別が同じ年度のうちに実行された[11]

電子デバイスの規模はまだ大きかった。2007年3月期のセグメント別売上は時計1,329億円、電子デバイス991億円で、電子デバイスは時計に次ぐ位置にあった。2006年3月期には1,111億円と時計の1,250億円に迫っていた売上を、自ら削る判断である。第二の柱として育てた事業を、頂点から2年のうちに縮小へ向ける決定であった点に、当時の収益の切迫が表れている[12]

結果

358億円の特別損失と258億円の純損失

撤退の代価は2009年3月期に表れた。電子デバイスの不採算3事業からの撤退に伴い特別損失358億円を計上し、当期純損失は258億円に達した。リーマンショックによる需要の落ち込みが重なり、営業利益も14億円まで縮んだ。中期経営計画が掲げた2009年度の営業利益率10%には遠く及ばず、計画が想定していた3年の回復は、より深い赤字の処理に置き換わった[13][14]

事業の規模も縮んだ。電子デバイスのセグメント売上は2008年3月期の992億円から2009年3月期812億円、2010年3月期620億円へ落ちた。2013年3月期には電子デバイス事業の減損で特別損失257億円を計上し、当期純損失89億円を出している。同期のセグメント売上は598億円で、5年前の6割の水準であった。撤退は2007年の一度で終わらず、二度の減損を挟んで10年近く続いた[15][16]

持株会社の解消という総括

2016年10月、シチズンホールディングスは持株会社体制を解消し、シチズンビジネスエキスパートを合併して商号をシチズン時計へ戻した。戸倉敏夫社長は、デバイスは厳しかったと振り返っている。時計であれば競合はスイス勢と国内のセイコー、カシオの2社ほどだが、電子部品では韓国や台湾の巨大企業がいくらでもいる。持株会社は売上規模1兆円ほどで主要事業が2つ3つあって初めて機能する、というのが解消の理由であった[17][18]

2007年の判断そのものについては、戸倉社長が2017年の取材でより踏み込んだ説明をしている。2007年当時の経営陣には、時計事業はもう成熟産業なのでデバイスを成長事業にしようという見方があったのだろう、ただデバイスは時計以上に競争が激しく投資も必要になり、当初もくろんでいたほどは伸びなかった、という総括であった。そのうえで前年に持株会社をやめて時計事業へもう一度注力すると宣言したと述べている。撤退の決定と、それを含む多角化路線の否定が、9年を隔てて言葉になった[19]

出典・参考

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