セイコーエプソン電子デバイス事業の縮小と、中小型液晶ディスプレイ事業資産の譲渡
世界で1位になれる事業だけを残すのか、部品と完成品の両輪を保つのか——8年をかけた電子デバイスの畳み方
- 概要
- 2003年1月、セイコーエプソンは中期経営計画「SE07」で電子デバイス事業の使命を置き替え、映像分野の完成品へ資源を集める方針を社内に示した。世界で1位か2位を取れない事業から手を引くという1990年代からの基準を、部品事業そのものに当てはめた判断であった。液晶ディスプレイの分社を経て、2010年4月に中小型液晶ディスプレイ事業資産の一部を譲渡するまでに8年を要した。
- 背景
- 1999年から2000年の通信・携帯電話ブームで、エプソンは小型液晶ディスプレイの世界シェア首位を握って急成長した。ITバブルの崩壊とともに業績は崩れ、2002年3月期の連結は経常利益193億円に対して当期純損失184億円に沈んだ。完成品を持たない部品事業は、市況と取引先の製品の売れ行きに収益を左右された。
- 内容
- 草間三郎社長は「これからは、コア(中核)技術に忠実に製品を作る。落下傘型の事業はやらない」と述べ、デバイス事業をプリンターやプロジェクターといった自社の完成品を支える役へ置き直した。基幹デバイスにならないものは縮小・撤退の対象とし、液晶ディスプレイは2004年10月に三洋電機との合弁として分社した。
- 含意
- 縮小の途中でリーマン危機が重なり、2009年3月期に当期純損失1,113億円を計上した。中小型液晶は2010年4月に事業資産の一部を手放し、プリンティングがほぼ唯一の主柱に戻った。基準を掲げてから畳み終わるまでに要した8年が、部品と完成品を同時に抱えることの難しさを示している。
決めた基準と、切り離すまでの距離
安川英昭氏が掲げた「1位か2位でなければ手を引く」という基準は、10年赤字だったプロジェクター用液晶パネルを残して世界首位へ育てた実績を持っていた。その同じ基準を部品事業そのものに当てはめたのが、草間三郎社長の「落下傘型の事業はやらない」という宣言であった。他社の売れ行きに収益を委ねる事業を主柱から降ろすほかないと踏んだのは、完成品を持つシャープとの業績差が目の前にあったからだとみられる。
ただ、宣言から液晶を手放すまでの8年に、会社は2006年3月期の179億円、2009年3月期の1,113億円という損失を重ねた。分社という畳み方は雇用と技術を外に置いたまま残すぶん、赤字も抱えたまま歩む道であり、月単位で進む値崩れには追いつかなかった。基準を決めることと、決めた基準で実際に事業を切り離すことのあいだには、これだけの距離があったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
時計から枝分かれした四本柱
セイコーエプソンの多角化は、時計の技術から枝分かれして育った。クオーツ時計からは携帯電話などに使う計時用の水晶振動子が生まれ、デジタル時計からはパソコンや携帯電話向けの液晶ディスプレイ、そのコントローラー、カスタムLSIが生まれた。安川英昭会長は「時計という精密加工技術をルーツとするからこそ、インクジェットプリンターをはじめ数々の多角化事業を生み出せる」と説明していた[1]。
1999年から2000年にかけての通信・携帯電話ブームで、エプソンは小型液晶ディスプレイの世界シェア首位を握った。ところが2001年、ITバブルの崩壊とともに業績も崩れた。2002年3月期の連結は売上高1兆2,741億円・経常利益193億円に対して当期純損失184億円、2002年度上期は単独で29億円の経常赤字に沈んだ。同じ携帯電話向け液晶を持つシャープが同期に増収を確保したのに対し、エプソンは13%の減収であった[2][3]。
1位になれないなら切るという基準
1980年代、エプソンは時計事業から脱皮するためにエレクトロニクス分野へ手を広げた。しかしパソコンはNECとの互換機をめぐる訴訟で撤退に追い込まれ、フロッピーディスクドライブやハードディスクドライブ、大型液晶パネルはいずれも体力に勝る大手との価格競争に敗れた。この経験から、当時社長の安川英昭氏は世界で1位か2位のシェアを取れない事業から撤退する「ナンバーワン作戦」を掲げた[4]。
基準は撤退の一本槍ではなかった。いま赤字でも将来1位を取れる見込みがあれば資源を集めるという裏側を持ち、10年間赤字を出していたプロジェクター用液晶パネルはこの側で残された。1994年にTFT部長となった大月康正氏は「近いうちに店じまいすることになるな」と覚悟して赴任したが、開発チームは1位を見込める製品として同パネルを選び出し、1995年に黒字へ転じた[5][6]。
決断
中期計画「SE07」とデバイス戦略の180度転換
2001年4月に社長へ抜擢された草間三郎氏は、1990年代の急成長を演出した電子デバイス部門の出身であった。その本人が2003年1月末、社長就任後初の中期経営計画「SE07」を社内に発表し、自ら「デバイス戦略の180度の転換」と呼んだ方針を示した。計画は経営企画部門ではなく社内の技術者が中心となって取りまとめたもので、会社全体の見取り図を書き替える中身を含んでいた[7]。
転換の中身は、デバイス事業の使命の置き替えにあった。各種プリンターやビデオプロジェクターなど自社が独自の強みを持つ完成品を生み、その市場競争力を高める支えを主務とし、基幹デバイスにならないものは縮小・撤退の対象とする。草間社長は「これからは、コア(中核)技術に忠実に製品を作る。落下傘型の事業はやらない」と述べ、他社の製品戦略や市況に依存する事業へ過度に集中投資してきたことへの自戒をにじませた[8]。
分社という畳み方と、縦割りの解体
畳み方は一括の売却ではなく、段階を踏む道を選んだ。2002年10月には、2000年に米テキサス・インスツルメンツから買収したばかりの液晶周辺ICの主力生産工場エプソン鳩ケ谷を閉鎖した。2004年10月には液晶ディスプレイ事業を三洋電機の中小型液晶部門と統合して三洋エプソンイメージングデバイスとして分社し、事業規模を約3,600億円へ広げた。2005年10月には水晶デバイス事業もエプソントヨコムとして分社した[9][10][11]。
同時に、独自性を尊ぶ社内の文化にも手が入った。全事業所の施設管理を見直す過程で、車で5分とかからない距離にある富士見事業所と諏訪南事業所で、同じ半導体製造用クリーンルームの消費電力コストが2倍、管理・保守の人件費が30%違うことが判明した。本社の知的財産室は150人で、知財関連の法務スタッフを400人抱えるキヤノンとは比べようもなかった。草間社長は業務改革を全社に敷いた[12][13]。
結果
失速と、外から書かれた「憂鬱」
基準は明快でも、畳む速さは市場に追いつかなかった。2006年3月期は1年のうちに4度も業績予想を下方修正し、5%前後を保っていた営業利益率は1.7%へ落ちた。半導体事業を中心に約450億円のリストラ損失を計上して当期純損失179億円に転落し、財務全般を取り仕切ってきた木村登志男副社長らが2006年3月に辞任した。2007年3月期も当期純損失71億円で、2期続けての赤字であった[14][15]。
中小型液晶の単価は1年で約30%下がった。エプソンの中小型液晶の8割は携帯電話向けで、1990年代から築いた欧米大手キャリアとの太いつながりという強みが、価格の安い新興国向け端末の拡大によって裏目に出た。子会社のエプソンイメージングデバイスは2006年3月期に約90億円の営業赤字となり、2007年3月期の赤字は300億円近くに膨らむ見通しであった。週刊東洋経済はこの会社を「セイコーエプソンの憂鬱」と書いた[16]。
1,113億円の損失と、液晶の手放し
2008年秋の金融危機が、途中の縮小に重なった。2009年3月期の連結は売上高1兆1,224億円へ縮み、営業損失16億円、当期純損失1,113億円を計上した。電子デバイス事業の減損が損失の中心で、統合以来もっとも重い赤字であった。2010年3月期も当期純損失197億円が続き、2010年4月にエプソンイメージングデバイスの中小型液晶ディスプレイ事業資産の一部を譲渡して、中小型液晶から実質的に退いた[17][18]。
1位になれないなら切るという基準を掲げてから、液晶を手放すまでに8年が過ぎた。残ったプリンティングは2015年3月期に営業利益1,314億円・当期純利益1,125億円と最高益を更新し、収益はこの一本へ寄った。液晶を移した先のエプソンイメージングデバイスは2017年2月に吸収合併で解散し、四本柱の一角として抱えた中小型液晶の痕跡は社内から消えた[19][20]。
- 日経ビジネス 2002年4月8日号「セイコーエプソン プロジェクター用液晶パネル 1位になれないなら切る」
- 日経ビジネス 2003年1月20日号「ケーススタディー セイコーエプソン デバイス戦略を大転換」
- 週刊東洋経済 1998年7月25日号「編集長インタビュー 安川英昭 セイコーエプソン社長 管理者層の意識改革こそ復活の源泉」
- 週刊東洋経済 2007年3月3日号「なぜ優等生企業は失速したか 薄れた差別化の優位 セイコーエプソンの憂鬱」
- セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
- セイコーエプソン 有価証券報告書(2002年3月期・2006年3月期・2007年3月期・2009年3月期・2010年3月期・2015年3月期)