セイコーエプソン規制の削減日程に先立つフロン全廃の決定と、外注企業を含む洗浄工程の切り替え

自社の工場を直せば済むのか——200社の外注先にフロンレス洗浄装置を入れさせる費用は誰が負うのか

時期 1988年12月
意思決定者(推定) 中村恒也 社長
論点 環境規制への先行対応と取引先の巻き込み
概要
1988年末、セイコーエプソンの中村恒也社長は1993年までにフロンの使用を止めると決めた。1987年に採択されたモントリオール議定書が定める削減日程よりも早い目標であった。同年12月に専従組織「フロンレス推進センター」を長野県茅野事業所に置き、1年後の1989年末には使用量をピークから半減させた。
背景
半導体や液晶の歩留まりは洗浄の確かさに支えられ、人体に無害で洗浄力の高いフロンは精密部品の現場に広く行き渡っていた。コストが製品原価にさほど響かないため、フロン問題が持ち上がるまで全社の使用量さえ把握されていなかった。1988年度の使用実績は1,400トンにのぼった。
内容
洗浄工程の必要性をTQCの手法で点検して6%、水切り乾燥をスピンドライヤーへ切り替えて26%、蒸散防止と回収の徹底で18%を削り、1年で半減にこぎつけた。もっともここで現場の管理による削減は限界に達し、代替技術の確立と、200社ほどある外注企業への導入という難所が残った。
含意
フロンレス洗浄装置は外注先の付加価値や生産性に直接は寄与せず、純水洗浄に必要な排水処理装置まで含めれば負担は重い。会社は機械メーカーと安価な洗浄機の共同開発に取り組み、自社の技術を公開する道を選んだ。1993年に全世界でのフロン全廃を達成し、30年後には環境性能が製品の売り文句になった。
筆者の見解

先に決めた期限と、外へ回らない金

1988年末に中村恒也社長が1993年という期限を決めたとき、動機は理想ではなく、フロンが使えなくなれば生産が止まるという読みであった。1,400トンの用途を数え直したら6割強が水切り乾燥で、洗わなくてもよい工程まで念には念を入れてフロンで洗っていた。実態の把握から始めて期限を規制より前に置いたのは、外から日程を決められる前に自分の日程で動くための手立てだったとみられる。

ただ、話が美談で終わらないのは、費用の出どころが最後まで解けなかったからである。自社の工場は1年で使用量を半減させたが、200社ほどの外注先にとってフロンレス洗浄装置は売上にも生産性にも効かない出費で、純水洗浄に要る排水処理装置まで含めれば負担はさらに重い。安価な洗浄機を機械メーカーと共同で開発し、技術を公開して他社の知恵も借りると述べたのは、一社では引き受けきれない費用を業界の側へ広げる算段でもあったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

エレクトロニクス産業は同時に洗浄産業であった

半導体や液晶といった電子部品の歩留まりは、洗浄の確かさに支えられている。洗浄の溶剤としては長くベンゼンやアルコールなどの引火性溶剤が使われたが爆発の危険があり、次に採り入れられたトリクロロエチレンなどの塩素系有機溶剤は吸入すると人体への影響が大きい。それらを一挙に解決する溶剤として、人体に無害で洗浄力の抜群なフロンが1960年代に登場していた[1]

1987年に採択されたモントリオール議定書で、日本でもフロンの段階的な生産削減が決まった。削減の日程は1986年の使用水準を上限とし、その80%、さらに50%へと絞っていくものであった。フロン問題が持ち上がるまで、同社の洗浄溶剤への関心は薄かった。万能な溶剤であり、コストも製品原価に響くほどではないため、全社でどれだけの量を使っているかさえ把握されていなかった[2][3]

量を数え直してから対策を組む

1988年8月、フロンの使用実態を調べる社内調査委員会が動き出し、どの工程でどれだけ使っているかが初めて明らかになった。1988年度の全社の使用実績は1,400トンで、内訳は眼鏡用レンズなどの光学部門が約4割、液晶パネルなどの表示体部門が2割、時計部品やディスクドライブ部品などの精密部品部門が2割であった。使用量は1986年の871トンから2年で1.6倍に膨らんでいた[4]

用途別に整理すると、水切り乾燥が62%、洗浄用が30%、その他が8%であった。光学と表示体の部門は水洗後に残る水滴をフロン蒸気とともに蒸散させる水切り乾燥に使い、精密部品の部門は錆止めの油脂を落とす洗浄そのものに使っていた。事業部ごとに用途が違えば対策と進み方も違ってくるため、各事業部が独自に動くより推進センターが標準化した技術を確立する道が選ばれた[5]

決断

規制の日程より早い1993年という期限

1988年末、中村恒也社長は自ら1993年までの脱フロンを決めた。同年12月には生産技術本部内に脱フロン技術の収集と研究開発のための専従組織「フロンレス推進センター」を長野県茅野事業所に設け、専従者は6人であった。8月に始まった社内調査委員会はこのセンターを核に、すべての事業部を巻き込んで縦のラインで脱フロンを徹底させる対策組織へ改めて編成された[6]

決めた理由は理想ではなく、生産を止めないことにあった。生産技術本部長の常務は、モントリオール議定書によって従来のペースでフロンを使えなくなると見込まれ、フロン使用から遠ざからない限り規制で製品の生産が妨げられかねないと語っている。中村社長も「このままではフロンが使えずに生産に支障が出るから、フロンを使うのはやめよう。そのために、全社的に取り組もう」と、決定の中身をそう説明した[7][8]

1年で半減させた手と、そこで見えた限界

手当ては現場の点検から入った。洗浄工程で本当に洗浄する必要があるのかをTQCの手法で点検して1年で6%を削り、水切り乾燥については乾燥精度が粗くてもよいハードディスクなどを中心に高速回転の遠心力を使うスピンドライヤーへ切り替えて26%を削った。蒸散を防いで回収を徹底する管理改善で18%。1988年度に1,400トンだった使用量は、1989年末の月次を年換算すると700トンに落ちた[9][10]

ところが、そこで現場の管理による削減は限界に達した。1990年度中にさらに前年度から半減させ年間300トン台に持っていくには、推進センターの主導で代替技術を確立し製造ラインへ広げるほかなかった。仮に300トン体制ができても、プリント基板などの精密部品の油脂汚れを純水だけで落とすことはできず、試算では100トンから200トンほどは有機溶剤による洗浄に頼らざるを得なかった[11]

結果

200社の外注先と、費用の出どころ

難所は自社の工場の外にあった。同社は200社ほどある外注企業にフロンレスの技術を入れさせる必要を抱えていた。国際世論にはフロンの生産規制にとどまらず、フロンを使って生産された工業製品の貿易制限を検討する動きすらあり、製品不買運動のような不測の事態を避けるには、すべての外注企業を巻き込んで進めるほかなかった[12]

費用の出どころが、そのまま難所であった。フロンレス洗浄装置は製品の付加価値や生産性の向上に直接は貢献せず、零細企業を含む松本や伊那谷の外注企業群に入れさせるのは容易でない。純水による洗浄には排水処理装置の併用が欠かせず、これも高額の新規投資を要した。推進センターは外部の機械メーカーと組んで安価な洗浄機械の共同開発に当たり、中村社長は自社の脱フロン技術を公開して他社の知恵も借りると述べた[13][14]

1993年の全廃と、30年後の売り文句

会社は1993年に全世界でフロン全廃を達成したと自ら記録している。環境の情報開示の面でも評価が続き、2003年と2004年の環境報告書賞では電機・精密機器の分野で優良賞に選ばれた。2004年の講評は、ビジョンと方向性が明確で環境保全の取り組みに独自性が感じられる点を挙げている。1988年末の決定は、20年近く残る枠組みへ育っていた[15][16]

30年を経て、環境の負荷の低さは製品を売る言葉に変わった。2020年4月に社長へ就いた小川恭範氏は、オフィスで主流のレーザープリンターをインクジェットへ置き換える戦略の根拠として、消費電力の少なさと環境性能の高さを挙げた。ただ同じ場で「価格や大きさの面で顧客のニーズを満たすラインナップがまだ十分にそろっておらず、当初思い描いたように拡販できていない」とも認めていた[17]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1990年2月12日号「セイコーエプソン フロン全廃へ 外注企業どう巻き込む?」
  • 週刊東洋経済 2004年5月15日号「第7回環境報告書賞発表 環境報告書賞/サステナビリティ報告書賞」
  • 週刊東洋経済 2020年6月20日号「トップに直撃 セイコーエプソン 社長 小川恭範 環境性能を売りにオフィス向け複合機を拡大」
  • セイコーエプソン「エネルギーとエプソン」(公式採用サイト)
  • 日経ビジネス 1991年7月22日号「セイコーエプソン 商品企画から物流まで意思決定速め連携強化」

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