フロンの使い道は1,400トンに及んでいた。その内訳を洗い直すと6割強を水切り乾燥が占め、本来は洗わなくてよい工程にまでフロン洗浄をかけていたことがわかった。中村恒也社長が1988年末に1993年という期限を打ち出した背景には、理想ではなく、フロンを失えば生産が止まるという現実的な見通しがあった。使用の実態をまず押さえ、規制の日程より早い期限を自ら置いたのは、外から日程を決められる前に対応する備えだったとみられる。
ただ、話が美談で終わらないのは、費用の出どころが最後まで解けなかったからである。自社の工場は1年で使用量を半減させたが、200社ほどの外注先にとってフロンレス洗浄装置は売上にも生産性にも効かない出費で、純水洗浄に要る排水処理装置まで含めれば負担はさらに重い。安価な洗浄機を機械メーカーと共同で開発し、技術を公開して他社の知恵も借りる方針を選んだのは、一社では引き受けきれない費用を業界へ広げる算段でもあったといえる。