機械とシャープペンシルの特許を手放しての債務清算と、大阪でのラジオ転身
関東大震災で事業も家族も失った早川徳次氏は、なぜ自ら発明した特許を渡してまで大阪へ下ったか
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- 概要
- 1923年の関東大震災で東京・本所の工場と家族を失った早川徳次氏が、販売特約先である日本文具製造への二万円の債務を、焼け残った機械類と自身名義のシャープペンシル特許48種の引き渡しで清算し、一技術長として大阪へ下ったうえで、1924年9月1日に大阪の田辺で早川金属工業研究所を開いて再起した経営判断。手元に製造権の残らなかった繰出鉛筆に戻らず、翌1925年に鉱石ラジオ受信機へ転じた。
- 背景
- 早川氏は1912年に19歳で東京・本所に独立し、1915年に発明した金属繰出鉛筆で輸出を伸ばし、震災直前には工場300坪・従業員200名・月商5万円の金属文具メーカーを築いていた。1923年9月1日の震災で工場は焼け、長男・二男と妻を失い、手元に残った現金は1万6,000〜7,000円ほどであった。被災した工員70名ほどを抱えたまま、復興の見通しは立たなかった。
- 内容
- 日本文具製造からの二万円即時返済の求めに対し、早川氏は機械類(約2万2,000余円)の譲渡と特許48種の無償使用の許諾で応じ、売掛金9,000余円の支払いと技術者の雇用、自身の6カ月の技術長就任を条件とした。契約書は取り交わさない紳士協定であった。契約満了後の1924年9月1日、田辺の借地235坪に工場住宅37坪を建てて研究所を開き、ペンシルを作れないまま万年筆金具の外交販売から出直した。
- 含意
- 前年末に大阪・心斎橋の石原時計店で7円50銭で買った輸入鉱石ラジオセットを分解研究し、1925年4月に自家製の小型鉱石セットを組み立てた。手放した文具の名にちなむ「シャープ」の銘を受信機に打ち、同年7月には月産1万組を超えてラジオ専門の工場へ移った。一方で書類を残さなかった紳士協定は、5年後の差し押さえと2年10カ月の訴訟を招き、1934年4月まで分割払いが続いた。
失った特許が変えた製品
この判断の中心にあるのは、事業を続けるために事業の中身を渡すという逆説である。早川氏が日本文具へ引き渡したのは、機械と特許48種と主だった職人——つまり繰出鉛筆の事業そのものであった。残ったのは債務の消えた身と、金属を扱う手の熟練だけであったといえる。もし特許を守り抜いて東京で再建していれば、本人が書いているとおり文具界で終始した可能性が高い。作るものを固守せず、作る力の方を持って移った選択が、結果として製品の乗り換えを可能にしたとみることができる。
もう一つ考えさせられるのは、信用に頼った清算が残した代償である。書類を一つも交わさない紳士協定は、震災直後の混乱のなかでは合理的な速さを持っていたのかもしれない。しかし5年後の差し押さえと2年10カ月の訴訟は、鉱石ラジオで急伸していた時期の資金と時間を確実に削っている。手放した文具の名を受信機の銘に残しながら、その文具をめぐる清算の後始末を10年抱え続けた事実は、危機のなかの決断が一度で完結しないことを示している。再起の速さと、後から届く請求書——両者は同じ判断の表と裏であったようにみえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
本所で築いた金属文具の事業
早川徳次氏が東京・本所に自分の店を構えたのは、1912年9月15日、19歳のときであった。資本は50円たらずで、うち40円は水道自在器の取引で信用を得ていた荒物商・巻島喜作氏からの借金であった。9歳から錺屋の坂田芳松氏のもとで10年余り金属細工を仕込まれ、独立の直前には自ら考案したバックル「徳尾錠」の特許を取り、4,000個を超える注文を受けていた。手元にあったのは設備ではなく、金属を打ち抜き曲げる手の技術と、納期を守って積み上げた取引先の信用であった[1][2]。
事業を伸ばしたのは、1915年に完成させた金属繰出鉛筆であった。真鍮を三段にしぼって溝を迂回させる独自の考案で、玩具に近かった既存品を実用品へ改めている。国内の文具問屋は金属の冷たさや和服との相性を難じたが、横浜へ置いた見本を見た商館から輸出の注文がかかると、内地の問屋もあわてて注文を寄せた。1919年に44坪の工場事務所を建てて流れ作業を採り入れ、震災前年の1923年には工場300坪・従業員200名、売り上げは月額5万円に達していた[3][4]。
一日で失った工場と家族
1923年9月1日、早川氏は近所の巻島喜作氏(氏)宅にいたところを激しい震動に襲われた。工場へ走り戻り、従業員に食料や金や衣類を分けて避難させ、妻と9歳の長男・7歳の二男を川本辰三郎氏に託して深川の岩崎別邸へ向かわせている。自身は火に囲まれて高橋のたもとから動けなくなり、橋脚と橋下の水を頼りに翌朝まで、うち7時間を水中で過ごした。橋下ではおよそ800人が死に、生き残ったのは3、4人であった。託した二人の子は堀り割りで亡くなり、妻も半病人となってほどなく世を去っている[5][6]。
焼け跡に残った資産は乏しかった。銀行預金1万円と金庫の鍍金用十八金約4,000円を合わせても1万6,000〜7,000円で、焼け残った機械のうち修理して使えるものを見積もると2万3,000円余であった。被災した工員70名ほどの毎日の食糧に追われ、9月が過ぎ10月に入っても復興の見通しは立たず、持ち金は減るばかりであった。事業を建て直す算段が固まらないうちに、資産より重い債務の問題が表に出てくる[7]。
決断
二万円の債務と、機械・特許の引き渡し
1919年、早川氏は日本文具製造の東京支社と特約を結び、関東一円のシャープペンシル販売を任せる見返りに、契約金1万円と事業資金1万円の計2万円を受け入れていた。震災後、この2万円の即時返済の申し出が届く。早川方にも同社への売掛金9,081円50銭があったが、集金は先で返済は即時という求めであった。早川氏は兄・政治氏と相談のうえ、大阪の親会社にあたる中山太陽堂の中山太一 社長と直接交渉に臨んでいる[8]。
交渉でまとまった条件は、事業の中身をそのまま渡すに等しかった。早川側は2万円の債務の履行に代えて所有する機械類(価格約2万2,000余円)を譲渡し、あわせて早川徳次氏個人名義のペンシル特許48種を同社に無償で使用させる。日本文具側は買掛金9,000余円を支払い、早川商会の主だった技術者を雇い入れ、その技術指導責任者として早川氏自身を6カ月間の技術長として迎える——これが合意の骨格であった。発明した製品の権利も、それを作る機械も、育てた職人も、一度に手放す選択であった[9][10]。
技術長の職を辞し、田辺で再び独立
東京で十数年かけて築いた早川兄弟商会は解散し、機械は一台ずつ大阪へ運ばれた。同行する14名の人選を終え、1923年12月初め、早川氏は一行より先に一技術長として西下している。大阪では浪速区馬淵町の日本文具の工場へ南海電車で通い、各種シャープペンシルの製造技術を指導した。自身が発明した製品を、他社の工場で他社の商標のもとに作らせる立場であった。8連の自動プレスが連絡もなく搬入されて放置されているのを見た早川氏は、機械より先に操作する人を用意すべきだと社長へ進言している[11][12]。
6カ月の勤務契約は2カ月延長され、1924年8月末に早川氏は日本文具を辞した。翌9月1日——震災からちょうど1年——大阪市東成郡猿山村字田辺の借地235坪を坪6銭・10年の約束で借り、37坪23の工場住宅を建てて早川金属工業研究所の看板を掲げている。特許を渡した以上ペンシルは作れないため、昔手がけた万年筆の付属金具やクリップの新型を作り、市内のメーカーへ自ら売り歩いた。東京から従ったのは川本辰三郎氏ら3名で、ほかに村の少年5名を雇った。電灯線もない土地で、従業員総出の道づくりから始めている[13][14]。
結果
鉱石ラジオへの転じ方
再起2年目にあたる1925年、事業の中身が入れ替わる。前年末、心斎橋の石原時計店にアメリカから2台だけ届いたラジオ機械にたまたま行き合わせた早川氏は、鉱石ラジオセット1台を7円50銭で買って帰っていた。年が明けると従業員とともに分解にかかり、検波器やコイルを一つずつたどっている。放送がまだないため工場にモールスの手動電鍵を置いて試音を送り、聞こえるかどうかを確かめた。長年の金属細工と鍍金の熟練が、部品見本の製作をそのまま支えた。同年4月、自家製の小型鉱石セットの組み立てに成功する[15][16]。
6月1日、JOBKが大阪三越の仮放送所から最初の電波を流すと、工場の全員が奪い合うようにして自製のセットで受信した。早川氏は本格的な製作に着手して市販へ移し、受信機に「シャープ」の銘を打っている。手放したシャープペンシルにちなみ、ラジオの感度も表せるという理由であった。当初1組3円50銭、後に7円50銭を上限に4種を作り、7月には月産1万組を超えて金属工場はラジオ専門へ移った。1926年8月には自家製の真空管式受信機シャープダインを完成させ、社名も1936年に早川金属工業へ、1942年に早川電機工業へと改めている[17][18]。
紳士協定の代償
書類を残さなかった清算は、5年後に牙をむいた。12月24日、大阪・靱の店へ2人の執達吏が入り、日本文具の訴訟にもとづく強制執行として商品を差し押さえようとする。1カ月前に届いていた内容証明は、あの2万円を改めて即時返済せよという内容で、早川氏は誤解と考えて机の引き出しに放り込んでいた。契約書を作らず、渡した金の受取証書も取り戻していなかった手落ちを、ここで突かれている。当日分の5,000円は石原時計店へ走って工面したが、年を越して手元に残った金は24銭であった[19][20]。
翌春、早川氏は日本文具を相手取って争ったが、相手は当時の花形企業で、こちらには契約書がない。裁判は2年10カ月に及び、裁判費用が続かなくなって示談に応じている。条件は、機械の権利を5,000円と見積もり、残金1万5,000円を月々300円ずつ払うというものであった。1934年4月に月賦を皆済した早川氏は、石原の店で置き時計を買って関係者へ贈っている。震災の清算は、ラジオで再起した後もなお10年あまり尾を引いた[21]。
- 早川徳次「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人6』日本経済新聞社, 1980 所収)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「早川電機工業」