日立製作所 の歴史

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創業 1910年
創業者 小平浪平
創業地 茨城県多賀郡
創業
1910年、久原鉱業所日立鉱山付属の修理工場で、小平浪平氏が5馬力の誘導電動機を国産で完成させた。輸入電機の修理を担っていた小平氏は、外国へロイヤリティを払い続けるより同額を自社の研究へ投じるべきだと考え、技術提携を避けてモーターの国産化を自前で進めた。1920年2月に日立・亀戸の両工場を擁して株式会社日立製作所として独立し、翌1921年には日本汽船から笠戸造船所を譲り受けて車両へ広げた。1937年5月には国産工業を吸収合併して戸塚工場など7工場を加え、鉱山付属の修理工場から重電と車両を併せ持つメーカーへ育っている。
決断
危機のたびに、抱えていた事業の構成そのものを入れ替えてきた。一度目は1950年で、60日の生産停止をともなう争議と8,500名の人員整理を経たのち、火力で東芝と三菱重工に後れを取っていた日立は1952年にRCA、1953年にGE、1954年にWEと3年続けて提携し、創業以来40年の国産技術主義を撤回した。テレビ・発電機・半導体の基盤を一括で導入し、1959年には重電で東芝を追い抜いたと業界で認められた。二度目は2009年で、リーマンショック後の2009年3月期に日本の製造業として過去最大の7,873億円の最終赤字を出すと、子会社の会長から本体へ戻った川村隆氏が増資と社内カンパニー制で不採算事業の売却に着手する。総合電機の品揃えを守る前提をここで外したことが、事業を入れ替える経営を日常に変えた。
現況
現在の日立製作所は総合電機ではなく、エネルギーとITで売上の6割弱を占めている。2026年3月期の連結売上収益は10兆5,868億円、営業利益は1兆2,731億円で、エナジーが3兆2,008億円、デジタルシステム&サービスが2兆7,566億円を売り上げた。セグメント利益はデジタルシステム&サービスの4,501億円が最も大きい。この形は2016年から続いた親子上場の解体の帰結であり、日立物流・日立化成・日立建機・日立金属を売却し、2010年代初めに22社あった上場子会社はほぼ姿を消した。空いた資本は2020年のABBパワーグリッド事業約7,200億円と2021年の米GlobalLogicの約1兆円買収へ充当している。売る側と買う側を同時に動かしたことが、家電まで並べた品揃えを送配電とデジタルの二領域へ絞り込んだ。
競合
同じ総合電機でも、上場子会社を保有し続けるか外すかで10年後の規模が分かれた。戦後に三大メーカーとして並んだ日立製作所・東芝・三菱電機のうち、2026年3月期の売上10兆5,868億円は三菱電機の約1.8倍にあたる。差は製品の巧拙よりグループの資本構成の扱いに出た。三菱電機が製作所単位の自治を保ったのに対し、日立は22社の上場子会社を市場とファンドへ渡し、その代金をABBとGlobalLogicの取得へ充当している。東芝も同じ時期に選択と集中を掲げたが、2006年のウェスチングハウス買収が1兆円超の損失に転じ、資産の譲渡が損失の穴埋めに費やされた。売却代金を次の買収へ充当できたかどうかが、現在の規模の差を生んだ。

創業ストーリー 国産技術を旗印に興した電機メーカー (1910年〜)

鉱山の修理工場からの創業と、株式会社としての独立

1908年、久原房之助氏が経営する久原鉱業所の日立鉱山で、工作課長だった小平浪平氏が自社用の電気機械の製造に着手[1]した。当時の電気機械は需要が乏しく、技術と資材の両面から国産化は相当な難事とされていた[2]が、小平氏はこの事業の振興こそ国内産業の発展に寄与すると考えて苦心を重ねた。翌1909年には5馬力の誘導電動機3台を完成させ[3]ている。1910年には日立鉱山付属の修理工場を開設[4]し、建物130平方メートル・工員5名[5]という規模から出発した。小平氏は、一から十まで輸入に頼っていた電気機械を日本人自らの手で作りたいという念願[6]を抱いていた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [1]1908年 久原鉱業所日立鉱山の工作課長 小平浪平氏が自社用電気機械の製造に着手
    • [2]電気機械は需要が乏しく技術・資材面から国産化は相当な難事とされた
    • [3]1909年 5馬力誘導電動機3台を完成
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [4]1910年 久原鉱業所日立鉱山付属の修理工場として発足
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [5]創業時の修理工場は建物130平方メートル・工員5名
    • [6]小平浪平氏は輸入に頼る電気機械を日本人自らの手で作りたいという念願を抱いていた

修理工場は鉱山内の自家消費にとどまらず、変圧器・電動機・発電機まで製品を広げ[7]、外部からの受注を取り始めた。1911年7月には日立鉱山から分離して久原鉱業所日立製作所となり[8]、一般産業機械の製作に専念する体制へ移っている。1918年10月には佃島製作所を合併して亀戸工場とし[9]、従来の工場を日立工場と改称した。久原房之助氏は電機部門をあくまで鉱山の付帯事業とみて多角化に消極的だったが、小平氏は分離独立を主張し[10]、1920年2月、日立・亀戸の両工場を擁する[11]資本金1000万円の株式会社日立製作所として久原鉱業から独立[12]した。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [7]変圧器・電動機・発電機など一通りの製品を製造開始
    • [10]久原房之助氏は電機部門の多角化に消極的、小平浪平氏が分離独立を主張
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [8]1911年7月 日立鉱山から分離し久原鉱業所日立製作所となる
    • [9]1918年10月 佃島製作所を合併して亀戸工場とし従来の工場を日立工場と改称
    • [12]独立時の資本金1000万円
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [11]1920年2月 日立・亀戸の両工場を擁し株式会社日立製作所として独立

独立の翌1921年2月には、経営難に陥っていた日本汽船から笠戸造船所を譲り受けて笠戸工場を開設[13]し、電機メーカーが鉄道車両の製造へ入る事業構成がここから始まった。1926年には米国へ電気扇30台を初めて輸出[14]し、以後の輸出先は中国各地・インド・ビルマ・タイ・近東地域・アフリカ・オーストラリア・南米・ソ連[15]にまで及んだ。1935年5月には共成冷機工業に資本参加[16]して冷凍・空調へ製品を広げ、電動機・発電機・変圧器に鉄道車両と冷熱機器を加えている。

  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [13]1921年2月 日本汽船より笠戸造船所を譲受し笠戸工場増設
    • [16]1935年5月 共成冷機工業に資本参加
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [14]1926年 米国へ電気扇30台を初輸出
    • [15]輸出先は中国各地・インド・ビルマ・タイ・近東・アフリカ・豪州・南米・ソ連に及んだ
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [1]1908年 久原鉱業所日立鉱山の工作課長 小平浪平氏が自社用電気機械の製造に着手
    • [2]電気機械は需要が乏しく技術・資材面から国産化は相当な難事とされた
    • [3]1909年 5馬力誘導電動機3台を完成
    • [8]1911年7月 日立鉱山から分離し久原鉱業所日立製作所となる
    • [9]1918年10月 佃島製作所を合併して亀戸工場とし従来の工場を日立工場と改称
    • [12]独立時の資本金1000万円
    • [14]1926年 米国へ電気扇30台を初輸出
    • [15]輸出先は中国各地・インド・ビルマ・タイ・近東・アフリカ・豪州・南米・ソ連に及んだ
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [4]1910年 久原鉱業所日立鉱山付属の修理工場として発足
    • [11]1920年2月 日立・亀戸の両工場を擁し株式会社日立製作所として独立
    • [13]1921年2月 日本汽船より笠戸造船所を譲受し笠戸工場増設
    • [16]1935年5月 共成冷機工業に資本参加
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [5]創業時の修理工場は建物130平方メートル・工員5名
    • [6]小平浪平氏は輸入に頼る電気機械を日本人自らの手で作りたいという念願を抱いていた
    • [7]変圧器・電動機・発電機など一通りの製品を製造開始
    • [10]久原房之助氏は電機部門の多角化に消極的、小平浪平氏が分離独立を主張

自前の研究所と、戦時下の工場拡張

当時の重化学工業の大企業は海外への技術依存が強く、自主的な研究には力を入れず[17]、日本の大学にも目を向けていなかった。その中で企業として国産技術を強く標榜したのが、大正9年に独立した若い企業である日立製作所[18]だった。1934年3月に日立研究所を設けて[19]製品の質量向上と新製品の増加を図り、1941年には基礎研究のための中央研究所の設置を決めて[20]、翌1942年4月に新設している[21]。小平氏はロイヤリティを支払うのであれば同額を自前の研究に投じるべきだ[22]という考えを掲げ、研究機関への投資を続けた。1939年4月には多賀工場を新設し、日立工場から日立研究所を独立させて[23]いる。

  • 技術開発の昭和史(森谷正規著, 日本経済新聞社, 1986)
    • [17]当時の重化学工業の大企業は海外への技術依存が強く自主的な研究に力を入れなかった
    • [18]企業として国産技術を強く標榜したのは大正9年に独立した若い企業の日立製作所
    • [20]1941年に基礎研究のための中央研究所の設置を決定
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [19]1934年3月 日立研究所を設置
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [21]1942年4月 中央研究所新設
    • [23]1939年4月 多賀工場新設、日立工場より日立研究所独立
  • 私の履歴書 経済人12(日本経済新聞社, 1980)
    • [22]小平浪平氏はロイヤリティと同額を自前の研究に投じる方針を掲げた

1937年5月には鮎川義介氏が率いる国産工業を吸収合併し[24]、戸畑・若松・木津川・深川・安来・戸塚・尼崎の7工場[25]と冶金研究所、従業員約4000名を取り込んで特殊鋼部門へ進出[26]した。原材料から完成品に至るまでの一貫生産の態勢がここで整い[27]、製作種類も電気機器・一般機械のほか鉄鋼原材料品・各種通信機械・鉄道車輌関係へ多角化した。以後は軍需に対応して工場の新設と合併を重ね、1940年9月に水戸工場[28]、1943年9月には理研真空工業を吸収合併して茂原工場を増設[29]し、真空管と電球を製品に加えて[30]いる。1944年3月には亀有工場から清水工場を、同年12月には多賀工場から栃木工場を独立させた[31]

  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [24]1937年5月 国産工業を吸収合併、戸塚工場など7工場増設
    • [28]1940年9月 水戸工場新設
    • [29]1943年9月 理研真空工業を吸収合併し茂原工場増設
    • [31]1944年3月 亀有工場より清水工場独立、同年12月 多賀工場より栃木工場独立
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [25]国産工業の合併で戸畑・若松・木津川・深川・安来・戸塚・尼崎の7工場を増設
    • [27]国産工業の合併で原材料から完成品に至るまでの一貫生産態勢を確立、製作種類も電気機器・一般機械のほか鉄鋼原材料品・各種通信機械・鉄道車輌関係へ多角化
    • [30]理研真空工業の合併で真空管および電球を製品に加えた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [26]国産工業は7工場と冶金研究所を有し従業員約4000名

拡張の結果、工場数は18を数え、資本金も数次の増額を経て1944年8月に7億円[32]へ達し、名実ともにわが国屈指のメーカーとして発展するに至った。1939年にはブラジルのマカブ発電所向けに出力3300キロワットの横軸ペルトン水車[33]と容量3750キロボルトアンペアの三相交流同期発電機を受注[34]し、内外の注目を集めた。研究の蓄積も進み、工業所有権は戦後間もない時点で4850件あまりに達し[35]、蒸気タービン、竪軸ペルトン水車、電子廻折装置、極超短波用電子管[36]といった発明を含んでいる。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [32]工場数は18、資本金は1944年8月に7億円
    • [33]1939年 ブラジル・マカブ発電所向けに横軸ペルトン水車と三相交流同期発電機を受注
    • [34]容量3750キロボルトアンペアの三相交流同期発電機を納入
    • [35]工業所有権は4850件あまりに達した
    • [36]蒸気タービン・竪軸ペルトン水車・電子廻折装置・極超短波用電子管などの発明を含む
  • 技術開発の昭和史(森谷正規著, 日本経済新聞社, 1986)
    • [17]当時の重化学工業の大企業は海外への技術依存が強く自主的な研究に力を入れなかった
    • [18]企業として国産技術を強く標榜したのは大正9年に独立した若い企業の日立製作所
    • [20]1941年に基礎研究のための中央研究所の設置を決定
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [19]1934年3月 日立研究所を設置
    • [25]国産工業の合併で戸畑・若松・木津川・深川・安来・戸塚・尼崎の7工場を増設
    • [27]国産工業の合併で原材料から完成品に至るまでの一貫生産態勢を確立、製作種類も電気機器・一般機械のほか鉄鋼原材料品・各種通信機械・鉄道車輌関係へ多角化
    • [30]理研真空工業の合併で真空管および電球を製品に加えた
    • [32]工場数は18、資本金は1944年8月に7億円
    • [33]1939年 ブラジル・マカブ発電所向けに横軸ペルトン水車と三相交流同期発電機を受注
    • [34]容量3750キロボルトアンペアの三相交流同期発電機を納入
    • [35]工業所有権は4850件あまりに達した
    • [36]蒸気タービン・竪軸ペルトン水車・電子廻折装置・極超短波用電子管などの発明を含む
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [21]1942年4月 中央研究所新設
    • [23]1939年4月 多賀工場新設、日立工場より日立研究所独立
    • [24]1937年5月 国産工業を吸収合併、戸塚工場など7工場増設
    • [28]1940年9月 水戸工場新設
    • [29]1943年9月 理研真空工業を吸収合併し茂原工場増設
    • [31]1944年3月 亀有工場より清水工場独立、同年12月 多賀工場より栃木工場独立
  • 私の履歴書 経済人12(日本経済新聞社, 1980)
    • [22]小平浪平氏はロイヤリティと同額を自前の研究に投じる方針を掲げた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [26]国産工業は7工場と冶金研究所を有し従業員約4000名

60日の生産停止と8500名の人員整理

1945年1月に日立精機の川崎工場を譲り受けて生産力を増やした[37]直後、同年6月の戦災で木津川工場が全焼[38]した。終戦で軍需の発注は消え、木津川・尼崎の両工場は閉鎖されている[39]。残った工場で操業を再開し、採炭・食糧増産・運輸・電力といった重点産業へ機械を送って[40]復興需要を拾ったものの、戦時に膨れた設備と人員は平時の受注量に見合わなかった。工場の配置転換と設備の近代化を進め、日立工場からは電線部門を分離している[41]。それでも4万4000名の従業員のうち約8500名が余剰と判断される[42]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [37]1945年1月 日立精機川崎工場を譲受し生産力を増強
    • [38]1945年6月 戦災により木津川工場が全焼
    • [39]戦後、木津川・尼崎両工場を閉鎖し残存工場で操業を再開
    • [40]採炭・食糧増産・運輸・電力等の重点産業へ機械を供給
    • [41]日立工場の電線部門の分離、各工場の配置転換・整備拡充など操業態勢の合理化と設備の近代化
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [42]従業員4万4000名のうち約8500名が余剰と判断された

1949年7月末の自己資本比率は14.1%まで落ち込み、各地の工場で労働組合のストライキが連日続いた。一部の組合員は暴徒化し、工場長に対する『熱砂の誓』『ダルマ落とし』と呼ばれる吊し上げが各拠点で横行している。社長の倉田主税氏は組合が譲歩するまで交渉に応じず、全工場の生産を約60日間止める持久戦を選んだ。当時の日立は全国に17工場・4営業所を持つ大所帯[43]であり、そこで踏み切った整理は東芝をしのぐ民間最大の規模[44]となった。

  • 読売(1950年6月23日)
    • [43]全国17工場・4営業所の大所帯
    • [44]東芝をしのぐ民間最大の大量整理

組合内部の分裂で争議は終結し、8500名規模の人員削減を完遂した。日本興業銀行を中心とする協調融資4億円で資金繰りの破綻を回避し、同年には東京証券取引所へ株式を上場している。翌1950年の経営方針で倉田氏は『1950年こそは正にこの苦難克服後の光明の年』[引用元][45]と総括し、対日講和条約と見返り資金の運用、電源開発・造船計画・国鉄電化の需要を再建の支えに置いた。1950年2月には日東運輸を設立し[46]、のちの日立物流となる物流機能をグループ内に抱えている。

  • 証券(1950年1月)
    • [45]倉田主税氏が1950年の経営方針を総括
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [46]1950年2月 日東運輸(後の日立物流)設立
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [37]1945年1月 日立精機川崎工場を譲受し生産力を増強
    • [38]1945年6月 戦災により木津川工場が全焼
    • [39]戦後、木津川・尼崎両工場を閉鎖し残存工場で操業を再開
    • [40]採炭・食糧増産・運輸・電力等の重点産業へ機械を供給
    • [41]日立工場の電線部門の分離、各工場の配置転換・整備拡充など操業態勢の合理化と設備の近代化
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [42]従業員4万4000名のうち約8500名が余剰と判断された
  • 読売(1950年6月23日)
    • [43]全国17工場・4営業所の大所帯
    • [44]東芝をしのぐ民間最大の大量整理
  • 証券(1950年1月)
    • [45]倉田主税氏が1950年の経営方針を総括
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [46]1950年2月 日東運輸(後の日立物流)設立

外国技術の導入と、重電での東芝逆転

1952年2月、日立は米国ラジオ・コーポレーションと受信管・送信管・陰極線管・テレビジョン受像機・電子管に関する技術援助契約[47]を結んだ。同年12月にはバブコック・ウイルコックス社とボイラについて技術援助契約を結び[48]、1953年にはインターナショナル・ゼネラル・エレクトリック社と蒸気タービンおよび発電機について提携した。翌1954年にはウェスタン・エレクトリックからトランジスタの技術を導入している。創業以来40年余にわたり外国メーカーとの提携を避けてきた方針は、ここで撤回された[49]。もっとも自前の研究をやめたわけではなく、中央研究所と日立研究所を中心とする研究部門は、施設もスタッフも戦前から世界的水準にあると目されており、戦後はさらに充実している[50]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [47]1952年2月 米国ラジオ・コーポレーション(RCA)と受信管・送信管・陰極線管・テレビジョン受像機・電子管の技術援助契約
    • [48]1952年12月 バブコック・ウイルコックス社とボイラの技術援助契約
    • [49]技術援助契約により研究部門の技術向上に資した
    • [50]中央・日立両研究所を中心とする研究部門は施設・スタッフとも戦前から世界的水準にあると目され、戦後は一段と充実

提携の理由は火力発電での立ち遅れにあり、電源関係の受注を担当した駒井健一郎氏は『日立の火力は戦前はドイツAEGから技術導入していたものの経験も少なく、東芝や三菱重工の後塵を拝していた』[引用元][51]と振り返り、提携の狙いを『早急に外国の一流メーカーと技術提携して、対等に勝負したい』[引用元][52]と語っている。ゼネラル・エレクトリックとの提携では東芝が先行しており、日立は後追いの立場[53]だった。それでも火力タービンの大容量化と需要増が見込まれたため、ゼネラル・エレクトリックは複数のライセンシーを認めている[54]

  • 日本経済新聞(1981年1月)駒井健一郎「私の履歴書」
    • [51]駒井健一郎氏が火力の技術的立ち遅れを回想
    • [52]駒井健一郎氏がGE提携の狙いを語る
    • [53]GE提携は東芝が先行しており日立は後追いの立場だった
    • [54]火力タービンの大容量化と需要増を見込みGEが複数ライセンシーを容認

導入した技術は数年で成果に変わり、1955年時点の日立は16工場と3分工場を基盤に[55]、水車・タービン・発電機・送配電機器の強電から通信機器・電子工業の弱電、産業機械・車両・電線・鉄鋼まで合計3000種の製品を持ち、従業員2万8000人[56]、資本金66億円に達している。輸出は総売上高の約2割[57]を占めた。1959年には重電部門で東芝を追い抜いたと業界で認知され[58]『東芝に追いつき追い越せをモットーとして来た日立製作所が、企業全体としてのスケールのみならず、ついに重電機部門においても東芝を完全に追い抜いた』[引用元][59]と評されている。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [55]1955年時点で16工場・3分工場、製品3000種、従業員2万8000人、資本金66億円
    • [56]製品は合計3000種、従業員2万8000人
    • [57]資本金66億円、輸出は総売上高の約2割
  • マネジメント(1959年6月)
    • [58]1959年に重電部門で東芝を追い抜いたと業界で認知
    • [59]マネジメント誌の評
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [47]1952年2月 米国ラジオ・コーポレーション(RCA)と受信管・送信管・陰極線管・テレビジョン受像機・電子管の技術援助契約
    • [48]1952年12月 バブコック・ウイルコックス社とボイラの技術援助契約
    • [49]技術援助契約により研究部門の技術向上に資した
    • [50]中央・日立両研究所を中心とする研究部門は施設・スタッフとも戦前から世界的水準にあると目され、戦後は一段と充実
    • [55]1955年時点で16工場・3分工場、製品3000種、従業員2万8000人、資本金66億円
    • [56]製品は合計3000種、従業員2万8000人
    • [57]資本金66億円、輸出は総売上高の約2割
  • 日本経済新聞(1981年1月)駒井健一郎「私の履歴書」
    • [51]駒井健一郎氏が火力の技術的立ち遅れを回想
    • [52]駒井健一郎氏がGE提携の狙いを語る
    • [53]GE提携は東芝が先行しており日立は後追いの立場だった
    • [54]火力タービンの大容量化と需要増を見込みGEが複数ライセンシーを容認
  • マネジメント(1959年6月)
    • [58]1959年に重電部門で東芝を追い抜いたと業界で認知
    • [59]マネジメント誌の評

非電機の分社が生んだ親子上場と、自前研究が残した領域

高度成長期には非電機事業の分社が進み、1956年10月に日立金属工業と日立電線を分離独立させ[60]、1961年にはマクセル電気工業へ資本参加[61]、1963年4月に日立化成工業、1969年12月に日立建設機械製造を順次分離している。同じ1969年2月にはソフトウェア工場を新設し[62]、計算機の受託開発を工場として抱える体制も整えた。

  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [60]1956年10月 日立金属工業・日立電線を分離独立
    • [61]1961年 マクセル電気工業に資本参加
    • [62]1969年2月 ソフトウェア工場新設

外国技術に頼らずに育てた領域の代表が電子顕微鏡で、1939年には東京大学の瀬藤象二教授を委員長とする日本学術振興会の第37小委員会[63]が生まれ、大学と電気試験所に加えて日立・東芝・日本電気・島津製作所の研究者が共同で開発[64]へ取り組んだ。戦後は旧帝国大学系の大学の一号機を日立がすべて受注して抜け出し[65]、日本電気と東芝は競争から脱落した。1955年には日立が米国へ輸出[66]を果たしている。1960年代後半には日立と日本電子の顕微鏡が世界需要の半分を占め[67]、アメリカへの輸出が伸びた結果、RCAは勝てる希望を失って撤退した[68]

  • 技術開発の昭和史(森谷正規著, 日本経済新聞社, 1986)
    • [63]1939年 東大・瀬藤象二教授を委員長とする日本学術振興会第37小委員会が発足
    • [64]大学・電気試験所に加え日立・東芝・日本電気・島津製作所の研究者が共同で開発
    • [65]戦後、日立が旧帝大系大学の一号機をすべて受注し日本電気・東芝は脱落
    • [66]1955年に日立が電子顕微鏡を米国へ輸出
    • [67]1960年代後半に日立と日本電子で世界需要の半分を占め、RCAが撤退
    • [68]アメリカへの輸出が伸びRCAは勝てる希望を失い撤退

撮像管でも同じ経路をたどり、1966年12月に中央研究所がNHK技術研究所との共同開発として着手したセレン系撮像管『アーセコン』[69]は、焼き付きの問題を解けず1970年に放棄されている[70]。ただし試作の過程で見つかった別構造が同年に基本特許となり、1972年にはセレンが界面現象を支配することを示す特許が出願された[71]。中央研究所は1972年12月にこれを大型プロジェクトに格上げし[72]、1973年9月に成功の見通しを得て発表、1975年に商品として完成[73]させている。そして1977年、セレン系撮像管の開発に長年の投資をしながら成功できなかったRCAへ、日立はサチコンの技術を供与した[74]

  • 技術開発の昭和史(森谷正規著, 日本経済新聞社, 1986)
    • [69]1966年12月 日立中央研究所がNHK技術研究所と共同でアーセコンのプロジェクトを開始
    • [70]1970年 焼き付きが解決できずアーセコンを放棄、同年に新撮像管の基本特許を出願
    • [71]1972年 セレンが界面現象を支配することを示す特許を出願(サチコンの真の基本特許)
    • [72]1972年12月 中央研究所がサチコン開発を大型プロジェクト化
    • [73]1973年9月 サチコンの新聞発表、1975年に商品として完成
    • [74]1977年 日立がRCAへサチコンの技術供与
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [60]1956年10月 日立金属工業・日立電線を分離独立
    • [61]1961年 マクセル電気工業に資本参加
    • [62]1969年2月 ソフトウェア工場新設
  • 技術開発の昭和史(森谷正規著, 日本経済新聞社, 1986)
    • [63]1939年 東大・瀬藤象二教授を委員長とする日本学術振興会第37小委員会が発足
    • [64]大学・電気試験所に加え日立・東芝・日本電気・島津製作所の研究者が共同で開発
    • [65]戦後、日立が旧帝大系大学の一号機をすべて受注し日本電気・東芝は脱落
    • [66]1955年に日立が電子顕微鏡を米国へ輸出
    • [67]1960年代後半に日立と日本電子で世界需要の半分を占め、RCAが撤退
    • [68]アメリカへの輸出が伸びRCAは勝てる希望を失い撤退
    • [69]1966年12月 日立中央研究所がNHK技術研究所と共同でアーセコンのプロジェクトを開始
    • [70]1970年 焼き付きが解決できずアーセコンを放棄、同年に新撮像管の基本特許を出願
    • [71]1972年 セレンが界面現象を支配することを示す特許を出願(サチコンの真の基本特許)
    • [72]1972年12月 中央研究所がサチコン開発を大型プロジェクト化
    • [73]1973年9月 サチコンの新聞発表、1975年に商品として完成
    • [74]1977年 日立がRCAへサチコンの技術供与

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日立製作所の沿革1910〜2023年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1910〜1944年国産技術を旗印に興した電機メーカー日立製作所創業——鉱山の修理工場から自前主義で興した国産電機メーカー

1910年、久原鉱業所日立鉱山の付属修理工場で、東京電燈出身の技術者・小平浪平氏が国産技術による5馬力誘導電動機を完成させた創業。GE・ウェスティングハウスとの技術提携が主流の時代に外国メーカーとの提携を避け、1920年2月に資本金1,000万円の株式会社日立製作所として久原鉱業所から独立した。

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日立製作所を設立
笠戸造船所を取得
国産工業を吸収合併・国内工場を拡充★★
1945〜1977年争議による人員整理と、国産技術主義の撤回倉田主税労働組合と対立・約8500名を削減★★
倉田主税GE・RCA・WEとの相次ぐ技術提携と国産技術主義の撤回

1952年から54年にかけて、日立製作所が米RCA・GE・WEと三年連続で技術提携を結び、創業以来40年以上掲げた国産技術主義を事実上撤回した経営判断。電源部門を率いた駒井健一郎氏(のちの社長)が主導し、火力発電の技術格差を外部提携で埋めた。

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倉田主税日立金属・日立電線を設立(子会社分離を開始)★★
倉田主税Hitachi New Yorkを設立
駒井健一郎システム開発を本格化
駒井健一郎日立建設機械製造を分離独立
1978〜2003年半導体と情報への傾斜、そして二度の巨額赤字三田勝茂Hitachi Europe Ltd.を設立
三田勝茂256KB・DRAMの量産を開始
三田勝茂Hitachi Asiaを設立(アジア統括拠点)
金井務家電事業を再編
金井務日立有限公司を設立
庄山悦彦NECと合弁会社を設立(NEC日立メモリを合弁設立)
庄山悦彦最終赤字に転落。2万人の人員削減
庄山悦彦三菱電機と合弁会社を設立(ルネサステクノロジー)
庄山悦彦IBMからHDD事業を買収★★
2004〜2026年巨額赤字を経て、事業を入れ替える経営へ転換した時代川村隆リーマンショック後の緊急再建と、総合電機路線の転換

2009年、リーマンショック後に日本の製造業として過去最大の約7,880億円の最終赤字を計上した日立製作所が、子会社会長だった川村隆氏を社長に呼び戻し、3,492億円の増資と社内カンパニー制、不採算事業の売却で再建に踏み切った経営判断。

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川村隆カンパニー制を導入(事業グループ再編)
中西宏明Western DigitalへHDD事業を売却★★
東原敏昭伊フィンメカニカの鉄道2社(アンサルドSTS・アンサルドブレダ)買収による欧州大陸進出

2015年2月24日、日立製作所が、イタリアの防衛大手フィンメカニカ傘下の鉄道信号会社アンサルドSTSと鉄道車両会社アンサルドブレダを取得する契約を締結した経営判断。合計買収金額は約2,600億円で、日立にとって当時過去最大の買収案件であった。同年11月2日に取得を完了した。

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東原敏昭三菱日立パワーシステムズの解消と火力発電事業からの撤退

2014年に三菱重工業と設立した火力発電の合弁・三菱日立パワーシステムズについて、日立が単独受注した南アフリカ石炭火力案件の損失負担をめぐる紛争を機に2019年12月に和解し、保有する35%全株式を三菱重工へ譲渡して火力発電事業から撤退した経営判断。

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東原敏昭日立Astemoを発足・ホンダ系部品メーカー3社を統合★★★
東原敏昭英国原発「ホライズンプロジェクト」の凍結と撤退

2019年1月17日、日立製作所が英国での原子力発電所新設計画『ホライズンプロジェクト』の凍結を正式に決定した経営判断。東原敏昭社長のもとで進められ、2019年3月期に約3000億円の損失を計上し、翌2020年9月には事業運営からの撤退へと踏み切った。安倍政権が成長戦略の柱に据えた原発輸出構想の中核が、経済合理性を理由に断念された。

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東原敏昭ABB社パワーグリッド事業の買収とHitachi Energyの発足

2018年12月にスイスABB社と契約を結び、2020年7月に同社のパワーグリッド事業を約7,200億円で取得した経営判断。Hitachi ABB Power Grids として発足させ、送配電をエネルギー事業の柱に据えた。

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東原敏昭米GlobalLogicの約1兆円買収

2021年3月、日立製作所は米国のデジタルエンジニアリング企業GlobalLogicを買収総額約1兆368億円で取得すると発表した。年間売上およそ1,000億円の企業への1兆円投資に取締役会は紛糾したが、専務の德永俊昭氏が推進し、会長の中西宏明氏が支持して決着した経営判断である。

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小島啓二Thales社を買収(鉄道信号システム)★★
小島啓二上場子会社群の売却と親子上場構造の解体

2016年から2023年にかけて、日立製作所が日立物流・日立化成・日立建機・日立金属など主要な上場子会社を順次売却し、1956年以来60年以上維持してきた親子上場のグループ構造を解体した経営判断。川村改革に始まる選択と集中を、グループの形そのものへ広げた判断であった。

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出典・参考
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 私の履歴書 経済人12(日本経済新聞社, 1980)
  • 日本経済新聞(1981年1月)駒井健一郎「私の履歴書」
  • 技術開発の昭和史(森谷正規著, 日本経済新聞社, 1986)
  • 読売(1950年6月23日)
  • 証券(1950年1月)
  • マネジメント(1959年6月)

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