労働組合と対立・約8500名を削減
終戦による軍需喪失と労働争議の激化がもたらした経営危機
第二次世界大戦中に日立製作所は全国各地に軍需工場を新設し、国内有数の総合電機メーカーへと企業規模を拡大した。しかし1945年8月の終戦により軍需が一夜にして消滅し、大量の余剰人員を抱え込む状態に陥った。1949年時点で全社の従業員数は約4万4000人にのぼったが、経営陣はこのうち約8500名を余剰と判断した。同年7月末の自己資本比率は14.1%まで低下し、銀行借入の継続にも支障をきたしかねない水準であった。
財務の悪化に加え、各地の工場では労働組合によるストライキが激化していた。一部の組合員が暴徒化し、工場長に対する暴力行為が横行した。炎天下の運動場で工場長を走らせ続ける「熱砂の誓」、ドラム缶の上に立たせてから蹴り倒す「ダルマ落とし」と呼ばれる行為が行われ、工場長が全身に打撲傷を負って昏倒する事態が発生した。
労働争議に関連する支出は約5億円にのぼり、事業収益の回復が見込めない中で財務体質はさらに悪化した。争議が長期化すれば企業の存続自体が危ぶまれる状況にあり、日立製作所は人員削減か企業破綻かという選択を迫られていた。銀行からの信用が低下する中、経営陣は約8500名の人員削減を決断した。
全工場の生産停止を許容し約60日間にわたり交渉を継続
日立製作所の経営陣は8500名の人員削減を決定し、労働組合からの撤回要求を拒否する方針で臨んだ。組合側は人員削減の撤回を求めてストライキを実施し、全国の工場で生産が全面停止する事態に至った。経営陣はこの状況を許容し、組合側が折れるまで交渉に応じないという方針を採った。
生産が完全に停止した状態のまま10日、20日が経過し、1ヶ月を超えてなお経営陣は動かなかった。全工場の操業停止は収益の喪失を意味し、自己資本比率14.1%で倒産リスクを抱える企業にとって財務的な賭けであった。だが経営陣は交渉を打ち切り、組合側の疲弊を待つ持久戦の方針を堅持した。
争議が1ヶ月半を超えたあたりから、各地の工場で組合員の間に意見の分裂が生じ始めた。組合側が隠していたが、あちこちの工場から希望退職者が現れるようになった。約60日間にわたる争議の末、日立製作所は希望退職の募集を進めるとともに過激派の組合員を追放し、8500名の人員削減を完遂した。
興銀の協調融資により企業再建の足がかりを確保
争議終結後の日立製作所は、約5億円の争議関連損失に加えて立ち上がり資金として20〜30億円が必要とされた。争議に明け暮れていた日立は銀行からの信用を失っており、資金調達の見通しは厳しかった。日本興業銀行を中心とする協調融資が不可欠であったが、各行の姿勢は慎重であった。
各銀行の担当者が集まった席上で、興銀の島田常務が立ち上がり、日立の再建計画を支持する発言を行った。島田常務は各行に対して計画以上の融資を呼びかけ、合計4億円の協調融資が決定した。この銀行団の支援により、日立製作所は資金繰りの破綻を回避してどん底からの再建に着手する足がかりを得た。
約60日間にわたった争議は日立製作所の戦後史において転換点となった。軍需依存の体質から脱却し、平時の事業体制を構築するための出発点が形成された。この争議で経営陣が示した「動かない」という方針は、先行きの見えない状況でも既定方針を堅持するという意思決定の型を日立製作所に刻み込んだ。