1910年 久原鉱業所日立鉱山付属修理工場(芝内工場)を創業

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外国製機器に依存する電力業界に問題意識を抱いた小平浪平が、1910年に久原房之助の日立鉱山修理工場で5馬力誘導電動機の国産化に成功。GE・WE等との技術提携を選ばず自前主義を貫き、1918年2月に資本金1,000万円で株式会社日立製作所として久原鉱業所から独立した。

創業〜設立から上場前後までどのようにして経営を軌道に乗せたのか?

  • 小平浪平は東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業して藤田組に入り、東京電燈に転じたのち、かつての上司・久原房之助の招聘で1905年買収の日立銅山に着任した。発電所建設の業務を通じて外国製機器の構造を実地に学び、故障機の修理を重ねて国産化の技術知見を蓄積、輸入電機への高額ロイヤリティと外国人技術者依存に強い問題意識を抱いて自主開発の道を選んだ。
  • 1910年、日立鉱山の付属修理工場で国産技術による5馬力誘導電動機を完成させ、久原鉱業所が芝内工場(現・日立製作所山手工場)を新設して製造拠点としたのが日立製作所の創業にあたる。GEやウェスティングハウスとの技術提携が主流だった同時代の電機業界で、提携を避けて自前主義を選んだ路線が初期の経営方針を規定した。
  • 1918年2月に株式会社日立製作所が資本金1,000万円で設立され久原鉱業所から資本面で独立、同年10月に佃島製作所を合併して亀戸工場として継承、1920年2月に経営面で完全独立を達成した。1921年2月には経営難の日本汽船から笠戸造船所を譲り受けて鉄道車両に進出、電機メーカーが車両を手がける異例の事業構成を確立し、戦時期の工場拡張と研究所整備を経て1949年の東証上場へつながる18工場体制の基礎を築いた。
創業
上場
経営方針 何を目指していたか?

外国メーカーとの技術提携を避け国産技術を旗印に掲げる自前主義で発足、ロイヤリティ支払と同額を自前研究に投じる方針を1953年のGE提携まで約40年間維持し、戦前の電機業界で「ウェット」型と評される独自の社風を形成した。

1910 自前主義での発足
1918.2 株式会社として独立
1920.2 久原鉱業所から経営独立
1921 鉄道車両進出による事業構成拡張
1935.5 冷凍・空調分野へ進出
資金調達 どう資金を工面したか?

久原鉱業所の鉱山付帯事業として出発し久原家の鉱山収益が初期資金源となったが、1918年2月の株式会社化時に資本金1,000万円を組成して資本面で独立、1949年の東証上場まで非公開企業として久原系資本からの独立性を高めていった。

1910 久原鉱業所の付帯事業として発足
1918.2 資本金1,000万円で株式会社化
1949 東京証券取引所へ上場
製品サービス 何を作って売ったか?

1910年の5馬力誘導電動機を起点に発電機・変圧器へ製品を広げ、1921年の笠戸工場取得で電気機関車・客車・貨車まで製品レンジを拡張、1935年5月には共成冷機工業への資本参加で冷凍・空調分野へ進出して総合電機メーカーの形を整えた。

1910 5馬力誘導電動機を完成
1918 発電機・変圧器へ製品拡張
1921.2 笠戸工場で鉄道車両製造を開始
1935.5 冷凍機・空調機器へ進出
主要顧客 誰に売ったか?

創業時は日立鉱山内の自家使用が主用途、次いで他鉱山・工場からの外部受注へ拡大、電力会社・国鉄を含む産業設備需要を取り込み、戦時期の軍需発注で全国の工廠・造船所が主要顧客に加わって18工場を擁する電機メーカーへ膨張した。

1910 日立鉱山内の自家使用
1915 他鉱山・工場からの外部受注
1921 国鉄向け鉄道車両
1937 軍需発注の本格化
従業員数 誰と作っていたか?

創業時は鉱山付属修理工場の小規模体制から出発、株式会社化後の業容拡大と笠戸工場取得で千名規模へ、1937年の国産工業吸収から戦時期の工場拡張を経て1945年終戦時には約4万4千名の総合電機メーカーへと35年で膨張した。

1910 鉱山付属修理工場の小規模体制
1921 笠戸工場取得で千名規模へ
1945 約4万4千名へ膨張
設備投資 どこで作っていたか?

創業地は日立鉱山敷地内の芝内工場、1918年に東京・亀戸工場、1921年に山口・笠戸工場、1937年に戸塚工場など7工場、1939年に多賀工場と日立研究所独立、1940年に水戸工場、1942年に中央研究所、1943年に茂原工場と、創業から30年余りで18工場体制を築いた。

1910 芝内工場新設
1918.10 亀戸工場の承継
1921.2 笠戸工場の取得
1937.5 国産工業を吸収合併
1939.4 多賀工場新設・日立研究所独立
1940.9 水戸工場新設
1942.4 中央研究所新設
1943.9 理研真空工業を吸収合併

日立製作所 創業地の主な拠点全国 の地理(久原鉱業所日立鉱山付属修理工場(芝内工場) → 中央研究所)

日本地図 1910年 久原鉱業所日立鉱山付属修理工場(芝内工場) 茨城県多賀郡日立村大字宮田(現・日立市) 創業地(5馬力誘導電動機の国産化に成功した修理工場、現・日立製作所山手工場) 1918年 亀戸工場 東京府南葛飾郡(現・東京都江東区亀戸) 1918年10月に佃島製作所を合併して継承した東京拠点 1921年 笠戸工場 山口県下松市笠戸島 1921年2月に日本汽船から譲り受けた鉄道車両工場 1939年 多賀工場・日立研究所 茨城県多賀郡多賀町(現・日立市) 多賀工場新設と日立工場からの日立研究所独立 1942年 中央研究所 東京府北多摩郡国分寺町(現・東京都国分寺市) 戦時期の研究基盤強化のため新設

創業時のエピソード人物・ブランド・資金調達の細部

1910年 なぜ小平浪平はGE・WE等との技術提携を選ばなかったのか?

東京電燈時代に発電所建設現場のほぼ全機器が外国製で外国人技術者が采配を振る状況を目の当たりにし、ロイヤリティと同額を自前研究に投じれば独自開発で外国製品に対抗できると判断したため、創業時から提携を避けて国産化の道を選んだ。

小平浪平は東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業して藤田組に入り、その後東京電燈(現東京電力)に転じた。当時の国内ではモーター・発電機・変圧器など主要な電機製品がほぼ全て輸入品で、発電所建設の現場では外国人技術者が采配を振っており、小平はこの状況に強い問題意識を抱いていたという。

日立鉱山に招聘されてからも、発電所建設の業務を通じて外国製機器の構造を実地に学び、故障機の修理を重ねて国産化に必要な技術的知見を蓄積した。当時の同業他社がGEやウェスティングハウスとの技術提携で事業を拡大していたなか、小平は「我々の場合は、なるべく他人の力に依存することを少なくし、専らの自らの力によって最も優良なる機械の生産を図るべきだ」(七十年の人生・五島慶太著 1953)と判断し、提携を避けて自前主義の路線を選んだ。

1910〜1918年 なぜ久原房之助は日立鉱山の修理工場での電機事業を黙認したのか?

久原鉱業所では外国製機械の修理に時間と費用がかかることが操業効率の制約となっており、機械の自社内修理と国産化は鉱山経営の合理化に直結する課題だったため、久原は小平を招聘して鉱山付属の修理工場で電機製造に着手させた。

久原房之助は1905年に茨城県多賀郡の日立銅山を買収して鉱山経営に参入し、1912年には久原鉱業株式会社を設立して法人化を進めた。輸入機械を積極的に導入した合理化に特色のある経営だったが、故障時の修理や部品調達に時間と費用を要することが操業効率の制約となっていた。

この課題を解決するため、久原はかつて藤田組で部下だった小平浪平を招聘し、日立鉱山付属の修理工場で外国製機器の修理と国産化に着手させた。1910年に小平が国産技術による5馬力誘導電動機を完成させると、久原鉱業所は日立鉱山の敷地内に芝内工場(現・日立製作所山手工場)を新設してモーター製造拠点とした。鉱山内の自家使用から始まったこの事業が、日立製作所の創業にあたる。

1918年 なぜ1918年に久原鉱業所から独立して株式会社化したのか?

久原房之助にとって電機製造は鉱山事業の付帯部門にすぎず多角化に消極的だったのに対し、小平浪平は電機を独立事業へ発展させる意志を持ち、分離独立を繰り返し主張した結果、1918年に資本金1,000万円で株式会社として久原鉱業所から独立した。

芝内工場で生産されたモーターは鉱山内の自家使用にとどまらず、他の鉱山や工場からの外部受注を獲得し始め、電機製造は次第に独立採算の事業へと成長した。製品ラインも発電機・変圧器へと広がり、鉱山の付帯部門の枠を超える業容に達した。

久原房之助は電機部門の多角化には消極的だったが、小平浪平は分離独立を繰り返し主張した。1918年2月、両者の方針対立のなか株式会社日立製作所が資本金1,000万円で設立され、久原鉱業所から資本面で独立した。同年10月には東京の佃島製作所を合併して亀戸工場として継承し、創業地の日立工場とあわせて2拠点体制を整えている。1920年2月には日立・亀戸両工場を擁する形で経営面でも久原鉱業所から完全独立した。

1921年 なぜ電機メーカーが鉄道車両の製造に進出したのか?

第一次世界大戦後の不況で経営難に陥っていた日本汽船から、山口県下松市の笠戸造船所を1921年2月に譲り受け、電気機関車・客車・貨車の製造を開始した。電動機・発電機の技術を鉄道車両へ展開する判断であった。

1921年2月、第一次世界大戦後の戦後不況で経営難に陥っていた日本汽船から、山口県下松市の笠戸造船所を譲り受け笠戸工場として増設した。電機メーカーが鉄道車両製造へ進出する判断は当時として異例だったが、創業以来の電動機・発電機の技術を鉄道用に展開する事業構成を狙ったものであった。

笠戸工場の取得により、日立は日立(茨城)・亀戸(東京)・笠戸(山口)の3拠点体制となり、モーター・発電機・変圧器に加えて鉄道車両までを手がける製品ラインを構築した。財閥資本と外国技術を相手に「国産技術」を旗印に掲げた日立の社風は、戦前の電機業界のなかで「三井とGEを後ろ盾にした東芝の合理主義」と対照的な「ウェット」型と評された(ダイヤモンド臨時増刊 1961/09/10)。

1920〜1942年 なぜ創業時から研究機関の整備に資源を投じたのか?

外国製機器の修理から出発した小平浪平の自前主義は、提携先からの技術導入に頼らず社内で開発体制を構築することを前提としていたため、創業初期から研究所の独立・新設に資源を投じ、戦時期には中央研究所を擁する研究組織を整えた。

創業初期から日立は工場内に研究機能を抱え、外国製品の解析と国産化を社内で進めてきた。久原鉱業所から独立した1920年以降は研究組織の拡充が続き、1939年4月に多賀工場を新設した際には日立工場から日立研究所を独立させ、研究と量産の機能を分離した。

1942年4月には中央研究所を新設し、戦時下の軍需対応で工場数を増やすなかでも基礎研究の体制を維持した。技術提携を避けて自前で技術蓄積を積む方針は、研究機関への継続投資という形で制度化された。この自前主義は1953年にGEと蒸気タービン技術提携を結ぶまで約40年間維持され、駒井健一郎が「火力は戦前はドイツAEGから技術導入していたものの経験も少なく、東芝や三菱重工の後塵を拝していた」(日経新聞 1981/01)と回想する技術格差の認識まで貫かれた。

歴史的証言当事者が何を考えていたか。その思想について

小平浪平

1910年の創業前後、外国メーカーとの技術提携を選ばず自前主義を採った理由を本人が回顧

「自分は進んで欧米一流の製造家と提携することを企画しなかった。我々の場合は、なるべく他人の力に依存することを少なくし、専らの自らの力によって最も優良なる機械の生産を図るべきだと考えた。なるほど、外国一流の製造家と提携するときは、明らかにある程度の進歩を見る事ができるだろう。しかし、毎年多大のロイヤリティを支らねばならぬことを考えると、これと同じ費用を投じて一意専心に研究を重ねて進めば、他人の力に依存せずとも十分に成績を上げることは不可能でないと信じたから、同業者と違う道を選んだのである」
小平浪平

創業期の技術方針を要約した本人の発言

「ロイヤリティを支払うならば同額を自前の研究に投じるべき」
ダイヤモンド臨時増刊

日立と東芝の社風を「ウェット」と「ドライ」に対比し、日立創業期の精神主義の起源を解説

「日立は、久原鉱業の日立鉱業所の機械修理工場からスタートし、創業のはじめから、国産技術を旗印にかかげてきた。財閥資本と外国技術を向こうに回し、日立が今日の栄冠を勝ち得るまでの道は、なみたいていの険しさではなかったようである。財閥資本と外国技術をあいてにして、対等に戦う手段は、ただ一つ精神力だけであり、日立の精神主義はこの時期に培われたものといっていい。」
ダイヤモンド臨時増刊

日立の自前主義と対照的な東芝の合理主義の出自を解説、創業時の資本・技術構造の違いに起源を求めた評価

「これに対して、東芝は創業のはじめから三井の資本とGEの技術をバックに育っており、明治の昔からアメリカ的の合理主義を身につけてきた。是は是とし、非は非とする割り切った考え方、これも東芝が創業以来の歴史によって、自然に身につけた一つの流儀と言っていいようだ。」
駒井健一郎

1953年のGE技術提携に至る背景として、戦前の自前主義時代の技術格差認識を回顧

「日立の火力は戦前はドイツAEGから技術導入していたものの経験も少なく、東芝や三菱重工の後塵を拝していた」
実業の世界

GE提携後の業績拡大期の評価だが、原動力を自前主義で蓄積した「充実した技術陣」に求めた点で創業期の方針の帰結を示している

「重電部門は昔から東芝と並び称される老舗だが、最近の業績を見ると、ライバル東芝を大きく引き離しているようだ。しからば、日立をここまで盛り上げた原動力は一体なんだろうか。一口に言ってそれは"充実した技術陣"である。」

参考文献

  • 七十年の人生(五島慶太著 1953)
  • 私の履歴書 経済人12(1980)
  • 有価証券報告書
  • ダイヤモンド臨時増刊 1961/09/10
  • 日経新聞 1981/01(駒井健一郎・私の履歴書)
  • 実業の世界 1957/09