1946年 東京通信工業株式会社を創業

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焼け跡の日本橋・白木屋百貨店3階を間借りした井深大が、海軍研究で知己を得た盛田昭夫と、1946年5月に資本金19万円で東京通信工業を設立。1950年に安立電気・NECから高周波バイアス特許を25万円で買い取り、日本初のテープレコーダーG型を世に出した。

創業〜設立から上場前後までどのようにして経営を軌道に乗せたのか?

  • 井深大は1908年に栃木県日光で生まれ、早稲田大学理工学部を卒業して写真化学研究所・日本光音工業を経て、戦時中は自ら設立した日本測定器で陸海軍向け精密測定器を生産した。終戦に伴う軍需消失と疎開先・長野県須坂の技術陣解散を経て、1945年10月に同志7名と上京し、戦災で焼け残った東京・日本橋の白木屋百貨店3階を間借りして「東京通信研究所」を発足させた。
  • 1946年5月7日、海軍技術研究所で井深と共同研究した縁から盛田昭夫が合流し、資本金19万円・従業員約20名で東京通信工業株式会社を設立した。元文部大臣の前田多門を初代社長、帝国銀行元頭取の万代順四郎を相談役に迎え、創業者の若さと無名性を政財界の名望で補強する布陣を組んだ。盛田の生家である愛知県常滑の酒造家・盛田家が個人で出資し、家産が初期資本の主要な供給源となった。
  • 1950年に安立電気・NEC から高周波バイアス法特許を25万円で取得して日本初の磁気テープレコーダー G 型を発売、特許失効の1960年まで大手の参入を法的に封じた。1955年の TR-55、1957年の TR-63 で米国市場に進出し、1958年1月に社名を「ソニー株式会社」へ変更、同年12月東証上場、1960年2月に米国販社設立、1961年6月には日本企業初の ADR をニューヨーク市場で発行している。
創業
上場
経営方針 何を目指していたか?

民生用エレクトロニクスを志向する井深大の構想を、海軍技術研究所の縁から合流した盛田昭夫が事業化、特許による法的参入障壁と SONY 自社ブランドの二段構えで大手と差別化した。

1945.10 民生用への構想
1946.5 名望家を社長・相談役に
1950 特許による参入障壁
1955 自社ブランドでの輸出
1958.1 商号を SONY に統一
資金調達 どう資金を工面したか?

盛田家ら創業者周辺の個人出資による資本金19万円で発足、1954年に WE 社トランジスタ特許導入で増資、1955年8月東京店頭公開、1958年12月東証上場、1961年6月に日本企業初の米国 ADR 発行で海外資本市場へ直結した。

1946.5 資本金19万円で発足
1950 特許料25万円を投資
1951 資本金2,000万円へ増資
1954 WE 社特許900万円
1955.8 東京店頭市場で株式公開
1958.12 東証上場
1961.6 米国 ADR 発行
製品サービス 何を作って売ったか?

創業期は NHK 向け放送設備と電気炊飯器・電気座布団など民生試作から出発、1950年に日本初のテープレコーダー G 型、1955年に日本初のトランジスタラジオ TR-55、1957年に世界最小級 TR-63 で米国市場を開拓した。

1946 NHK 放送機材・電気炊飯器
1950.7 G 型テープレコーダー
1955.8 TR-55 トランジスタラジオ
1957.3 TR-63
1960 世界初のトランジスタTV
主要顧客 誰に売ったか?

創業初期は NHK・逓信省・国鉄など国内官需と裁判所・学校など特殊用途の業務向け販売が中心、1950年代後半から米国の家電量販ルートと駐留軍 PX 経由で個人消費者向けへ販路を転換し、1960年前後には売上の3割超が米国向け輸出となった。

1946 NHK・逓信省・国鉄
1950 裁判所・学校
1955 米国家電量販
1960 米国向け輸出3割超
従業員数 誰と作っていたか?

1946年5月の創業時は井深・盛田を含む約20名、1951年の本社隣接地拡張時に約150名、1959年8月の読売新聞紹介時点で約2,000名と、13年で100倍規模に拡大した。

1946 約20名
1951 約150名
1959 約2,000名
設備投資 どこで作っていたか?

創業地は東京・日本橋白木屋百貨店3階の間借り、1947年2月に東京都品川区北品川(御殿山)に移転、1951年に隣接地を取得して本社工場を拡張、1959年に大阪市福島区に大阪工場、1960年に厚木工場を新設して量産体制を整えた。

1945.10 白木屋3階の間借り
1947.2 御殿山本社・工場
1951 本社隣接地を取得
1959 大阪工場新設
1960 厚木工場新設

ソニー 創業地の主な拠点一都三県 の地理(東京通信研究所 → 御殿山本社・工場)

日本地図 1945年 東京通信研究所 東京都中央区日本橋1-4-1(白木屋百貨店3階) 創業前身(白木屋百貨店3階を間借り) 1946年 東京通信工業株式会社(設立時本社) 東京都中央区日本橋1-4-1(白木屋百貨店3階) 創業地 1947年 御殿山本社・工場 東京都品川区北品川6-7-35 創業翌年に移転した本社および主力工場

創業時のエピソード人物・ブランド・資金調達の細部

1945〜1946年 なぜ井深大は焼け跡の百貨店3階を借りて研究所を構えたのか?

戦時中は長野県須坂に疎開していた日本測定器の技術陣を解散したのち、井深は数名と上京、戦災で焼け残った日本橋・白木屋百貨店3階を間借りして「東京通信研究所」を発足させた。

井深大は1933年に早稲田大学理工学部を卒業して写真化学研究所に入社、その後日本光音工業を経て、戦時中は自ら設立した日本測定器株式会社で陸海軍の精密測定器を生産していた。空襲の激化に伴い同社は長野県須坂町へ疎開して終戦を迎えたが、軍需は一夜で消失し技術陣の解散を余儀なくされている。

井深は終戦から2か月余り後の1945年10月、旧日本測定器の同志7名とともに上京し、戦災で焼け残った東京・日本橋の白木屋百貨店3階を間借りして「東京通信研究所」を発足させた。井深は戦中から「この戦争が終わり、もし生き残って新しい仕事が始められるなら、その時こそ一般の大勢の人々を相手にしたコンシューマー・プロダクトをやろう、民生用の仕事をやろう」(井深大の世界 1993)と構想しており、焼け跡の研究所はその構想を実装する場となった。

1946年5月 なぜ盛田昭夫は井深を追って合流したのか?

戦時下の海軍技術中尉として赤外線誘導兵器の研究班で井深と協働した経験があり、終戦後に新聞記事で井深の研究所発足を知り、家業の酒造を継ぐ立場でありながら上京して合流した。

盛田昭夫は1921年に愛知県常滑の造り酒屋「盛田家」十五代当主の長男として生まれ、大阪帝国大学理学部物理学科を卒業して海軍技術中尉に任官した。海軍技術研究所の指示で熱線誘導兵器の研究班に配属され、そこで井深大と共同研究を行ったことが二人の縁の起点となった。

終戦後、井深が東京通信研究所を発足させたという朝日新聞のコラムを読んだ盛田は、家業を継いで酒造業に専念するか、井深と新事業に賭けるかを父・久左衛門に相談している。父の了解を得て上京した盛田は、1946年5月7日の東京通信工業株式会社設立に発起人として名を連ね、井深を専務、自身を取締役として船出に加わった。創業時に父・盛田久左衛門個人が出資して資本金19万円の主要株主の一翼を担っており、酒造家としての家産が初期資本の供給源となった。

1946年5月 なぜ無名のベンチャーに前田多門・万代順四郎を担げたのか?

井深の岳父・前田多門が元文部大臣で戦後の公職追放対象となっており、追放期間中の活動の場として子息の頼みを引き受けた経緯がある。万代順四郎は前田と旧知の財界人として相談役を引き受け、無名ベンチャーに政財界の信用を補強した。

東京通信工業は資本金19万円・従業員約20名で発足したが、設立に当たり初代社長として元文部大臣の前田多門、相談役として帝国銀行元頭取の万代順四郎を迎えている。井深大は前田多門の娘・勢喜と結婚しており、義父・前田が公職追放の対象となっていた時期に、岳父を社長に頂く形で政財界の信用を借り受けた。

無名のベンチャーが NHK や逓信省から技術委託や設備修理の受注を取り付けられたのは、前田・万代の名望に依るところが大きく、創業期の事業基盤を信用面から支える構造となった。井深・盛田の技術と若さを、前田・万代の信用が後ろから補強する役割分担で会社が立ち上がっている。

1950年7月 なぜ1950年に G 型テープレコーダーを商品化できたのか?

進駐軍払い下げのワイヤレコーダーや米軍向け録音機の修理から磁気記録の原理を学び、安立電気と日本電気が共同保有していた高周波バイアス法特許を25万円で取得したことで、国内競合を法的に排除した量産化に踏み切れた。

東京通信工業は創業直後から NHK の放送機材や混信防止装置の試作で日銭を稼ぎながら、井深が興味を抱いた磁気テープ記録の研究を並行して進めていた。1949年に試作1号機を完成させたが磁性体の塗布技術が安定せず、本格量産には特許上の壁も残っていた。

1950年、安立電気と日本電気(NEC)が共同保有していた高周波バイアス法の日本特許を25万円で買い取り、同年7月、日本初の磁気テープレコーダー「G型(Tapecorder)」を50台限定で発売した。重量45kg・価格16万8000円の業務用機として裁判所速記室や学校へ販路を広げ、特許失効の1960年まで東芝・日立・松下のテープレコーダー市場参入を法的に封じた。FY1950下期の売上高0.45億円から FY1955下期 3.56億円へ、5年で8倍規模に拡大している。

1958年1月 なぜ1958年に「ソニー」へ社名変更したのか?

1955年発売の TR-55 で輸出を本格化するなかで、漢字社名「東京通信工業株式会社」は欧米バイヤーに発音されず、商標として既に通用していた「SONY」を商号本体に格上げする判断に踏み切った。

盛田昭夫は1953年に渡米してウェスタン・エレクトリック社とトランジスタ特許の実施契約交渉を行い、欧米バイヤーが「Totsuko」「Tokyo Tsushin Kogyo」を発音できない現実を体感した。1955年発売のトランジスタラジオ TR-55 から商品名として SONY(ラテン語の sonus と英俗の sonny boy を組み合わせた造語)を採用し、商標と社名の二重表記が続いていた。

1958年1月、商号を「ソニー株式会社」に変更し、商標と社名を一本化した。日本企業が漢字の社名を捨てて英語のカナ社名に切り替えるのは異例の判断であったが、米国輸出比率がすでに売上の3割超に達していた段階での意思決定であり、グローバルブランド戦略を商号レベルで確定させる選択となった。同年12月には東京証券取引所に上場し、1960年2月に米国販社 Sony Corporation of America を設立、1961年6月には日本企業初の ADR(米国預託証券)をニューヨーク市場で発行している。

歴史的証言当事者が何を考えていたか。その思想について

井深大

戦時中の構想を後年に振り返った発言。終戦後の東京通信研究所発足の原点となった

「この戦争が終わり、もし生き残って新しい仕事が始められるなら、その時こそ一般の大勢の人々を相手にしたコンシューマー・プロダクトをやろう、民生用の仕事をやろう」
読売新聞

創業13年目で売上規模が急拡大したソニーを戦後ベンチャーの代表として紹介した記事見出し

「中小企業のチャンピオン・技術革新の波にのったソニー」
読売新聞

創業から13年で従業員2,000人規模に到達した戦後成長を要約した記述

「同社は13年前、どこにでもある小さな町工場から、いま従業員2000人を数える会社にのしあがった」
読売新聞

戦後復興期の電子工業の象徴としてソニーを位置付けた論評

「電子工業や同社の将来はこれからだ。ともあれ同社が歩み、そしてこれからも歩むであろう道は日本の産業のあり方を如実に示すものにほかならない」
井深大

1954年訪米でウェスタン・エレクトリック社からトランジスタ製造特許を導入した直後の視察報告

「今度アメリカに行った目的は、トランジスターの特許実施契約のことであったが、WEは非常に好意的であった。そして工場を7箇所ばかり見せてくれた。トランジスターを軍に供給しているのはWE1社だけである。WEの他に、レイセオンとかフイルコなどがあるが、WEの技術は常に他社を圧倒して進んでいる様に見られた。」
井深大

トランジスタ量産化の鍵が歩留まり改善にあることを早期に見抜いた発言

「このように値段が高いのは、歩留まりが悪いからで、悪いところで20%、WEあたりでも50%くらいである。これが良くならなければ値段は下がらない」
井深大

量産特性ばらつきを人件費構造で日本が勝てる「2〜3年の窓」と読み切った時間軸判断

「歩留まりの悪い原因は、シングルクリスタルにしてからの工程で、製品になって試験をしてみなければ不良品の区別がつかない。同じ製造工程でつくっても、出来上がった特性はマチマチで5種類くらいに分かれる。WEでも2種類に分けていた。このように不同であるため、人件費がかかる。これが、人件費の安い日本のつけ目で、量産して特性が均一になるようになるあと2、3年間が日本製品の成り立つ期間であろうと思う。」

参考文献

  • 井深大の世界 1993
  • 有価証券報告書
  • 読売新聞 1959/08/23
  • 6758-05-timeline.csv
  • 放送技術 1954/07
  • ソニーの数字 1967