ソニー創業で注目すべきは、技術者2人が自ら社長に就くのではなく、元文部大臣の前田多門を形式上の初代社長に据えた点にある。零細企業にとって販路開拓と資金調達には対外的な信用が不可欠であり、前田・万代という経済界の重鎮を取締役に組み込むことでその信用を「借りた」。井深が技術、盛田が営…
ソニーのテープレコーダー参入で注目すべきは、技術力ではなく特許買収によって市場独占を実現した点にある。安立電気とNECから25万円で取得した高周波バイアス法の特許は1960年まで有効であり、大手電機メーカーの参入を10年間にわたって阻止した。零細企業が大手と正面から競争するのでは…
トランジスタラジオの技術的成功と商業的成功は別の問題であった。国内では価格が高すぎて売れず、活路を米国輸出に求めた。ここで盛田昭夫が下した判断がOEM供給の拒否である。当時の日本企業は米国企業の下請けとして輸出するのが常識だったが、盛田は自社ブランド「SONY」での販売を譲らなか…
ソニーの上場戦略は、単なる資金調達にとどまらない。1958年の東証上場時にカタカナ社名への変更を断行し、1961年には日本企業初のADR発行、1970年にはNY証券取引所に上場した。製品のグローバル展開と資本のグローバル化を同時に進めたことで、海外投資家比率は32%に達する。製品…
ベータマックスの規格競争における劣勢は、ソニーにとって単なる製品の失敗ではなく、経営戦略の転換点であった。ハードウェアの技術的優位だけでは市場を制覇できないという教訓は、映像コンテンツの内製化という発想へと直結する。1989年のコロンビア買収に至る伏線がこの時期に敷かれた。エレク…
ソニーの人員削減と工場閉鎖は、単なるリストラではなく事業構造の転換そのものであった。ブラウン管テレビから液晶への移行、携帯電話事業の縮小といった個別の事業判断の集積が、国内製造拠点の段階的な縮小をもたらした。美濃加茂工場の閉鎖では非正規雇用者約1600名が契約終了となり、地域経済…
6年間で5期の最終赤字という事態は、個別事業の不振ではなくソニーのエレクトロニクス事業モデルそのものの行き詰まりを示していた。テレビ・携帯電話・PC・電池と主力事業が軒並み不振に陥る中、映画・音楽・金融が収益を支えるという構造は、もはやソニーがエレクトロニクス企業ではなくコングロ…
ソニーのPC・電池事業からの撤退で注目すべきは、工場を閉鎖するのではなく事業ごと売却するという手法を選択した点にある。VAIOは投資ファンドへ、電池事業は村田製作所へ、いずれも製造拠点と雇用をセットで引き継がせた。地方自治体との摩擦を最小化しつつ不採算事業から撤退するこのスキーム…