重要な意思決定
1955

日本初のトランジスタラジオ「TR-55」を発売

背景

ベル研究所のトランジスタに賭けた巨額の特許導入

1948年に米ベル研究所で発明されたトランジスタは、真空管に代わる次世代の電子部品として注目されていた。井深大はこの技術にいち早く着目し、製造特許を保有するウェスタンエレクトリック(WE)社との交渉に乗り出す。1954年2月、「半導体素子に関する特許実施権許諾」を締結。契約期間は10年、特許料は一括900万円に加え売上高の2%という条件であった。

当時の東京通信工業にとって900万円は巨額であり、テープレコーダー事業で得た利益の大半を投じる決断であった。WE社はトランジスタの用途として補聴器を想定していたが、井深はラジオへの応用を構想していた。特許導入の段階から、既存の用途にとどまらない独自の製品構想を持っていたことが、後の開発を方向づけることになる。

国内の大手電機メーカーもトランジスタの研究に着手していたが、製品化までの道のりは遠かった。トランジスタの製造には高い歩留まりが求められ、量産体制の構築は技術的に困難とされていた。後発の零細企業が先行して製品化できるかどうかは、製造工程における独自の技術革新にかかっていた。

決断

国内の苦戦を受けて独自ブランドで米国市場へ

1955年、東京通信工業は日本初のトランジスタラジオ「TR-55」を発売した。トランジスタの歩留まり問題は、製造工程にアンチモンを投入するという独自の手法で克服し、大手電機メーカーに先駆けて小型ラジオの製品化に成功した。しかし、国内市場では1台2万円という価格が消費者にとって高すぎ、販売は低迷した。

盛田昭夫は国内の苦戦を受けて、アメリカ市場への輸出に活路を見出す。1956年にさらなる小型化を実現した「TR-63」を開発し、国内発売に先行して欧米市場での販売を開始した。盛田は家族を伴いニューヨークに移住し、一流ホテルを商談の場とすることでアメリカのバイヤーからの信用獲得に努めた。

輸出戦略の核心は、独自ブランド「SONY」での展開であった。当時の日本企業の多くは米国企業のOEMとして製品を供給していたが、盛田はOEM供給を拒否し、自社ブランドでの販売を譲らなかった。「東京通信工業」は外国人にとって発音しにくいため、ラテン語のSONUSと英語のSONNYを組み合わせた「SONY」をブランド名として採用した。

結果

売上高の4割を米国が占めるグローバル企業への転換

トランジスタラジオの米国輸出は急速に拡大した。1960年前後には売上高の約40%がアメリカ向け輸出で占められるようになり、東京通信工業は戦後日本を代表するグローバル企業へと変貌を遂げた。世界的にトランジスタラジオの実用化に成功した企業が限られていたことが、SONYブランドの市場浸透を後押しした。

この時期を通じて、共同創業者の役割分担が明確になった。井深が新製品の技術開発を主導し、盛田が海外販売とマーケティングを担う体制が確立された。技術と販売の分業は、その後のウォークマンやトリニトロンといった製品展開においても、ソニーの競争力の基盤となっていく。

OEMではなく自社ブランドで海外市場を開拓するという盛田の判断は、当時の日本企業としては異例であった。この戦略は短期的には販売網の構築に時間を要したが、長期的にはブランド価値の蓄積をもたらし、ソニーが単なる製造業者ではなくグローバルブランドとして認知される起点となった。