1917年に大倉和親氏が福岡県小倉で設立した東洋陶器が起源。
1980年に温水洗浄便座ウォシュレットを発売し、2025年に累計出荷台数が7000万台を超えた。衛生陶器で国内首位の住宅設備機器メーカーで、半導体製造装置向けセラミックが利益の半分を占める。
衛生陶器は、市場が無いところから始まった商品である。大倉和親が1912年に私財を投じて製陶研究所を設けてから半世紀、東洋陶器の売上げを決めたのは、いつも自社の外にある事情だった。1923年の関東大震災の復興、1930年代末の満州の官舎建設、終戦直後の占領軍宿舎の水洗化、1950年の朝鮮動乱、そして1960年代の下水道整備。どれも会社が起こした出来事ではない。便器と洗面器は建物に付いてくる商品であり、建物が建つ理由は常に会社の外で決まる。単品に絞ったことが業界一位を作り、同じことが業績を外の事情に預ける構造も作った。
それでも東洋陶器は、波を待っていただけではない。1940年には初の衛生陶器規格を国の標準として通し、1962年には東京地区の二次卸店から特約販売店を選んで奨励金を払う仕組みを設け、自治体への指定活動と下水道PR映画の制作まで手がけた。需要が来たときに取りこぼさない仕掛けを、需要が来る前に置いていたのである。1955年度に13億円だった売上高が1964年度に100億円へ達し、衛生陶器で全国生産の6割を占めたのは、その積み重ねの結果だった。ただし量産の設備は借入で買われ、自己資本比率は1961年に30%まで低下している。伸びの速度そのものが、次の経営課題になった。
国産の衛生陶器が初めて売り出されたのは1914年8月で、研究を重ねて工業化にこぎつけた成果だった。その出発点は、森村組の大倉和親が明治45年1月、父孫兵衛と組んで名古屋の日本陶器合名会社(現日本陶器)の中に製陶研究所を設け、自らの資金で洋風建築向け便器の国産化に乗り出したことにある。兄弟会社の日本陶器(現ノリタケカンパニーリミテド)が米国の食器市場を主な舞台としたのに対し、大倉は中国大陸と東南アジアの「東洋市場」を目指す意図を社名に託した。設立は1917年5月で、門司港と筑豊炭田に近い小倉に資本金100万円で東洋陶器を置いた。初代社長には大倉和親が就任し、製陶研究所の技術をそのまま持ち込んで衛生陶器と食卓用陶磁器の製造を始めた。
しかし生産は数年軌道に乗らず、第一次大戦後の不況下で赤字が続いた。1923年の減資のあと、同年9月の関東大震災による復興需要で衛生陶器が伸び、業績は好転した。1920年5月に資本金を150万円へ増資して導入した日本初のドレスラー式トンネル窯(連続焼成窯)が量産体制を支え、品質改良を重ねて最高級品の評価を得ると、1935年から37年ごろが戦前期の業績ピークとなった。1936年にオリンピックの東京招致が決まって大都市の下水道工事が活発化すると、1937年10月には神奈川県に茅ヶ崎工場を建設した。水回り産業の国産化は、震災と都市インフラ整備という外部ショックを触媒にして初めて成立した。
1939年を迎えると、軍需に関わる生産拡充施設の需要が国内で伸び、満州でも重工業会社や炭鉱開発会社の工場とその従業員宿舎の建設が重なったため、受注は予想に反して増えた。前年の1938年末には、鉄鋼などの建築資材が統制されるため国内の建築は大きく落ち込み、満州国向けも1割減るとの見通しだった。技術者を移住させるための鉄筋コンクリート造アパートでは、衛生陶器の需要が1939年から43年まで年に5万戸分と見込まれた。1939年末には手持受注残高が1年分に積み上がった。1940年9月には同業10社が衛生陶器の共同販売を目的に共販組合を設立し、直前1年の販売実績をもとにした出資比率で東洋陶器は37.9%を占めた。同年1月には初の衛生陶器規格が臨時日本標準規格として制定され、欧米製品の模写から出発した便器と洗面器は、ここで国の標準を得た。
1941年1月、東洋陶器は衛生陶器と食器の流通のために小倉陶器商会・東衛陶器商会・東和陶器商会の3社を設立した。経済新体制のもとで生産者の卸売兼業が禁じられる情勢となり、自社とは別組織の卸売会社と小売会社を置かざるをえなくなったためである。同年10月、商工省は陶磁器工業整備要綱を通達し、衛生陶器の製造業者は全国で1社へ企業合同せよと指示した。硬質陶器では東洋陶器だけが合同の対象から外れた。円ブロック向けの輸出は1940年9月以降きわめて困難となり、第三国向けも船舶の徴用による船腹不足と為替の障害で塞がれた。国内向け製品の生産額は1941年11月からの半年で前年同期の50%以下に抑えられ、食器の生産は止まった。
小倉と茅ヶ崎の工場はどちらも戦災を免れ、生産設備にもほとんど傷みがなかった。1945年8月に戦争が終わると、東洋陶器は衛生陶器と食器という本業の生産に戻った。販売の拠点は様子が違い、東京・大阪・名古屋の出張所は焼け落ち、大連・上海・奉天などの海外拠点は終戦を待たずに閉じていた。戦時中の陶製照明器具のような金属の代用品や、点火栓碍子・電解槽などの軍需品は、もともとの陶磁器と性格が大きく違わなかったので、民需への切り替えにさほど苦労しなかった。平和産業へ移るにあたっては軍需向け陶磁器の設備を壊して衛生陶器の工場を広げ、1945年10月20日には日本特殊陶業に貸していた茅ヶ崎工場が戻って、森村茂樹社長が出席して衛生陶器製造転換式を行なった。
連合国軍総司令部は都心のビルや高級住宅を相次いで接収し、宿舎として冷暖房・台所・便所を改修する工事を日本政府に求めた。これが東洋陶器の立ち直りのきっかけとなった。便所は水洗が条件で、和風便器はすぐに腰掛便器へ替えられ、給水・給湯の配管の先にはどこにも水栓が付いた。このため衛生陶器と水栓金具の需要がそろって伸びた。注文は戦前から実績のある東洋陶器に集まり、水栓金具セットも含めると特需全体の90%に当たる量をこなした。生産を増やすため1945年10月以降に人を多数採用した結果、終戦直後に大きく減っていた従業員は、1年後の1946年には戦前のピークに並ぶ約1,000名まで回復した。戦前から張り合ってきた名古屋製陶所が衰える一方で、陶管とタイルの伊奈製陶(現LIXIL)が衛生陶器に乗り出した。
1948年秋の3ヵ月におよぶ長期争議は、操業を止めただけでなく、社内の信頼と対外信用を損なった。12月8日に工場が再開すると、再建の責任者となった江副孫右衛門は千数百名の従業員を前に、『他社よりも品質品位のよい、価格の安い、しかも需要に応じられるだけの量を——つくらない限り、絶対に東陶の再建はありえません』と述べた。しかし1949年の単一為替レート設定に加え、同年9月のイギリスによる30%のポンド切下げに東南アジアのポンドブロックが追随したため、伝統的な輸出市場が崩れて滞貨が激増した。1950年3月、東洋陶器は不振の食器を大幅に減産して衛生陶器と水栓金具へ重心を移す生産計画大綱を決め、希望退職には全従業員の20%にあたる325名が応じた。累積欠損は5,800万円に達し、賃金は平均26%カットされた。1949年5月に上場した株式は額面を割り、20円台を上下した。
東洋陶器にとっての特需は、前線へ直接送る品よりも、国内の基地や軍関係の宿舎・住宅で膨らんだ需要に応えるものが主だった。発注の量が大きく、水栓金具を組み合わせて納める条件も付いたことから、金具の出荷はかつてない水準に達した。こうして1950年6月の朝鮮動乱に伴う特需が、業績を上向かせた。創業者の大倉和親は1955年7月、79年の生涯を終えた。同月には日本住宅公団が発足し、一般住宅の設備を近代化する動きが始まろうとしていた。特需と復興需要を頼りにしてきた事業は、ここを境に大衆市場へ向きを変えることになる。1958年7月には茅ヶ崎工場内に合成樹脂工場を新設し、強化プラスチックの分野へ進んで浴槽を開発した。
1955年度に13億円だった売上高は、1961年度に50億円を超え、1964年度には100億円に乗った。伸びを支えたのは下水道の整備で、1963年に第1次下水道整備5ヵ年計画が始まると水洗便器の需要が急速に増えた。下水道用品は自治体公認の設備業者が各戸へ据え付ける方式が主だったため、東洋陶器は自治体への指定活動、設備業者向けの講習会、下水道PR映画の制作といった普及活動を重ねた。1962年には東京地区の二次卸店から特約販売店を選び、基準を超えた売上高に応じて特約店と共同で奨励金を払う制度を発足させた。1964年時点で衛生陶器は全国生産の6割を占め、業界第一位に立っていた。ただし滋賀工場などの大型投資が相次いだ結果、自己資本比率は1961年に30%まで低下した。国内生産の6割を支えた量産の設備は、利益ではなく借入で買われていた。
1967年に社長となった杉原周一がやったのは、成長率を上げることではなく、下げることだった。自己資本比率が1968年5月期に32%へ低下したとき、杉原は年20%を超える伸びを保つかぎり毎年5万坪の工場を増設する必要があり、その資金の出どころは銀行しかないと見た。借りた金で建てた工場は、返済の時期になるとまた次の増設を求める。そこで年成長率を25%から20%へ落とし、その分を総資本回転率と留保利益率の改善へ振り向けた。4年後、月に4,000万円払っていた利息は月4,000万円受け取る側へ変わり、従業員は9,000人超から8,000人を割る水準まで減って、売上高は2倍になった。
この物差しは、需要が消えたあとにこそ効いた。1973年の住宅統計で住宅総数が総世帯数を上回り、住宅難の時代が終わったとき、東陶機器は第2次5ヵ年計画を3年で打ち切って売上目標を下げている。浴槽と洗面化粧台で100社が競う価格競争には乗らず、差別化できない品番を商品系列から外し、研究室と研究所を置いた。1980年に発売したウォシュレットは、1964年に輸入販売して売れなかった商品の作り直しである。既設の便座を取り替えるだけで設置でき、新築が減っても売れる商品を、新築が減った市場へ出した。需要の波を待つ会社から、波の外に商品を置く会社へ、性格はここで変わった。
売上高は1965年11月期の111億円が1967年11月期に178億円となり、市場は広がっていた。創立50周年にあたる1967年、東洋陶器は衛生陶器と水栓金具だけを作る会社から、住宅設備機器を幅広く扱う総合メーカーへ転じる方針を定めた。取扱商品は1950年代からプラスチック浴槽やユニットバスルームへ広がっていたものの、売上に占める割合は小さく、腰を据えた体制も整っていなかったうえ、高度成長期の伸びはあくまで衛生陶器と水栓金具という狭い市場の中でのことで、多様な住宅需要に見合う品ぞろえも、それを支える技術開発力や生産・販売の体制も、この時点では備わっていなかった。この年は、洗面化粧台やホーローバスへ事業分野を広げる出発点となった。
1968年6月、東洋陶器は事業本部制を採用し、営業・外国・衛陶・金具・プラスチック・食器・仕入商品・ユニット工事の8事業本部を発足させた。各事業本部の長には常務取締役が就き、独立採算で受け持つ商品の生産・販売・利益の計画を立て、それぞれの成績が問われる仕組みとなった。こうした体制に改めたのは、食器からプラスチック、ユニットバスルームへと品目を増やしながら、計画や方針が行き渡らず、どの製品がどれだけ利益を上げたかの責任もはっきりしなかったためである。1969年1月6日には1973年度を締めくくりの年度に据えた5ヵ年計画を発表し、売上高を2倍に、総資本税引利益率を10%に、自己資本比率を60%に引き上げ、5年のうちに借入金をなくすことを目標とした。QCサークル活動は1968年10月に取り入れられ、1年たつとサークル数1,008、参加者7,089名に達し、全従業員の82%を占めた。
杉原周一が社長に就任した1967年7月の時点で、東洋陶器はすでに自他ともに認める高成長企業だった。しかし成長にともなって借入金が増え、自己資本比率は1968年5月期に32%まで下がり、従来の40〜50%から崩れていた。杉原は自己資本比率を総資本回転率・売上高留保利益率・売上高年成長率・株式資本比率の4項で表す企業経営基本式を立て、年成長率をあえて25%から20%へ落とす代わりに回転率と留保利益率を引き上げる方針を全従業員へ明示した。4年後には自己資本比率が約60%へ戻り、月に4,000万円を支払っていた利息は、逆に月4,000万円が入る側へ変わった。同じ期間に従業員は9,000人超から8,000人を割る水準まで減り、売上高は2倍になった。1970年3月には社名を東陶機器へ改めている。杉原は1972年6月21日に急逝した。
1973年の新春、東陶機器は1977年度を最終年度とする第2次5ヵ年計画を発表した。売上高を5年で2倍の1,000億円、生産性も2倍とし、総資本税引利益率は毎年10%以上、自己資本比率は毎年60%以上を維持するという内容だった。重点施策には衛生陶器と水栓金具という2大収益部門の増強に加え、後発のホーローバスと洗面化粧台の育成が並び、この2商品を1977年度に全売上高の30%まで高めて3本目の柱に育てることが課題とされた。折しも建設需要は過熱し、1973年上期の受注高は前期比43.7%増の406億円に達したが、生産実績は294億円にとどまって品不足が表面化した。第2次計画は、需要が足りない局面ではなく供給が追いつかない局面から始まった。
1974年、日本経済は戦後初めてのマイナス成長を記録し、住宅建設は大きく減少した。1973年の住宅統計調査では総世帯数2,965万に対して住宅総数が3,106万戸と逆転し、空家率は5.5%に達していた。住宅難の時代は終わり、住宅ストック過剰の時代を迎えたのである。加えて戦後のベビーブーム期に生まれた世代の婚姻数が1972年をピークに減り始め、世帯数の伸びが鈍って新規住宅需要は細った。黒河隼人社長は1976年の年頭に第2次5ヵ年計画を3年で打ち切ると発表し、売上高目標を5年で1.5倍へ下げた第3次5ヵ年計画を示した。『つくれば売れる時代は過ぎ去りました』と述べ、需要家の要望を的確に把握することを求めた。
浴槽や洗面化粧台では各社の量産体制が整って品質の差が縮まり、需要の集中する普及品を中心に採算を度外視した価格競争が起きていた。1974年の洗面化粧台には地場メーカーまで加えて100社に迫る参入があり、たまらず撤退するメーカーも現れた。東陶機器は量的拡大を追って価格競争に巻き込まれるのではなく、商品開発で他社との差別化をはかり需要を自ら創る方針を打ち出した。既存商品を洗い出して差別化できない品番は商品系列から外す一方、ピエール・カルダンのデザインによる洗面化粧台を1975年に、クラフトバスを1977年に投入した。1975年2月には本社内へ50名の研究室を置き、1978年11月には茅ヶ崎工場内に研究所を設けた。売上高は1976年11月期に942億円、経常利益は95億4,000万円となった。
1980年10月1日、東陶機器は東京を皮切りに大阪・札幌・福岡でTOTOフェア'80を開催した。商品ラインを個・質・和・省という四つの基本コンセプトに凝縮し、それぞれのゾーンへ新商品やグレードアップ商品を中心に160セットの商品群を実演つきで並べた。明確なコンセプトにもとづく展示はこれが初めてで、高度成長の終焉以来模索してきた商品開発の方向をここで集約した。会場では石油・ガス・ソーラーの給湯機、アメリカのマイクロファー社との技術提携による超節水便器、温水洗浄便座のウォシュレット、身体障害者用の浴槽に関心が集まった。ハード志向のものづくりから、消費者の生活を発想の原点に据える生活提案型へ、商品開発の向きが変わるきっかけとなった。
前身といえる商品は1964年にすでにあり、ウォッシュエアシートの名でアメリカから輸入して売っていたが、お湯の温度が定まらず、扱いも面倒で座りにくかったため、病院向けなどにわずかに出るだけだった。開発陣は社内で試験を重ね、座り心地・洗う角度・温度・水の勢いのちょうどよい条件を探ったうえで、洗浄・乾燥・暖房の三つの機能に、ICと温度センサーで温度を自動調節する仕組みを加え、1980年6月、温水洗浄便座ウォシュレットとして全国発売にこぎつけた。いまある便座と付け替えるだけで取り付けられることから、増改築キャンペーンの戦略商品にうってつけだった。1982年からはテレビ・新聞・雑誌へ広告費を重点的に投入し、一連のコマーシャルが商品名を全国へ広めた。参入メーカーの増加がかえって市場を活性化させ、1987年11月には販売累計100万台を超えた。
1980年度の新設住宅着工戸数は121万戸まで減り、量的な充足を背景に住宅市場の成熟化が急速に進んだ。東陶機器は良質な住環境の創造、既設住宅の増改築、取替え需要の開拓といった質への転換を軸にマーケティング戦略を組み直した。海外では1985年5月、フランスのコングロマリットであるラファルジュ・コペ社傘下のアリア社へ資本参加し、販売・技術・デザインの交流をはかった。1986年3月にはパリのアリア社内へ欧州駐在員事務所を置き、同年12月には直営の輸入専門商社としてセラトレーディングを設立した。急激な円高で一般商品の国際競争力が低下したため、輸出はウォシュレットやニューセラミックスなどの高付加価値商品を戦略商品に据え、アリア社と西ドイツのケラマグ社を経由して各国へ広げた。国内で需要を創る力を身につけた会社が次に試されるのは、その力が国境を越えるかどうかだった。
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事実根拠:出所(TOTO)