創業1917年、洋風建築の便器を売る市場がまだ日本に無い中で、森村組の大倉和親が小倉に東洋陶器を設立した。衛生陶器の国産化は需要そのものを欠き、第一次大戦後の不況で赤字が続いて1923年には減資した。事業を軌道に乗せたのは関東大震災後の復興需要であり、その後も下水道整備・団地建設・東京五輪のホテル建設という都市インフラが需要を量産水準まで押し上げた。需要を生む主導権は同社になく、国家の都市政策の側にあった。
決断この外部依存を自社の側へ取り込もうとしたのが、1970年の事業転換と1980年のウォシュレットだった。社名を東陶機器に変え、戦前から23年かけて育てた食器部門を捨て、衛生陶器単品から住設機器の総合メーカーへ移った。さらに温水洗浄便座に電子制御を組み込み、家電に近い製品を自社で量産する業態へ広げた。ここで蓄えたセラミックと電子制御を結ぶ技術が、後に住宅市況から離れた米州ウォシュレットと、利益率4割の半導体向け静電チャックを生んだ。
- 歴史詳細 3章・4,326字
メインコンテンツ。一次資料をベースに歴史を紐解く
- 沿革年表 45件
主要な出来事を重要度別に時系列で整理
- 長期業績 1953〜2026年(74カ年)
有価証券報告書などの公開データに基づく長期データ
- 直近の業績
業績推移と経営体制
- セグメント情報 2004〜2025年(22カ年)
各事業の売上・営業利益・利益率の推移
- 歴代社長 5名
代表取締役社長・CEO の在任期間・経歴・在任中の施策
- 取締役一覧 2018〜2025年(8カ年)
取締役の構成バランスと社外独立性
- 大株主・株主構成 1954〜2024年(71カ年)
上位10名の入れ替わりと所有者区分7区分の推移
- 組織と給料 2005〜2025年(21カ年)
連結/単体の年次変化と業界他社の平均給与比較
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ1917年に大倉和親は需要すら無い衛生陶器の国産化に挑んだのか
- A なぜ需要すら存在しない衛生陶器の国産化に挑んだのか。森村組の大倉和親は、兄弟会社の日本陶器が米国食器市場を狙ったのに対し、中国大陸・東南アジアという「東洋市場」開拓の願望を社名に込め、1917年5月に小倉で東洋陶器を設立した。洋風便器の国産品を売る市場は当時の日本になく、第一次大戦後の不況で赤字が続いて1923年には減資した。事業が軌道に乗ったのは同年9月の関東大震災後の復興需要であり、需要を生む主導権は同社になく国家の都市政策の側にあった。
- Q なぜ1970年に23年育てた食器部門を捨て住設総合メーカーへ転じたのか
- A なぜ23年かけて育てた食器部門を捨てたのか。震災や都市インフラという外部の需要に左右される体質を自社の側へ取り込むためである。1970年3月、社名を東陶機器に変え食器部門を廃止し、衛生陶器単品から住宅設備機器の総合メーカーへ移った。さらに1980年6月のウォシュレットで温水洗浄便座に電子制御を組み込み、家電に近い製品を自社で量産する業態へ広げた。ここで蓄えたセラミックと電子制御を結ぶ技術が、後に半導体製造装置向けの静電チャック事業を生んだ。
- Q なぜ2025年に約40年続けた中国大陸の生産能力を約4割縮減したのか
- A なぜ約40年続けた中国大陸の生産を縮めたのか。不動産市況の長期低迷と価格競争で資産が利益を生まなくなり、投資回収が見込めなくなったためである。2025年3月期に固定資産の減損損失341億円を計上し、同年4月に東陶北京・東陶華東の2拠点で衛生陶器の生産を停止、東陶遼寧・東陶福建の2拠点へ集約して生産能力を約4割縮減した。2024年6月に就任した田村信也社長は、中国大陸を国内と同じく成長を見込まないベースへ移し、米州と半導体向けセラミックを成長領域に振り分けた。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1912年〜1964年 衛生陶器国産化と戦後復興
震災に救われた衛生陶器工場
森村組の大倉和親は明治45年1月、父孫兵衛とともに名古屋の日本陶器合名会社(現日本陶器)内に製陶研究所を新設し、私財を投じて洋風建築の便器を国産化する道を探った[1]。研究開発の末に工業化へ成功し、1914年8月に初めて製品を販売したが、これが国産衛生陶器の嚆矢となった[2]。兄弟会社の日本陶器(現ノリタケカンパニーリミテド)が米国食器市場を主戦場にしたのに対し、[3]大倉は中国大陸・東南アジアの「東洋市場」を狙うと社名に込め、[4]1917年5月、門司港と筑豊炭田に近い小倉に資本金100万円で東洋陶器を設立した。初代社長は大倉和親が就任、主力商品は衛生陶器と食器で、製陶研究所の技術をそのまま企業化した形だった[5]。
しかし生産は数年軌道に乗らず、第一次大戦後の不況下で赤字が続き、1923年には減資に踏み切った。同年9月の関東大震災が状況を変える。復興のため衛生陶器の需要が伸び、同社の業績は好転した[6]。1920年5月に資本金を150万円へ増資して導入した日本初のドレスラー式トンネル窯(連続焼成窯)が量産体制を支え、[7]品質改良を重ねて最高級品の評価を得ると、1935年から37年ごろが戦前期の業績ピークとなった[8]。1936年にオリンピックの東京招致が決まって大都市の下水道工事が活発化すると、[9]1937年10月には神奈川県に茅ヶ崎工場を建設した[10]。水回り産業の国産化は、震災と都市インフラ整備という外部ショックを触媒にして初めて成立した。
戦時動員から高度成長の波へ
太平洋戦争下の1943年、同社は食器製造を全面停止し、翌44年には陸海軍の監督工場に指定されて兵器用碍子・碍管を生産した[11]。小倉工場と茅ヶ崎工場は戦災を免れ、1946年11月には早くも水栓金具の自社生産を開始、[12]1949年5月には東京・名古屋・大阪・福岡の各証券取引所に上場した[13]。戦後復興期の資本市場から資金を得たことで、本格的な設備投資の原資を得た。
1950年代後半以降、日本住宅公団の団地建設、下水道整備、東京オリンピックに向けたホテル・高層ビル建設ラッシュが衛生陶器需要を急拡大させた。同社は茅ヶ崎に衛生陶器工場を新設し、一般向け給水栓市場を開拓し、1962年に滋賀工場を建設した[15]。並行して1956年にはわが国初のFRP浴槽を開発、[14]1964年竣工のホテルニューオータニ向けユニットバスルームを商品化した[16]。衛生陶器単品の会社が、住宅まるごとの水回りを扱う下地を作った時期である。
大倉和親の賭けが根付くまで
創業時の「衛生陶器国産化」は、当時の日本では未踏領域だった。ドレスラー式トンネル窯は欧州の最新技術で、これを入れても赤字が続いたことは、市場そのものが存在しなかった事実を示す。1917年の設立から1923年の減資まで6年、[17]そこから1935年ごろの戦前期のピークまで12年、通算すると市場を作るのに要した時間は約20年である。最大の需要創出要因は震災と戦後復興、そして下水道と団地という都市インフラの整備であり、需要創出のイニシアチブは同社ではなく国家の都市政策の側にあった。
1964年度に売上高100億円を突破し、小倉に新本社ビル、東京に東洋陶器ビルを建てた[18]。同年の東京オリンピックに向けたホテル建設・高層ビルラッシュが衛生陶器需要を押し上げ、滋賀工場(1962)の新設もこの波に応じた投資だった[19]。ただしこのとき同社はまだ「陶器メーカー」を名乗っていた。一方で浴槽・給湯機・温水洗浄便座・ユニットバスの扱いを開始しており、商品ラインナップは陶器をはみ出していた。企業像と事業実態のズレが、次の時代の社名変更と事業ドメイン再定義の圧力として溜まっていった。
1965年〜2000年 住設機器総合メーカーへの脱皮とウォシュレット
1970年の社名変更と事業ドメインの再定義
1968年、同社は事業本部制を発足させ、ホーローバス・洗面化粧台の製造を本格開始した[20]。翌1969年には商標を「TOTO」に統一し、[21]1970年3月には社名を東陶機器株式会社に変更、同時に食器部門を廃止した[22]。陶器メーカーから住宅設備機器総合メーカーへの転換を、商品・組織・社名・事業ポートフォリオの4点で同時に宣言した動きである。食器は創業時からの主要商品の一つで、1947年に生産再開、1970年に廃止という経緯を考えると、23年かけて育てた事業を切り捨てた判断となる[23]。
背景には高度成長の終盤で住宅市場が質的に変化していた事情がある。新築時に水回り一式を取り替える需要が生まれ、衛生陶器だけを売る業態では機会を逃していた。大分工場(1971年、水栓金具)、行橋工場(1972年、洗面化粧台)と続く工場新設はこの戦略の実行で、[24]1978年度には売上高1000億円に到達した[25]。第一次石油危機後の減速経済の中でこの水準に届いたのは、減収減益を受けてデザイン・カラーの刷新と高付加価値化に転じた結果でもある。市場停滞期の体質強化が、次の1980年代の積極化期への助走となった。
ウォシュレットという別カテゴリーの発明
1980年6月、同社は温水洗浄便座「ウォシュレット」を発売した[26]。もともとアメリカの医療福祉用具を源流とする温水洗浄便座を、一般家庭の便器と一体化して売るという提案は当時の日本で類例がなく、普及には時間を要した。しかし1980年代後半、住設機器のエレクトロニクス化・多機能化の波に乗り、ヒット商品へと育った。1991年11月には小倉第三工場をウォシュレット専用に竣工させ、[27]1992年4月には中津第二工場でニューセラミックの生産も開始している[28]。
ウォシュレットの意味は販売台数だけでは測れない。衛生陶器メーカーが電子機器を内蔵した家電的製品を自社開発・自社量産したこと、それ自体が業態の拡張を意味した。セラミック技術と電子制御を組み合わせるノウハウは、後に半導体製造装置向けの静電チャック事業につながる。トイレの中で起きた技術革新が、半導体工場の装置部材にまで系譜を伸ばした原点である。
1990年代前半の海外製造拠点構築
1989年11月に米国販売会社TOTO Kiki U.S.A.を設立し、[29]1991年9月にはアトランタで衛生陶器の現地生産を開始した[30]。1994年には中国大陸で5月に北京東陶(衛生陶器)、6月に南京東陶(ホーロー浴槽)、7月に東陶機器(大連)(水栓金具)と立て続けに製造会社を設立、[31]翌1995年3月には東陶機器(北京)を追加し、[32]同年11月には販売・持株会社の東陶機器(中国)を作った[33]。商品ごとに最適地を選んで分散配置する方式で、わずか2年で中国拠点網の骨格が組み上がった。1995年9月にはマレーシアにウォシュレット製造会社も立ち上げている[34]。
戦後の事業拡大は一貫して内需中心で、輸出は補完的な位置づけだった。バブル崩壊で国内住宅市場の伸びが鈍ると、同社は米国と中国という二つの大市場で現地生産・現地販売の体制を並行して整えた。米国は既存の衛生陶器市場に乗せて展開でき、中国は日本型の水回り文化を持ち込む新市場だった。性質の異なる二つの市場に同時に賭けた意思決定が、2000年代以降の海外事業の骨格を決めた。
2001年〜2019年 グローバルブランド化と海外事業の拡大
2007年の社名変更と「TOTO」一本化
2001年1月、米国の販売会社と製造会社を統合してTOTO U.S.A., Inc.とし、[35]2002年3月にはベトナムに、2006年3月にはメキシコに衛生陶器製造会社を設立した[36]。2007年5月、同社は商号を「東陶機器」から「TOTO株式会社」に変更した[37]。1969年から商標として使ってきた「TOTO」を、38年かけてようやく正式な社名に据えた形である。同年12月にはドイツ持株会社への増資、2008年1月にはシンガポールにアジア・オセアニア統括会社を設立し、[38]2008年3月期の連結売上高は5010億円に達した。
社名変更は単なる名称整理ではなく、グローバルブランドとしての自覚を組織に固定する作業だった。日本語の「東陶機器」を海外で読ませる難しさ、国内と海外で違うブランドを持つ混乱、これらを一度に解消した。アジア・オセアニア統括会社の設置で、海外事業が単独で戦略を組める体制にもなった。並行して2007年3月には、2001年に愛知電機・小糸工業と共同で設立したウォシュレット製造会社TOTOウォシュレットテクノの株式を両社から全取得して100%子会社化し、[39]主力商品の製造を自社グループ内に取り込んでいる。
リーマンショックと純損失262億円
2008年6月、木瀬照雄の後任として張本邦雄が代表取締役社長執行役員に就任した[40]。その3ヶ月後にリーマンショックが発生し、2009年3月期の連結売上高は前年5010億円から4645億円へ減少、営業利益は227億円から65億円へ71%減、特別損失221億円を計上して親会社株主に帰属する当期純損失262億円という戦後最大級の赤字を出した。海外展開を加速した直後の金融危機直撃であり、米国住宅市場の崩壊が北米事業の前提を揺るがした。
この赤字は、同社にとって海外拡張路線のペース配分を問い直す出来事だった。2009年11月にタイ、2011年1月にインドと海外製造・販売拠点の新設は続けたが、[41]2013年4月には会社分割で水栓金具等の製造会社TOTOアクアテクノを設立、同年7月にはタイのTOTO Manufacturing(Thailand)をサイアムセメントから全株取得して100%子会社化した[42]。新設と100%子会社化が並走する構図で、既進出国の経営権を固めつつ、アジア新興国へ裾野を広げる両にらみの戦略に切り替わった。
喜多村円在任中のリモデル経済化
2013年6月、張本から喜多村円に社長が交代した[43]。当時の同社は、新築住宅着工戸数の長期低下という日本固有の構造問題に直面していた。対応策は「リモデル経済」──既存住宅の水回り交換需要を能動的に創り出す戦略である。ショールームの拡充、リフォーム業者との協業、TOTO・DAIKEN・YKK APによるリモデル現場実例コンテストの継続開催など、需要を待つのではなく喚起する仕組みを積み上げた。効果は数字に現れ、2014年3月期の売上5534億円は2018年3月期に5923億円、営業利益は471億円から526億円まで伸びた。
2015年8月には創立100周年の記念事業として小倉第一工場敷地内にTOTOミュージアムを開設、2017年5月に創立100周年を迎えた[44]。2019年6月に喜多村から清田徳明への社長交代が行われ、[45]2020年に売上は一旦コロナ禍の影響を受けつつも、2022年3月期には売上高6452億円・営業利益521億円まで回復した。国内のリモデル比率は、2022年3月期に日本住設売上の7割近くまで高まった。一方で中国大陸事業は2010年代後半から不動産市況の変調と競合激化にさらされ始めており、国内リモデル経済化で稼ぐ間に、海外の主力市場である中国の業績は2022年3月期のピーク(924億円)から2025年3月期(669億円)にかけて2割超の減収へ転じた。