TOTO の歴史

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沿革

1917〜2025年 1917年に大倉和親氏が福岡県小倉で設立した東洋陶器が起源。1980年に温水洗浄便座ウォシュレットを発売し、2025年に累計出荷台数が7000万台を超えた。衛生陶器で国内首位の住宅設備機器メーカーで、半導体製造装置向けセラミックが利益の半分を占める。

沿革

1917年に大倉和親氏が福岡県小倉で設立した東洋陶器が起源。

1980年に温水洗浄便座ウォシュレットを発売し、2025年に累計出荷台数が7000万台を超えた。衛生陶器で国内首位の住宅設備機器メーカーで、半導体製造装置向けセラミックが利益の半分を占める。

1912年〜創業期東洋陶器の設立と衛生陶器への単品特化

  1. 東洋陶器を設立
  2. 日本初の連続焼成窯を導入
  3. 茅ヶ崎工場竣工(衛生陶器)
  4. 水栓金具の生産開始
  5. 東京・名古屋・大阪・福岡の各証券取引所に株式上場
  6. FRP浴槽をわが国で初めて開発
  7. 茅ヶ崎工場でプラスチック製品生産開始
  8. 滋賀工場竣工(衛生陶器)
  9. ホテルニューオータニ向けユニットバスルームを開発
TOTO売上高1964年11月期102億円

1965年〜安定成長期ウォシュレット発売と住設機器への多角化

  1. 小倉第二工場竣工(水栓金具)
  2. 事業本部制を発足、住設機器事業に参入
  3. 商標を「TOTO」に統一
  4. 社名を東陶機器に変更
  5. 大分工場竣工(水栓金具)
  6. 行橋工場竣工、洗面化粧台生産開始
  7. 売上高1000億円突破
  8. 温水洗浄便座「ウォシュレット」発売
  9. 滋賀工場で給湯機の生産開始
  10. 守りの経営を解き、給湯機参入など「水まわり」の総合化で住設機器総合メーカーへ転換
  11. 決算期を11月30日から3月31日に変更
  12. 販売会社TOTO Kiki U.S.A. Inc.を設立
TOTO売上高1984年11月期1,760億円

1991年〜成熟期「脱・内弁慶」の米国市場開拓とTOTOへの改称

  1. 「脱・内弁慶」を掲げ、ウォシュレットを武器に米国市場の本格開拓に乗り出す
  2. 衛生陶器製造会社を設立(アトランタ)
  3. 小倉第三工場竣工(ウォシュレット専用工場)
  4. 中国大陸に衛生陶器・浴槽・水栓の製造会社を設立
  5. 中国大陸に販売・持株会社(東陶機器)を設立
  6. 販売・製造会社を統合しTOTO U.S.A., Inc.を設立
  7. 衛生陶器製造会社TOTO Vietnam Co., Ltd.を設立
  8. 社名をTOTOに変更
TOTO売上高2008年3月期5,010億円

2009年〜262億円の最終赤字と中国大陸事業の減損による構造改革

  1. 親会社株主に帰属する当期純損失▲262億円を計上
  2. 張本邦雄が代表取締役社長執行役員に就任
  3. 子会社を設立
  4. 喜多村円が代表取締役社長執行役員に就任
  5. 創立100周年記念事業としてTOTOミュージアムを開設
  6. 創立100周年
  7. 清田徳明が代表取締役社長執行役員に就任
  8. 監査等委員である取締役に議決権を与え、社外取締役を3名から5名へ増員した機関設計の切り替え
  9. 中国大陸事業で減損損失341億円を計上
  10. 田村信也が代表取締役社長執行役員に就任
  11. 中国大陸事業の構造改革を発表
  12. ウォシュレット累計出荷台数が7000万台突破
TOTO売上高2026年3月期7,374億円
長期業績の推移 1949〜2026年

業績

TOTO:歴代社長と長期業績の推移売上高(億円)純利益率(%)
1970年11月期〜2026年3月期

第1章 1912年〜 東洋陶器の設立と衛生陶器への単品特化関東大震災の復興需要から占領軍特需へ移行した販売先

筆者考察y.sugiura, author

衛生陶器は、市場が無いところから始まった商品である。大倉和親が1912年に私財を投じて製陶研究所を設けてから半世紀、東洋陶器の売上げを決めたのは、いつも自社の外にある事情だった。1923年の関東大震災の復興、1930年代末の満州の官舎建設、終戦直後の占領軍宿舎の水洗化、1950年の朝鮮動乱、そして1960年代の下水道整備。どれも会社が起こした出来事ではない。便器と洗面器は建物に付いてくる商品であり、建物が建つ理由は常に会社の外で決まる。単品に絞ったことが業界一位を作り、同じことが業績を外の事情に預ける構造も作った。

それでも東洋陶器は、波を待っていただけではない。1940年には初の衛生陶器規格を国の標準として通し、1962年には東京地区の二次卸店から特約販売店を選んで奨励金を払う仕組みを設け、自治体への指定活動と下水道PR映画の制作まで手がけた。需要が来たときに取りこぼさない仕掛けを、需要が来る前に置いていたのである。1955年度に13億円だった売上高が1964年度に100億円へ達し、衛生陶器で全国生産の6割を占めたのは、その積み重ねの結果だった。ただし量産の設備は借入で買われ、自己資本比率は1961年に30%まで低下している。伸びの速度そのものが、次の経営課題になった。

1914年〜震災復興需要に乗った衛生陶器の国産化

私財を投じて便器を国産化する

国産の衛生陶器が初めて売り出されたのは1914年8月で、研究を重ねて工業化にこぎつけた成果だった。その出発点は、森村組の大倉和親が明治45年1月、父孫兵衛と組んで名古屋の日本陶器合名会社(現日本陶器)の中に製陶研究所を設け、自らの資金で洋風建築向け便器の国産化に乗り出したことにある。兄弟会社の日本陶器(現ノリタケカンパニーリミテド)が米国の食器市場を主な舞台としたのに対し、大倉は中国大陸と東南アジアの「東洋市場」を目指す意図を社名に託した。設立は1917年5月で、門司港と筑豊炭田に近い小倉に資本金100万円で東洋陶器を置いた。初代社長には大倉和親が就任し、製陶研究所の技術をそのまま持ち込んで衛生陶器と食卓用陶磁器の製造を始めた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [1]工業化に成功し1914年8月に初めて製品を販売、これが国産衛生陶器の嚆矢
    • [2]大倉和親が明治45年(1912年)1月、父孫兵衛とともに名古屋の日本陶器合名会社内に製陶研究所を新設した
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [3]兄弟会社の日本陶器は現ノリタケカンパニーリミテド(米国食器市場を主戦場)
    • [4]社名「東洋陶器」は中国大陸・東南アジアの東洋市場開拓という大倉孫兵衛・和親親子の願望に由来
  • TOTO 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
    • [5]1917年5月、資本金100万円で北九州小倉に東洋陶器株式会社を設立、初代社長は大倉和親
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版(東洋陶器)
    • [6]日本陶器合名会社内にあった製陶研究所の技術をもって東洋陶器を創立し、衛生陶器と食卓用陶磁器の製造を開始した
震災の復興需要で量産窯を回す

しかし生産は数年軌道に乗らず、第一次大戦後の不況下で赤字が続いた。1923年の減資のあと、同年9月の関東大震災による復興需要で衛生陶器が伸び、業績は好転した。1920年5月に資本金を150万円へ増資して導入した日本初のドレスラー式トンネル窯(連続焼成窯)が量産体制を支え、品質改良を重ねて最高級品の評価を得ると、1935年から37年ごろが戦前期の業績ピークとなった。1936年にオリンピックの東京招致が決まって大都市の下水道工事が活発化すると、1937年10月には神奈川県に茅ヶ崎工場を建設した。水回り産業の国産化は、震災と都市インフラ整備という外部ショックを触媒にして初めて成立した。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [7]1923年に減資、同年9月の関東大震災で衛生陶器需要が伸び業績が好転
    • [9]戦前期の業績ピークは1935〜37年ごろ
    • [10]1936年に東京五輪招致が決定(後に返上)し下水道工事が活発化
  • TOTO 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
    • [8]1920年5月に資本金を150万円へ増資し、日本初の連続焼成窯(ドレスラー式トンネル窯)を導入
    • [11]1937年10月、神奈川県に茅ヶ崎工場(衛生陶器)を建設
満州の官舎需要を受けて規格を整える

1939年を迎えると、軍需に関わる生産拡充施設の需要が国内で伸び、満州でも重工業会社や炭鉱開発会社の工場とその従業員宿舎の建設が重なったため、受注は予想に反して増えた。前年の1938年末には、鉄鋼などの建築資材が統制されるため国内の建築は大きく落ち込み、満州国向けも1割減るとの見通しだった。技術者を移住させるための鉄筋コンクリート造アパートでは、衛生陶器の需要が1939年から43年まで年に5万戸分と見込まれた。1939年末には手持受注残高が1年分に積み上がった。1940年9月には同業10社が衛生陶器の共同販売を目的に共販組合を設立し、直前1年の販売実績をもとにした出資比率で東洋陶器は37.9%を占めた。同年1月には初の衛生陶器規格が臨時日本標準規格として制定され、欧米製品の模写から出発した便器と洗面器は、ここで国の標準を得た。

  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
    • [12]1939年に入ると国内の軍需関連生産拡充施設の需要増と、満州の重工業会社・鉱業開発会社の工場建設・従業員宿舎の需要が重なり膨大な注文を獲得した
    • [13]1938年末の予測では建築資材の統制などで国内建築の著減、満州国建築の10%減による受注減が見越されていた
    • [14]満州の技術者移住用アパートの衛生陶器は1939〜43年に年間5万戸分が見込まれ、1939年末の手持受注残高は1年分に達した
    • [15]1940年9月、同業10社が衛生陶器共販組合(資本金5万円)を設立し、1939年6月〜40年5月の販売実績比率にもとづく出資で東洋陶器は37.9%を占めた
    • [16]1940年、わが国初の衛生陶器規格が臨時日本標準規格(JES)60号熔化質衛生陶器・61号化粧素地質衛生陶器として制定された
参考文献[1]-[16]
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [1]工業化に成功し1914年8月に初めて製品を販売、これが国産衛生陶器の嚆矢
    • [2]大倉和親が明治45年(1912年)1月、父孫兵衛とともに名古屋の日本陶器合名会社内に製陶研究所を新設した
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [3]兄弟会社の日本陶器は現ノリタケカンパニーリミテド(米国食器市場を主戦場)
    • [4]社名「東洋陶器」は中国大陸・東南アジアの東洋市場開拓という大倉孫兵衛・和親親子の願望に由来
    • [7]1923年に減資、同年9月の関東大震災で衛生陶器需要が伸び業績が好転
    • [9]戦前期の業績ピークは1935〜37年ごろ
    • [10]1936年に東京五輪招致が決定(後に返上)し下水道工事が活発化
  • TOTO 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
    • [5]1917年5月、資本金100万円で北九州小倉に東洋陶器株式会社を設立、初代社長は大倉和親
    • [8]1920年5月に資本金を150万円へ増資し、日本初の連続焼成窯(ドレスラー式トンネル窯)を導入
    • [11]1937年10月、神奈川県に茅ヶ崎工場(衛生陶器)を建設
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版(東洋陶器)
    • [6]日本陶器合名会社内にあった製陶研究所の技術をもって東洋陶器を創立し、衛生陶器と食卓用陶磁器の製造を開始した
  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
    • [12]1939年に入ると国内の軍需関連生産拡充施設の需要増と、満州の重工業会社・鉱業開発会社の工場建設・従業員宿舎の需要が重なり膨大な注文を獲得した
    • [13]1938年末の予測では建築資材の統制などで国内建築の著減、満州国建築の10%減による受注減が見越されていた
    • [14]満州の技術者移住用アパートの衛生陶器は1939〜43年に年間5万戸分が見込まれ、1939年末の手持受注残高は1年分に達した
    • [15]1940年9月、同業10社が衛生陶器共販組合(資本金5万円)を設立し、1939年6月〜40年5月の販売実績比率にもとづく出資で東洋陶器は37.9%を占めた
    • [16]1940年、わが国初の衛生陶器規格が臨時日本標準規格(JES)60号熔化質衛生陶器・61号化粧素地質衛生陶器として制定された

1941年〜戦時統制による経営主体の喪失と占領軍特需での再起

卸を切り離し食器の生産を止める

1941年1月、東洋陶器は衛生陶器と食器の流通のために小倉陶器商会・東衛陶器商会・東和陶器商会の3社を設立した。経済新体制のもとで生産者の卸売兼業が禁じられる情勢となり、自社とは別組織の卸売会社と小売会社を置かざるをえなくなったためである。同年10月、商工省は陶磁器工業整備要綱を通達し、衛生陶器の製造業者は全国で1社へ企業合同せよと指示した。硬質陶器では東洋陶器だけが合同の対象から外れた。円ブロック向けの輸出は1940年9月以降きわめて困難となり、第三国向けも船舶の徴用による船腹不足と為替の障害で塞がれた。国内向け製品の生産額は1941年11月からの半年で前年同期の50%以下に抑えられ、食器の生産は止まった。

  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
    • [17]1941年1月、衛生陶器および食器の流通のため小倉陶器商会(産地卸し)・東衛陶器商会(一般卸し)・東和陶器商会(小売り)を設立した
    • [18]経済新体制のもとで生産者である東洋陶器の卸売り兼業が禁止される情勢となり、別組織の卸売・小売会社の設立を余儀なくされた
    • [19]1941年10月、商工省が陶磁器工業整備要綱を通達し、衛生陶器製造業者は全国1会社への企業合同を指示された
    • [20]硬質陶器製造業者の企業合同では東洋陶器が対象から除かれた
    • [21]円ブロック向け輸出は1940年9月以降きわめて困難となり、第三国向けも船舶徴用による船腹不足と外国為替関係の障害で途絶した
    • [22]1941年11月〜42年3月末の国内向け製品の生産額は前年同期の約50%以下に抑えられた
軍需の設備を壊して民需へ戻す

小倉と茅ヶ崎の工場はどちらも戦災を免れ、生産設備にもほとんど傷みがなかった。1945年8月に戦争が終わると、東洋陶器は衛生陶器と食器という本業の生産に戻った。販売の拠点は様子が違い、東京・大阪・名古屋の出張所は焼け落ち、大連・上海・奉天などの海外拠点は終戦を待たずに閉じていた。戦時中の陶製照明器具のような金属の代用品や、点火栓碍子・電解槽などの軍需品は、もともとの陶磁器と性格が大きく違わなかったので、民需への切り替えにさほど苦労しなかった。平和産業へ移るにあたっては軍需向け陶磁器の設備を壊して衛生陶器の工場を広げ、1945年10月20日には日本特殊陶業に貸していた茅ヶ崎工場が戻って、森村茂樹社長が出席して衛生陶器製造転換式を行なった。

  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
    • [23]小倉・茅ヶ崎の両工場が無傷で終戦を迎え、生産設備はほとんど損傷を受けなかった
    • [24]終戦で戦時体制から解放され、本来の衛生陶器と食器の生産に立ち返ることになった
    • [25]東京・大阪・名古屋の各出張所はいずれも焼失し、大連・上海・奉天など海外出張所も終戦前に閉鎖されていた
    • [26]終戦以前に生産していた陶製照明器具などの金属代用品、点火栓碍子や電解槽などの軍需品は製品の性質が本来の陶磁器とかけ離れておらず、軍需から民需への転換が比較的容易だった
    • [27]平和産業への移行にあたり軍需用陶磁器などの生産設備の取壊しに着手し、衛生陶器の工場を拡張した
    • [28]1945年10月20日、日本特殊陶業に貸与していた茅ヶ崎工場が返還され、森村茂樹社長出席のもとで衛生陶器製造転換式を行なった
占領軍の宿舎工事で特需の9割を取る

連合国軍総司令部は都心のビルや高級住宅を相次いで接収し、宿舎として冷暖房・台所・便所を改修する工事を日本政府に求めた。これが東洋陶器の立ち直りのきっかけとなった。便所は水洗が条件で、和風便器はすぐに腰掛便器へ替えられ、給水・給湯の配管の先にはどこにも水栓が付いた。このため衛生陶器と水栓金具の需要がそろって伸びた。注文は戦前から実績のある東洋陶器に集まり、水栓金具セットも含めると特需全体の90%に当たる量をこなした。生産を増やすため1945年10月以降に人を多数採用した結果、終戦直後に大きく減っていた従業員は、1年後の1946年には戦前のピークに並ぶ約1,000名まで回復した。戦前から張り合ってきた名古屋製陶所が衰える一方で、陶管とタイルの伊奈製陶(現LIXIL)が衛生陶器に乗り出した。

  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
    • [29]GHQは都内のビルや高級住宅を接収し、日本政府に対し宿舎の冷暖房・台所・便所の改修工事を要求した
    • [30]占領軍特需は戦後の混迷のなかで関連産業にとって再建のきっかけとなり、東洋陶器も再建への足がかりをつかんだ
    • [31]接収宿舎の便所は水洗とされ和風便器は腰掛便器に取り替えられ、給水・給湯設備の末端にすべて水栓が取り付けられたため衛生陶器と水栓金具の需要が膨大になった
    • [32]衛生陶器の分野では戦前から経験豊富な東洋陶器に受注が集中し、水栓金具セットを含め全特需の90%におよぶ量を引き受けた
    • [33]1945年10月以降に大量募集を行ない、終戦時に減少した従業員は1946年には戦前のピーク時に匹敵する約1,000名に達した
    • [34]戦前からのライバルであった名古屋製陶所が凋落し、陶管やタイルを製造していた伊奈製陶(現INAX)が衛生陶器分野に進出した
参考文献[17]-[34]
  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
    • [17]1941年1月、衛生陶器および食器の流通のため小倉陶器商会(産地卸し)・東衛陶器商会(一般卸し)・東和陶器商会(小売り)を設立した
    • [18]経済新体制のもとで生産者である東洋陶器の卸売り兼業が禁止される情勢となり、別組織の卸売・小売会社の設立を余儀なくされた
    • [19]1941年10月、商工省が陶磁器工業整備要綱を通達し、衛生陶器製造業者は全国1会社への企業合同を指示された
    • [20]硬質陶器製造業者の企業合同では東洋陶器が対象から除かれた
    • [21]円ブロック向け輸出は1940年9月以降きわめて困難となり、第三国向けも船舶徴用による船腹不足と外国為替関係の障害で途絶した
    • [22]1941年11月〜42年3月末の国内向け製品の生産額は前年同期の約50%以下に抑えられた
    • [23]小倉・茅ヶ崎の両工場が無傷で終戦を迎え、生産設備はほとんど損傷を受けなかった
    • [24]終戦で戦時体制から解放され、本来の衛生陶器と食器の生産に立ち返ることになった
    • [25]東京・大阪・名古屋の各出張所はいずれも焼失し、大連・上海・奉天など海外出張所も終戦前に閉鎖されていた
    • [26]終戦以前に生産していた陶製照明器具などの金属代用品、点火栓碍子や電解槽などの軍需品は製品の性質が本来の陶磁器とかけ離れておらず、軍需から民需への転換が比較的容易だった
    • [27]平和産業への移行にあたり軍需用陶磁器などの生産設備の取壊しに着手し、衛生陶器の工場を拡張した
    • [28]1945年10月20日、日本特殊陶業に貸与していた茅ヶ崎工場が返還され、森村茂樹社長出席のもとで衛生陶器製造転換式を行なった
    • [29]GHQは都内のビルや高級住宅を接収し、日本政府に対し宿舎の冷暖房・台所・便所の改修工事を要求した
    • [30]占領軍特需は戦後の混迷のなかで関連産業にとって再建のきっかけとなり、東洋陶器も再建への足がかりをつかんだ
    • [31]接収宿舎の便所は水洗とされ和風便器は腰掛便器に取り替えられ、給水・給湯設備の末端にすべて水栓が取り付けられたため衛生陶器と水栓金具の需要が膨大になった
    • [32]衛生陶器の分野では戦前から経験豊富な東洋陶器に受注が集中し、水栓金具セットを含め全特需の90%におよぶ量を引き受けた
    • [33]1945年10月以降に大量募集を行ない、終戦時に減少した従業員は1946年には戦前のピーク時に匹敵する約1,000名に達した
    • [34]戦前からのライバルであった名古屋製陶所が凋落し、陶管やタイルを製造していた伊奈製陶(現INAX)が衛生陶器分野に進出した

1949年〜食器を切り捨てた再建と大衆市場での売上高100億円

食器を減産して衛生陶器へ寄せる

1948年秋の3ヵ月におよぶ長期争議は、操業を止めただけでなく、社内の信頼と対外信用を損なった。12月8日に工場が再開すると、再建の責任者となった江副孫右衛門は千数百名の従業員を前に、『他社よりも品質品位のよい、価格の安い、しかも需要に応じられるだけの量を——つくらない限り、絶対に東陶の再建はありえません』と述べた。しかし1949年の単一為替レート設定に加え、同年9月のイギリスによる30%のポンド切下げに東南アジアのポンドブロックが追随したため、伝統的な輸出市場が崩れて滞貨が激増した。1950年3月、東洋陶器は不振の食器を大幅に減産して衛生陶器と水栓金具へ重心を移す生産計画大綱を決め、希望退職には全従業員の20%にあたる325名が応じた。累積欠損は5,800万円に達し、賃金は平均26%カットされた。1949年5月に上場した株式は額面を割り、20円台を上下した。

  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
    • [35]1948年の長期争議は経理上の損失にとどまらず社内の不信と対外信用の低下をともない、12月8日に工場が3ヵ月ぶりに再開した
    • [36]1948年12月10日の始業式で、再建の事実上の責任者となった江副孫右衛門相談役が千数百名の従業員を前に所信を述べた
    • [37]単一為替レートの設定に加え1949年9月のイギリスの30%のポンド切下げに東南アジアのポンドブロックが追随し、輸出不振で滞貨が激増した
    • [38]1950年3月の生産計画大綱は不振の食器を大幅に減産し衛生陶器と水栓金具にウエートを置く内容で、希望退職に全従業員の20%にあたる325名が応じた
    • [39]1950年上期決算で不良資産を損金計上した結果、累積欠損は5,800万円に達し、1950年下期から従業員の平均26%の賃金カットを実施した
    • [40]1949年5月16日に上場した株式は1950年に額面を大きく割り込み20円台を上下した
特需の販売先を住宅市場へ転換する

東洋陶器にとっての特需は、前線へ直接送る品よりも、国内の基地や軍関係の宿舎・住宅で膨らんだ需要に応えるものが主だった。発注の量が大きく、水栓金具を組み合わせて納める条件も付いたことから、金具の出荷はかつてない水準に達した。こうして1950年6月の朝鮮動乱に伴う特需が、業績を上向かせた。創業者の大倉和親は1955年7月、79年の生涯を終えた。同月には日本住宅公団が発足し、一般住宅の設備を近代化する動きが始まろうとしていた。特需と復興需要を頼りにしてきた事業は、ここを境に大衆市場へ向きを変えることになる。1958年7月には茅ヶ崎工場内に合成樹脂工場を新設し、強化プラスチックの分野へ進んで浴槽を開発した。

  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
    • [41]前線向けの直接特需よりも国内基地・軍関係の宿舎や住宅の需要増に対応する特需が発生し、水栓金具をセットする条件が付いていたため水栓金具はこれまでにない出荷量を記録した
    • [42]ドッジ不況下で経営維持に腐心していた東洋陶器にとって、朝鮮動乱にともなう特需は起死回生の転機となった
    • [43]1955年7月、創業者の大倉和親が79年の生涯を閉じた
    • [44]1955年7月に日本住宅公団が設立され、一般住宅への住宅設備の近代化が始まろうとしていた
    • [45]事業は1940年代の特需・復興需要依存体質から脱し、1950年代の高度成長への転換期にさしかかっていた
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版(東洋陶器)
    • [46]1958年7月、茅ヶ崎工場内に合成樹脂工場を新設し、強化プラスチックの分野に進出して浴槽などを開発した
下水道の普及に合わせて販売網を組み替える

1955年度に13億円だった売上高は、1961年度に50億円を超え、1964年度には100億円に乗った。伸びを支えたのは下水道の整備で、1963年に第1次下水道整備5ヵ年計画が始まると水洗便器の需要が急速に増えた。下水道用品は自治体公認の設備業者が各戸へ据え付ける方式が主だったため、東洋陶器は自治体への指定活動、設備業者向けの講習会、下水道PR映画の制作といった普及活動を重ねた。1962年には東京地区の二次卸店から特約販売店を選び、基準を超えた売上高に応じて特約店と共同で奨励金を払う制度を発足させた。1964年時点で衛生陶器は全国生産の6割を占め、業界第一位に立っていた。ただし滋賀工場などの大型投資が相次いだ結果、自己資本比率は1961年に30%まで低下した。国内生産の6割を支えた量産の設備は、利益ではなく借入で買われていた。

  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
    • [47]1955年度に13億円であった売上高は1961年度に50億円を突破し、1964年度には100億円台に乗せ、10年間で約8倍に伸びた
    • [48]1963年に第1次下水道整備5ヵ年計画がスタートし、水洗便器など下水道用品の需要が急速に増加した
    • [49]下水道用品は自治体公認の設備業者が据え付けるため、各自治体への指定活動、設備事業者への講習会、下水道PR映画の制作などの普及活動を重ねた
    • [50]1962年、東京地区の二次卸店から特約販売店を選び、基準売上高以上を達成した場合に売上高にスライドして特約店と共同で販売奨励金を支払う特約販売店制度を発足させた
    • [52]1960年以降に滋賀工場・東洋陶器ビル・本社社屋の建設などの大型投資が相次ぎ、自己資本比率は1961年に30%まで低下した
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版(東洋陶器)
    • [51]1964年時点で衛生陶器が主力で全国生産の6割を占め業界第一位、付属金具類でも他を引き離していた
参考文献[35]-[52]
  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
    • [35]1948年の長期争議は経理上の損失にとどまらず社内の不信と対外信用の低下をともない、12月8日に工場が3ヵ月ぶりに再開した
    • [36]1948年12月10日の始業式で、再建の事実上の責任者となった江副孫右衛門相談役が千数百名の従業員を前に所信を述べた
    • [37]単一為替レートの設定に加え1949年9月のイギリスの30%のポンド切下げに東南アジアのポンドブロックが追随し、輸出不振で滞貨が激増した
    • [38]1950年3月の生産計画大綱は不振の食器を大幅に減産し衛生陶器と水栓金具にウエートを置く内容で、希望退職に全従業員の20%にあたる325名が応じた
    • [39]1950年上期決算で不良資産を損金計上した結果、累積欠損は5,800万円に達し、1950年下期から従業員の平均26%の賃金カットを実施した
    • [40]1949年5月16日に上場した株式は1950年に額面を大きく割り込み20円台を上下した
    • [41]前線向けの直接特需よりも国内基地・軍関係の宿舎や住宅の需要増に対応する特需が発生し、水栓金具をセットする条件が付いていたため水栓金具はこれまでにない出荷量を記録した
    • [42]ドッジ不況下で経営維持に腐心していた東洋陶器にとって、朝鮮動乱にともなう特需は起死回生の転機となった
    • [43]1955年7月、創業者の大倉和親が79年の生涯を閉じた
    • [44]1955年7月に日本住宅公団が設立され、一般住宅への住宅設備の近代化が始まろうとしていた
    • [45]事業は1940年代の特需・復興需要依存体質から脱し、1950年代の高度成長への転換期にさしかかっていた
    • [47]1955年度に13億円であった売上高は1961年度に50億円を突破し、1964年度には100億円台に乗せ、10年間で約8倍に伸びた
    • [48]1963年に第1次下水道整備5ヵ年計画がスタートし、水洗便器など下水道用品の需要が急速に増加した
    • [49]下水道用品は自治体公認の設備業者が据え付けるため、各自治体への指定活動、設備事業者への講習会、下水道PR映画の制作などの普及活動を重ねた
    • [50]1962年、東京地区の二次卸店から特約販売店を選び、基準売上高以上を達成した場合に売上高にスライドして特約店と共同で販売奨励金を支払う特約販売店制度を発足させた
    • [52]1960年以降に滋賀工場・東洋陶器ビル・本社社屋の建設などの大型投資が相次ぎ、自己資本比率は1961年に30%まで低下した
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版(東洋陶器)
    • [46]1958年7月、茅ヶ崎工場内に合成樹脂工場を新設し、強化プラスチックの分野に進出して浴槽などを開発した
    • [51]1964年時点で衛生陶器が主力で全国生産の6割を占め業界第一位、付属金具類でも他を引き離していた

第2章 1965年〜 ウォシュレット発売と住設機器への多角化杉原周一の無借金経営からウォシュレットへ

筆者考察y.sugiura, author

1967年に社長となった杉原周一がやったのは、成長率を上げることではなく、下げることだった。自己資本比率が1968年5月期に32%へ低下したとき、杉原は年20%を超える伸びを保つかぎり毎年5万坪の工場を増設する必要があり、その資金の出どころは銀行しかないと見た。借りた金で建てた工場は、返済の時期になるとまた次の増設を求める。そこで年成長率を25%から20%へ落とし、その分を総資本回転率と留保利益率の改善へ振り向けた。4年後、月に4,000万円払っていた利息は月4,000万円受け取る側へ変わり、従業員は9,000人超から8,000人を割る水準まで減って、売上高は2倍になった。

この物差しは、需要が消えたあとにこそ効いた。1973年の住宅統計で住宅総数が総世帯数を上回り、住宅難の時代が終わったとき、東陶機器は第2次5ヵ年計画を3年で打ち切って売上目標を下げている。浴槽と洗面化粧台で100社が競う価格競争には乗らず、差別化できない品番を商品系列から外し、研究室と研究所を置いた。1980年に発売したウォシュレットは、1964年に輸入販売して売れなかった商品の作り直しである。既設の便座を取り替えるだけで設置でき、新築が減っても売れる商品を、新築が減った市場へ出した。需要の波を待つ会社から、波の外に商品を置く会社へ、性格はここで変わった。

1965年〜杉原周一が据えた自己資本比率という物差し

単品メーカーから住設の総合へ向かう

売上高は1965年11月期の111億円が1967年11月期に178億円となり、市場は広がっていた。創立50周年にあたる1967年、東洋陶器は衛生陶器と水栓金具だけを作る会社から、住宅設備機器を幅広く扱う総合メーカーへ転じる方針を定めた。取扱商品は1950年代からプラスチック浴槽やユニットバスルームへ広がっていたものの、売上に占める割合は小さく、腰を据えた体制も整っていなかったうえ、高度成長期の伸びはあくまで衛生陶器と水栓金具という狭い市場の中でのことで、多様な住宅需要に見合う品ぞろえも、それを支える技術開発力や生産・販売の体制も、この時点では備わっていなかった。この年は、洗面化粧台やホーローバスへ事業分野を広げる出発点となった。

  • 会社年鑑(東陶機器・各期業績)
    • [53]売上高は1965年11月期111億円、1967年11月期178億円
  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
    • [54]1967年5月に創立50周年を迎え、企業体質の改善をはかり洗面化粧台やホーローバスへ事業分野を広げ住設機器の総合メーカーをめざす新たな出発点となった
    • [55]1950年代にプラスチック浴槽やユニットバスルームなど取扱商品の多角化をはかったが、売上高全体に占めるウエートは低く本格的な体制づくりも遅れていた
    • [56]1950年代の急成長は衛生陶器・水栓金具という限定された市場においてのものであり、住宅産業の構成員として成長するには商品構成・技術開発力・生産販売体制の構築が必要だった
    • [57]住宅市場の拡大は衛生陶器・水栓金具メーカーとして発展してきた性格に大きな変容を迫るものだった
事業本部に利益責任を負わせる

1968年6月、東洋陶器は事業本部制を採用し、営業・外国・衛陶・金具・プラスチック・食器・仕入商品・ユニット工事の8事業本部を発足させた。各事業本部の長には常務取締役が就き、独立採算で受け持つ商品の生産・販売・利益の計画を立て、それぞれの成績が問われる仕組みとなった。こうした体制に改めたのは、食器からプラスチック、ユニットバスルームへと品目を増やしながら、計画や方針が行き渡らず、どの製品がどれだけ利益を上げたかの責任もはっきりしなかったためである。1969年1月6日には1973年度を締めくくりの年度に据えた5ヵ年計画を発表し、売上高を2倍に、総資本税引利益率を10%に、自己資本比率を60%に引き上げ、5年のうちに借入金をなくすことを目標とした。QCサークル活動は1968年10月に取り入れられ、1年たつとサークル数1,008、参加者7,089名に達し、全従業員の82%を占めた。

  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
    • [58]1968年6月、事業本部制の採用を軸に組織の大改革を実施し、営業・外国・衛陶・金具・プラスチック・食器・仕入商品・ユニット工事の8事業本部が発足した
    • [59]各事業本部長には常務取締役が就任し、独立採算制のもとで担当商品の生産・販売・利益計画を立て業績が測定されることになった
    • [60]食器・プラスチック・ユニットバスルームへと商品を拡大してきたが計画や方針に徹底を欠き、製品別の利益責任もあいまいだった
    • [61]1969年1月6日、1973年度を最終年度とする5ヵ年計画が発表された
    • [62]5ヵ年計画の目標は売上高を2倍、総資本税引利益率を10%、自己資本比率を60%とし、5年間で無借金の状態にすることだった
    • [63]1968年10月に全員参加のQCサークル活動を導入し、1969年9月にはサークル数1,008、メンバーは全従業員の82%にあたる7,089名に達した
成長率を落として利息の向きを変える

杉原周一が社長に就任した1967年7月の時点で、東洋陶器はすでに自他ともに認める高成長企業だった。しかし成長にともなって借入金が増え、自己資本比率は1968年5月期に32%まで下がり、従来の40〜50%から崩れていた。杉原は自己資本比率を総資本回転率・売上高留保利益率・売上高年成長率・株式資本比率の4項で表す企業経営基本式を立て、年成長率をあえて25%から20%へ落とす代わりに回転率と留保利益率を引き上げる方針を全従業員へ明示した。4年後には自己資本比率が約60%へ戻り、月に4,000万円を支払っていた利息は、逆に月4,000万円が入る側へ変わった。同じ期間に従業員は9,000人超から8,000人を割る水準まで減り、売上高は2倍になった。1970年3月には社名を東陶機器へ改めている。杉原は1972年6月21日に急逝した。

  • 証券アナリストジャーナル 1972年(杉原周一 )
    • [64]杉原周一が社長に就任した1967年7月当時、東陶機器はすでに自他共に許す高成長の優良企業だった
    • [65]高成長にともなって借入金が増加し自己資本比率が低下、1968年5月期決算では従来の40〜50%から32%まで下がった
    • [66]杉原は総資本回転率K・売上高留保利益率L・売上高年成長率N・株式資本比率Pからなる企業経営基本式を導き、K=1→1.2、L=0.04→0.06、N=0.25→0.20、P=1/3→1/3.5を全従業員に明示した
    • [67]3年半から4年で自己資本比率は約60%に上昇し、4年前に月4,000万円支払っていた利息は逆に月4,000万円入ってくるようになった
    • [68]4年前に9,000人を超えていた従業員数は8,000人を割り、これに対して売上高は2倍になった
    • [70]杉原周一は1972年6月21日に急逝した
  • TOTO 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
    • [69]1970年3月、社名を東陶機器に変更
参考文献[53]-[70]
  • 会社年鑑(東陶機器・各期業績)
    • [53]売上高は1965年11月期111億円、1967年11月期178億円
  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
    • [54]1967年5月に創立50周年を迎え、企業体質の改善をはかり洗面化粧台やホーローバスへ事業分野を広げ住設機器の総合メーカーをめざす新たな出発点となった
    • [55]1950年代にプラスチック浴槽やユニットバスルームなど取扱商品の多角化をはかったが、売上高全体に占めるウエートは低く本格的な体制づくりも遅れていた
    • [56]1950年代の急成長は衛生陶器・水栓金具という限定された市場においてのものであり、住宅産業の構成員として成長するには商品構成・技術開発力・生産販売体制の構築が必要だった
    • [57]住宅市場の拡大は衛生陶器・水栓金具メーカーとして発展してきた性格に大きな変容を迫るものだった
    • [58]1968年6月、事業本部制の採用を軸に組織の大改革を実施し、営業・外国・衛陶・金具・プラスチック・食器・仕入商品・ユニット工事の8事業本部が発足した
    • [59]各事業本部長には常務取締役が就任し、独立採算制のもとで担当商品の生産・販売・利益計画を立て業績が測定されることになった
    • [60]食器・プラスチック・ユニットバスルームへと商品を拡大してきたが計画や方針に徹底を欠き、製品別の利益責任もあいまいだった
    • [61]1969年1月6日、1973年度を最終年度とする5ヵ年計画が発表された
    • [62]5ヵ年計画の目標は売上高を2倍、総資本税引利益率を10%、自己資本比率を60%とし、5年間で無借金の状態にすることだった
    • [63]1968年10月に全員参加のQCサークル活動を導入し、1969年9月にはサークル数1,008、メンバーは全従業員の82%にあたる7,089名に達した
  • 証券アナリストジャーナル 1972年(杉原周一 )
    • [64]杉原周一が社長に就任した1967年7月当時、東陶機器はすでに自他共に許す高成長の優良企業だった
    • [65]高成長にともなって借入金が増加し自己資本比率が低下、1968年5月期決算では従来の40〜50%から32%まで下がった
    • [66]杉原は総資本回転率K・売上高留保利益率L・売上高年成長率N・株式資本比率Pからなる企業経営基本式を導き、K=1→1.2、L=0.04→0.06、N=0.25→0.20、P=1/3→1/3.5を全従業員に明示した
    • [67]3年半から4年で自己資本比率は約60%に上昇し、4年前に月4,000万円支払っていた利息は逆に月4,000万円入ってくるようになった
    • [68]4年前に9,000人を超えていた従業員数は8,000人を割り、これに対して売上高は2倍になった
    • [70]杉原周一は1972年6月21日に急逝した
  • TOTO 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
    • [69]1970年3月、社名を東陶機器に変更

1973年〜石油危機後の需要構造の変化と価格競争からの離脱

三本目の柱を後発商品に賭ける

1973年の新春、東陶機器は1977年度を最終年度とする第2次5ヵ年計画を発表した。売上高を5年で2倍の1,000億円、生産性も2倍とし、総資本税引利益率は毎年10%以上、自己資本比率は毎年60%以上を維持するという内容だった。重点施策には衛生陶器と水栓金具という2大収益部門の増強に加え、後発のホーローバスと洗面化粧台の育成が並び、この2商品を1977年度に全売上高の30%まで高めて3本目の柱に育てることが課題とされた。折しも建設需要は過熱し、1973年上期の受注高は前期比43.7%増の406億円に達したが、生産実績は294億円にとどまって品不足が表面化した。第2次計画は、需要が足りない局面ではなく供給が追いつかない局面から始まった。

  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
    • [71]1973年新春、黒河社長の指示により1977年度を最終年度とする第2次5ヵ年計画が発表された
    • [72]第2次5ヵ年計画は売上高を5年間で2倍の1,000億円、生産性も2倍、総資本税引利益率は毎年10%以上、自己資本比率は毎年60%以上の維持を目標とした
    • [73]重点施策は衛生陶器・水栓金具の2大収益部門の増強、後発部門であるホーローバスと洗面化粧台の育成、営業販売網の強化拡大で、1977年度に両商品の売上比率を30%まで高め3本目の柱に育てることが課題とされた
    • [74]1973年上期の受注高は対前期比43.7%増の406億円を記録したが、これに対する生産実績は294億円で品不足が目立った
住宅が余る前提へ計画を組み替える

1974年、日本経済は戦後初めてのマイナス成長を記録し、住宅建設は大きく減少した。1973年の住宅統計調査では総世帯数2,965万に対して住宅総数が3,106万戸と逆転し、空家率は5.5%に達していた。住宅難の時代は終わり、住宅ストック過剰の時代を迎えたのである。加えて戦後のベビーブーム期に生まれた世代の婚姻数が1972年をピークに減り始め、世帯数の伸びが鈍って新規住宅需要は細った。黒河隼人社長は1976年の年頭に第2次5ヵ年計画を3年で打ち切ると発表し、売上高目標を5年で1.5倍へ下げた第3次5ヵ年計画を示した。『つくれば売れる時代は過ぎ去りました』と述べ、需要家の要望を的確に把握することを求めた。

  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
    • [75]1974年に戦後初めてのマイナス成長を記録し、住宅建設は著しく落ち込んだ
    • [76]1973年実施の住宅統計調査では総世帯数2,965万に対し住宅総数は3,106万戸と逆転し、空家率は5.5%に達した
    • [77]住宅難時代は終わりを告げ、住宅ストック過剰時代を迎えた
    • [78]1947〜49年生まれの世代の婚姻数が1972年をピークに年々減少し、世帯数の鈍化を招いて新規住宅需要低迷の要因となった
    • [79]黒河社長は1976年の年頭に第2次5ヵ年計画を3年で打ち切り、売上高(実質)を5年間で1.5倍以上とする第3次5ヵ年計画を実施すると発表した
    • [80]第3次5ヵ年計画の発表にあたり黒河社長は従業員に発想の転換と積極的な行動をうながした
差別化できない品番を切る

浴槽や洗面化粧台では各社の量産体制が整って品質の差が縮まり、需要の集中する普及品を中心に採算を度外視した価格競争が起きていた。1974年の洗面化粧台には地場メーカーまで加えて100社に迫る参入があり、たまらず撤退するメーカーも現れた。東陶機器は量的拡大を追って価格競争に巻き込まれるのではなく、商品開発で他社との差別化をはかり需要を自ら創る方針を打ち出した。既存商品を洗い出して差別化できない品番は商品系列から外す一方、ピエール・カルダンのデザインによる洗面化粧台を1975年に、クラフトバスを1977年に投入した。1975年2月には本社内へ50名の研究室を置き、1978年11月には茅ヶ崎工場内に研究所を設けた。売上高は1976年11月期に942億円、経常利益は95億4,000万円となった。

  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
    • [81]競合メーカーの多い浴槽や洗面化粧台はメーカーの量産体制が確立して品質の差が接近し、需要の集中する普及品を中心に採算を度外視した価格競争が展開した
    • [82]洗面化粧台は他分野からの新規参入が続き、1974年には地場メーカーを加えると100社に迫る勢いとなり、撤退するメーカーも現れはじめた
    • [83]量的拡大を追って価格競争に巻き込まれることなく、商品開発面を強化して他社との差別化をはかり需要をみずから創造する基本方針を打ち出した
    • [84]差別化できない商品は商品系列から外す方針で品番・品種の整理統合を進め、ピエール・カルダンデザインの洗面化粧台(1975年発売)、TOTOクラフトバス(1977年発売)などを投入した
    • [85]1975年2月に本社内へ50名の研究スタッフによる研究室を設置し、1978年11月27日に茅ヶ崎工場内へ延面積1,250平方メートルの研究所を設立した
  • 日本企業要覧 1977年版(東陶機器)
    • [86]1976年11月期の売上高は対前期比16%増の942億2,000万円、経常利益は13%増の95億4,000万円
参考文献[71]-[86]
  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
    • [71]1973年新春、黒河社長の指示により1977年度を最終年度とする第2次5ヵ年計画が発表された
    • [72]第2次5ヵ年計画は売上高を5年間で2倍の1,000億円、生産性も2倍、総資本税引利益率は毎年10%以上、自己資本比率は毎年60%以上の維持を目標とした
    • [73]重点施策は衛生陶器・水栓金具の2大収益部門の増強、後発部門であるホーローバスと洗面化粧台の育成、営業販売網の強化拡大で、1977年度に両商品の売上比率を30%まで高め3本目の柱に育てることが課題とされた
    • [74]1973年上期の受注高は対前期比43.7%増の406億円を記録したが、これに対する生産実績は294億円で品不足が目立った
    • [75]1974年に戦後初めてのマイナス成長を記録し、住宅建設は著しく落ち込んだ
    • [76]1973年実施の住宅統計調査では総世帯数2,965万に対し住宅総数は3,106万戸と逆転し、空家率は5.5%に達した
    • [77]住宅難時代は終わりを告げ、住宅ストック過剰時代を迎えた
    • [78]1947〜49年生まれの世代の婚姻数が1972年をピークに年々減少し、世帯数の鈍化を招いて新規住宅需要低迷の要因となった
    • [79]黒河社長は1976年の年頭に第2次5ヵ年計画を3年で打ち切り、売上高(実質)を5年間で1.5倍以上とする第3次5ヵ年計画を実施すると発表した
    • [80]第3次5ヵ年計画の発表にあたり黒河社長は従業員に発想の転換と積極的な行動をうながした
    • [81]競合メーカーの多い浴槽や洗面化粧台はメーカーの量産体制が確立して品質の差が接近し、需要の集中する普及品を中心に採算を度外視した価格競争が展開した
    • [82]洗面化粧台は他分野からの新規参入が続き、1974年には地場メーカーを加えると100社に迫る勢いとなり、撤退するメーカーも現れはじめた
    • [83]量的拡大を追って価格競争に巻き込まれることなく、商品開発面を強化して他社との差別化をはかり需要をみずから創造する基本方針を打ち出した
    • [84]差別化できない商品は商品系列から外す方針で品番・品種の整理統合を進め、ピエール・カルダンデザインの洗面化粧台(1975年発売)、TOTOクラフトバス(1977年発売)などを投入した
    • [85]1975年2月に本社内へ50名の研究スタッフによる研究室を設置し、1978年11月27日に茅ヶ崎工場内へ延面積1,250平方メートルの研究所を設立した
  • 日本企業要覧 1977年版(東陶機器)
    • [86]1976年11月期の売上高は対前期比16%増の942億2,000万円、経常利益は13%増の95億4,000万円

1980年〜ウォシュレットによる需要創造と欧州への資本参加

商品群を四つの言葉で整理し直す

1980年10月1日、東陶機器は東京を皮切りに大阪・札幌・福岡でTOTOフェア'80を開催した。商品ラインを個・質・和・省という四つの基本コンセプトに凝縮し、それぞれのゾーンへ新商品やグレードアップ商品を中心に160セットの商品群を実演つきで並べた。明確なコンセプトにもとづく展示はこれが初めてで、高度成長の終焉以来模索してきた商品開発の方向をここで集約した。会場では石油・ガス・ソーラーの給湯機、アメリカのマイクロファー社との技術提携による超節水便器、温水洗浄便座のウォシュレット、身体障害者用の浴槽に関心が集まった。ハード志向のものづくりから、消費者の生活を発想の原点に据える生活提案型へ、商品開発の向きが変わるきっかけとなった。

  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
    • [87]1980年10月1日、東京会場を皮切りに大阪・札幌・福岡で「TOTOフェア'80」を開催した
    • [88]TOTOフェア'80では商品ラインを「個」「質」「和」「省」の四つの基本コンセプトに凝縮し、各コンセプトのゾーンに新商品やグレードアップ商品を中心に160セットの商品群を実演を織り込みながら展示した
    • [89]明確なコンセプトにもとづいた展示は初めてで、高度成長の終焉以来模索をつづけていた商品開発の方向を集約したものだった
    • [90]会場では石油・ガス・ソーラーの給湯機、アメリカのマイクロファー社との技術提携による超節水便器、温水洗浄便座「ウォシュレット」、身体障害者用の浴槽に大きな関心が集まった
    • [91]この成功がハード志向の「モノ」づくりから消費者の生活を商品発想の原点に据える「生活ソフト重視」「生活提案型」への方向転換のきっかけとなった
輸入品の失敗作を改良して販売する

前身といえる商品は1964年にすでにあり、ウォッシュエアシートの名でアメリカから輸入して売っていたが、お湯の温度が定まらず、扱いも面倒で座りにくかったため、病院向けなどにわずかに出るだけだった。開発陣は社内で試験を重ね、座り心地・洗う角度・温度・水の勢いのちょうどよい条件を探ったうえで、洗浄・乾燥・暖房の三つの機能に、ICと温度センサーで温度を自動調節する仕組みを加え、1980年6月、温水洗浄便座ウォシュレットとして全国発売にこぎつけた。いまある便座と付け替えるだけで取り付けられることから、増改築キャンペーンの戦略商品にうってつけだった。1982年からはテレビ・新聞・雑誌へ広告費を重点的に投入し、一連のコマーシャルが商品名を全国へ広めた。参入メーカーの増加がかえって市場を活性化させ、1987年11月には販売累計100万台を超えた。

  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
    • [92]ウォシュレットは完全なオリジナル商品ではなく、1964年に「ウォッシュエアシート」の商品名でアメリカから輸入販売していたが、湯温が不安定で操作も複雑、坐り心地も悪く病院用などに細々と販売されていた
    • [93]坐り心地・洗浄角度・温度・水勢など最適な洗浄条件を探るため社内で実験を繰り返し、洗浄・乾燥・暖房の三機能にICと温度センサーを使った自動温度調節機能を開発した
    • [94]1980年6月を期して温水洗浄便座「ウォシュレット」を全国発売した
    • [95]既設の便座取替えだけで済むため増改築キャンペーンの格好の戦略商品となった
    • [96]1982年からルート販売とあわせてテレビ・新聞・雑誌などマス媒体に広告宣伝費を重点的に投入し、一連のコマーシャルが「ウォシュレット」の名を全国的に広めた
    • [97]旺盛な需要に新規参入メーカーも増えたがこれが市場を活性化する相乗効果を生み、ウォシュレットは1987年11月に販売以来100万台を突破した
円高の輸出を高付加価値品へ寄せる

1980年度の新設住宅着工戸数は121万戸まで減り、量的な充足を背景に住宅市場の成熟化が急速に進んだ。東陶機器は良質な住環境の創造、既設住宅の増改築、取替え需要の開拓といった質への転換を軸にマーケティング戦略を組み直した。海外では1985年5月、フランスのコングロマリットであるラファルジュ・コペ社傘下のアリア社へ資本参加し、販売・技術・デザインの交流をはかった。1986年3月にはパリのアリア社内へ欧州駐在員事務所を置き、同年12月には直営の輸入専門商社としてセラトレーディングを設立した。急激な円高で一般商品の国際競争力が低下したため、輸出はウォシュレットやニューセラミックスなどの高付加価値商品を戦略商品に据え、アリア社と西ドイツのケラマグ社を経由して各国へ広げた。国内で需要を創る力を身につけた会社が次に試されるのは、その力が国境を越えるかどうかだった。

  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
    • [98]新設住宅着工戸数は1980年度に121万戸まで激減し、量的な充足を背景に住宅市場の成熟化が急激に進んだ
    • [99]高度化・多様化するニーズに対応する良質な住環境の創造、既設住宅の増改築、取替え需要の開拓など量的充足から質的なものへの転換を軸にマーケティング戦略を展開することになった
    • [100]1985年5月、フランスのコングロマリットであるラファルジュ・コペ社傘下のアリア社に資本参加し、販売・技術・デザインなど幅広い交流をはかることになった
    • [101]1986年3月にパリのアリア社内へ欧州駐在員事務所を設置し、同年12月に直営の輸入専門商社としてセラトレーディング株式会社を設立した
    • [102]急激な円高の進行で一般商品の国際競争力が低下したため、「ウォシュレット」やニューセラミックスなどの高付加価値商品を戦略商品とし、アリア社と子会社の西ドイツ・ケラマグ社を通じて各国に輸出の拡大をはかった
参考文献[87]-[102]
  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
    • [87]1980年10月1日、東京会場を皮切りに大阪・札幌・福岡で「TOTOフェア'80」を開催した
    • [88]TOTOフェア'80では商品ラインを「個」「質」「和」「省」の四つの基本コンセプトに凝縮し、各コンセプトのゾーンに新商品やグレードアップ商品を中心に160セットの商品群を実演を織り込みながら展示した
    • [89]明確なコンセプトにもとづいた展示は初めてで、高度成長の終焉以来模索をつづけていた商品開発の方向を集約したものだった
    • [90]会場では石油・ガス・ソーラーの給湯機、アメリカのマイクロファー社との技術提携による超節水便器、温水洗浄便座「ウォシュレット」、身体障害者用の浴槽に大きな関心が集まった
    • [91]この成功がハード志向の「モノ」づくりから消費者の生活を商品発想の原点に据える「生活ソフト重視」「生活提案型」への方向転換のきっかけとなった
    • [92]ウォシュレットは完全なオリジナル商品ではなく、1964年に「ウォッシュエアシート」の商品名でアメリカから輸入販売していたが、湯温が不安定で操作も複雑、坐り心地も悪く病院用などに細々と販売されていた
    • [93]坐り心地・洗浄角度・温度・水勢など最適な洗浄条件を探るため社内で実験を繰り返し、洗浄・乾燥・暖房の三機能にICと温度センサーを使った自動温度調節機能を開発した
    • [94]1980年6月を期して温水洗浄便座「ウォシュレット」を全国発売した
    • [95]既設の便座取替えだけで済むため増改築キャンペーンの格好の戦略商品となった
    • [96]1982年からルート販売とあわせてテレビ・新聞・雑誌などマス媒体に広告宣伝費を重点的に投入し、一連のコマーシャルが「ウォシュレット」の名を全国的に広めた
    • [97]旺盛な需要に新規参入メーカーも増えたがこれが市場を活性化する相乗効果を生み、ウォシュレットは1987年11月に販売以来100万台を突破した
    • [98]新設住宅着工戸数は1980年度に121万戸まで激減し、量的な充足を背景に住宅市場の成熟化が急激に進んだ
    • [99]高度化・多様化するニーズに対応する良質な住環境の創造、既設住宅の増改築、取替え需要の開拓など量的充足から質的なものへの転換を軸にマーケティング戦略を展開することになった
    • [100]1985年5月、フランスのコングロマリットであるラファルジュ・コペ社傘下のアリア社に資本参加し、販売・技術・デザインなど幅広い交流をはかることになった
    • [101]1986年3月にパリのアリア社内へ欧州駐在員事務所を設置し、同年12月に直営の輸入専門商社としてセラトレーディング株式会社を設立した
    • [102]急激な円高の進行で一般商品の国際競争力が低下したため、「ウォシュレット」やニューセラミックスなどの高付加価値商品を戦略商品とし、アリア社と子会社の西ドイツ・ケラマグ社を通じて各国に輸出の拡大をはかった

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出典・参考 8件
出典・参考
  • TOTO 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
  • 会社年鑑(東陶機器・各期業績)
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版(東洋陶器)
  • 証券アナリストジャーナル 1972年(杉原周一 )
  • 日本企業要覧 1977年版(東陶機器)

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