髙山萬司が売ろうとしたのはシャッターではなく、シャッターが要る建物の数そのものだった。1956年に尼崎で始めたとき、この製品は高価なものと考えられており、作り手は簡単な設備で細々と組み立てる家内工業が中心だった。そこへ市価より3〜4割低い受注価格を持ち込めば、一件あたりの利ざやは細る。それでも髙山が引き下げたのは、値段が下がった分だけ、これまでシャッターを付けなかった商店や倉庫が買い手に変わると見ていたからである。値下げは譲歩ではなく、市場の大きさを自分で決めにいく手だった。10年で総需要は何十倍にもなり、その大半を、値下げを仕掛けた当人が取った。
ただし安く売ると決めた瞬間から、この会社は安く作り続けなければならなくなる。1958年の焼付塗装装置、1959年の販売会社分離、1961年の部品会社独立、そして全国7工場への分散は、いずれも品質を落とさずに原価を下げるための配置だった。工場を散らせば製品の運賃は縮み、材料である鉄鋼の運賃は鉄鋼メーカーが負う。付加価値の54%を従業員へ返すラッカープランも、値下げの原資を現場から出させるための装置である。1967年に軽量シャッターで30%のシェアを握った髙山が、なおシャッター一品にとどまり、オートドアへ進まなかったのは、この原価の仕組みが一品に最適化されていたからだった。
髙山萬司氏は1956年4月、兵庫県尼崎市に資本金100万円で株式会社三和シヤッター製作所を設立した。設立当時の従業員は19人、年間売上高は1,665万円、税込利益は50万円にすぎなかった。髙山氏は前に勤めていた会社を退職したばかりで、シャッターについては素人のまま事業に飛び込んでいる。商店向けの軽量シャッターは、創業のおよそ3年前にようやく普及し始めた品である。大がかりな設備がなくても作れたため、担い手の大半は家内工業に近い小さな業者だった。これに対してビル用の重量シャッターは、イギリスでの発明をアメリカが事業化したもので、当時は日本に入ってから70年ほどを経ていた。長く量産型の企業で働いた髙山氏の目には、未成熟なこの業界こそ、量産と量販を組み合わせれば十分に面白い商売になると映った。
世間ではシャッターを高い品とみなしていたが、髙山萬司氏はこの商売の利幅がもともと大きいことに目をつけ、値を下げて需要を掘り起こすほうが得策と考えた。そこで受注価格は、当時の相場を3〜4割下回る水準に置いた。作り方と売り方でも同業と正反対の道を選び、少人数での細々とした製造ではなく精密な機械を揃えた量産に、販売店任せではなく自社による直販網の全国展開に踏み切った。折しも建築の様式が移り変わり、消防庁などが防火のために板戸からシャッターへの切り替えを勧めていた。値下げによって潜在需要は顕在化し、10年で総需要は何十倍にも増えた。当初は業界から非難を浴びたものの、結果として市場そのものが広がった。
安く売ると決めた会社は、安く作る仕掛けを持たなければ続かない。1958年9月、業界に先がけてパーカライジングとコンベヤシステムによる赤外線焼付塗装装置を完成させ、さび止めペンキで塗るのが当たり前だった業界の旧習を一新した。1959年10月には営業部門を分離して三和シヤッター株式会社を設立し、直営の販売網を全国へ広げた。1961年5月には部品加工部門を独立させて三和商事株式会社を設立し、原価の低減をはかっている。工場も需要の増加に合わせて次々に建て、1960年に大阪工場を増設して札幌工場を、1961年に東京工場、1962年に九州工場を設けた。機能ごとに法人を切り分けて採算と責任を明示したこの組み立ては、のちの事業部制の原型になったとみられる。
1963年4月、株式会社三和工業所が三和シヤッター、三和シヤッター製作所、三和商事の3社を吸収合併した。商号は三和シヤッター工業株式会社に改まり、本店も東京都新宿区へ移った。額面500円を50円に変更するための形式上の合併で、実質上の存続会社は三和シヤッター製作所と三和シヤッターだった。1株220円で公募600千株を売り出して資本金を1億3,000万円に増やし、同年9月30日に東京証券取引所市場第二部へ上場した。上場の時点で、会社は年間売上高24億円、経常利益1億9,100万円を上げ、1,040名を雇っていた。製品構成は軽量シャッターに大きく偏り、1963年3月期の総売上高19億5千万円に占める比率は90%、重量はわずか10%であった。その後、1968年2月に大阪証券取引所市場第二部へ、1970年7月に東京・大阪両取引所の第一部へと指定替えが進んだ。
髙山萬司氏が作った組織は、事業部を単位に採算を切り分ける構造だった。1967年時点で北海道・東北・関東・中部・関西・九州の6事業部、札幌・仙台・秋田・東京・岐阜・大阪・福岡の7工場、104営業所を持つ。各事業部には毎期、受注・生産・販売・回収・利益の目標が与えられ、独立採算とされた。本店は総括だけを行い、営業活動をしない建て付けである。工場を1カ所に集めれば製品の輸送運賃が収益性を圧迫するが、原材料である鉄鋼の輸送運賃は鉄鋼メーカーが負担するため、工場が遠隔地にあっても負担は増えない。この非対称を突いたのが分散配置だった。直販に踏み切った結果、代金の回収期間は縮まり、1967年には工場出荷後80日で回収でき、貸倒れもなくなっていた。
成果の配分も仕組みとして設計された。1963年からラッカープランを採り、付加価値の54%を従業員へ分配している。配分額は1963年度2,027万円から1966年度9,385万円へ増え、1967年度は1億2,000万円に達する見込みだった。一般社員1人当たりの年収は1961年度を100として1966年度180まで上がった。労働組合は置かず、労使協議の場として企業合理化委員会を設けている。人は外部からスカウトせず社内で養成して登用し、独自の試験制度に合格した者だけを引き上げ、その職に適さなければ役職を変える運用をとった。役員も若い社員から登用する方針だった。ラッカープランは事業部別に適用されており、事業部制と組になって働く配分の装置だった。
売上高35億4,300万円、従業員1,200名という1966年度の規模で、当時の三和シヤッター工業はシェアで軽量・重量の合計25%、軽量単独では30%を握る業界第1位であり、重量に限れば鈴木シャッターに続く第2位だった。1967年8月、日本証券アナリスト協会の企業分析部会に出た髙山萬司社長は、シャッター専業で伸びていく方針を語った。開発中の新製品について質問が出ると、それがオートドアではないことを明言し、両者は技術が根本から異なるのでその領域へ出ることはないと答えている。軽量は利益率が高い一方、重量は受注を奪い合って単価が下がり、据え付けから代金回収までにも長い期間がかかったため、軽量を柱に据えつつ重量も並行して伸ばす方針を採った。1967年には年商50億円の壁を破り、直営営業所は120に増えていた。
直販網は10年でさらに厚くなった。1973年時点で全国を8地区に分けて直接販売し、営業所は230カ所、工場は13を数える。シャッター業界には団体が2つあって統計が定まらないため、髙山萬司社長は鉄鋼メーカーから流れる材料の使用高から市場の規模を推計していた。この推計では1972年度の需要は約530億円、自社の売上160億円はその約3割に当たった。最初に手をつけた北海道では65%以上を占めた。通商産業省の統計では1963年から1972年の9年間で市場は約4倍、1967年からの5年間で2.6倍に伸びており、今後も年20%の需要増が見込めるとしていた。単体の売上高は1971年2月期126億円、1972年2月期133億円、1973年2月期161億円と推移した。
1973年3月、三和シヤッター工業は雨戸の製造・販売を始めた。同年8月期の売上高は106億5,600万円で、前年同期比は軽量シャッターが20%増、重量シャッターが55%増だったのに対し、ドアは127%増と際立っていた。髙山萬司社長は、なお過半を占める軽量シャッターの比率が将来は3分の1程度まで低下すると見通し、1975年に予定する売上448億円の内訳として、軽量167億円・重量177億円・ドア60億円・窓シャッターのサンパック17億円・折たたみ雨戸のアコーダー25億円を挙げた。6年前に進出しないと明言したドアの領域へ、業績が最も伸びている最中に足を踏み入れたことになる。
会社が製品を増やす動機は、たいてい主力が売れなくなったことにある。三和シヤッター工業の場合は逆だった。1974年に三和ドアー工業を合併したとき、重量シャッターは前年同期比55%増、単体売上高は161億円から252億円へ跳ねている最中である。髙山萬司が見ていたのは自社の売れ行きではなく、シャッターという製品が張り付いている市場の天井だった。建物の開口部という接点は変わらないまま、そこに付く物をシャッターからドアへ、雨戸へ、バルコニーへと足していけば、同じ営業所と同じ職人でより多くを売れる。専業の看板は、その拡張を邪魔する側に回っていた。
もうひとつ、この22年で変わったのは売り方である。創業者が敷いた直販網は、腕の立つ営業担当者が個々の力で回すものだった。1974年に神戸銀行から迎えられた岸本新一が手をつけたのは、その個人技を手引きに書き出して誰でも使える手順に直す作業であり、売上が252億円から920億円へ積み上がる10年は、この置き換えの期間と重なる。1982年に始めた24時間のフルタイムサービスも同じ延長にある。取り付けて代金を回収すれば終わりだった関係を、故障を受ける窓口として持ち続ける関係に変えた。1967年に進出しないと言い切った自動ドアへ1990年に資本を入れられたのは、この二つの組み替えが済んでいたからである。
1974年3月、三和シヤッター工業は三和ドアー工業株式会社を吸収合併し、ドアの製造・販売を始めた。前年3月の雨戸参入に続く手で、創業から18年守ってきたシャッター専業の看板をここで下ろした。決めた時期は業績の谷ではなく、むしろ山の途中だった。1973年8月期の重量シャッターは前年同期比55%増と伸びており、単体売上高も1973年2月期の161億円から1974年2月期252億円へ跳ねている。髙山萬司社長は、主力の軽量シャッターの比率がいずれ3分の1程度まで低下すると見て、同じ開口部という接点を持つドアと雨戸を量産品として系列へ加えた。需要が旺盛なうちに専業をやめる判断だった。
ドアの品揃えのうち、オーバーヘッドドアは自前の技術では作れなかった。米国ではガレージや工場など至るところで、日本のシャッターと同じ程度に上方収納式のドアが使われている。髙山萬司社長はこれを日本へ持ち込むため、テキサス州ダラスのオーバーヘッド・ドア・コーポレーションから製造技術を導入し、三和シヤッター工業からはシャッターの製造技術を提供する交換として関係を結んだ。生産は北海道で計画された。1974年8月、オーバーヘッドドアの製造・販売が始まる。買う側と売る側ではなく技術を出し合う対等な関係として始まったこの結び付きは、22年後の1996年、三和シヤッター工業が同社の買収へと変わった。
住宅向けの量産品も同時に立ち上がった。窓シャッターのサンパックと折たたみ雨戸のアコーダーを量産品と位置づけ、静岡に量産工場を建てている。1973年の時点で、ドアとサンパック、アコーダーを担当する建材事業部の発足が計画されていた。1977年3月にはバルコニーなどのエクステリア製品へも広げる。単体売上高は1975年2月期339億円、1976年2月期374億円、1977年2月期448億円と伸び、髙山萬司社長が1973年に掲げた1975年448億円という目標額に、2年遅れで届いた。一方で経常利益は1975年2月期の31億円から1976年2月期18億円へ低下し、間口を広げる費用が一度は利益を減少させた。
1974年、三和シヤッター工業は神戸銀行の新宿支店長だった岸本新一氏を51歳で迎えた。創業者で当時社長の髙山萬司氏が自ら誘った人物だった。創業期からこの会社は実績を重んじ、多く売り多く稼ぐ者を高く評価しており、髙山氏は勉強が足りないと見た取締役4人をまとめて降格させたこともある。その髙山氏は、銀行から迎えた岸本氏を、通例の財務ではなく営業の担当に就けた。岸本氏は後年、支店長だったころ世界へ打って出る会社になってほしいと地球儀を髙山氏に贈ったことがあり、その発想が評価されたのだと語っている。製品系列がドアと雨戸の両方にまたがった年に、販売体制へ外部の人材を加えた形である。
三和シヤッター工業には腕の立つ営業担当者が多くいたが、組織として動く営業の体制はできていなかった。岸本新一氏が手をつけたのは、そうした担当者一人ひとりの力量を組織の仕組みに組み込むことで、自身の得意先回りのやり方を営業の手引き書として社内に配り、個人の力を全体の体制へつなげた。銀行員出身で営業が分かるのかと疑っていた社内の空気も、手引き書が配られてから変わったという。もともと大きかった販売網も広がり、直営営業所は1967年の104カ所から、1973年には230カ所となった。髙山萬司氏が敷いたその直販網に、属人的でない売り方を通す仕事だった。
単体の売上高は、ドアを取り込んだ後の10年で着実に積み上がった。1978年2月期500億円、1980年2月期664億円、1981年2月期780億円と伸び、1982年2月期は781億円とほぼ横ばいに止まったが、1983年2月期816億円、1984年2月期858億円、1985年2月期920億円と戻している。経常利益も1981年2月期の39億円から1985年2月期48億円へ増えた。東証二部へ上場した1963年の年間売上高が24億円だったから、22年でおよそ38倍である。シャッター1品を安く売って市場を広げた会社は、製品を足し、売り方を組み替えることで年商900億円台の建材メーカーへ移っていた。
1982年7月、三和シヤッター工業は24時間フルタイムサービス(FTS)を始めた。シャッターは建物ごとに構造が異なるためすべて受注生産で、取り付け工事を伴い、販売は営業所中心の直売形式をとっていた。売った先がそのまま保守の相手になる構造である。開いたまま閉じないシャッターでは店を閉められず、閉じたまま開かないシャッターでは荷を出せない。故障の時間帯を選ばない設備を昼間だけの窓口で受けることの限界を、この会社は全国230カ所の営業所を持つ立場から突いた。工場出荷後80日で代金を回収する売り切りの商いに、取り付けた後の時間を足す拡張であり、直販で持っていた営業所の網がそのまま保守の受け皿になった。
海外は製品の輸出ではなく、現地法人の設立から始まった。1986年8月にシンガポールで三和シヤッター有限公司を、同年10月に香港で三和捲閘有限公司を設立し、1988年9月には台湾で安和金属工業股份有限公司を設けている。輸出で売るのではなく、現地で作って現地で売った。海外との関わり自体は新しくない。1970年代前半に米国のオーバーヘッド・ドア・コーポレーションと技術を交換し、米国で普及していた製品を日本国内で生産した経験があった。そこで身につけたのは製品の設計だけでなく、異なる建築基準と施工の慣行を持つ市場へ自社の製品を合わせる手順だったとみられる。
1990年1月、三和シヤッター工業は自動ドアの昭和建産株式会社へ資本参加した。1967年に髙山萬司社長が、シャッターとオートドアは技術が全く違うのでその分野には進出しないと明言した領域である。23年を隔てて判断は反転したが、その間に挟まるのは、ドアとオーバーヘッドドア、エクステリアと広げてきた製品系列と、1982年に始めた24時間の保守網だった。専業を掲げた1967年の年商は50億円の壁を破ったばかりだったが、1985年2月期の単体売上高は920億円に達していた。開口部という接点を持ち続ける会社になった以上、そこに付く装置が手動か自動かは、もはや事業の境界を決める線ではなくなっていた。
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|---|---|---|---|---|
| 1956〜1973年低価格化による需要創出 | 三和シヤッター製作所を設立、シャッターの製作・販売を開始 | ★★ | ||
| 三和工業所に吸収合併され商号を三和シヤッター工業に商号変更、本店を移転 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | |||
| 大阪証券取引所市場第二部に上場 | ★ | |||
| 東京・大阪両証券取引所市場第一部銘柄に指定 | ★ | |||
| 雨戸の製造・販売を開始 | ★ | |||
| 1974〜1995年開口部建材への業態転換 | 合併を機としたシャッター専業から建材総合メーカーへの脱皮 1973年3月の雨戸参入、1974年3月の三和ドアー工業吸収合併、1974年8月のオーバーヘッドドア発売により、三和シヤッター工業がシャッター一品の専業メーカーから、ドア・雨戸・エクステリアを併せ持つ建材メーカーへ移行した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| オーバーヘッドドアの製造・販売を開始 | ★ | |||
| バルコニー等エクステリア製品の製造・販売を開始 | ★ | |||
| 髙山俊隆 | 24時間フルタイムサービス(FTS)を開始 | ★★ | ||
| 髙山俊隆 | 三和シヤッター有限公司を設立 | ★ | ||
| 髙山俊隆 | 三和捲閘有限公司を設立 | ★ | ||
| 髙山俊隆 | 安和金属工業股份有限公司を設立 | ★ | ||
| 髙山俊隆 | 自動ドアの昭和建産に資本参加 | ★ | ||
| 1996〜2006年米Overhead Door買収と欧州Novofermグループ買収で三極体制へ | 髙山俊隆 | 持株会社Sanwa USA Inc.を設立しOverhead Door Corporationを買収 | ★★ | |
| 髙山俊隆 | 田島順三製作所の全株式を取得しステンレス製品の製造・販売を強化 | ★ | ||
| 髙山俊隆 | 北米オーバーヘッドドアに続く買収による日米欧三極体制の確立 1996年7月の北米Overhead Door Corporation取得と2003年10月の欧州Novofermグループ取得により、三和シヤッター工業が日本・北米・欧州の三極で事業を持つ体制を7年がかりで築いた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 髙山俊隆 | ベニックスの全株式を取得し間仕切製品の製造・販売を強化 | ★ | ||
| 2007〜2026年三和HDへの持株会社化と日米欧での相次ぐドア事業買収 | 髙山俊隆 | 事業を子会社へ移す会社分割と、純粋持株会社体制への移行 2007年10月1日、三和シヤッター工業が吸収分割により国内3事業を新会社へ承継し、自らは事業を持たない純粋持株会社・三和ホールディングス株式会社となった経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |
| 髙山俊隆 | スチールドア製造会社の林工業の株式を取得 | ★ | ||
| 髙山俊隆 | Overhead Door CorporationにおいてWayne Dalton Corporationのドア事業等を取得 | ★★ | ||
| 髙山俊隆 | Automatic Door Enterprises他5社の自動ドア事業を取得 | ★★ | ||
| 監査役会設置会社から監査等委員会設置会社へ移行 | ★ | |||
| 髙山靖司 | 三和スピンドル建材の株式を取得し間仕切事業を強化 | ★ | ||
| 髙山靖司 | Robust AB他4社の株式を取得し北欧・英国におけるヒンジドア事業を強化 | ★★ | ||
| 髙山靖司 | LIXIL鈴木シャッター他2社の株式を取得し国内・アジアにおける事業基盤を強化 | ★★ | ||
| 髙山靖司 | Won-Door Corporationの株式を取得 | ★ | ||
| 髙山靖司 | 三和捲閘有限公司においてAUB Limitedの株式を取得 | ★ | ||
| 髙山靖司 | Door Control, Inc.・Door Concepts, Inc.の株式を取得 | ★ | ||
| 髙山靖司 | 三和ファサード・ラボが三和タジマのファサード事業を吸収分割により継承 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(三和ホールディングス)