1934年〜 ファスナーの残品を元手にした創業と戦中の全焼(1934〜1949)
- 1934年 吉田忠雄氏がファスナーを商うサンエス商会を東京日本橋に創業
- 1945年 吉田工業に商号変更
- 1946年 商標YKKの制定
- 1949年 資本金の60倍を投じた米国製自動植え付け機の輸入 業界の共同輸入案が潰れたあと、一社だけで機械化に踏み切った判断
中国陶器の商いから残った半製品を継いだ
YKKの創業者である吉田忠雄氏は、東京・日本橋の中国陶器輸入商、古谷商店[1]に住み込みで働いていた。1932年の上海事変[2]では戦乱の上海にとどまり、取引先を失って処分できずにいた冷凍魚を買い取って売りさばき、二か月で中国ドル二万ドルを稼いだ[3]。だが古谷商店は円の暴落による為替差損と豆電球の代金回収に行き詰まり[4]、同じ年に店をたたむ。整理の際に出てきたのが、大阪のファスナー製造業者である安田壮太郎氏から仕入れたまま代金未払いになっていた半製品およそ2,000円分[5]だった。吉田氏は安田氏を訪ね、代金未払いのまま一年ほど扱わせてほしいと申し出て承諾を得た[6]。これがファスナーとの最初の出合い[7]になった。
- 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
- [1]吉田忠雄は東京・日本橋の中国陶器輸入商である古谷商店で働いた
- [2]上海事変は1932年に起きた
- [3]上海で冷凍魚などを売り二か月で中国ドル二万ドルを稼いだ
- [4]古谷商店は円の暴落による為替差損と豆電球の代金回収難で閉店した
- [5]大阪の安田壮太郎から仕入れた未払いのファスナー半製品が約2,000円分残っていた
- [6]吉田忠雄は代金未払いのまま一年ほど扱わせてほしいと申し出て承諾を得た
- [7]残品の取り扱いがファスナーとの最初の出合いになった
吉田氏が日本橋蠣殻町の古谷商店跡にサンエス商会[8]の看板を掲げたのは1934年1月1日[9]で、資本金は350円[10]だった。同郷の吉川喜一氏と高橋利雄氏[11]が加わり、当時25歳[12]の吉田氏を含めて三人で始めた。一階を店と寝室、三階を工場に充て、二階は間借り人を置いて家賃を稼いだ[13]。仕入れた半製品は品質が悪く、テープ地が弱いうえムシの植え付けも不ぞろいだったため、金づちで叩いて良いところだけを取り[14]、スライダーも一つずつ試してから出荷した。値段は他社より一ダースあたり30銭高く付けた[15]。品質で選ばれなければ商売は続かない[16]と考えたからである。
- 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
- [8]サンエス商会は日本橋蠣殻町の古谷商店跡で開業した
- [9]創業は1934年1月1日
- [10]創業時の資本金は350円
- [11]同郷の吉川喜一と高橋利雄が創業に加わった
- [12]創業時の吉田忠雄は25歳だった
- [13]一階を店と寝室、三階を工場に充て二階は間借り人を置いた
- [14]仕入れた半製品は品質が悪く手作業で選別して出荷した
- [15]販売価格は他社より一ダースあたり30銭高く設定した
- [16]値段が高くても品質で選ばれることを狙って得意先に説いて回った
商いは伸び、女子従業員は30人近く[17]に増え、売り上げが月1,000円を超える[18]月も出てきた。得意先はがま口からハンドバッグ、手芸用品、ジャンパー業者[19]へと広がった。作業場が手狭になったため、吉田氏は江戸川区小松川町[20]に土地を買って工場を新築し、1938年3月に社名を吉田工業所へ改めた[21]。新工場は従業員およそ80人、ムシの植え付け機械6台[22]で動き始めた。創業からわずか4年での移転[23]だった。1936年1月には南米諸国と豪州へ初めて輸出[24]しており、国内の得意先を開拓しながら、早い段階から外の市場にも目を向けていた。
- 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
- [17]女子従業員は30人近くまで増えた
- [18]売り上げが月1,000円を超える月が出た
- [19]得意先はがま口・ハンドバッグ・手芸用品・ジャンパー業者へ広がった
- [20]江戸川区小松川町に土地を買い工場を新築した
- [22]新工場は従業員約80人・ムシ植え付け機械6台で発足した
- [23]1934年の創業から1938年の移転まで4年だった
- 企業の歴史:明治百年(1968年)「吉田工業」
- [21]1938年3月に吉田工業所へ改称した
- [24]1936年1月に南米諸国と豪州へ初輸出した
- 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
- [1]吉田忠雄は東京・日本橋の中国陶器輸入商である古谷商店で働いた
- [2]上海事変は1932年に起きた
- [3]上海で冷凍魚などを売り二か月で中国ドル二万ドルを稼いだ
- [4]古谷商店は円の暴落による為替差損と豆電球の代金回収難で閉店した
- [5]大阪の安田壮太郎から仕入れた未払いのファスナー半製品が約2,000円分残っていた
- [6]吉田忠雄は代金未払いのまま一年ほど扱わせてほしいと申し出て承諾を得た
- [7]残品の取り扱いがファスナーとの最初の出合いになった
- [8]サンエス商会は日本橋蠣殻町の古谷商店跡で開業した
- [9]創業は1934年1月1日
- [10]創業時の資本金は350円
- [11]同郷の吉川喜一と高橋利雄が創業に加わった
- [12]創業時の吉田忠雄は25歳だった
- [13]一階を店と寝室、三階を工場に充て二階は間借り人を置いた
- [14]仕入れた半製品は品質が悪く手作業で選別して出荷した
- [15]販売価格は他社より一ダースあたり30銭高く設定した
- [16]値段が高くても品質で選ばれることを狙って得意先に説いて回った
- [17]女子従業員は30人近くまで増えた
- [18]売り上げが月1,000円を超える月が出た
- [19]得意先はがま口・ハンドバッグ・手芸用品・ジャンパー業者へ広がった
- [20]江戸川区小松川町に土地を買い工場を新築した
- [22]新工場は従業員約80人・ムシ植え付け機械6台で発足した
- [23]1934年の創業から1938年の移転まで4年だった
- 企業の歴史:明治百年(1968年)「吉田工業」
- [21]1938年3月に吉田工業所へ改称した
- [24]1936年1月に南米諸国と豪州へ初輸出した
業界全体の廃業と空襲による工場の焼失
新工場が動き出して2か月後、第一次の戦時統制令により国内向けの銅製品の使用が禁じられた[25]。吉田氏は銅の代わりにアルミを使ったファスナーを1938年6月に考案[26]して売り出したが、アルミは柔らかく強度が足りず、1940年にはそのアルミも統制の対象になった[27]。国内向けの材料も代替品も断たれ、残る道は輸出だけ[28]だった。米国には大手のタロン社[29]があって日本製品の流入を抑えており、国内43社で輸出組合[30]を作り数量枠の中で対米輸出を続けた。1941年6月のメキシコ向け出荷を最後に輸出も止まり[31]、同年10月、ファスナー業界は全員が廃業した[32]。業界全体が廃業に至った業種[33]はほかになかった。
- 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
- [25]第一次戦時統制令で国内向けの銅製品使用が禁止された
- [27]1940年にアルミも統制対象になった
- [28]国内向けが断たれ残された道は輸出だけだった
- [29]米国には大手ファスナーメーカーのタロン社があった
- [30]国内43社で輸出組合を結成した
- [31]1941年6月のメキシコ向け出荷を最後に輸出が止まった
- [32]1941年10月にファスナー業界は全員が廃業した
- [33]業界全体が廃業したのはファスナー業界だけだった
- 企業の歴史:明治百年(1968年)「吉田工業」
- [26]アルミファスナーを1938年6月に考案し発売した
廃業した吉田氏は商工省に身の振り方を相談[34]に出向き、紹介状を得て横須賀の海軍軍需部を訪ねた。そこで受けた注文は1,800円[35]にすぎなかったが、この一件が軍指定の工場としての再出発になった。既存の納入業者より安い値で納めたことから村八分同然の扱いを受けもしたが、実用新案を取った「二つ山のムシ[36]」の性能と、注文を受けてすぐ納める体制が評価され、軍の仕様書は吉田式のファスナーに書き換えられた。やがて海軍の需要の全量と陸軍の33.5%[37]を受注するに至る。1939年3月には千葉県木更津町と久留里町に分工場[38]を設け、1942年2月に有限会社へ改組した[39]。
- 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
- [34]商工省に相談し紹介状を得て横須賀の海軍軍需部を訪ねた
- [35]海軍軍需部から受けた最初の注文は1,800円だった
- [36]実用新案を取得した「二つ山のムシ」の技術が評価された
- [37]海軍需要の全量と陸軍の33.5%を受注した
- 企業の歴史:明治百年(1968年)「吉田工業」
- [38]1939年3月に千葉県木更津町と久留里町へ分工場を設置した
- [39]1942年2月に有限会社へ改組した
1944年11月に召集令状[40]を受けた吉田氏は、兵役免除の手続きを取らずに横須賀海兵団へ入隊した。工場を預かる兄たちが免除を申請したため1945年1月に除隊[41]となる。東京はいずれ戦場になると聞いた吉田氏は、工場を郷里の魚津へ疎開させる段取りを3月10日に組んだ[42]。だが空襲は一日早く、3月9日から10日にかけての東京大空襲で小松川工場は機械もろとも焼け落ちた[43]。吉田氏は従業員に独身者100円、所帯持ち500円[44]を分けて解散し、魚津へ引き揚げる。同年6月に荏原製作所の下請けだった魚津鉄工所を買収[45]し、8月にその社名を吉田工業株式会社へ改めた[46]。
- 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
- [40]1944年11月に召集令状を受け横須賀海兵団へ入隊した
- [41]兄たちの兵役免除申請により1945年1月に除隊した
- [42]疎開の予定日は3月10日だった
- [43]1945年3月9日から10日の東京大空襲で小松川工場が全焼した
- [44]解散にあたり独身者に100円・所帯持ちに500円を配った
- [45]1945年6月に荏原製作所の下請けだった魚津鉄工所を買収した
- YKK 有価証券報告書【沿革】
- [46]1945年8月に吉田工業株式会社へ商号変更した
- 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
- [25]第一次戦時統制令で国内向けの銅製品使用が禁止された
- [27]1940年にアルミも統制対象になった
- [28]国内向けが断たれ残された道は輸出だけだった
- [29]米国には大手ファスナーメーカーのタロン社があった
- [30]国内43社で輸出組合を結成した
- [31]1941年6月のメキシコ向け出荷を最後に輸出が止まった
- [32]1941年10月にファスナー業界は全員が廃業した
- [33]業界全体が廃業したのはファスナー業界だけだった
- [34]商工省に相談し紹介状を得て横須賀の海軍軍需部を訪ねた
- [35]海軍軍需部から受けた最初の注文は1,800円だった
- [36]実用新案を取得した「二つ山のムシ」の技術が評価された
- [37]海軍需要の全量と陸軍の33.5%を受注した
- [40]1944年11月に召集令状を受け横須賀海兵団へ入隊した
- [41]兄たちの兵役免除申請により1945年1月に除隊した
- [42]疎開の予定日は3月10日だった
- [43]1945年3月9日から10日の東京大空襲で小松川工場が全焼した
- [44]解散にあたり独身者に100円・所帯持ちに500円を配った
- [45]1945年6月に荏原製作所の下請けだった魚津鉄工所を買収した
- 企業の歴史:明治百年(1968年)「吉田工業」
- [26]アルミファスナーを1938年6月に考案し発売した
- [38]1939年3月に千葉県木更津町と久留里町へ分工場を設置した
- [39]1942年2月に有限会社へ改組した
- YKK 有価証券報告書【沿革】
- [46]1945年8月に吉田工業株式会社へ商号変更した