YKK の歴史

創業

1934年

創業者

吉田忠雄

創業地

東京都中央区日本橋蠣殻町

直近売上高(2026/3)

9,926億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1949年に吉田工業は資本金の60倍を投じて米国製の自動機を輸入したのか
A 終戦後にGHQのあっせんで訪れた米国人バイヤーが示した製品が、機能でもデザインでも数段上だったためである。日本が手でムシを植え付けていたのに対し、米国は製造も植え付けも機械で行い、安い原価で不良の少ない製品を出していた。吉田忠雄氏はまず業界での共同輸入を提案したが賛成者は一人も出ず、単独で通商産業省へ2年半通って外貨の割り当てを得た。代金3万5,000ドルは当時の資本金19万8,000円の60倍を超えた
Q なぜ1959年にファスナー専業だった吉田工業はアルミサッシへ参入したのか
A ファスナー用に内製していたアルミ合金の生産量が、自社で使う量を上回ったためである。1958年に量産へ入った56Sは国内で初めてのアルミ合金量産で、投じた費用は一年で回収された。同じ年の海外視察で吉田忠雄氏は、米国ピッツバーグの押出機が網戸用のサッシを連続生産する様子を見た。ファスナーが伸びている最中だったため役員はためらったが、吉田工業は会社の浮沈に関わる決定を役員会の多数決に委ねなかった。製品は1965年まで売れなかった。
Q なぜYKKは2003年の時点でも株式を公開しなかったのか
A 株主とは損得で株を売買する投資家ではなく、事業に協力する当事者だと創業者が定義したためである。社員は賞与の半分を社内預金に積み、入社3年以上で株主になり、退職の際は株式を返す。1977年時点の配当は年18%だった。二代目の吉田忠裕氏は2003年にこの思想を踏襲したいとしつつ、上場を断定はできないとも述べた。2017年3月期の筆頭株主はYKK恒友会(従業員持株会)で18.52%を占めた

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1934年〜 ファスナーの残品を元手にした創業と戦中の全焼(1934〜1949)

  1. 1934年 吉田忠雄氏がファスナーを商うサンエス商会を東京日本橋に創業
  2. 1945年 吉田工業に商号変更
  3. 1946年 商標YKKの制定
  4. 1949年 資本金の60倍を投じた米国製自動植え付け機の輸入 業界の共同輸入案が潰れたあと、一社だけで機械化に踏み切った判断

中国陶器の商いから残った半製品を継いだ

YKKの創業者である吉田忠雄氏は、東京・日本橋の中国陶器輸入商、古谷商店[1]に住み込みで働いていた。1932年の上海事変[2]では戦乱の上海にとどまり、取引先を失って処分できずにいた冷凍魚を買い取って売りさばき、二か月で中国ドル二万ドルを稼いだ[3]。だが古谷商店は円の暴落による為替差損と豆電球の代金回収に行き詰まり[4]、同じ年に店をたたむ。整理の際に出てきたのが、大阪のファスナー製造業者である安田壮太郎氏から仕入れたまま代金未払いになっていた半製品およそ2,000円分[5]だった。吉田氏は安田氏を訪ね、代金未払いのまま一年ほど扱わせてほしいと申し出て承諾を得た[6]。これがファスナーとの最初の出合い[7]になった。

  • 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
    • [1]吉田忠雄は東京・日本橋の中国陶器輸入商である古谷商店で働いた
    • [2]上海事変は1932年に起きた
    • [3]上海で冷凍魚などを売り二か月で中国ドル二万ドルを稼いだ
    • [4]古谷商店は円の暴落による為替差損と豆電球の代金回収難で閉店した
    • [5]大阪の安田壮太郎から仕入れた未払いのファスナー半製品が約2,000円分残っていた
    • [6]吉田忠雄は代金未払いのまま一年ほど扱わせてほしいと申し出て承諾を得た
    • [7]残品の取り扱いがファスナーとの最初の出合いになった

吉田氏が日本橋蠣殻町の古谷商店跡にサンエス商会[8]の看板を掲げたのは1934年1月1日[9]で、資本金は350円[10]だった。同郷の吉川喜一氏と高橋利雄氏[11]が加わり、当時25歳[12]の吉田氏を含めて三人で始めた。一階を店と寝室、三階を工場に充て、二階は間借り人を置いて家賃を稼いだ[13]。仕入れた半製品は品質が悪く、テープ地が弱いうえムシの植え付けも不ぞろいだったため、金づちで叩いて良いところだけを取り[14]、スライダーも一つずつ試してから出荷した。値段は他社より一ダースあたり30銭高く付けた[15]。品質で選ばれなければ商売は続かない[16]と考えたからである。

  • 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
    • [8]サンエス商会は日本橋蠣殻町の古谷商店跡で開業した
    • [9]創業は1934年1月1日
    • [10]創業時の資本金は350円
    • [11]同郷の吉川喜一と高橋利雄が創業に加わった
    • [12]創業時の吉田忠雄は25歳だった
    • [13]一階を店と寝室、三階を工場に充て二階は間借り人を置いた
    • [14]仕入れた半製品は品質が悪く手作業で選別して出荷した
    • [15]販売価格は他社より一ダースあたり30銭高く設定した
    • [16]値段が高くても品質で選ばれることを狙って得意先に説いて回った

商いは伸び、女子従業員は30人近く[17]に増え、売り上げが月1,000円を超える[18]月も出てきた。得意先はがま口からハンドバッグ、手芸用品、ジャンパー業者[19]へと広がった。作業場が手狭になったため、吉田氏は江戸川区小松川町[20]に土地を買って工場を新築し、1938年3月に社名を吉田工業所へ改めた[21]。新工場は従業員およそ80人、ムシの植え付け機械6台[22]で動き始めた。創業からわずか4年での移転[23]だった。1936年1月には南米諸国と豪州へ初めて輸出[24]しており、国内の得意先を開拓しながら、早い段階から外の市場にも目を向けていた。

  • 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
    • [17]女子従業員は30人近くまで増えた
    • [18]売り上げが月1,000円を超える月が出た
    • [19]得意先はがま口・ハンドバッグ・手芸用品・ジャンパー業者へ広がった
    • [20]江戸川区小松川町に土地を買い工場を新築した
    • [22]新工場は従業員約80人・ムシ植え付け機械6台で発足した
    • [23]1934年の創業から1938年の移転まで4年だった
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「吉田工業」
    • [21]1938年3月に吉田工業所へ改称した
    • [24]1936年1月に南米諸国と豪州へ初輸出した
  • 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
    • [1]吉田忠雄は東京・日本橋の中国陶器輸入商である古谷商店で働いた
    • [2]上海事変は1932年に起きた
    • [3]上海で冷凍魚などを売り二か月で中国ドル二万ドルを稼いだ
    • [4]古谷商店は円の暴落による為替差損と豆電球の代金回収難で閉店した
    • [5]大阪の安田壮太郎から仕入れた未払いのファスナー半製品が約2,000円分残っていた
    • [6]吉田忠雄は代金未払いのまま一年ほど扱わせてほしいと申し出て承諾を得た
    • [7]残品の取り扱いがファスナーとの最初の出合いになった
    • [8]サンエス商会は日本橋蠣殻町の古谷商店跡で開業した
    • [9]創業は1934年1月1日
    • [10]創業時の資本金は350円
    • [11]同郷の吉川喜一と高橋利雄が創業に加わった
    • [12]創業時の吉田忠雄は25歳だった
    • [13]一階を店と寝室、三階を工場に充て二階は間借り人を置いた
    • [14]仕入れた半製品は品質が悪く手作業で選別して出荷した
    • [15]販売価格は他社より一ダースあたり30銭高く設定した
    • [16]値段が高くても品質で選ばれることを狙って得意先に説いて回った
    • [17]女子従業員は30人近くまで増えた
    • [18]売り上げが月1,000円を超える月が出た
    • [19]得意先はがま口・ハンドバッグ・手芸用品・ジャンパー業者へ広がった
    • [20]江戸川区小松川町に土地を買い工場を新築した
    • [22]新工場は従業員約80人・ムシ植え付け機械6台で発足した
    • [23]1934年の創業から1938年の移転まで4年だった
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「吉田工業」
    • [21]1938年3月に吉田工業所へ改称した
    • [24]1936年1月に南米諸国と豪州へ初輸出した

業界全体の廃業と空襲による工場の焼失

新工場が動き出して2か月後、第一次の戦時統制令により国内向けの銅製品の使用が禁じられた[25]。吉田氏は銅の代わりにアルミを使ったファスナーを1938年6月に考案[26]して売り出したが、アルミは柔らかく強度が足りず、1940年にはそのアルミも統制の対象になった[27]。国内向けの材料も代替品も断たれ、残る道は輸出だけ[28]だった。米国には大手のタロン社[29]があって日本製品の流入を抑えており、国内43社で輸出組合[30]を作り数量枠の中で対米輸出を続けた。1941年6月のメキシコ向け出荷を最後に輸出も止まり[31]、同年10月、ファスナー業界は全員が廃業した[32]。業界全体が廃業に至った業種[33]はほかになかった。

  • 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
    • [25]第一次戦時統制令で国内向けの銅製品使用が禁止された
    • [27]1940年にアルミも統制対象になった
    • [28]国内向けが断たれ残された道は輸出だけだった
    • [29]米国には大手ファスナーメーカーのタロン社があった
    • [30]国内43社で輸出組合を結成した
    • [31]1941年6月のメキシコ向け出荷を最後に輸出が止まった
    • [32]1941年10月にファスナー業界は全員が廃業した
    • [33]業界全体が廃業したのはファスナー業界だけだった
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「吉田工業」
    • [26]アルミファスナーを1938年6月に考案し発売した

廃業した吉田氏は商工省に身の振り方を相談[34]に出向き、紹介状を得て横須賀の海軍軍需部を訪ねた。そこで受けた注文は1,800円[35]にすぎなかったが、この一件が軍指定の工場としての再出発になった。既存の納入業者より安い値で納めたことから村八分同然の扱いを受けもしたが、実用新案を取った「二つ山のムシ[36]」の性能と、注文を受けてすぐ納める体制が評価され、軍の仕様書は吉田式のファスナーに書き換えられた。やがて海軍の需要の全量と陸軍の33.5%[37]を受注するに至る。1939年3月には千葉県木更津町と久留里町に分工場[38]を設け、1942年2月に有限会社へ改組した[39]

  • 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
    • [34]商工省に相談し紹介状を得て横須賀の海軍軍需部を訪ねた
    • [35]海軍軍需部から受けた最初の注文は1,800円だった
    • [36]実用新案を取得した「二つ山のムシ」の技術が評価された
    • [37]海軍需要の全量と陸軍の33.5%を受注した
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「吉田工業」
    • [38]1939年3月に千葉県木更津町と久留里町へ分工場を設置した
    • [39]1942年2月に有限会社へ改組した

1944年11月に召集令状[40]を受けた吉田氏は、兵役免除の手続きを取らずに横須賀海兵団へ入隊した。工場を預かる兄たちが免除を申請したため1945年1月に除隊[41]となる。東京はいずれ戦場になると聞いた吉田氏は、工場を郷里の魚津へ疎開させる段取りを3月10日に組んだ[42]。だが空襲は一日早く、3月9日から10日にかけての東京大空襲で小松川工場は機械もろとも焼け落ちた[43]。吉田氏は従業員に独身者100円、所帯持ち500円[44]を分けて解散し、魚津へ引き揚げる。同年6月に荏原製作所の下請けだった魚津鉄工所を買収[45]し、8月にその社名を吉田工業株式会社へ改めた[46]

  • 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
    • [40]1944年11月に召集令状を受け横須賀海兵団へ入隊した
    • [41]兄たちの兵役免除申請により1945年1月に除隊した
    • [42]疎開の予定日は3月10日だった
    • [43]1945年3月9日から10日の東京大空襲で小松川工場が全焼した
    • [44]解散にあたり独身者に100円・所帯持ちに500円を配った
    • [45]1945年6月に荏原製作所の下請けだった魚津鉄工所を買収した
  • YKK 有価証券報告書【沿革】
    • [46]1945年8月に吉田工業株式会社へ商号変更した
  • 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
    • [25]第一次戦時統制令で国内向けの銅製品使用が禁止された
    • [27]1940年にアルミも統制対象になった
    • [28]国内向けが断たれ残された道は輸出だけだった
    • [29]米国には大手ファスナーメーカーのタロン社があった
    • [30]国内43社で輸出組合を結成した
    • [31]1941年6月のメキシコ向け出荷を最後に輸出が止まった
    • [32]1941年10月にファスナー業界は全員が廃業した
    • [33]業界全体が廃業したのはファスナー業界だけだった
    • [34]商工省に相談し紹介状を得て横須賀の海軍軍需部を訪ねた
    • [35]海軍軍需部から受けた最初の注文は1,800円だった
    • [36]実用新案を取得した「二つ山のムシ」の技術が評価された
    • [37]海軍需要の全量と陸軍の33.5%を受注した
    • [40]1944年11月に召集令状を受け横須賀海兵団へ入隊した
    • [41]兄たちの兵役免除申請により1945年1月に除隊した
    • [42]疎開の予定日は3月10日だった
    • [43]1945年3月9日から10日の東京大空襲で小松川工場が全焼した
    • [44]解散にあたり独身者に100円・所帯持ちに500円を配った
    • [45]1945年6月に荏原製作所の下請けだった魚津鉄工所を買収した
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「吉田工業」
    • [26]アルミファスナーを1938年6月に考案し発売した
    • [38]1939年3月に千葉県木更津町と久留里町へ分工場を設置した
    • [39]1942年2月に有限会社へ改組した
  • YKK 有価証券報告書【沿革】
    • [46]1945年8月に吉田工業株式会社へ商号変更した

1949年〜 米国製の自動機と一貫生産で国内を制するまで(1949〜1958)

  1. 1949年 資本金の60倍を投じた米国製自動植え付け機の輸入 業界の共同輸入案が潰れたあと、一社だけで機械化に踏み切った判断
  2. 1954年 黒部工場の着工(1955年5月稼動)
  3. 1957年 販売会社の吉田商事(現YKK AP)を設立
  4. 1957年 生地工場(現黒部工場)の着工

資本金の60倍を投じた自動植え付け機

戦後、GHQのあっせんで米国人バイヤー[47]が魚津を訪れた。吉田氏が5ミリ10インチのファスナーを1本9セント[48]で売りたいと申し出ると、相手は米国製の1本を取り出し、7セント40[49]で売ってもよいと応じた。示された製品は機能もデザインも数段上[50]だった。当時の日本は金属材料からムシを抜き、手でテープに植え付ける方式[51]のままで、米国はムシの製造も植え付けも機械が担っていた。性能が高く不良の少ない製品が、安い原価で流れ出ていた[52]。吉田氏は後年、このときの衝撃を「体中から冷や汗がどっと噴き出した[53]」(日本経済新聞 1977/8)とふり返った。

  • 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
    • [47]GHQのあっせんで米国人バイヤーが訪れた
    • [48]吉田工業は5ミリ10インチのファスナーを1本9セントで売ろうとした
    • [49]米国製は1本7セント40で提示された
    • [50]提示された米国製は機能もデザインも数段上の品物だった
    • [51]当時の日本はムシを手でテープに植え付けていた
    • [52]米国では性能が高く不良の少ない製品が安いコストで生産されていた
    • [53]米国製を見た吉田忠雄は冷や汗が噴き出したとふり返った

機械を米国から買うほかないと考えた吉田氏は、まず同業者に共同での輸入を持ちかけた[54]。1948年1月に発足したファスナー業者の組合[55]で初代理事長[56]に就くと、会合のたびに手植え方式の限界を説き、共同出資の会社を作って機械を入れようと提案する。だが当時の業界は供給が需要に追いつかない状態[57]で、日本人は手先が器用なので足りるという見方が支配的だった。賛成者は一人も出ず[58]、構想は消えた。単独でやると決めた吉田氏は通商産業省と経済安定本部に通い続け、1949年12月、米国製の高速自動植え付け機4台の輸入許可[59]をようやく得た。日参を始めてから2年半[60]が経っていた。

  • 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
    • [54]吉田忠雄は同業者に機械の共同輸入を持ちかけた
    • [55]1948年1月にファスナー業者の組合が発足した
    • [56]吉田忠雄が組合の初代理事長に就任した
    • [57]当時のファスナー業界は供給が需要に追いつかない状態だった
    • [58]共同輸入の提案に賛成者は一人も出なかった
    • [59]1949年12月に米国製高速自動植え付け機4台の輸入許可を得た
    • [60]許可取得までに役所へ通い始めてから2年半を要した

機械の代金は3万5,000ドル[61]、日本円で1,260万円だった。資金調整法で抑えられていた当時の資本金は19万8,000円[62]で、買い物はその60倍を超えた。うち1,200万円を日本興業銀行富山支店[63]から借り入れ、これが同行外国部の輸入融資第一号[64]になった。1950年7月に届いた米イージー社製のチェーンマシーン[65]は、国産機の300回転に対して1,200回転[66]で動き、打ち抜きの材料くずもほとんど出さなかった。吉田氏は同じ機械を100台そろえようと考え、池貝鉄工や大隈鉄工所に当たったうえで日立精機に発注[67]する。1台12万円[68]の総額1,200万円を三回に分けて払い、最後の納入は1953年7月[69]だった。

  • 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
    • [61]機械代金は3万5,000ドル・1,260万円だった
    • [62]当時の資本金は19万8,000円で機械代金はその60倍を超えた
    • [63]1,200万円を日本興業銀行富山支店から借り入れた
    • [64]この融資は興銀外国部の輸入融資第一号だった
    • [65]1950年7月に米イージー社製チェーンマシーンが到着した
    • [66]国産機300回転に対しイージー社製は1,200回転で動いた
    • [67]チェーンマシーン100台の製作を日立精機に発注した
    • [68]国産機は1台12万円・総額1,200万円だった
    • [69]最後の納入は1953年7月だった
  • 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
    • [47]GHQのあっせんで米国人バイヤーが訪れた
    • [48]吉田工業は5ミリ10インチのファスナーを1本9セントで売ろうとした
    • [49]米国製は1本7セント40で提示された
    • [50]提示された米国製は機能もデザインも数段上の品物だった
    • [51]当時の日本はムシを手でテープに植え付けていた
    • [52]米国では性能が高く不良の少ない製品が安いコストで生産されていた
    • [53]米国製を見た吉田忠雄は冷や汗が噴き出したとふり返った
    • [54]吉田忠雄は同業者に機械の共同輸入を持ちかけた
    • [55]1948年1月にファスナー業者の組合が発足した
    • [56]吉田忠雄が組合の初代理事長に就任した
    • [57]当時のファスナー業界は供給が需要に追いつかない状態だった
    • [58]共同輸入の提案に賛成者は一人も出なかった
    • [59]1949年12月に米国製高速自動植え付け機4台の輸入許可を得た
    • [60]許可取得までに役所へ通い始めてから2年半を要した
    • [61]機械代金は3万5,000ドル・1,260万円だった
    • [62]当時の資本金は19万8,000円で機械代金はその60倍を超えた
    • [63]1,200万円を日本興業銀行富山支店から借り入れた
    • [64]この融資は興銀外国部の輸入融資第一号だった
    • [65]1950年7月に米イージー社製チェーンマシーンが到着した
    • [66]国産機300回転に対しイージー社製は1,200回転で動いた
    • [67]チェーンマシーン100台の製作を日立精機に発注した
    • [68]国産機は1台12万円・総額1,200万円だった
    • [69]最後の納入は1953年7月だった

原料から製品までを自社の中に収めた

1954年、創業20周年[70]を機に吉田氏は米英加とヨーロッパ各国を回った。関心の一つは直接部門と間接部門の人員比率[71]にあった。訪ねた米国のファスナー会社では、社員50人なら事務員は5人[72]、100人から200人の会社でも10人から20人で、間接人員はおおむね1割[73]に収まっていた。当時の日本の一流機械メーカーに尋ねると4割[74]、工場の非直接要員まで数えれば5割との答えが返ってきた。吉田工業は当時11%ほど[75]で、現場の社員を10人採らない限り事務所の社員は1人も採らない[76]という建前を通していた。視察で得たものはほかに二つあり、デトロイトの自動車工場で見た流れ作業[77]と、西ドイツやスイスの精密機械工場で見た工場内の空気調節[78]だった。

  • 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
    • [70]1954年に創業20周年を機に海外視察へ出た
    • [71]視察の関心の一つは直接人員と間接人員の比率にあった
    • [72]米国のファスナー会社は社員50人なら事務員5人だった
    • [73]米国の間接人員比率はおおむね1割だった
    • [74]日本の一流機械メーカーの間接人員比率は4割との回答だった
    • [75]吉田工業の間接人員比率は当時11%程度だった
    • [76]現場社員を10人採らない限り事務所の社員を採らない方針を通した
    • [77]デトロイトの自動車工場で流れ作業を見た
    • [78]西ドイツやスイスの精密機械工場で工場内の空気調節を見た

視察をもとに立てた第二次五カ年計画[79]は、自動化による能率の向上と「原料から製品まで[80]」の一貫生産を狙いに据えた。ファスナーテープ用の紡績工場を建てるかどうかで社内の議論は割れた[81]。吉田氏は、消費者が手にするファスナーはその一回きりの出合い[82]であり、一本でも不良があれば製品全体が駄目だと見なされると説き、原材料を自社で作るのが当然だと主張した。社内はまとまったが、外からは反対が出た[83]。銀行は「モチはモチ屋に任せるのがよい[84]」(日本経済新聞 1977/8)と唱え、紡績工場を持ちたがったタイヤメーカーが皆失敗した例を挙げた。吉田氏は審査部長と二時間論争[85]しても譲らなかった。

  • 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
    • [79]第二次五カ年計画は自動化と一貫生産を狙いとした
    • [80]一貫生産の狙いは原料から製品までを自社で作ることにあった
    • [81]紡績工場の建設をめぐって社内で議論が沸き返った
    • [82]吉田忠雄は消費者とファスナーの出合いは一回きりだと説いた
    • [83]社内の意向は一本にまとまったが外部からは反対が出た
    • [84]銀行は紡績工場の建設に反対した
    • [85]吉田忠雄は銀行の審査部長と二時間論争しても譲らなかった

朝鮮戦争のあと銅が急騰[86]したため、吉田氏は再びアルミに目を向けた。重さは銅の三分の一[87]で済み、原価も下がる。ただアルミメーカーから買うと6ミリ丸でトンあたり44万円から46万円[88]かかり、品質にもむらがあった。そこで日立製作所に建設を頼み[89]、溶解や鋳造、加熱圧延を一年かけて共同研究し、さらに一年半を自社で重ねた。溶解炉と圧延・伸線の工場には2億円から3億円を投じ[90]、トンあたり27万円を目標に置く。実際には25万円、次いで23万円まで下がった[91]。1958年から量産[92]に入り、アルミ合金の大量生産は国内で初めてだった。銀行はここでも乗り気ではなかったが、投じた費用は一年で回収された[93]

  • 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
    • [86]朝鮮戦争後の銅の急騰がアルミ転換の理由になった
    • [87]アルミの重さは銅の三分の一で済む
    • [88]購入価格は6ミリ丸でトンあたり44万円から46万円だった
    • [89]アルミ合金工場の建設を日立製作所に依頼した
    • [90]溶解炉と圧延・伸線工場に2億円から3億円を投じた
    • [91]原価はトンあたり25万円さらに23万円まで下がった
    • [92]1958年からアルミ合金の量産に入り国内初だった
    • [93]アルミ合金への投資は一年で回収された
  • 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
    • [70]1954年に創業20周年を機に海外視察へ出た
    • [71]視察の関心の一つは直接人員と間接人員の比率にあった
    • [72]米国のファスナー会社は社員50人なら事務員5人だった
    • [73]米国の間接人員比率はおおむね1割だった
    • [74]日本の一流機械メーカーの間接人員比率は4割との回答だった
    • [75]吉田工業の間接人員比率は当時11%程度だった
    • [76]現場社員を10人採らない限り事務所の社員を採らない方針を通した
    • [77]デトロイトの自動車工場で流れ作業を見た
    • [78]西ドイツやスイスの精密機械工場で工場内の空気調節を見た
    • [79]第二次五カ年計画は自動化と一貫生産を狙いとした
    • [80]一貫生産の狙いは原料から製品までを自社で作ることにあった
    • [81]紡績工場の建設をめぐって社内で議論が沸き返った
    • [82]吉田忠雄は消費者とファスナーの出合いは一回きりだと説いた
    • [83]社内の意向は一本にまとまったが外部からは反対が出た
    • [84]銀行は紡績工場の建設に反対した
    • [85]吉田忠雄は銀行の審査部長と二時間論争しても譲らなかった
    • [86]朝鮮戦争後の銅の急騰がアルミ転換の理由になった
    • [87]アルミの重さは銅の三分の一で済む
    • [88]購入価格は6ミリ丸でトンあたり44万円から46万円だった
    • [89]アルミ合金工場の建設を日立製作所に依頼した
    • [90]溶解炉と圧延・伸線工場に2億円から3億円を投じた
    • [91]原価はトンあたり25万円さらに23万円まで下がった
    • [92]1958年からアルミ合金の量産に入り国内初だった
    • [93]アルミ合金への投資は一年で回収された

国内の直接販売から降りて代理店網に委ねた

自動機がそろうと、手作業の同業者では太刀打ちできない差[94]が開いた。吉田氏は同業者に対し、生産をやめて販売に専念してはどうか[95]と持ちかけ、供給の責任は吉田工業が果たすと約束した。初めは信用されなかったが、黒部工場へ連れて行って設備を見せる[96]と納得が広がり、同業者はファスナーの生産から手を引いた。吉田氏は約束どおり東京と大阪の得意先500社から600社[97]をすべて割り振り、吉田工業は国内の直接販売から降りて[98]、自社が直接売るのは海外だけとした。1957年7月には販売会社の吉田商事[99]を設けた。同社は建材の販売を担い、のちのYKK APにあたる[100]

  • 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
    • [94]自動化設備を持つYKKに手作業の同業者は太刀打ちできなかった
    • [95]同業者に生産中止と販売専念を提案した
    • [96]黒部工場の設備を見せて同業者を納得させた
    • [97]東京と大阪の得意先500社から600社を同業者に割り振った
    • [98]吉田工業は国内の直接販売から撤退し直販は海外のみとした
  • YKK 有価証券報告書【沿革】
    • [99]1957年7月に販売会社の吉田商事を設立した
    • [100]吉田商事は現在のYKK APにあたる

代理店に変わった同業者との取引条件も組み替えた[101]。それまでの月末締め翌月5日の全額現金払い[102]を、三分の一を現金、残る三分の二を60日の約束手形[103]に改め、年間契約額の一割を保証金[104]として預かった。保証金は代理店が銀行に半額を定期預金して全額を借り[105]、吉田工業がそのうち半額を同じ銀行に預け直す形にした。代理店は半分の資金で保証金を積め、銀行は預金と貸出の両方を増やせる[106]。吉田氏はこれを「三方一両得[107]」(日本経済新聞 1977/8)と呼んだ。代理店は在庫を二倍に持てるようになり、YKKファスナーの国内シェアは95%[108]に達した。

  • 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
    • [101]代理店になった同業者との取引条件を組み替えた
    • [102]従来の決済は月末締め翌月5日の全額現金払いだった
    • [103]決済条件を三分の二の60日手形に改めた
    • [104]年間契約額の一割を保証金として預かった
    • [105]代理店は銀行に半額を定期預金して全額を借り保証金に充てた
    • [106]銀行は預金と貸付の双方を増やせる仕組みだった
    • [107]吉田忠雄は保証金の仕組みを三方一両得と呼んだ
    • [108]YKKファスナーの国内シェアは95%に達した
  • 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
    • [94]自動化設備を持つYKKに手作業の同業者は太刀打ちできなかった
    • [95]同業者に生産中止と販売専念を提案した
    • [96]黒部工場の設備を見せて同業者を納得させた
    • [97]東京と大阪の得意先500社から600社を同業者に割り振った
    • [98]吉田工業は国内の直接販売から撤退し直販は海外のみとした
    • [101]代理店になった同業者との取引条件を組み替えた
    • [102]従来の決済は月末締め翌月5日の全額現金払いだった
    • [103]決済条件を三分の二の60日手形に改めた
    • [104]年間契約額の一割を保証金として預かった
    • [105]代理店は銀行に半額を定期預金して全額を借り保証金に充てた
    • [106]銀行は預金と貸付の双方を増やせる仕組みだった
    • [107]吉田忠雄は保証金の仕組みを三方一両得と呼んだ
    • [108]YKKファスナーの国内シェアは95%に達した
  • YKK 有価証券報告書【沿革】
    • [99]1957年7月に販売会社の吉田商事を設立した
    • [100]吉田商事は現在のYKK APにあたる

1959年〜 余ったアルミが建材事業となり海外生産が広がる(1959〜1993)

  1. 1959年 余ったアルミ合金を使うためのアルミサッシ参入 役員がためらい、5年以上売れなかった事業がファスナーと並ぶまで
  2. 1959年 ニュージーランドに初の海外子会社を設立
  3. 1961年 生地工場でアルミ建材の製造を開始
  4. 1979年 豪州のアルミ製錬事業ボインスメルターズへ参画
  5. 1987年 米国子会社を統括するYKKコーポレーションを設立
  6. 1988年 欧州子会社を統括するYKKヨーロッパを設立
  7. 1991年 アジア子会社を統括するYKKホールディング・アジアを設立

役員がためらったアルミサッシへの参入

アルミ合金の自社生産が軌道に乗ると、生産量がファスナーで使う量を上回った[109]。余る分をどう生かすか[110]という課題が、ファスナーとはまったく別の事業へ向かわせた。1958年の二度目の海外視察[111]で、吉田氏は米国ピッツバーグのアルミ工場[112]が押出機でビレットから線材を押し出し、次々に防虫網戸用のサッシ[113]を作る様子を見た。当時の日本にこれほど強力な押出機はなかった[114]。同じ設備を入れれば自動化した工程でアルミサッシを作れる[115]。吉田氏はそう考えたが、ファスナーの売れ行きが伸びている最中でもあり、役員のあいだにはためらう空気が強かった[116]

  • 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
    • [109]アルミ合金の生産量がファスナーで使う量を上回った
    • [110]余分にできるアルミ合金の有効利用がサッシ参入の狙いだった
    • [111]1958年に二度目の海外視察を行った
    • [112]米国ピッツバーグのアルミ工場で押出機を見た
    • [113]押出機は防虫網戸用のサッシを連続して製造していた
    • [114]当時の日本にこれほど強力な押出機はなかった
    • [115]押出機を入れれば自動化した工程でアルミサッシを作れると考えた
    • [116]アルミサッシ参入に役員はためらった

吉田工業では会社の浮沈に関わる決定を役員会の多数決に委ねなかった[117]。多数決で決めると責任の所在が曖昧になり、全員の意見が一致したときには着手が遅すぎる[118]ことが多い、というのが吉田氏の考えだった。日本にも遠からずアルミサッシの時代が来る[119]と判断した吉田氏は、この計画への着手を決めた。1959年11月、生地工場にアルミの溶解工場と1,400トンのアルミ合金押出機[120]が完成する。ところが製品はまったく売れなかった[121]。ぼつぼつ動き出したのは1965年以降[122]で、参入から売れ始めるまでに5年以上を要した。

  • 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
    • [117]重要な決定を役員会の多数決に委ねなかった
    • [118]全員一致のときには着手が遅すぎるという考えを持っていた
    • [119]吉田忠雄は日本にも遠からずアルミサッシ時代が来ると確信した
    • [120]1959年11月に生地工場へ1,400トンのアルミ合金押出機を設置した
    • [121]アルミサッシは当初まったく売れなかった
    • [122]売れ始めたのは1965年以降だった

売る相手の選び方も、既存のサッシメーカーとは変えた[123]。他社が代理店や問屋を通していた[124]のに対し、吉田工業はガラス店や建具店へ直接売った[125]。1963年11月、アルミサッシを売る子会社として北陸YKK産業[126]を発足させ、以後は各地にYKK産業を置いて営業を支えた。社員は吉田工業の営業担当であると同時に、その地域の販売会社の責任者でもあった[127]。押し出し用の金型を自社で作っていた[128]ため、よい製品ができると見れば新しい金型をためらわずに起こせた。国内350か所の販売会社網[129]が整い、1977年時点の建材の売上高は年1,650億円[130]で、ファスナーと並ぶ規模になった。

  • 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
    • [123]YKKは既存のサッシメーカーと異なる売り方を採った
    • [124]既存のサッシメーカーは代理店や問屋を通して販売していた
    • [125]吉田工業はガラス店や建具店へ直接販売した
    • [126]1963年11月にアルミサッシ販売子会社の北陸YKK産業を設立した
    • [127]社員は営業担当と地域販売会社の第一線責任者を兼ねた
    • [128]押し出し用の金型を自社で製作していた
    • [129]国内350か所の販売会社網が整った
    • [130]1977年時点の建材売上高は年1,650億円だった
  • 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
    • [109]アルミ合金の生産量がファスナーで使う量を上回った
    • [110]余分にできるアルミ合金の有効利用がサッシ参入の狙いだった
    • [111]1958年に二度目の海外視察を行った
    • [112]米国ピッツバーグのアルミ工場で押出機を見た
    • [113]押出機は防虫網戸用のサッシを連続して製造していた
    • [114]当時の日本にこれほど強力な押出機はなかった
    • [115]押出機を入れれば自動化した工程でアルミサッシを作れると考えた
    • [116]アルミサッシ参入に役員はためらった
    • [117]重要な決定を役員会の多数決に委ねなかった
    • [118]全員一致のときには着手が遅すぎるという考えを持っていた
    • [119]吉田忠雄は日本にも遠からずアルミサッシ時代が来ると確信した
    • [120]1959年11月に生地工場へ1,400トンのアルミ合金押出機を設置した
    • [121]アルミサッシは当初まったく売れなかった
    • [122]売れ始めたのは1965年以降だった
    • [123]YKKは既存のサッシメーカーと異なる売り方を採った
    • [124]既存のサッシメーカーは代理店や問屋を通して販売していた
    • [125]吉田工業はガラス店や建具店へ直接販売した
    • [126]1963年11月にアルミサッシ販売子会社の北陸YKK産業を設立した
    • [127]社員は営業担当と地域販売会社の第一線責任者を兼ねた
    • [128]押し出し用の金型を自社で製作していた
    • [129]国内350か所の販売会社網が整った
    • [130]1977年時点の建材売上高は年1,650億円だった

輸入制限に押される形で海外生産に踏み切った

海外生産の最初は1959年、インドのカルカッタに設けた合弁工場[131]だった。翌1960年にはニュージーランドに合弁会社[132]を作り、同じ年に米国市場をねらってニューヨークにヨシダ・インターナショナル社[133]を置いて、4年後には現地に工場を建てた。ほぼ同じころオランダのスネーク市[134]でも操業を始めた。1974年10月にはジョージア州メーコンの工場[135]が完工し、当時の州知事だったカーター氏が式に立ち会った。1977年の時点で海外26か国に31工場と100の事業所[136]を数えた。各国の代表は年に一度2月に黒部の生地工場へ集まり、通訳を付けず[137]にグラフと図表で報告し合った。図表が千枚に達することから、社内ではこの会議をグラフ祭り[138]と呼んだ。

  • 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
    • [131]1959年にインドのカルカッタへ最初の海外合弁工場を設けた
    • [133]ニューヨークにヨシダ・インターナショナル社を設立した
    • [134]オランダのスネーク市でも操業を始めた
    • [135]1974年10月にジョージア州メーコン工場が完工した
    • [136]1977年時点で海外26か国に31工場と100事業所を持った
    • [137]各国代表が年1回2月に黒部の生地工場へ集まり通訳なしで報告した
    • [138]各国代表が集まる年次会議は社内でグラフ祭りと呼ばれた
  • YKK 有価証券報告書【沿革】
    • [132]1960年にニュージーランドへ合弁会社を作った

海外に工場を置いた理由は、進出を望んだ結果ではない[139]。輸出を続けるうちに相手国が輸入を制限し[140]、現地で製品を売る人たちから作りに来てほしいと請われる場面が重なった。吉田氏は後年、海外へ「行きたくて行ったという例は一つもない[141]」(日本経済新聞 1977/8)と述べた。海外へ出るときの人の送り方[142]にも特徴があった。ニューヨークに最初の工場を建てたときの建設部隊は平均年齢26歳前後[143]で、南アフリカの工場建設では入社2年目の社員に全権を委ねた[144]。日本から送る人数を絞り[145]、現地で採用した社員と一緒に働かせる形をとった。

  • 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
    • [139]海外進出は自ら望んだ結果ではなかった
    • [140]相手国の輸入制限が海外生産の引き金になった
    • [141]吉田忠雄は海外へ行きたくて行った例は一つもないと述べた
    • [142]海外拠点への人の送り方に特徴があった
    • [143]ニューヨーク工場の建設部隊は平均年齢26歳前後だった
    • [144]南アフリカの工場建設は入社2年目の社員に全権を委ねた
    • [145]日本から派遣する社員はできるだけ絞った
  • 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
    • [131]1959年にインドのカルカッタへ最初の海外合弁工場を設けた
    • [133]ニューヨークにヨシダ・インターナショナル社を設立した
    • [134]オランダのスネーク市でも操業を始めた
    • [135]1974年10月にジョージア州メーコン工場が完工した
    • [136]1977年時点で海外26か国に31工場と100事業所を持った
    • [137]各国代表が年1回2月に黒部の生地工場へ集まり通訳なしで報告した
    • [138]各国代表が集まる年次会議は社内でグラフ祭りと呼ばれた
    • [139]海外進出は自ら望んだ結果ではなかった
    • [140]相手国の輸入制限が海外生産の引き金になった
    • [141]吉田忠雄は海外へ行きたくて行った例は一つもないと述べた
    • [142]海外拠点への人の送り方に特徴があった
    • [143]ニューヨーク工場の建設部隊は平均年齢26歳前後だった
    • [144]南アフリカの工場建設は入社2年目の社員に全権を委ねた
    • [145]日本から派遣する社員はできるだけ絞った
  • YKK 有価証券報告書【沿革】
    • [132]1960年にニュージーランドへ合弁会社を作った

社員が株主であることを前提にした設計

吉田氏は子どものころに読んだ『カーネギー伝』の「他人の利益をはからなければ、自らも栄えない[146]」(日本経済新聞 1977/8)という一節を生涯の教えとし、これを善の巡環と呼んだ。社員と資本の関係をどう組むかという会社の設計も、この考えに沿った[147]。夏と年末の賞与の半分を社内預金[148]に回し、入社3年以上[149]で社内預金がある社員は誰でも株主になれる。退職の際は株式を返す仕組み[150]で、株のほとんどを社員が持ち合った。社員が持つ株式への配当は年18%[151]だった。証券会社から上場の幹事を望む声[152]がかかっても、吉田氏は株式公開を考えなかった。株は事業への参加証[153]であり、損得で売買する人の手には渡したくないという理由による。

  • 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
    • [146]カーネギー伝の一節を生涯の教えとし善の巡環と呼んだ
    • [147]善の巡環の考えに沿って会社の仕組みを組み立てた
    • [148]夏と年末の賞与の半分を社内預金に回した
    • [149]入社3年以上で社内預金がある社員は株主になれた
    • [150]退職時は株式を返還する仕組みで株のほとんどを社員が持ち合った
    • [151]配当は年18%だった
    • [152]証券会社から上場の幹事を希望する声がかかっていた
    • [153]株式は事業への参加証だとして公開しなかった

間接部門を増やさない方針[154]は視察のあとも変わらなかった。主力の生地工場では女子事務員を別にすると総務2人、勤労4人[155]という人数で、約7,000人の工場社員に対して間接人員は全体の1割[156]にとどめた。管理する側を増やさない考えは役員構成にも及び、人事担当の役員[157]は置かなかった。吉田氏は月の半分を工場で過ごし、事務所では役員と一緒に大部屋に座って、中央に自分の机、隣に副社長の机[158]を置いた。社長印は各部署に預けてあり[159]、稟議書はめったに回らなかった。「三割失敗してもよいから、七割成功しろ[160]」(日本経済新聞 1977/8)と説き、失敗した社員を左遷しなかった。

  • 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
    • [154]間接人員を抑える方針は視察後も維持された
    • [155]生地工場の総務は2人・勤労は4人だった
    • [156]間接人員は全体の1割にとどめた
    • [157]人事担当の役員を置かなかった
    • [158]大部屋の中央に社長の机を置き隣を副社長の机とした
    • [159]社長印を各部署に預け稟議書はめったに回らなかった
    • [160]三割失敗してもよいから七割成功しろと説いた
  • 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
    • [146]カーネギー伝の一節を生涯の教えとし善の巡環と呼んだ
    • [147]善の巡環の考えに沿って会社の仕組みを組み立てた
    • [148]夏と年末の賞与の半分を社内預金に回した
    • [149]入社3年以上で社内預金がある社員は株主になれた
    • [150]退職時は株式を返還する仕組みで株のほとんどを社員が持ち合った
    • [151]配当は年18%だった
    • [152]証券会社から上場の幹事を希望する声がかかっていた
    • [153]株式は事業への参加証だとして公開しなかった
    • [154]間接人員を抑える方針は視察後も維持された
    • [155]生地工場の総務は2人・勤労は4人だった
    • [156]間接人員は全体の1割にとどめた
    • [157]人事担当の役員を置かなかった
    • [158]大部屋の中央に社長の机を置き隣を副社長の机とした
    • [159]社長印を各部署に預け稟議書はめったに回らなかった
    • [160]三割失敗してもよいから七割成功しろと説いた

1993年〜 二代目によるグローバル化と建材事業の重み(1993〜2026)

YKKの業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1994年 YKKに商号変更
  2. 2001年 吉田不動産(現YKK不動産)を完全子会社化
  3. 2002年 株式交換によるYKK APの完全子会社化
  4. 2002年 中国にYKK中国投資社を設立
  5. 2002年 蘇州YKK工機を設立
  6. 2003年 新設分割によるYKKファスニングプロダクツ販売の設立
  7. 2003年 株式を公開せず、社員が株主であり続ける資本政策 「株は事業への参加証」という創業者の設計を、二代目が引き継ぐと決めた判断

カリスマの後を継いだ二代目の組み替え

創業者の長男である吉田忠裕氏は1947年に生まれ[161]、慶応義塾大学を出てノースウエスタン大学の経営大学院でMBA[162]を取り、1972年に入社した[163]。社長に就いたのは1993年[164]である。忠裕氏は、すでに動いている会社を引き継いだ以上、社員を入れ替えることも中身を大きく変えることもできないとし、まず会社の強みを見極めて生かす道を選んだ[165]。翌1994年8月、社名を吉田工業からYKK[166]へ改める。商標として使ってきた三文字[167]が、そのまま社名になった。海外の支店は60か国[168]に及び、日本から一括して統べるには無理が出ていたため、日本を含む世界を六つのブロックに分けた[169]

  • 週刊東洋経済 2003年8月2日号「KeyPerson 吉田忠裕 YKK代表取締役社長」
    • [161]吉田忠裕は1947年に創業者の長男として生まれた
    • [162]ノースウエスタン大学の経営大学院でMBAを取得した
    • [163]1972年に入社した
    • [164]社長就任は1993年である
    • [165]引き継いだ会社の強みを見極めて生かす方針をとった
    • [168]海外の支店は60か国に及んだ
    • [169]日本を含む世界を六つのブロックに分けて統括した
  • YKK 有価証券報告書【沿革】
    • [166]1994年8月に吉田工業からYKKへ商号変更した
    • [167]商標として使ってきたYKKの三文字がそのまま社名になった

1990年代の変化は、製品を誰にどう売るかという取引の形にも及んだ[170]。台湾や中国にファスナーメーカーが1,000社ほど現れ[171]、ある程度の製品は他社でも作れる状態になる。そのなかでYKKが位置を保てたのは、全世界へ同じ製品を供給できた[172]からだった。リーバイ・ストラウス社[173]は複数持っていた調達先を、創業以来初めてYKK1社に絞った[174]。アディダスやナイキ、GAPとの契約は250か国に同じ規格[175]で納めることを意味し、現地工場ごとに染料や水まで変えて[176]原価を下げる作業が必要になった。忠裕氏はこれを短期には大きな損だと認めたうえで[177]、世界規模の市場で位置を築く方法だと説明した。

  • 週刊東洋経済 2003年8月2日号「KeyPerson 吉田忠裕 YKK代表取締役社長」
    • [170]1990年代の変化は取引の形にも及んだ
    • [171]台湾や中国にファスナーメーカーが1,000社ほど現れた
    • [172]YKKの優位は全世界へ同じ製品を供給できる点にあった
    • [173]リーバイ・ストラウス社が調達先をYKK1社に絞った
    • [174]同社が調達を1社に絞ったのは創業以来初めてだった
    • [175]グローバル企業との契約は250か国へ同一規格で納めることを意味した
    • [176]現地工場ごとに染料や水まで変えて原価を下げた
    • [177]吉田忠裕は短期には大きなデメリットになると認めた

2002年10月、YKKは株式交換によって建材のYKK APを完全子会社[178]とした。前年には吉田不動産を完全子会社[179]にしており、翌2003年には新設分割でファスニングプロダクツ販売とビジネスサポート[180]を設けて、事業ごとの受け皿を整えた。株式公開について忠裕氏は、株主とは事業協力者だという先代の考えを踏襲したいとしながら、「何も上場すると言っているのではなく、断定はできない[181]」(週刊東洋経済 2003/8/2)と述べ、含みを残した。統治の面では外部取締役の起用と委員会制度の導入[182]を進め、本体が変わり始めたと世界に見せる意図を語った。

  • YKK 有価証券報告書【沿革】
    • [178]2002年10月に株式交換でYKK APを完全子会社化した
    • [179]2001年に吉田不動産を完全子会社化した
    • [180]2003年の新設分割でファスニングプロダクツ販売とビジネスサポートを設立した
  • 週刊東洋経済 2003年8月2日号「KeyPerson 吉田忠裕 YKK代表取締役社長」
    • [181]吉田忠裕は上場について断定はできないと述べた
    • [182]外部取締役の起用と委員会制度の導入を進めた
  • 週刊東洋経済 2003年8月2日号「KeyPerson 吉田忠裕 YKK代表取締役社長」
    • [161]吉田忠裕は1947年に創業者の長男として生まれた
    • [162]ノースウエスタン大学の経営大学院でMBAを取得した
    • [163]1972年に入社した
    • [164]社長就任は1993年である
    • [165]引き継いだ会社の強みを見極めて生かす方針をとった
    • [168]海外の支店は60か国に及んだ
    • [169]日本を含む世界を六つのブロックに分けて統括した
    • [170]1990年代の変化は取引の形にも及んだ
    • [171]台湾や中国にファスナーメーカーが1,000社ほど現れた
    • [172]YKKの優位は全世界へ同じ製品を供給できる点にあった
    • [173]リーバイ・ストラウス社が調達先をYKK1社に絞った
    • [174]同社が調達を1社に絞ったのは創業以来初めてだった
    • [175]グローバル企業との契約は250か国へ同一規格で納めることを意味した
    • [176]現地工場ごとに染料や水まで変えて原価を下げた
    • [177]吉田忠裕は短期には大きなデメリットになると認めた
    • [181]吉田忠裕は上場について断定はできないと述べた
    • [182]外部取締役の起用と委員会制度の導入を進めた
  • YKK 有価証券報告書【沿革】
    • [166]1994年8月に吉田工業からYKKへ商号変更した
    • [167]商標として使ってきたYKKの三文字がそのまま社名になった
    • [178]2002年10月に株式交換でYKK APを完全子会社化した
    • [179]2001年に吉田不動産を完全子会社化した
    • [180]2003年の新設分割でファスニングプロダクツ販売とビジネスサポートを設立した

世界シェア45%と国内建材の落ち込み

ファスナーの世界シェアは約45%[183]に達し、二番手以下を引き離した。米国の三大ジーンズメーカーはいずれも100%YKK製[184]を採る。この位置を支えたのは1960年代に開発したY-Barという新製法[185]で、あらかじめY字に成形した線材を使うことで材料くずを減らし、品質を均一にした。1990年代にはこの製法に表面処理を組み合わせ、欧州の高級ブランド向けの開発[186]を進める。競合が1,000回の開閉に耐えれば十分とするところを、YKKは1万回[187]を基準に置いた。最終製品の原価に占めるファスナーの割合は2〜3%[188]にすぎないが、壊れれば製品そのものが使えなくなる。

  • 週刊東洋経済 2010年10月16日号「ファスナー世界ナンバーワン会社の思想」
    • [183]ファスナーの世界シェアは約45%に達した
    • [184]米国の三大ジーンズメーカーは100%YKK製を採用した
    • [185]1960年代にY-Barという新製法を開発した
    • [186]1990年代に新製法へ表面処理を組み合わせ高級ブランド向け開発を加速した
    • [187]競合が1,000回の耐久とするところYKKは1万回を基準とした
    • [188]最終製品の原価に占めるファスナーの割合は2〜3%である

2009年3月、YKKはイタリア北部のベルチェリ[189]に欧州の研究開発拠点を開いた。西欧では1990年代半ばから中級以下のブランドが縫製を東欧や北アフリカ、アジアへ移し[190]、残ったのは高級ブランドだけになっていた。生産拠点を集約する選択もあり得たが、YKKは拠点を残したまま日本の開発部隊の一部をイタリアへ移す[191]道を採る。一方で業績は2006年度をピークに下がった[192]。売上の85%を海外で稼ぐファスニング事業[193]に対し、建材は8割以上が国内向け[194]で、2007年の建築基準法改正と2008年の金融危機が尾を引き、2009年度の新設住宅着工戸数は45年ぶりの低い水準[195]に落ちた。

  • 週刊東洋経済 2010年10月16日号「ファスナー世界ナンバーワン会社の思想」
    • [189]2009年3月にイタリア北部ベルチェリへ欧州R&D拠点を開設した
    • [190]1990年代半ばから中級以下ブランドが縫製を東欧や北アフリカ、アジアへ移した
    • [191]生産拠点を残したまま日本の開発部隊の一部をイタリアへ移した
    • [192]業績は2006年度をピークに下落した
    • [193]ファスニング事業は売上の85%を海外で稼いだ
    • [194]建材は8割以上が国内向けだった
    • [195]2009年度の新設住宅着工戸数は45年ぶりの低水準に落ちた
  • 週刊東洋経済 2010年10月16日号「ファスナー世界ナンバーワン会社の思想」
    • [183]ファスナーの世界シェアは約45%に達した
    • [184]米国の三大ジーンズメーカーは100%YKK製を採用した
    • [185]1960年代にY-Barという新製法を開発した
    • [186]1990年代に新製法へ表面処理を組み合わせ高級ブランド向け開発を加速した
    • [187]競合が1,000回の耐久とするところYKKは1万回を基準とした
    • [188]最終製品の原価に占めるファスナーの割合は2〜3%である
    • [189]2009年3月にイタリア北部ベルチェリへ欧州R&D拠点を開設した
    • [190]1990年代半ばから中級以下ブランドが縫製を東欧や北アフリカ、アジアへ移した
    • [191]生産拠点を残したまま日本の開発部隊の一部をイタリアへ移した
    • [192]業績は2006年度をピークに下落した
    • [193]ファスニング事業は売上の85%を海外で稼いだ
    • [194]建材は8割以上が国内向けだった
    • [195]2009年度の新設住宅着工戸数は45年ぶりの低水準に落ちた

創業家から専門経営者へ移った執行

二代にわたって同族が担ってきた社長の職は、やがて創業家を離れた[196]。有価証券報告書の代表者欄をたどると、2017年3月期は代表取締役会長の吉田忠裕氏[197]、2018年3月期から2024年3月期までは代表取締役社長の大谷裕明氏[198]、2025年3月期以降は代表取締役社長の松嶋耕一氏[199]である。経営者の交代と並んで、人材の育成[200]も制度に落とした。「価値創造塾」は40歳前後の課長級を年に20人から25人[201]選び、8か月かけて財務分析やマーケティングを学ばせたうえで、最後に会長と社長を含む経営戦略会議へ提言させる[202]。2016年で13期を数え、卒業生284人のうち延べ約30人[203]がYKKとYKK APの執行役員に就いた。

  • YKK 有価証券報告書
    • [196]社長の職は創業家から離れた
    • [197]2017年3月期の代表者は代表取締役会長の吉田忠裕だった
    • [198]2018年3月期から2024年3月期の代表者は社長の大谷裕明だった
    • [199]2025年3月期以降の代表者は社長の松嶋耕一である
  • 週刊東洋経済 2016年8月27日号「次世代リーダーの条件 YKK」
    • [200]次世代リーダーの育成を研修制度として定着させた
    • [201]価値創造塾は40歳前後の課長級を年に20人から25人選ぶ
    • [202]8か月の研修の最後に経営戦略会議へ提言する
    • [203]2016年で13期を数え卒業生284人のうち延べ約30人が執行役員に就いた

YKKは非上場のまま有価証券報告書を出し続けてきた[204]。2017年3月期の大株主はYKK恒友会(従業員持株会)が18.52%[205]、有限会社吉田興産が14.51%[206]、吉田忠裕氏が5.50%、吉田政裕氏が5.01%で、創業者が敷いた社員株主の仕組みが残った。事業はファスニングとAPの二つで、2026年3月期の連結売上高は9,926億円[207]、営業利益は468億円[208]だった。前期の売上高9,983億円[209]、営業利益624億円からは減収減益にあたる。登記上の本店は1963年に移した東京都千代田区神田和泉町[210]のままで、実際の業務は富山県黒部市が担う。

  • YKK 有価証券報告書
    • [204]YKKは非上場のまま有価証券報告書を提出し続けている
    • [205]2017年3月期の筆頭株主はYKK恒友会で18.52%を持つ
    • [206]第2位株主は有限会社吉田興産で14.51%を持つ
    • [207]2026年3月期の連結売上高は9,926億円だった
    • [208]2026年3月期の営業利益は468億円だった
    • [209]前期の売上高は9,983億円だった
    • [210]登記上の本店は1963年に移転した東京都千代田区神田和泉町にある
  • YKK 有価証券報告書
    • [196]社長の職は創業家から離れた
    • [197]2017年3月期の代表者は代表取締役会長の吉田忠裕だった
    • [198]2018年3月期から2024年3月期の代表者は社長の大谷裕明だった
    • [199]2025年3月期以降の代表者は社長の松嶋耕一である
    • [204]YKKは非上場のまま有価証券報告書を提出し続けている
    • [205]2017年3月期の筆頭株主はYKK恒友会で18.52%を持つ
    • [206]第2位株主は有限会社吉田興産で14.51%を持つ
    • [207]2026年3月期の連結売上高は9,926億円だった
    • [208]2026年3月期の営業利益は468億円だった
    • [209]前期の売上高は9,983億円だった
    • [210]登記上の本店は1963年に移転した東京都千代田区神田和泉町にある
  • 週刊東洋経済 2016年8月27日号「次世代リーダーの条件 YKK」
    • [200]次世代リーダーの育成を研修制度として定着させた
    • [201]価値創造塾は40歳前後の課長級を年に20人から25人選ぶ
    • [202]8か月の研修の最後に経営戦略会議へ提言する
    • [203]2016年で13期を数え卒業生284人のうち延べ約30人が執行役員に就いた

YKKの沿革1934〜2003年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
吉田忠雄氏がファスナーを商うサンエス商会を東京日本橋に創業★★★
吉田工業に商号変更★★
商標YKKの制定★★
資本金の60倍を投じた米国製自動植え付け機の輸入業界の共同輸入案が潰れたあと、一社だけで機械化に踏み切った判断 詳細を読む★★★
黒部工場の着工(1955年5月稼動)★★
販売会社の吉田商事(現YKK AP)を設立★★
生地工場(現黒部工場)の着工
余ったアルミ合金を使うためのアルミサッシ参入役員がためらい、5年以上売れなかった事業がファスナーと並ぶまで 詳細を読む★★★
ニュージーランドに初の海外子会社を設立★★
生地工場でアルミ建材の製造を開始★★
本社を東京都千代田区へ移転
建材専用の四国工場を着工
建材専用の東北工場を着工
建材専用の九州工場を着工
YKKインダストリーズ・シンガポールを設立
豪州のアルミ製錬事業ボインスメルターズへ参画★★
米国子会社を統括するYKKコーポレーションを設立★★
欧州子会社を統括するYKKヨーロッパを設立★★
アジア子会社を統括するYKKホールディング・アジアを設立★★
YKKに商号変更★★
吉田不動産(現YKK不動産)を完全子会社化
株式交換によるYKK APの完全子会社化★★★
中国にYKK中国投資社を設立
蘇州YKK工機を設立
新設分割によるYKKファスニングプロダクツ販売の設立
新設分割によるYKKビジネスサポートの設立
株式を公開せず、社員が株主であり続ける資本政策「株は事業への参加証」という創業者の設計を、二代目が引き継ぐと決めた判断 詳細を読む★★★
出典・参考
  • 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「吉田工業」
  • YKK 有価証券報告書【沿革】
  • 週刊東洋経済 2003年8月2日号「KeyPerson 吉田忠裕 YKK代表取締役社長」
  • 週刊東洋経済 2010年10月16日号「ファスナー世界ナンバーワン会社の思想」
  • YKK 有価証券報告書
  • 週刊東洋経済 2016年8月27日号「次世代リーダーの条件 YKK」

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