YKK資本金の60倍を投じた米国製自動植え付け機の輸入

業界の共同輸入案が潰れたあと、一社だけで機械化に踏み切った判断

時期 1949年12月
意思決定者(推定) 吉田忠雄 社長
論点 手植え方式を続けるか、借金をしてでも自動機を入れるか
概要
1949年12月、吉田工業は米国製の高速自動植え付け機(チェーンマシーン)4台の輸入許可を得た。代金は3万5,000ドル、日本円で1,260万円にのぼり、資金調整法で19万8,000円に抑えられていた当時の資本金の60倍を超えた。うち1,200万円を日本興業銀行富山支店から借り入れ、これが同行外国部の輸入融資第一号になった。
背景
終戦後、GHQのあっせんで訪れた米国人バイヤーが示した米国製ファスナーは、機能もデザインも日本製の数段上だった。米国はムシの製造も植え付けも機械で行っており、日本の手植え方式では原価でも品質でも並べなかった。
内容
吉田忠雄氏はまず業界での共同輸入を提案した。1948年1月に発足したファスナー業者の組合で初代理事長に就き、共同出資の会社を作って機械を入れようと説いたが、賛成者は一人も出なかった。単独で進めると決めたのち、通商産業省と経済安定本部へ2年半通い続けて外貨割当を得た。
含意
到着した機械は国産機の300回転に対して1,200回転で動き、打ち抜きの材料くずもほとんど出さなかった。吉田氏は同型機100台を日立精機に発注して国産化し、1953年7月に納入を終えた。手作業の同業者は太刀打ちできなくなり、のちに生産から撤退してYKKの販売代理店に転じた。
筆者の見解

業界が乗らなかったことの意味

共同輸入に賛成者が一人も出なかったことを、業界の不明として片づけるのは公平でない。当時のファスナー業界は供給が需要に追いつかない好況にあり、米国製品の輸入もわずかだった。手植え式で売り先に困らない状況で、資本金の何十倍にもあたる機械を共同購入する理由は薄い。1948年時点の判断としては、乗らないほうが合理的にも見えた。

分かれ目は、需要が満ちている時期をどう読むかにあった。吉田忠雄氏が見ていたのは目の前の受注ではなく、GHQのバイヤーが取り出した1本の米国製である。好況が続く前提なら手植えで足り、いずれ米国製が入ってくる前提なら間に合わない。前提が違えば同じ事実から逆の結論が出る。結果として、機械化に賭けた一社が国内シェア95%を握り、乗らなかった各社はその販売代理店になった。ただしこの決着は、代理店に転じた同業者に得意先を割り振り、在庫を二倍に持てる決済条件を与えるという後段の設計があって初めて成立している。機械を買った時点で勝負が決まったわけではない。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

米国製を一本見せられて分かった差

終戦後、GHQのあっせんで米国人バイヤーが魚津を訪れた。吉田忠雄氏が5ミリ10インチのファスナーを1本9セントで売りたいと申し出ると、相手は米国製の1本を取り出し、7セント40で売ってもよいと応じた。示された品物は機能もデザインも数段上だった。吉田氏はこのときの衝撃を、体中から冷や汗が噴き出したとふり返っている[1]

差は職人の腕ではなく、生産の方式そのものにあった。日本はエキセンプレス機で金属材料からムシを抜き、テープ地へ手で植え付け、パワープレス機でスライダーを作って仕上げていた。米国はムシの製造も植え付けもすべて機械で行っており、性能の高いファスナーが安い原価で流れ出ていた。不良の発生率も低く、信頼性で日本製を引き離していた[2]

決断

業界で組めず、一社で決めた

吉田氏がまず動いたのは業界に対してだった。1948年1月にファスナー業者の組合が発足すると初代理事長に就き、会合のたびに手植え方式の古さを説いて、共同出資の会社を作り機械を輸入しようと提案した。ところが当時の業界は供給が需要に追いつかない好況にあり、機械は3万ドルから4万ドルもする。日本人は手先が器用なので手植え式で十分やっていけるという見方が支配的で、賛成者は一人も出ないまま構想は消えた[3][4]

一社でやると決めた吉田氏は、通商産業省と経済安定本部へ通い始めた。低い賃金と器用な手先に頼っている限りファスナー産業は中小企業から抜け出せないと訴え続け、外貨の割り当てが厳しかった時代に許可を取り付けた。輸入許可が下りたのは1949年12月で、役所へ通い始めてから2年半が経っていた[5]

資本金の60倍という金額

機械の代金は3万5,000ドル、日本円で1,260万円だった。資金調整法で抑えられていた当時の吉田工業の資本金は19万8,000円で、買い物はその60倍を超えた。1,200万円は富山支店を窓口に日本興業銀行から借り入れ、これが同行外国部の輸入融資第一号になった。吉田氏は不安も迷いもなかったとし、日本のファスナー産業が輸入品に負けずに立つにはこれしかないと確信していたと述べている[6][7]

結果

4台から100台へ

1950年7月に到着した米イージー社製のチェーンマシーンは、国産機の300回転に対して4倍の1,200回転で動いた。従来の機械では打ち抜き工程で製品よりスクラップのほうが多く出ていたが、この機械はロスをほとんど出さず、製品原価に大きな差がついた。吉田氏は同じ機械を100台そろえようと考え、池貝鉄工や大隈鉄工所、日平産業に当たったうえで日立精機に発注した。1台12万円の総額1,200万円を三回に分けて払い、1953年7月に納入を終えた[8][9]

設備の差は市場の形を変えた。手作業を続ける同業者はコストでも品質でも並べなくなり、吉田氏は生産をやめて販売に専念してはどうかと持ちかけた。当初は信用されなかったが、黒部工場へ連れて行って設備を見せると同業者は納得し、ファスナーの生産から手を引いた。吉田工業は東京と大阪の得意先500社から600社をすべて割り振って国内の直接販売から降り、YKKファスナーの国内シェアは95%に達した[10][11]

出典・参考
  • 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
  • YKK 有価証券報告書【沿革】

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