YKK余ったアルミ合金を使うためのアルミサッシ参入

役員がためらい、5年以上売れなかった事業がファスナーと並ぶまで

時期 1959年11月
意思決定者(推定) 吉田忠雄 社長
論点 ファスナー専業を続けるか、自社で余るアルミ合金を別の製品に振り向けるか
概要
1959年11月、吉田工業は生地工場にアルミの溶解工場と1,400トンのアルミ合金押出機を設置し、アルミサッシの生産に入った。ファスナー用に内製していたアルミ合金の生産量が自社の消費量を上回ったため、余る分の使い道として選んだ事業である。
背景
1958年に量産へ入ったアルミ合金56Sは国内で初めての大量生産で、原価はトンあたり23万円まで下がった。同じ年の二度目の海外視察で、吉田忠雄氏は米国ピッツバーグのアルミ工場が押出機で防虫網戸用サッシを連続生産する様子を見た。当時の日本にこれほど強力な押出機はなかった。
内容
ファスナーの売れ行きが伸びている最中でもあり、役員のあいだにはためらう空気が強かった。吉田工業は会社の浮沈に関わる決定を役員会の多数決に委ねず、全員一致のときには着手が遅すぎるという考えのもと、吉田氏が着手を決めた。
含意
製品は当初まったく売れず、動き出したのは1965年以降である。1963年11月に北陸YKK産業を設けてガラス店や建具店へ直接売る形をとり、国内350か所の販売会社網を築いた。1977年の建材売上高は年1,650億円でファスナーと並び、のちに売上でファスナーを上回った。
筆者の見解

余剰から始めた事業の性格

この参入の理由は市場の魅力ではなく、自社の内側にあった。ファスナー用に内製したアルミ合金が使い切れずに余ったこと、それだけが出発の条件である。市場を調べて有望と判断したのではないため、参入後5年以上売れなかったのは当然の帰結でもあった。役員がためらったのは、事業の見立てとしてはむしろ正しい。

それでも建材がファスナーを超える規模まで育ったのは、余剰の処理という動機とは別の作業を積んだ結果である。売り先のない製品に対し、建具職人を組立業者へ転換させ、代理店を飛ばして工事店に直接売り、要望を金型に反映させた。垂直統合の副産物という出自は、後年に別の形で効いてもいる。国内の住宅着工に売上の8割が連動する建材は、海外で85%を稼ぐファスニングと景気の波が揃わない。2006年度以降に業績が下がった時期には、その揃わなさが支えではなく重石として現れた。

一貫生産は品質のために選んだ設計だった。だがその設計は、自社で使い切れないアルミ合金を生む構造でもある。余剰を新事業に振り向ける判断は、垂直統合を選んだ企業がいずれ直面する問いへの一つの答えにあたる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

ファスナーで使い切れないアルミ

朝鮮戦争のあと銅が急騰したため、吉田忠雄氏はファスナーの材料をアルミへ振り替えようとした。アルミメーカーから買うと6ミリ丸でトンあたり44万円から46万円かかり、品質にもむらがある。そこで日立製作所に建設を頼み、溶解や鋳造、加熱圧延を一年かけて共同研究したうえ、さらに一年半を自社で重ねた。1958年から量産に入り、アルミ合金の大量生産は国内で初めてだった。原価はトンあたり23万円まで下がった[1][2]

自社生産が軌道に乗ると、アルミ合金の生産量はファスナーで使う量を上回った。銀行は当初この投資にも乗り気ではなかった。必要量が月40トンから50トン程度であるのに月産100トン以上の設備を構えたためで、紡績工場のときと同じくモチはモチ屋にという意見が出た。だが56Sの成功によって投じた費用は一年で回収され、余る分の使い道という新しい問いが残った[3][4]

決断

多数決を採らずに決めた

1958年の二度目の海外視察で、吉田氏は米国ピッツバーグのアルミ工場を訪ねた。押出機がビレットから一気に線材を押し出し、後から後へと防虫網戸用のサッシを作っている。当時の日本にこれほど強力な押出機はなく、吉田氏には大きな驚きだった。同じ設備を整えれば自社でもアルミサッシを自動化した工程で作れる。ただしファスナーの売れ行きが伸びている最中で、アルミサッシ部門への進出には役員のあいだにためらう空気が強かった[5][6]

吉田工業は会社の浮沈に関わる決定を役員会の多数決には委ねなかった。多数決で決めると誰に責任があるのか曖昧なまま安易に決まってしまうこと、そして全員の意見が一致したときにはその事業を始めるのが遅すぎる場合が多いことを、吉田氏は理由に挙げている。日本にも遠からずアルミサッシの時代が来ると確信した吉田氏は、役員の空気とは別に着手を決めた。生地工場にアルミの溶解工場と1,400トンのアルミ合金押出機が完成したのは1959年11月である[7][8]

結果

5年売れず、そのあいだに売り方を作った

設備は整ったが、製品は初めまったく売れなかった。ぼつぼつ売れ出したのは1965年以降で、参入から5年以上が空いている。そのあいだに吉田氏が作ったのは売り先だった。郷里の魚津は建具の名産地で木工や大工が多く、吉田氏は彼らに、機械を相手に手仕事で競っても勝てないと説き、工場で作ったサッシを組み立てる仕事へ移ってはどうかと持ちかけた[9][10]

1963年11月、アルミサッシを売る子会社として北陸YKK産業を発足させた。既存のサッシメーカーが代理店や問屋と組んでいたのに対し、YKKは最初からガラス店や建具店を相手に直接売った。社員は吉田工業の営業担当であると同時に各地のYKK産業の第一線責任者でもあり、代理店を飛ばして客に接するため不満や注文が直に届いた。押し出し用の金型を自社で作っていたことから、よい製品ができると見れば新しい金型をためらわずに起こせた[11][12]

二本柱になったあとに来た重み

国内に350か所の販売会社網が整い、1977年時点の建材売上高は年1,650億円に達した。この時点でファスナーと並ぶ規模となり、やがて売上ではファスナーを上回った。2002年10月、YKKは株式交換によって建材のYKK APを完全子会社としている[13][14]

もっとも、二本目の柱は後年に別の重さを伴った。売上の85%を海外で稼ぐファスニング事業に対し、建材は8割以上が国内向けである。2007年の建築基準法改正と2008年の金融危機が尾を引き、2009年度の新設住宅着工戸数は45年ぶりの低い水準に落ちた。YKKの業績は2006年度をピークに下がり、建材子会社の低迷が影響した[15][16]

出典・参考
  • 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
  • 週刊東洋経済 2010年10月16日号「ファスナー世界ナンバーワン会社の思想」
  • YKK 有価証券報告書【沿革】

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