YKKの創業者である吉田忠雄氏は、東京・日本橋の中国陶器輸入商、古谷商店[1]に住み込みで働いていた。1932年の上海事変[2]では戦乱の上海にとどまり、取引先を失って処分できずにいた冷凍魚を買い取って売りさばき、二か月で中国ドル二万ドルを稼いだ[3]。だが古谷商店は円の暴落による為替差損と豆電球の代金回収に行き詰まり[4]、同じ年に店をたたむ。整理の際に出てきたのが、大阪のファスナー製造業者である安田壮太郎氏から仕入れたまま代金未払いになっていた半製品およそ2,000円分[5]だった。吉田氏は安田氏を訪ね、代金未払いのまま一年ほど扱わせてほしいと申し出て承諾を得た[6]。これがファスナーとの最初の出合い[7]になった。
吉田氏が日本橋蠣殻町の古谷商店跡にサンエス商会[8]の看板を掲げたのは1934年1月1日[9]で、資本金は350円[10]だった。同郷の吉川喜一氏と高橋利雄氏[11]が加わり、当時25歳[12]の吉田氏を含めて三人で始めた。一階を店と寝室、三階を工場に充て、二階は間借り人を置いて家賃を稼いだ[13]。仕入れた半製品は品質が悪く、テープ地が弱いうえムシの植え付けも不ぞろいだったため、金づちで叩いて良いところだけを取り[14]、スライダーも一つずつ試してから出荷した。値段は他社より一ダースあたり30銭高く付けた[15]。品質で選ばれなければ商売は続かない[16]と考えたからである。
商いは伸び、女子従業員は30人近く[17]に増え、売り上げが月1,000円を超える[18]月も出てきた。得意先はがま口からハンドバッグ、手芸用品、ジャンパー業者[19]へと広がった。作業場が手狭になったため、吉田氏は江戸川区小松川町[20]に土地を買って工場を新築し、1938年3月に社名を吉田工業所へ改めた[21]。新工場は従業員およそ80人、ムシの植え付け機械6台[22]で動き始めた。創業からわずか4年での移転[23]だった。1936年1月には南米諸国と豪州へ初めて輸出[24]しており、国内の得意先を開拓しながら、早い段階から外の市場にも目を向けていた。
新工場が動き出して2か月後、第一次の戦時統制令により国内向けの銅製品の使用が禁じられた[25]。吉田氏は銅の代わりにアルミを使ったファスナーを1938年6月に考案[26]して売り出したが、アルミは柔らかく強度が足りず、1940年にはそのアルミも統制の対象になった[27]。国内向けの材料も代替品も断たれ、残る道は輸出だけ[28]だった。米国には大手のタロン社[29]があって日本製品の流入を抑えており、国内43社で輸出組合[30]を作り数量枠の中で対米輸出を続けた。1941年6月のメキシコ向け出荷を最後に輸出も止まり[31]、同年10月、ファスナー業界は全員が廃業した[32]。業界全体が廃業に至った業種[33]はほかになかった。
廃業した吉田氏は商工省に身の振り方を相談[34]に出向き、紹介状を得て横須賀の海軍軍需部を訪ねた。そこで受けた注文は1,800円[35]にすぎなかったが、この一件が軍指定の工場としての再出発になった。既存の納入業者より安い値で納めたことから村八分同然の扱いを受けもしたが、実用新案を取った『二つ山のムシ[36]』の性能と、注文を受けてすぐ納める体制が評価され、軍の仕様書は吉田式のファスナーに書き換えられた。やがて海軍の需要の全量と陸軍の33.5%[37]を受注するに至る。1939年3月には千葉県木更津町と久留里町に分工場[38]を設け、1942年2月に有限会社へ改組した[39]。
1944年11月に召集令状[40]を受けた吉田氏は、兵役免除の手続きを取らずに横須賀海兵団へ入隊した。工場を預かる兄たちが免除を申請したため1945年1月に除隊[41]となる。東京はいずれ戦場になると聞いた吉田氏は、工場を郷里の魚津へ疎開させる段取りを3月10日に組んだ[42]。だが空襲は一日早く、3月9日から10日にかけての東京大空襲で小松川工場は機械もろとも焼け落ちた[43]。吉田氏は従業員に独身者100円、所帯持ち500円[44]を分けて解散し、魚津へ引き揚げる。同年6月に荏原製作所の下請けだった魚津鉄工所を買収[45]し、8月にその社名を吉田工業株式会社へ改めた[46]。
戦後、GHQのあっせんで米国人バイヤー[47]が魚津を訪れた。吉田氏が5ミリ10インチのファスナーを1本9セント[48]で売りたいと申し出ると、相手は米国製の1本を取り出し、7セント40[49]で売ってもよいと応じた。示された製品は機能もデザインも数段上[50]だった。当時の日本は金属材料からムシを抜き、手でテープに植え付ける方式[51]のままで、米国はムシの製造も植え付けも機械が担っていた。性能が高く不良の少ない製品が、安い原価で流れ出ていた[52]。吉田氏は後年、このときの衝撃を『体中から冷や汗がどっと噴き出した』[引用元](日本経済新聞 1977/8)とふり返った。
機械を米国から買うほかないと考えた吉田氏は、まず同業者に共同での輸入を持ちかけた[53]。1948年1月に発足したファスナー業者の組合[54]で初代理事長[55]に就くと、会合のたびに手植え方式の限界を説き、共同出資の会社を作って機械を入れようと提案する。だが当時の業界は供給が需要に追いつかない状態[56]で、日本人は手先が器用なので足りるという見方が支配的だった。賛成者は一人も出ず[57]、構想は消えた。単独でやると決めた吉田氏は通商産業省と経済安定本部に通い続け、1949年12月、米国製の高速自動植え付け機4台の輸入許可[58]をようやく得た。日参を始めてから2年半[59]が経っていた。
機械の代金は3万5,000ドル[60]、日本円で1,260万円だった。資金調整法で抑えられていた当時の資本金は19万8,000円[61]で、買い物はその60倍を超えた。うち1,200万円を日本興業銀行富山支店[62]から借り入れ、これが同行外国部の輸入融資第一号[63]になった。1950年7月に届いた米イージー社製のチェーンマシーン[64]は、国産機の300回転に対して1,200回転[65]で動き、打ち抜きの材料くずもほとんど出さなかった。吉田氏は同じ機械を100台そろえようと考え、池貝鉄工や大隈鉄工所に当たったうえで日立精機に発注[66]する。1台12万円[67]の総額1,200万円を三回に分けて払い、最後の納入は1953年7月[68]だった。
1954年、創業20周年[69]を機に吉田氏は米英加とヨーロッパ各国を回った。関心の一つは直接部門と間接部門の人員比率[70]にあった。訪ねた米国のファスナー会社では、社員50人なら事務員は5人[71]、100人から200人の会社でも10人から20人で、間接人員はおおむね1割[72]に収まっていた。当時の日本の一流機械メーカーに尋ねると4割[73]、工場の非直接要員まで数えれば5割との答えが返ってきた。吉田工業は当時11%ほど[74]で、現場の社員を10人採らない限り事務所の社員は1人も採らない[75]という建前を通していた。視察で得たものはほかに二つあり、デトロイトの自動車工場で見た流れ作業[76]と、西ドイツやスイスの精密機械工場で見た工場内の空気調節[77]だった。
視察をもとに立てた第二次五カ年計画[78]は、自動化による能率の向上と『原料から製品まで[79]』の一貫生産を狙いに据えた。ファスナーテープ用の紡績工場を建てるかどうかで社内の議論は割れた[80]。吉田氏は、消費者が手にするファスナーはその一回きりの出合い[81]であり、一本でも不良があれば製品全体が駄目だと見なされると説き、原材料を自社で作るのが当然だと主張した。社内はまとまったが、外からは反対が出た[82]。銀行は『モチはモチ屋に任せるのがよい』[引用元](日本経済新聞 1977/8)と唱え、紡績工場を持ちたがったタイヤメーカーが皆失敗した例を挙げた。吉田氏は審査部長と二時間論争[83]しても譲らなかった。
朝鮮戦争のあと銅が急騰[84]したため、吉田氏は再びアルミに目を向けた。重さは銅の三分の一[85]で済み、原価も下がる。ただアルミメーカーから買うと6ミリ丸でトンあたり44万円から46万円[86]かかり、品質にもむらがあった。そこで日立製作所に建設を頼み[87]、溶解や鋳造、加熱圧延を一年かけて共同研究し、さらに一年半を自社で重ねた。溶解炉と圧延・伸線の工場には2億円から3億円を投じ[88]、トンあたり27万円を目標に置く。実際には25万円、次いで23万円まで下がった[89]。1958年から量産[90]に入り、アルミ合金の大量生産は国内で初めてだった。銀行はここでも乗り気ではなかったが、投じた費用は一年で回収された[91]。
自動機がそろうと、手作業の同業者では太刀打ちできない差[92]が開いた。吉田氏は同業者に対し、生産をやめて販売に専念してはどうか[93]と持ちかけ、供給の責任は吉田工業が果たすと約束した。初めは信用されなかったが、黒部工場へ連れて行って設備を見せる[94]と納得が広がり、同業者はファスナーの生産から手を引いた。吉田氏は約束どおり東京と大阪の得意先500社から600社[95]をすべて割り振り、吉田工業は国内の直接販売から降りて[96]、自社が直接売るのは海外だけとした。1957年7月には販売会社の吉田商事[97]を設けた。同社は建材の販売を担い、のちのYKK APにあたる[98]。
代理店に変わった同業者との取引条件も組み替えた[99]。それまでの月末締め翌月5日の全額現金払い[100]を、三分の一を現金、残る三分の二を60日の約束手形[101]に改め、年間契約額の一割を保証金[102]として預かった。保証金は代理店が銀行に半額を定期預金して全額を借り[103]、吉田工業がそのうち半額を同じ銀行に預け直す形にした。代理店は半分の資金で保証金を積め、銀行は預金と貸出の両方を増やせる[104]。吉田氏はこれを『三方一両得[105]』(日本経済新聞 1977/8)と呼んだ。代理店は在庫を二倍に持てるようになり、YKKファスナーの国内シェアは95%[106]に達した。
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|---|---|---|---|---|
| 1934〜1949年ファスナーの残品を元手にした創業と戦中の全焼(1934〜1949) | 吉田忠雄氏がファスナーを商うサンエス商会を東京日本橋に創業 | ★★★ | ||
| 吉田工業に商号変更 | ★★ | |||
| 商標YKKの制定 | ★★ | |||
| 資本金の60倍を投じた米国製自動植え付け機の輸入 1949年12月、吉田工業は米国製の高速自動植え付け機(チェーンマシーン)4台の輸入許可を得た。代金は3万5,000ドル、日本円で1,260万円にのぼり、資金調整法で19万8,000円に抑えられていた当時の資本金の60倍を超えた。うち1,200万円を日本興業銀行富山支店から借り入れ、これが同行外国部の輸入融資第一号になった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 1949〜1958年米国製の自動機と一貫生産で国内を制するまで(1949〜1958) | 黒部工場の着工(1955年5月稼動) | ★★ | ||
| 販売会社の吉田商事(現YKK AP)を設立 | ★★ | |||
| 生地工場(現黒部工場)の着工 | ★ | |||
| 1959〜1993年余ったアルミが建材事業となり海外生産が広がる(1959〜1993) | 余ったアルミ合金を使うためのアルミサッシ参入 1959年11月、吉田工業は生地工場にアルミの溶解工場と1,400トンのアルミ合金押出機を設置し、アルミサッシの生産に入った。ファスナー用に内製していたアルミ合金の生産量が自社の消費量を上回ったため、余る分の使い道として選んだ事業である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| ニュージーランドに初の海外子会社を設立 | ★★ | |||
| 生地工場でアルミ建材の製造を開始 | ★★ | |||
| 本社を東京都千代田区へ移転 | ★ | |||
| 建材専用の四国工場を着工 | ★ | |||
| 建材専用の東北工場を着工 | ★ | |||
| 建材専用の九州工場を着工 | ★ | |||
| YKKインダストリーズ・シンガポールを設立 | ★ | |||
| 豪州のアルミ製錬事業ボインスメルターズへ参画 | ★★ | |||
| 米国子会社を統括するYKKコーポレーションを設立 | ★★ | |||
| 欧州子会社を統括するYKKヨーロッパを設立 | ★★ | |||
| アジア子会社を統括するYKKホールディング・アジアを設立 | ★★ | |||
| 1993〜2026年二代目によるグローバル化と建材事業の重み(1993〜2026) | YKKに商号変更 | ★★ | ||
| 吉田不動産(現YKK不動産)を完全子会社化 | ★ | |||
| 株式交換によるYKK APの完全子会社化 | ★★★ | |||
| 中国にYKK中国投資社を設立 | ★ | |||
| 蘇州YKK工機を設立 | ★ | |||
| 新設分割によるYKKファスニングプロダクツ販売の設立 | ★ | |||
| 新設分割によるYKKビジネスサポートの設立 | ★ | |||
| 株式を公開せず、社員が株主であり続ける資本政策 YKKは創業以来、株式を公開していない。賞与の半分を社内預金に回し、入社3年以上の社員が株主になれる仕組みを敷き、株のほとんどを社員が持ち合ってきた。2003年8月、二代目の吉田忠裕氏はこの設計を踏襲したいと述べつつ、上場を明確に否定はしないという位置に立った。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(YKK)