{"spec_version":"3","endpoint":"history","stock_code":"ykk","company_name":"YKK","content_lang":"ja","meta_lang":"en","canonical_url":"https://the-shashi.com/tse/ykk/","api_url":"/api/ykk/history.json","updated":"2026-08-05","license":"© 2026 Yutaka Sugiura. All rights reserved.","attribution":"The社史 (the-shashi.com) — https://the-shashi.com/tse/ykk/","title":"YKKの歴史概略","sections":[{"start_year":1934,"end_year":1949,"main_title":"ファスナーの残品を元手にした創業と戦中の全焼（1934〜1949）","subsections":[{"title":"中国陶器の商いから残った半製品を継いだ","text":"YKKの創業者である吉田忠雄氏は、東京・日本橋の中国陶器輸入商、古谷商店に住み込みで働いていた。1932年の上海事変では戦乱の上海にとどまり、取引先を失って処分できずにいた冷凍魚を買い取って売りさばき、二か月で中国ドル二万ドルを稼いだ。だが古谷商店は円の暴落による為替差損と豆電球の代金回収に行き詰まり、同じ年に店をたたむ。整理の際に出てきたのが、大阪のファスナー製造業者である安田壮太郎氏から仕入れたまま代金未払いになっていた半製品およそ2,000円分だった。吉田氏は安田氏を訪ね、代金未払いのまま一年ほど扱わせてほしいと申し出て承諾を得た。これがファスナーとの最初の出合いになった。\n\n吉田氏が日本橋蠣殻町の古谷商店跡にサンエス商会の看板を掲げたのは1934年1月1日で、資本金は350円だった。同郷の吉川喜一氏と高橋利雄氏が加わり、当時25歳の吉田氏を含めて三人で始めた。一階を店と寝室、三階を工場に充て、二階は間借り人を置いて家賃を稼いだ。仕入れた半製品は品質が悪く、テープ地が弱いうえムシの植え付けも不ぞろいだったため、金づちで叩いて良いところだけを取り、スライダーも一つずつ試してから出荷した。値段は他社より一ダースあたり30銭高く付けた。品質で選ばれなければ商売は続かないと考えたからである。\n\n商いは伸び、女子従業員は30人近くに増え、売り上げが月1,000円を超える月も出てきた。得意先はがま口からハンドバッグ、手芸用品、ジャンパー業者へと広がった。作業場が手狭になったため、吉田氏は江戸川区小松川町に土地を買って工場を新築し、1938年3月に社名を吉田工業所へ改めた。新工場は従業員およそ80人、ムシの植え付け機械6台で動き始めた。創業からわずか4年での移転だった。1936年1月には南米諸国と豪州へ初めて輸出しており、国内の得意先を開拓しながら、早い段階から外の市場にも目を向けていた。","references":[{"title":"日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月（吉田忠雄）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史：明治百年（1968年）「吉田工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"YKK 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"業界全体の廃業と空襲による工場の焼失","text":"新工場が動き出して2か月後、第一次の戦時統制令により国内向けの銅製品の使用が禁じられた。吉田氏は銅の代わりにアルミを使ったファスナーを1938年6月に考案して売り出したが、アルミは柔らかく強度が足りず、1940年にはそのアルミも統制の対象になった。国内向けの材料も代替品も断たれ、残る道は輸出だけだった。米国には大手のタロン社があって日本製品の流入を抑えており、国内43社で輸出組合を作り数量枠の中で対米輸出を続けた。1941年6月のメキシコ向け出荷を最後に輸出も止まり、同年10月、ファスナー業界は全員が廃業した。業界全体が廃業に至った業種はほかになかった。\n\n廃業した吉田氏は商工省に身の振り方を相談に出向き、紹介状を得て横須賀の海軍軍需部を訪ねた。そこで受けた注文は1,800円にすぎなかったが、この一件が軍指定の工場としての再出発になった。既存の納入業者より安い値で納めたことから村八分同然の扱いを受けもしたが、実用新案を取った「二つ山のムシ」の性能と、注文を受けてすぐ納める体制が評価され、軍の仕様書は吉田式のファスナーに書き換えられた。やがて海軍の需要の全量と陸軍の33.5%を受注するに至る。1939年3月には千葉県木更津町と久留里町に分工場を設け、1942年2月に有限会社へ改組した。\n\n1944年11月に召集令状を受けた吉田氏は、兵役免除の手続きを取らずに横須賀海兵団へ入隊した。工場を預かる兄たちが免除を申請したため1945年1月に除隊となる。東京はいずれ戦場になると聞いた吉田氏は、工場を郷里の魚津へ疎開させる段取りを3月10日に組んだ。だが空襲は一日早く、3月9日から10日にかけての東京大空襲で小松川工場は機械もろとも焼け落ちた。吉田氏は従業員に独身者100円、所帯持ち500円を分けて解散し、魚津へ引き揚げる。同年6月に荏原製作所の下請けだった魚津鉄工所を買収し、8月にその社名を吉田工業株式会社へ改めた。","references":[{"title":"日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月（吉田忠雄）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史：明治百年（1968年）「吉田工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"YKK 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1949,"end_year":1958,"main_title":"米国製の自動機と一貫生産で国内を制するまで（1949〜1958）","subsections":[{"title":"資本金の60倍を投じた自動植え付け機","text":"戦後、GHQのあっせんで米国人バイヤーが魚津を訪れた。吉田氏が5ミリ10インチのファスナーを1本9セントで売りたいと申し出ると、相手は米国製の1本を取り出し、7セント40で売ってもよいと応じた。示された製品は機能もデザインも数段上だった。当時の日本は金属材料からムシを抜き、手でテープに植え付ける方式のままで、米国はムシの製造も植え付けも機械が担っていた。性能が高く不良の少ない製品が、安い原価で流れ出ていた。吉田氏は後年、このときの衝撃を「体中から冷や汗がどっと噴き出した」（日本経済新聞 1977/8）とふり返った。\n\n機械を米国から買うほかないと考えた吉田氏は、まず同業者に共同での輸入を持ちかけた。1948年1月に発足したファスナー業者の組合で初代理事長に就くと、会合のたびに手植え方式の限界を説き、共同出資の会社を作って機械を入れようと提案する。だが当時の業界は供給が需要に追いつかない状態で、日本人は手先が器用なので足りるという見方が支配的だった。賛成者は一人も出ず、構想は消えた。単独でやると決めた吉田氏は通商産業省と経済安定本部に通い続け、1949年12月、米国製の高速自動植え付け機4台の輸入許可をようやく得た。日参を始めてから2年半が経っていた。\n\n機械の代金は3万5,000ドル、日本円で1,260万円だった。資金調整法で抑えられていた当時の資本金は19万8,000円で、買い物はその60倍を超えた。うち1,200万円を日本興業銀行富山支店から借り入れ、これが同行外国部の輸入融資第一号になった。1950年7月に届いた米イージー社製のチェーンマシーンは、国産機の300回転に対して1,200回転で動き、打ち抜きの材料くずもほとんど出さなかった。吉田氏は同じ機械を100台そろえようと考え、池貝鉄工や大隈鉄工所に当たったうえで日立精機に発注する。1台12万円の総額1,200万円を三回に分けて払い、最後の納入は1953年7月だった。","references":[{"title":"日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月（吉田忠雄）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"YKK 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"原料から製品までを自社の中に収めた","text":"1954年、創業20周年を機に吉田氏は米英加とヨーロッパ各国を回った。関心の一つは直接部門と間接部門の人員比率にあった。訪ねた米国のファスナー会社では、社員50人なら事務員は5人、100人から200人の会社でも10人から20人で、間接人員はおおむね1割に収まっていた。当時の日本の一流機械メーカーに尋ねると4割、工場の非直接要員まで数えれば5割との答えが返ってきた。吉田工業は当時11%ほどで、現場の社員を10人採らない限り事務所の社員は1人も採らないという建前を通していた。視察で得たものはほかに二つあり、デトロイトの自動車工場で見た流れ作業と、西ドイツやスイスの精密機械工場で見た工場内の空気調節だった。\n\n視察をもとに立てた第二次五カ年計画は、自動化による能率の向上と「原料から製品まで」の一貫生産を狙いに据えた。ファスナーテープ用の紡績工場を建てるかどうかで社内の議論は割れた。吉田氏は、消費者が手にするファスナーはその一回きりの出合いであり、一本でも不良があれば製品全体が駄目だと見なされると説き、原材料を自社で作るのが当然だと主張した。社内はまとまったが、外からは反対が出た。銀行は「モチはモチ屋に任せるのがよい」（日本経済新聞 1977/8）と唱え、紡績工場を持ちたがったタイヤメーカーが皆失敗した例を挙げた。吉田氏は審査部長と二時間論争しても譲らなかった。\n\n朝鮮戦争のあと銅が急騰したため、吉田氏は再びアルミに目を向けた。重さは銅の三分の一で済み、原価も下がる。ただアルミメーカーから買うと6ミリ丸でトンあたり44万円から46万円かかり、品質にもむらがあった。そこで日立製作所に建設を頼み、溶解や鋳造、加熱圧延を一年かけて共同研究し、さらに一年半を自社で重ねた。溶解炉と圧延・伸線の工場には2億円から3億円を投じ、トンあたり27万円を目標に置く。実際には25万円、次いで23万円まで下がった。1958年から量産に入り、アルミ合金の大量生産は国内で初めてだった。銀行はここでも乗り気ではなかったが、投じた費用は一年で回収された。","references":[{"title":"日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月（吉田忠雄）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"YKK 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"国内の直接販売から降りて代理店網に委ねた","text":"自動機がそろうと、手作業の同業者では太刀打ちできない差が開いた。吉田氏は同業者に対し、生産をやめて販売に専念してはどうかと持ちかけ、供給の責任は吉田工業が果たすと約束した。初めは信用されなかったが、黒部工場へ連れて行って設備を見せると納得が広がり、同業者はファスナーの生産から手を引いた。吉田氏は約束どおり東京と大阪の得意先500社から600社をすべて割り振り、吉田工業は国内の直接販売から降りて、自社が直接売るのは海外だけとした。1957年7月には販売会社の吉田商事を設けた。同社は建材の販売を担い、のちのYKK APにあたる。\n\n代理店に変わった同業者との取引条件も組み替えた。それまでの月末締め翌月5日の全額現金払いを、三分の一を現金、残る三分の二を60日の約束手形に改め、年間契約額の一割を保証金として預かった。保証金は代理店が銀行に半額を定期預金して全額を借り、吉田工業がそのうち半額を同じ銀行に預け直す形にした。代理店は半分の資金で保証金を積め、銀行は預金と貸出の両方を増やせる。吉田氏はこれを「三方一両得」（日本経済新聞 1977/8）と呼んだ。代理店は在庫を二倍に持てるようになり、YKKファスナーの国内シェアは95%に達した。","references":[{"title":"日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月（吉田忠雄）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"YKK 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1959,"end_year":1993,"main_title":"余ったアルミが建材事業となり海外生産が広がる（1959〜1993）","subsections":[{"title":"役員がためらったアルミサッシへの参入","text":"アルミ合金の自社生産が軌道に乗ると、生産量がファスナーで使う量を上回った。余る分をどう生かすかという課題が、ファスナーとはまったく別の事業へ向かわせた。1958年の二度目の海外視察で、吉田氏は米国ピッツバーグのアルミ工場が押出機でビレットから線材を押し出し、次々に防虫網戸用のサッシを作る様子を見た。当時の日本にこれほど強力な押出機はなかった。同じ設備を入れれば自動化した工程でアルミサッシを作れる。吉田氏はそう考えたが、ファスナーの売れ行きが伸びている最中でもあり、役員のあいだにはためらう空気が強かった。\n\n吉田工業では会社の浮沈に関わる決定を役員会の多数決に委ねなかった。多数決で決めると責任の所在が曖昧になり、全員の意見が一致したときには着手が遅すぎることが多い、というのが吉田氏の考えだった。日本にも遠からずアルミサッシの時代が来ると判断した吉田氏は、この計画への着手を決めた。1959年11月、生地工場にアルミの溶解工場と1,400トンのアルミ合金押出機が完成する。ところが製品はまったく売れなかった。ぼつぼつ動き出したのは1965年以降で、参入から売れ始めるまでに5年以上を要した。\n\n売る相手の選び方も、既存のサッシメーカーとは変えた。他社が代理店や問屋を通していたのに対し、吉田工業はガラス店や建具店へ直接売った。1963年11月、アルミサッシを売る子会社として北陸YKK産業を発足させ、以後は各地にYKK産業を置いて営業を支えた。社員は吉田工業の営業担当であると同時に、その地域の販売会社の責任者でもあった。押し出し用の金型を自社で作っていたため、よい製品ができると見れば新しい金型をためらわずに起こせた。国内350か所の販売会社網が整い、1977年時点の建材の売上高は年1,650億円で、ファスナーと並ぶ規模になった。","references":[{"title":"日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月（吉田忠雄）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"YKK 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2010年10月16日号「ファスナー世界ナンバーワン会社の思想」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"輸入制限に押される形で海外生産に踏み切った","text":"海外生産の最初は1959年、インドのカルカッタに設けた合弁工場だった。翌1960年にはニュージーランドに合弁会社を作り、同じ年に米国市場をねらってニューヨークにヨシダ・インターナショナル社を置いて、4年後には現地に工場を建てた。ほぼ同じころオランダのスネーク市でも操業を始めた。1974年10月にはジョージア州メーコンの工場が完工し、当時の州知事だったカーター氏が式に立ち会った。1977年の時点で海外26か国に31工場と100の事業所を数えた。各国の代表は年に一度2月に黒部の生地工場へ集まり、通訳を付けずにグラフと図表で報告し合った。図表が千枚に達することから、社内ではこの会議をグラフ祭りと呼んだ。\n\n海外に工場を置いた理由は、進出を望んだ結果ではない。輸出を続けるうちに相手国が輸入を制限し、現地で製品を売る人たちから作りに来てほしいと請われる場面が重なった。吉田氏は後年、海外へ「行きたくて行ったという例は一つもない」（日本経済新聞 1977/8）と述べた。海外へ出るときの人の送り方にも特徴があった。ニューヨークに最初の工場を建てたときの建設部隊は平均年齢26歳前後で、南アフリカの工場建設では入社2年目の社員に全権を委ねた。日本から送る人数を絞り、現地で採用した社員と一緒に働かせる形をとった。","references":[{"title":"日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月（吉田忠雄）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"YKK 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2010年10月16日号「ファスナー世界ナンバーワン会社の思想」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"社員が株主であることを前提にした設計","text":"吉田氏は子どものころに読んだ『カーネギー伝』の「他人の利益をはからなければ、自らも栄えない」（日本経済新聞 1977/8）という一節を生涯の教えとし、これを善の巡環と呼んだ。社員と資本の関係をどう組むかという会社の設計も、この考えに沿った。夏と年末の賞与の半分を社内預金に回し、入社3年以上で社内預金がある社員は誰でも株主になれる。退職の際は株式を返す仕組みで、株のほとんどを社員が持ち合った。社員が持つ株式への配当は年18%だった。証券会社から上場の幹事を望む声がかかっても、吉田氏は株式公開を考えなかった。株は事業への参加証であり、損得で売買する人の手には渡したくないという理由による。\n\n間接部門を増やさない方針は視察のあとも変わらなかった。主力の生地工場では女子事務員を別にすると総務2人、勤労4人という人数で、約7,000人の工場社員に対して間接人員は全体の1割にとどめた。管理する側を増やさない考えは役員構成にも及び、人事担当の役員は置かなかった。吉田氏は月の半分を工場で過ごし、事務所では役員と一緒に大部屋に座って、中央に自分の机、隣に副社長の机を置いた。社長印は各部署に預けてあり、稟議書はめったに回らなかった。「三割失敗してもよいから、七割成功しろ」（日本経済新聞 1977/8）と説き、失敗した社員を左遷しなかった。","references":[{"title":"日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月（吉田忠雄）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"YKK 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2010年10月16日号「ファスナー世界ナンバーワン会社の思想」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1993,"end_year":2026,"main_title":"二代目によるグローバル化と建材事業の重み（1993〜2026）","subsections":[{"title":"カリスマの後を継いだ二代目の組み替え","text":"創業者の長男である吉田忠裕氏は1947年に生まれ、慶応義塾大学を出てノースウエスタン大学の経営大学院でMBAを取り、1972年に入社した。社長に就いたのは1993年である。忠裕氏は、すでに動いている会社を引き継いだ以上、社員を入れ替えることも中身を大きく変えることもできないとし、まず会社の強みを見極めて生かす道を選んだ。翌1994年8月、社名を吉田工業からYKKへ改める。商標として使ってきた三文字が、そのまま社名になった。海外の支店は60か国に及び、日本から一括して統べるには無理が出ていたため、日本を含む世界を六つのブロックに分けた。\n\n1990年代の変化は、製品を誰にどう売るかという取引の形にも及んだ。台湾や中国にファスナーメーカーが1,000社ほど現れ、ある程度の製品は他社でも作れる状態になる。そのなかでYKKが位置を保てたのは、全世界へ同じ製品を供給できたからだった。リーバイ・ストラウス社は複数持っていた調達先を、創業以来初めてYKK1社に絞った。アディダスやナイキ、GAPとの契約は250か国に同じ規格で納めることを意味し、現地工場ごとに染料や水まで変えて原価を下げる作業が必要になった。忠裕氏はこれを短期には大きな損だと認めたうえで、世界規模の市場で位置を築く方法だと説明した。\n\n2002年10月、YKKは株式交換によって建材のYKK APを完全子会社とした。前年には吉田不動産を完全子会社にしており、翌2003年には新設分割でファスニングプロダクツ販売とビジネスサポートを設けて、事業ごとの受け皿を整えた。株式公開について忠裕氏は、株主とは事業協力者だという先代の考えを踏襲したいとしながら、「何も上場すると言っているのではなく、断定はできない」（週刊東洋経済 2003/8/2）と述べ、含みを残した。統治の面では外部取締役の起用と委員会制度の導入を進め、本体が変わり始めたと世界に見せる意図を語った。","references":[{"title":"週刊東洋経済 2003年8月2日号「KeyPerson 吉田忠裕 YKK代表取締役社長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2010年10月16日号「ファスナー世界ナンバーワン会社の思想」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2016年8月27日号「次世代リーダーの条件 YKK」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"YKK 有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"世界シェア45%と国内建材の落ち込み","text":"ファスナーの世界シェアは約45%に達し、二番手以下を引き離した。米国の三大ジーンズメーカーはいずれも100%YKK製を採る。この位置を支えたのは1960年代に開発したY-Barという新製法で、あらかじめY字に成形した線材を使うことで材料くずを減らし、品質を均一にした。1990年代にはこの製法に表面処理を組み合わせ、欧州の高級ブランド向けの開発を進める。競合が1,000回の開閉に耐えれば十分とするところを、YKKは1万回を基準に置いた。最終製品の原価に占めるファスナーの割合は2〜3%にすぎないが、壊れれば製品そのものが使えなくなる。\n\n2009年3月、YKKはイタリア北部のベルチェリに欧州の研究開発拠点を開いた。西欧では1990年代半ばから中級以下のブランドが縫製を東欧や北アフリカ、アジアへ移し、残ったのは高級ブランドだけになっていた。生産拠点を集約する選択もあり得たが、YKKは拠点を残したまま日本の開発部隊の一部をイタリアへ移す道を採る。一方で業績は2006年度をピークに下がった。売上の85%を海外で稼ぐファスニング事業に対し、建材は8割以上が国内向けで、2007年の建築基準法改正と2008年の金融危機が尾を引き、2009年度の新設住宅着工戸数は45年ぶりの低い水準に落ちた。","references":[{"title":"週刊東洋経済 2003年8月2日号「KeyPerson 吉田忠裕 YKK代表取締役社長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2010年10月16日号「ファスナー世界ナンバーワン会社の思想」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2016年8月27日号「次世代リーダーの条件 YKK」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"YKK 有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"創業家から専門経営者へ移った執行","text":"二代にわたって同族が担ってきた社長の職は、やがて創業家を離れた。有価証券報告書の代表者欄をたどると、2017年3月期は代表取締役会長の吉田忠裕氏、2018年3月期から2024年3月期までは代表取締役社長の大谷裕明氏、2025年3月期以降は代表取締役社長の松嶋耕一氏である。経営者の交代と並んで、人材の育成も制度に落とした。「価値創造塾」は40歳前後の課長級を年に20人から25人選び、8か月かけて財務分析やマーケティングを学ばせたうえで、最後に会長と社長を含む経営戦略会議へ提言させる。2016年で13期を数え、卒業生284人のうち延べ約30人がYKKとYKK APの執行役員に就いた。\n\nYKKは非上場のまま有価証券報告書を出し続けてきた。2017年3月期の大株主はYKK恒友会（従業員持株会）が18.52%、有限会社吉田興産が14.51%、吉田忠裕氏が5.50%、吉田政裕氏が5.01%で、創業者が敷いた社員株主の仕組みが残った。事業はファスニングとAPの二つで、2026年3月期の連結売上高は9,926億円、営業利益は468億円だった。前期の売上高9,983億円、営業利益624億円からは減収減益にあたる。登記上の本店は1963年に移した東京都千代田区神田和泉町のままで、実際の業務は富山県黒部市が担う。","references":[{"title":"週刊東洋経済 2003年8月2日号「KeyPerson 吉田忠裕 YKK代表取締役社長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2010年10月16日号「ファスナー世界ナンバーワン会社の思想」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2016年8月27日号「次世代リーダーの条件 YKK」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"YKK 有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]}],"summary":{"title":"サマリー","text":"","qa":[{"q":"なぜ1949年に吉田工業は資本金の60倍を投じて米国製の自動機を輸入したのか","a":"終戦後にGHQのあっせんで訪れた米国人バイヤーが示した製品が、機能でもデザインでも数段上だったためである。日本が手でムシを植え付けていたのに対し、米国は製造も植え付けも機械で行い、安い原価で不良の少ない製品を出していた。吉田忠雄氏はまず業界での共同輸入を提案したが賛成者は一人も出ず、単独で通商産業省へ2年半通って外貨の割り当てを得た。代金3万5,000ドルは当時の資本金19万8,000円の60倍を超えた。"},{"q":"なぜ1959年にファスナー専業だった吉田工業はアルミサッシへ参入したのか","a":"ファスナー用に内製していたアルミ合金の生産量が、自社で使う量を上回ったためである。1958年に量産へ入った56Sは国内で初めてのアルミ合金量産で、投じた費用は一年で回収された。同じ年の海外視察で吉田忠雄氏は、米国ピッツバーグの押出機が網戸用のサッシを連続生産する様子を見た。ファスナーが伸びている最中だったため役員はためらったが、吉田工業は会社の浮沈に関わる決定を役員会の多数決に委ねなかった。製品は1965年まで売れなかった。"},{"q":"なぜYKKは2003年の時点でも株式を公開しなかったのか","a":"株主とは損得で株を売買する投資家ではなく、事業に協力する当事者だと創業者が定義したためである。社員は賞与の半分を社内預金に積み、入社3年以上で株主になり、退職の際は株式を返す。1977年時点の配当は年18%だった。二代目の吉田忠裕氏は2003年にこの思想を踏襲したいとしつつ、上場を断定はできないとも述べた。2017年3月期の筆頭株主はYKK恒友会（従業員持株会）で18.52%を占めた。"}]},"auditVersion":2}