日本製鉄 の歴史

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創業 1970年
母体 官営八幡製鐵所
創業地 東京都千代田区
創業
1970年3月、八幡製鐵と富士製鐵が合併して新日本製鐵が発足した。二社はいずれも1934年に一所五社の合同で生まれた日本製鐵の分身で、1950年に過度経済力集中排除法によって割られている。日本製鐵の起点は1901年に操業を始めた官営八幡製鉄所であり、さらにさかのぼれば1857年の釜石に行き着く。割られた二社が一つに戻ったのは、分割から20年後だった。商号はその後も二度替わり、2012年10月に新日鐵住金、2019年4月に日本製鉄となっている。
決断
増設ではなく合併で規模を得るという順序を、50年変えていない。1970年の発足そのものが、分割された二社を戻す合併だった。1980年代に鉄鋼の内需が止まると、1987年2月の第4次合理化で人員を減らし、管理職の年功賃金を能力主義へ組み替える。並行して広げた半導体とシリコンウエハーは専業メーカーに対して競争劣位に置かれ、1999年4月にLSI事業部を、2004年4月にシリコンウエハー事業部を廃止した。多角化で成長を作る道が閉じたあと、2012年10月に住友金属工業と合併して新日鉄住金となった。2023年12月に公表したUSスチールを完全子会社にする買収は、約141億ドルを投じて2025年6月18日に完了している。
現況
国内最大手でありながら、売上の半分はもう国内で立っていない。2026年3月期の売上高10兆632億円のうち海外は5兆2,031億円で52%を占め、前期の41%から一年で入れ替わった。押し上げたのは2025年6月に完了したUSスチールの取得である。利益は逆に振れ、営業利益は前期の5,480億円から2,429億円へ、親会社株主に帰属する当期純利益は3,502億円から172億円へ減少した。売上の91%は製鉄セグメントの9兆1,732億円で、残る3事業は合計8,900億円にとどまる。3Dインベストメント・パートナーズは、上場子会社の保有によるコングロマリットディスカウントと10兆円規模の投資計画の資本規律を突き、社長再任に反対する議決権行使を株主へ勧誘した。
競合
高炉三社に分かれたあと、差をつけたのは合併の回数だった。2002年9月、川崎製鉄とNKKが共同株式移転でJFEホールディングスを設立し、高炉5社は3社になる。神戸製鋼所は合併ではなく相互出資と業務提携を選んだ。日本製鉄はその後も相手を足し続けた。2012年に住友金属工業、2016年に国内4位の日新製鋼を子会社化した、2019年に山陽特殊製鋼、2023年に日鉄物産、そして2025年にUSスチールである。日新製鋼の取り込みは鋼材デフレのもとで高炉を集約するためで、USスチールの取得は需要そのものを国外へ移すためだった。合算の粗鋼生産能力は年8,600万トンに達し、競争の焦点は国内3社の順位から、その能力をどの国の需要へ当てるかへ移っている。

設立ストーリー 釜石の高炉から官営製鉄所へ、日本製鐵の成立と解体 (1857年〜)

官営八幡製鉄所と、大合同を求め続けた答申

日本の近代製鉄は、1857年に釜石で洋式高炉へ火が入った[1]ところから始まる。しかし民間の製鉄業は自立せず、政府は1896年(明治29年)に官営の八幡製鉄所を創設した[2]。操業開始は1901年、鋼材の年産能力は9万トン[3]だった。以後も政府は鉄鋼業を確立するため手厚い育成策をとり、しばしば調査委員会を設けて方策を審議したが、根本策として一大合同会社の設立を答申するもの[4]が多かった。大正12年の関東大震災の復興策としてとられた輸入鋼材への無税措置が、かえって国内の製鉄業を圧迫した[5]ためである。

  • 日本製鉄公式サイト ヒストリー
    • [1]1857年 釜石で洋式高炉に火入れ
    • [3]明治34年 操業開始 鋼材年産9万トン
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)4章「日鉄合同と戦時統制」
    • [2]明治29年 政府が官営八幡製鉄所を創設
    • [4]政府の手厚い育成策と調査委員会 答申の多くが一大合同会社の設立を根本策に
    • [5]大正12年 関東大震災後の輸入鋼材無税措置が鉄鋼業を圧迫

大正14年の製鉄鋼調査会の答申[6]は、日本で製鉄業が経済的に成立する可能性は十分あるとしたうえで、業態が不安定なのは官営八幡製鉄所以外に基盤の強固な銑鋼一貫メーカーが少なく、各社が無益の競争に走って経営不振に陥っている[7]ためだと分析した。その処方箋として示されたのが、八幡製鉄所を中心とする半官半民の合同経営[8]である。もっとも合同構想は消費者側の反対もあり、その後も長く実現しなかった[9]

  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)4章「日鉄合同と戦時統制」
    • [6]大正14年 製鉄鋼調査会の答申
    • [7]答申の分析 銑鋼一貫メーカーの少なさと無益の競争による経営不振
    • [8]答申の処方箋 八幡製鉄所を中心とする半官半民の合同経営
    • [9]合同構想は消費者側の反対で長く実現せず
  • 日本製鉄公式サイト ヒストリー
    • [1]1857年 釜石で洋式高炉に火入れ
    • [3]明治34年 操業開始 鋼材年産9万トン
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)4章「日鉄合同と戦時統制」
    • [2]明治29年 政府が官営八幡製鉄所を創設
    • [4]政府の手厚い育成策と調査委員会 答申の多くが一大合同会社の設立を根本策に
    • [5]大正12年 関東大震災後の輸入鋼材無税措置が鉄鋼業を圧迫
    • [6]大正14年 製鉄鋼調査会の答申
    • [7]答申の分析 銑鋼一貫メーカーの少なさと無益の競争による経営不振
    • [8]答申の処方箋 八幡製鉄所を中心とする半官半民の合同経営
    • [9]合同構想は消費者側の反対で長く実現せず

一所五社の合同による日本製鐵の発足

転機は昭和5年の臨時産業審議会の答申[10]だった。昭和7年5月に斎藤実内閣が成立して商工大臣に中島久万吉氏が就く[11]と、日本製鉄株式会社法が議会に上程されて成立し、翌8年4月に公布された[12]。これを受けて1934年(昭和9年)1月29日、官営八幡製鉄所を中心に、輪西製鉄・釜石鉱山・三菱製鉄・富士製鋼・九州製鋼の一所五社が合同[13]し、日本製鐵が発足した。創立総会は東京丸の内の日本工業倶楽部で開かれ、設立委員長の中島久万吉氏が経過を報告したのち、中井励作氏が初代社長に選ばれている[14]。営業開始は2月1日[15]だった。

  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)4章「日鉄合同と戦時統制」
    • [10]昭和5年 臨時産業審議会の答申
    • [11]昭和7年5月 斎藤実内閣成立 商工大臣に中島久万吉
    • [12]昭和8年4月 日本製鉄株式会社法の公布
    • [13]昭和9年1月29日 一所五社の合同で日本製鐵が発足
    • [14]創立総会 日本工業倶楽部 設立委員長 中島久万吉 初代社長 中井励作
    • [15]昭和9年2月1日 営業開始

発足時の従業員は4万5847人[16]、銑鉄は約118万トンで国内シェア96%、粗鋼は201万トンで52%、普通鋼材は143万トンで45%[17]を占めた。ただし所期の合併効果は、大合同構想が具体化したころに景気が回復したことで薄まっている[18]。参加を予定していた日本鋼管・浅野造船製鉄所・浅野小倉製鋼・東海鋼業・大阪製鉄の5社が、中島商工相の強い説得にもかかわらず参加をしぶった[19]からである。加えてインド銑や満州の鞍山銑が流入し、世間の景気回復のなかで鉄の市況だけが好転しない[20]状態が続いた。

  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)4章「日鉄合同と戦時統制」
    • [16]発足時の従業員 4万5847人
    • [17]銑鉄約118万トン シェア96%・粗鋼201万トン 52%・普通鋼材143万トン 45%
    • [18]景気回復により所期の合併効果が薄まる
    • [19]参加予定5社が中島商工相の説得にもかかわらず辞退
    • [20]インド銑・満州の鞍山銑の流入で鉄の市況が好転せず

寄り合い世帯となった日鉄の内部は、必ずしもしっくりいっていなかった[21]。昭和15年には、平生釟三郎会長が秘書として連れてきた藤井丙午氏と、原料課長の永野重雄氏らが日鉄改革を要求[22]し、官僚の天下りと八幡系支配の打破を掲げて全役員を辞任へ追い込んだ[23]。日鉄クーデター事件と呼ばれるこの騒動の結果、役員は総入れ替えとなり、平生釟三郎氏が社長に就いた[24]。昭和16年4月に鉄鋼統制会が発足すると日鉄社長が会長を兼ねる[25]仕組みがとられ、統制会の要職は満州系の人脈で占められた。

  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)4章「日鉄合同と戦時統制」
    • [21]寄り合い世帯の日鉄内部はしっくりいかず
    • [22]昭和15年 日鉄クーデター事件 藤井丙午・永野重雄らが日鉄改革を要求
    • [23]官僚の天下りと八幡系支配の打破を掲げ全役員が辞任
    • [24]役員総入れ替えの結果 平生釟三郎が社長に就任
    • [25]昭和16年4月 鉄鋼統制会発足 日鉄社長が会長を兼務
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)4章「日鉄合同と戦時統制」
    • [10]昭和5年 臨時産業審議会の答申
    • [11]昭和7年5月 斎藤実内閣成立 商工大臣に中島久万吉
    • [12]昭和8年4月 日本製鉄株式会社法の公布
    • [13]昭和9年1月29日 一所五社の合同で日本製鐵が発足
    • [14]創立総会 日本工業倶楽部 設立委員長 中島久万吉 初代社長 中井励作
    • [15]昭和9年2月1日 営業開始
    • [16]発足時の従業員 4万5847人
    • [17]銑鉄約118万トン シェア96%・粗鋼201万トン 52%・普通鋼材143万トン 45%
    • [18]景気回復により所期の合併効果が薄まる
    • [19]参加予定5社が中島商工相の説得にもかかわらず辞退
    • [20]インド銑・満州の鞍山銑の流入で鉄の市況が好転せず
    • [21]寄り合い世帯の日鉄内部はしっくりいかず
    • [22]昭和15年 日鉄クーデター事件 藤井丙午・永野重雄らが日鉄改革を要求
    • [23]官僚の天下りと八幡系支配の打破を掲げ全役員が辞任
    • [24]役員総入れ替えの結果 平生釟三郎が社長に就任
    • [25]昭和16年4月 鉄鋼統制会発足 日鉄社長が会長を兼務

賠償指定の回避と、集排法による解体

日本の鉄鋼生産は昭和18年の約770万トンを戦前の頂点として、19年に690万トン、終戦の20年には200万トン[26]へ落ち込んだ。敗戦直後に重くのしかかった賠償問題では、昭和20年12月のポーレー中間報告が年産250万トンの製鋼能力を超える設備の全面撤去を求め[27]、そのまま実施されれば鉄鋼生産設備の4分の3を失う[28]内容だった。極東委員会の報告では鉄鋼22工場が賠償指定を受け、日鉄では釜石を除く4工場が対象[29]となった。決定権が連合国側にある以上[30]、手の施しようがなかった。

  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)4章「日鉄合同と戦時統制」
    • [26]鉄鋼生産 昭和18年 約770万トン→19年690万トン→20年200万トン
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)5章「戦後復興と日鉄の解体」
    • [27]昭和20年12月 ポーレー中間報告 年産250万トン超の製鋼設備の全面撤去
    • [28]実施されれば鉄鋼生産設備の4分の3を撤去
    • [29]極東委員会報告で鉄鋼22工場が賠償指定 日鉄は釜石を除く4工場
    • [30]決定権が連合国側にあり手の施しようがなかった

昭和22年春にアメリカの対日方針が変わる[31]と、賠償問題も動いた。ストライク報告は日本の経済自立のために鉄鋼業から賠償物件を撤去すべきではないとし[32]、昭和28年の需要として鋼材488万トンという数字[33]を掲げた。国内では昭和21年5月に八幡製鉄所長の三鬼隆氏が社長へ就き[34]、同年12月末の閣議決定で石炭と鉄鋼の傾斜生産方式が正式に決まって[35]いる。占領政策の転換によって原料輸入も再開し、鉄鋼業は生気を取り戻した[36]

  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)5章「戦後復興と日鉄の解体」
    • [31]昭和22年春 アメリカの対日方針が転換
    • [32]ストライク報告 鉄鋼業から賠償物件を撤去せず
    • [33]ストライク報告が掲げた昭和28年の需要 鋼材488万トン
    • [34]昭和21年5月 八幡製鉄所長の三鬼隆が社長に就任
    • [35]昭和21年12月末 閣議決定で石炭・鉄鋼の傾斜生産方式
    • [36]占領政策の転換で原料輸入が再開し鉄鋼業が回復

日鉄は財閥ではないものの、傘下に多くの子会社を持ち持株会社の性格を帯びていたため、昭和21年12月の第二次指定40社に加えられた[37]。分割は日本経済の自立にかえって不利になると反論したが容れられず[38]、GHQのアンチ・トラスト課からは、八幡と釜石・輪西をそれぞれ一本とする二社分割案[39]が示される。昭和22年12月に過度経済力集中排除法が公布されると、日鉄は翌23年2月に指定企業となり[40]、同年12月付で再編成計画の決定指令を受けた[41]

  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)5章「戦後復興と日鉄の解体」
    • [37]昭和21年12月 持株会社の第二次指定40社に日鉄
    • [38]日鉄は分割が経済自立に不利と反論したが容れられず
    • [39]GHQアンチ・トラスト課の解体案 八幡と釜石・輪西の二社分割
    • [40]昭和22年12月 過度経済力集中排除法の公布・昭和23年2月 日鉄が指定企業に
    • [41]昭和23年12月付 再編成計画の決定指令
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)4章「日鉄合同と戦時統制」
    • [26]鉄鋼生産 昭和18年 約770万トン→19年690万トン→20年200万トン
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)5章「戦後復興と日鉄の解体」
    • [27]昭和20年12月 ポーレー中間報告 年産250万トン超の製鋼設備の全面撤去
    • [28]実施されれば鉄鋼生産設備の4分の3を撤去
    • [29]極東委員会報告で鉄鋼22工場が賠償指定 日鉄は釜石を除く4工場
    • [30]決定権が連合国側にあり手の施しようがなかった
    • [31]昭和22年春 アメリカの対日方針が転換
    • [32]ストライク報告 鉄鋼業から賠償物件を撤去せず
    • [33]ストライク報告が掲げた昭和28年の需要 鋼材488万トン
    • [34]昭和21年5月 八幡製鉄所長の三鬼隆が社長に就任
    • [35]昭和21年12月末 閣議決定で石炭・鉄鋼の傾斜生産方式
    • [36]占領政策の転換で原料輸入が再開し鉄鋼業が回復
    • [37]昭和21年12月 持株会社の第二次指定40社に日鉄
    • [38]日鉄は分割が経済自立に不利と反論したが容れられず
    • [39]GHQアンチ・トラスト課の解体案 八幡と釜石・輪西の二社分割
    • [40]昭和22年12月 過度経済力集中排除法の公布・昭和23年2月 日鉄が指定企業に
    • [41]昭和23年12月付 再編成計画の決定指令

二社への分割と、民営会社への転換

1950年4月1日、八幡製鐵と富士製鐵は、会社経理応急措置法および企業再建整備法の適用を受けた日本製鐵から資産等の現物出資を受けて設立[42]された。日本製鐵は資産を譲渡したうえで解散し、清算会社へ移行[43]している。鉄鋼部門は八幡製鉄所と、釜石・輪西・広畑・富士の四作業所とに二分され、前者が八幡製鐵、後者が北日本製鉄[44]となった。広畑は当時なお賠償指定を受けていたため、いったん北日本が賃借し、賠償解除後に一本化する[45]扱いとされた。八幡製鐵の発足時の資本金は8億円、粗鋼生産量は138万トンだった。

  • 日本製鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [42]1950年4月 当社設立 日本製鐵から資産等の現物出資
    • [43]日本製鐵は資産譲渡後に解散し清算会社へ移行
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)5章「戦後復興と日鉄の解体」
    • [44]鉄鋼部門を八幡製鉄所と釜石・輪西・広畑・富士の四作業所に二分
    • [45]広畑は賠償指定のため北日本が賃借 賠償解除後に一本化

半官半民でありながら実質は政府機関に近かった日本製鐵に対し、新会社は八幡が約2万2000人、富士が約1万8000人の民間株主によって構成され、純然たる民営方式へ切り替わった[46]。1950年3月31日、解散にあたって三鬼隆社長は社員を前に[47]「八幡、富士の二社は今後互いに競争関係に立つことになるのですが、もともと血を分けた兄弟であり、望んで別れるわけではないのでありますから、末永く友情の交流を図り互いに切磋琢磨して、いい意味の競争、いわゆる公正なる競争を通じて鉄鋼業の合理化に寄与致したいものであります」と述べている。分割後の業界は、八幡・富士に日本鋼管・川崎製鉄・住友金属工業・神戸製鋼所を加えた大手6社[48]が牽引した。

  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)5章「戦後復興と日鉄の解体」
    • [46]八幡 約2万2000人・富士 約1万8000人の民間株主による純然たる民営方式
    • [47]1950年3月31日 三鬼隆社長の訣別の挨拶
  • 大橋弘・中村豪・明城聡「八幡・富士製鐵の合併(1970)に対する定量的評価」RIETI Discussion Paper 10-J-021(2010年2月)
    • [48]分割後は八幡・富士に日本鋼管・川崎製鉄・住友金属工業・神戸製鋼所を加えた大手6社が業界を牽引
  • 日本製鉄 有価証券報告書【沿革】
    • [42]1950年4月 当社設立 日本製鐵から資産等の現物出資
    • [43]日本製鐵は資産譲渡後に解散し清算会社へ移行
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)5章「戦後復興と日鉄の解体」
    • [44]鉄鋼部門を八幡製鉄所と釜石・輪西・広畑・富士の四作業所に二分
    • [45]広畑は賠償指定のため北日本が賃借 賠償解除後に一本化
    • [46]八幡 約2万2000人・富士 約1万8000人の民間株主による純然たる民営方式
    • [47]1950年3月31日 三鬼隆社長の訣別の挨拶
  • 大橋弘・中村豪・明城聡「八幡・富士製鐵の合併(1970)に対する定量的評価」RIETI Discussion Paper 10-J-021(2010年2月)
    • [48]分割後は八幡・富士に日本鋼管・川崎製鉄・住友金属工業・神戸製鋼所を加えた大手6社が業界を牽引

相次ぐ合理化投資と、公開販売制度の設計

八幡製鐵は老朽設備の更新を狙う第一次合理化計画に着手し、続く第二次合理化計画で戸畑地区の銑鋼一貫化を進めた。1955年には光製鉄所が稼働[49]し、1961年には名古屋製鉄所と堺製鉄所が相次いで動き出して[50]いる。さらに第三次合理化計画では阪神工業地帯に堺製鉄所を築き、1967年7月には世界最大級の高炉2基・粗鋼年産480万トンの能力で完成させている[51]。1965年には君津製鉄所も稼働[52]した。合併直前の1970年3月の時点で、旧八幡の陣容は八幡製鉄所が2万2699名で投下資本1573億円、名古屋が8518名で1819億円、君津が3819名で1644億円、堺が3431名で896億円、光が3092名で213億円[53]だった。

  • 会社年鑑「新日鐵の合併発足時の設備状況(1970年3月)」
    • [49]1955年 光製鉄所が稼働
    • [50]1961年 名古屋製鉄所と堺製鉄所が稼働
    • [52]1965年 君津製鉄所が稼働
    • [53]1970年3月時点の旧八幡5製鉄所の従業員数と投下資本
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)
    • [51]1967年7月 堺製鉄所が世界最大級の高炉2基・粗鋼年産480万トンの能力で完成

1957年に八幡で19日間のストライキが起きたものの会社側が屈しなかったことから、以後は一発回答が定着[54]した。一方で市況は1957年から1958年にかけて大きく下げ、深刻な不況[55]が業界を覆う。稲山嘉寛氏は横田正俊公正取引委員長を訪ね、戦前の共同販売組織を実質的に復活させる公開販売制度[56]の必要性を訴えた。1958年6月、通商産業省が鉄鋼市況対策要綱を策定し、公開販売制度が発足[57]した。

  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)5章「戦後復興と日鉄の解体」
    • [54]1957年 八幡で19日間のストライキ 以後は一発回答が定着
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)7章「公販制度と住金事件」
    • [55]1957年から1958年にかけて鉄鋼市況が大きく下落し深刻な不況
    • [56]稲山嘉寛が横田正俊公正取引委員長に公開販売制度の必要性を要請
    • [57]1958年6月 通産省が鉄鋼市況対策要綱を策定し公開販売制度が発足

公開販売制度では、参加メーカーが一堂に会し、通産省の生産指示量に基づく販売数量と販売価格を品種別に自社の系列問屋へ公開して取引する[58]。メーカー相互の横の連絡は行わないため独禁法には触れない[59]という建て付けだった。売れ残った分は一定の買取商社が買い上げ、その数量を次期の減産指示へ反映させる[60]仕組みも組み込まれている。発足時の参加メーカーは32社[61]にのぼった。もっとも1959年に景気が急回復すると価格の急騰が懸念され、制度は同年5月から生産指示を廃した好況公販へ姿を変えた[62]

  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)7章「公販制度と住金事件」
    • [58]公開販売制度の仕組み 販売数量と価格を系列問屋へ公開
    • [59]メーカー相互の横の連絡をしないため独禁法に触れないという建て付け
    • [60]売れ残りは買取商社が買い上げ次期の減産指示へ反映
    • [61]発足時の参加メーカー32社
    • [62]1959年5月 生産指示を廃した好況公販へ移行
  • 会社年鑑「新日鐵の合併発足時の設備状況(1970年3月)」
    • [49]1955年 光製鉄所が稼働
    • [50]1961年 名古屋製鉄所と堺製鉄所が稼働
    • [52]1965年 君津製鉄所が稼働
    • [53]1970年3月時点の旧八幡5製鉄所の従業員数と投下資本
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)
    • [51]1967年7月 堺製鉄所が世界最大級の高炉2基・粗鋼年産480万トンの能力で完成
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)5章「戦後復興と日鉄の解体」
    • [54]1957年 八幡で19日間のストライキ 以後は一発回答が定着
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)7章「公販制度と住金事件」
    • [55]1957年から1958年にかけて鉄鋼市況が大きく下落し深刻な不況
    • [56]稲山嘉寛が横田正俊公正取引委員長に公開販売制度の必要性を要請
    • [57]1958年6月 通産省が鉄鋼市況対策要綱を策定し公開販売制度が発足
    • [58]公開販売制度の仕組み 販売数量と価格を系列問屋へ公開
    • [59]メーカー相互の横の連絡をしないため独禁法に触れないという建て付け
    • [60]売れ残りは買取商社が買い上げ次期の減産指示へ反映
    • [61]発足時の参加メーカー32社
    • [62]1959年5月 生産指示を廃した好況公販へ移行

住金事件が示した設備調整の限界と、合併への傾斜

1960年以降、所得倍増計画のもとで景気が好転すると各社は揃って設備増強に走った[63]。供給は設備の稼働とともに一挙に増えるのに需要は徐々にしか伸びないため、1962年には鉄鋼業が再び不況に見舞われる。稲山嘉寛氏が八幡製鐵の社長に就いたのはこの年[64]だった。業界は粗鋼減産を重ねて最終的に20%の減産まで実施し、相互の減産監視制度や特定商社買上制度まで導入[65]している。1965年には戦後最大とされた不況が訪れ、鉄鋼業界では山陽特殊鋼が会社更生法の適用を受けた[66]

  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)7章「公販制度と住金事件」
    • [63]1960年以降の所得倍増計画下で各社が設備増強に狂奔
    • [64]1962年 鉄鋼業が再び不況に・稲山嘉寛が八幡製鐵社長に就任
    • [65]20%の減産・相互の減産監視制度・特定商社買上制度
    • [66]1965年 戦後最大の不況・山陽特殊鋼が会社更生法の適用

不況下でも各社の高炉建設意欲は衰えず、通産省は着工を半年から1年ずらす案でまとめかけた[67]。これに同調しなかったのが住友金属工業の日向方斉社長[68]で、『企業の自己責任でやるのだし、計画を変更するつもりはない』[引用元]と述べている。1965年11月、第3四半期の粗鋼減産指示をめぐって住金と通産省は全面衝突[69]した。輸出枠を別扱いにしなかったため輸出比率の高い住金が不利になる[70]構図もあり、通産省は原料炭の輸入枠を削減する構えを高炉9社の常務会で表明する。政、財、官を巻き込んだ末、住金は減産体制に復帰[71]した。

  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)7章「公販制度と住金事件」
    • [67]通産省が高炉着工を半年から1年ずらす案でまとめかけた
    • [68]住友金属工業の日向方斉社長が計画変更を拒否
    • [69]1965年11月 第3四半期の粗鋼減産指示をめぐり住金と通産省が全面衝突
    • [70]輸出枠を別扱いにせず輸出比率の高い住金が不利になる構図
    • [71]通産省が原料炭の輸入枠削減を高炉9社の常務会で表明・住金は減産体制へ復帰

稲山氏はこの一件で、通産省の設備調整が悪平等に立っている[72]と考えた。八幡は10万人の従業員を抱えながら溶鉱炉の増設は1基しか認められず[73]、規模の小さいメーカーにも同じく1基が割り当てられる。行政や大勢に勝てないのであれば、合併によって会社を大きくし、悪平等に起因する競争を排除するほかない[74]。稲山氏は後年、新日鉄誕生の伏線はこのときすでに芽ばえていた[75]と振り返っている。1966年度の売上高は八幡が3708億円で粗鋼シェア18.8%、富士が3107億円で17.2%[76]であり、両社を合わせれば業界の3分の1を超える規模だった。

  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)7章「公販制度と住金事件」
    • [72]通産省が悪平等論に立っていたとの認識
    • [73]通産省の設備調整が悪平等 八幡は従業員10万人でも溶鉱炉の増設は1基のみ
    • [74]合併で会社を大きくし悪平等に起因する競争を排除するという発想
    • [75]新日鉄誕生の伏線が住金事件時に芽ばえたとの回想
  • 鉄鋼戦争 : 自由競争かカルテルか(1968年)
    • [76]1966年度 八幡3708億円・粗鋼シェア18.8%/富士3107億円・17.2%
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)7章「公販制度と住金事件」
    • [63]1960年以降の所得倍増計画下で各社が設備増強に狂奔
    • [64]1962年 鉄鋼業が再び不況に・稲山嘉寛が八幡製鐵社長に就任
    • [65]20%の減産・相互の減産監視制度・特定商社買上制度
    • [66]1965年 戦後最大の不況・山陽特殊鋼が会社更生法の適用
    • [67]通産省が高炉着工を半年から1年ずらす案でまとめかけた
    • [68]住友金属工業の日向方斉社長が計画変更を拒否
    • [69]1965年11月 第3四半期の粗鋼減産指示をめぐり住金と通産省が全面衝突
    • [70]輸出枠を別扱いにせず輸出比率の高い住金が不利になる構図
    • [71]通産省が原料炭の輸入枠削減を高炉9社の常務会で表明・住金は減産体制へ復帰
    • [72]通産省が悪平等論に立っていたとの認識
    • [73]通産省の設備調整が悪平等 八幡は従業員10万人でも溶鉱炉の増設は1基のみ
    • [74]合併で会社を大きくし悪平等に起因する競争を排除するという発想
    • [75]新日鉄誕生の伏線が住金事件時に芽ばえたとの回想
  • 鉄鋼戦争 : 自由競争かカルテルか(1968年)
    • [76]1966年度 八幡3708億円・粗鋼シェア18.8%/富士3107億円・17.2%

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日本製鉄の沿革1857〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1857〜1949年釜石の高炉から官営製鉄所へ、日本製鐵の成立と解体日本初の洋式高炉が火入れ
政府が官営八幡製鉄所を創設★★
官営八幡製鐵所が操業を開始★★
官営八幡製鉄所と民間5社の合同により日本製鐵を設立★★
1950〜1967年八幡・富士の分立と、設備調整の行き詰まり過度経済力集中排除法により日本製鐵が解散★★
三鬼隆日本製鐵の現物出資により八幡製鐵が発足★★
渡邊義介光製鉄所が稼働
小島新一八幡で19日間のストライキが発生
小島新一公開販売制度が発足★★
小島新一公開販売制度が生産指示を廃した好況公販に移行
小島新一名古屋製鉄所が稼働
小島新一堺製鉄所が稼働
稲山嘉寛君津製鉄所が稼働
1968〜1988年世界最大の製鉄会社の誕生と、四次にわたる合理化稲山嘉寛稲山嘉寛氏が旧日鉄関係者の新年会で合併を示唆★★
稲山嘉寛毎日新聞が八幡・富士の合併構想を報道
稲山嘉寛富士製鐵との合併を正式発表★★
稲山嘉寛公正取引委員会が合併中止を勧告★★
稲山嘉寛八幡製鐵と富士製鐵の合併・新日本製鐵の誕生(1970年成立)

1968年に公表された八幡製鐵と富士製鐵の合併。公正取引委員会との約2年の攻防を経て、1970年3月31日に新日本製鐵が発足した案件。

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★★★
稲山嘉寛全国8証券取引所に上場
稲山嘉寛八幡・富士合併後の内部統合と「双頭の巨人」の摩擦

1970年3月に八幡製鐵と富士製鐵が合併して発足した新日本製鐵が、発足5カ月の時点で旧二社の企業文化の違いと意思疎通の停滞に直面し、性急な組織改編を避けて合議による統合を進めた経営判断。

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★★★
稲山嘉寛合併後6カ月で58億円の合理化効果を計上
稲山嘉寛粗鋼1割の減産を打ち出す★★
稲山嘉寛富士三機鋼管を合併
稲山嘉寛大分製鉄所を新設
平井富三郎エンジニアリング事業本部を設置★★
斎藤英四郎第1次合理化案を発表★★
武田豊新日鐵化学が発足
武田豊新素材事業開発本部を設置
武田豊エレクトロニクス事業部を設置
武田豊第4次合理化と管理職への「能力賃金」導入

1987年、鉄冷えと呼ばれる構造不況のなかで営業赤字に転落した新日本製鐵が、4年間で1万9000人を削減する第4次合理化計画に着手し、あわせて管理職約1万1000人の賃金体系を能力主義へ組み替えた経営判断。

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★★★
武田豊営業損失200億円を計上★★
武田豊管理職に能力主義の新給与制度を導入★★
斎藤裕釜石製鉄所の高炉を停止★★
1989〜2026年多角化の挫折と本業回帰、そして世界再編への対応今井敬ミネベアの半導体事業を買収★★
今井敬第三次中期経営計画を開始★★
今井敬LSI事業部を設置
千速晃粗鋼生産の世界首位から転落★★
千速晃千速晃氏が社長に就任
千速晃浦項綜合製鉄の米国預託証券を取得
千速晃LSI事業部を廃止し半導体から撤退★★
千速晃品種事業部制を導入★★
千速晃新日鉄ソリューションズを設立
千速晃新日鉄ソリューションズが東京証券取引所に上場
三村明夫シリコンウェーハ事業部を廃止
三村明夫ミタルがアルセロールを買収★★
三村明夫エンジニアリング・新素材事業を会社分割で承継
三村明夫アルセロール・ミタルへの対抗——ミタルとの提携覚書と3社連合の資本防衛

2007年7月13日、新日本製鉄がアルセロール・ミタルと提携拡大の覚書を締結し、あわせて住友金属工業・神戸製鋼所との3社連合を強化した経営判断。前年に誕生した世界最大の鉄鋼メーカーへの対抗軸として、対抗と協調を組み合わせた。

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★★★
三村明夫住友金属工業・神戸製鋼所との3社連合を強化★★
宗岡正二住友金属工業との経営統合を発表★★
宗岡正二公正取引委員会が排除措置命令を行わない旨を通知
宗岡正二新日本製鐵と住友金属工業の経営統合(2012年成立・新日鉄住金の誕生)

2012年10月1日、国内首位の新日本製鐵が3位の住友金属工業を吸収合併し、新日鐵住金が発足した案件。粗鋼生産で世界2位の鉄鋼メーカーが誕生した。

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★★★
進藤孝生日新製鋼の子会社化を発表★★
進藤孝生国内4位・日新製鋼の子会社化——鋼材デフレ下の高炉再編

2016年2月1日、鉄鋼国内最大手の新日鉄住金が、国内4位の日新製鋼を子会社化すると発表した経営判断。

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★★★
進藤孝生OVACO ABを買収
進藤孝生山陽特殊製鋼を子会社化
橋本英二日本製鉄に商号変更★★
橋本英二親会社株主に帰属する当期純損失4315億円を計上★★
橋本英二日鉄日新製鋼を合併
橋本英二国内の製鉄所を6製鉄所体制へ再編★★
橋本英二日鉄物産を子会社化
橋本英二呉製鉄所を閉鎖★★
橋本英二USスチールの買収を発表★★
今井正米大統領がUSスチールの買収禁止命令を発出★★
今井正米国政府を提訴★★
今井正USスチールの完全子会社化——約2兆円のクロスボーダー買収を政治の壁を越えて完遂

2023年12月18日、日本製鉄は米鉄鋼大手USスチールを1株55ドル・取得総額約2兆円で買収すると発表した。米大統領による買収禁止命令と訴訟をはさみ、2025年6月18日に約141億ドルの払い込みを終えて完全子会社化を完了した経営判断である。橋本英二会長兼CEOと、交渉役で副会長の森高弘氏が主導した。

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★★★
今井正3Dのコングロマリットディスカウント批判と社長再任反対キャンペーンへの対峙

2025年6月、シンガポールの投資ファンド3Dインベストメント・パートナーズが、日本製鉄のコングロマリットディスカウントと資本規律の欠如を批判するプレゼンテーションを公表し、定時株主総会で今井正社長と副会長の森高弘氏の再任に反対票を投じるよう株主に推奨した。6月24日の総会で両氏は再任されたが、今井社長の賛成率は87.11%と他候補を約10ポイント下回った。3Dは2026年、上場子会社の日鉄ソリューションズへ株主提案を出して圧力を続けており、本稿の時点で決着していない。

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★★★
出典・参考
  • 日本製鉄 有価証券報告書【沿革】
  • 日本製鉄 有価証券報告書
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)
  • 会社年鑑「新日鐵の合併発足時の設備状況(1970年3月)」
  • 日経ビジネス 1970年9月号(日経マグロウヒル社)
  • 日経ビジネス 1971年3月22日号(日経マグロウヒル社)
  • 「ケーススタディ 新日本製鉄——功罪問われる"株式公社"」(日経ビジネス 1977年11月7日号、No.200)
  • 日経ビジネス 1987年3月2日号(日経マグロウヒル社)
  • 日経ビジネス 1987年8月3日号(日経マグロウヒル社)
  • 鉄鋼戦争 : 自由競争かカルテルか(1968年)
  • 大橋弘・中村豪・明城聡「八幡・富士製鐵の合併(1970)に対する定量的評価」RIETI Discussion Paper 10-J-021(2010年2月)
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)4章「日鉄合同と戦時統制」
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)5章「戦後復興と日鉄の解体」
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)7章「公販制度と住金事件」
  • 私の鉄鋼昭和史(稲山嘉寛、1986年)8章「難産だった新日鐵の誕生」
  • 渡部行「八幡、富士製鉄『世紀の合併』を追う ―難産だった新日鉄の誕生―」日本記者クラブ 取材ノート(2014年)
  • 日本製鉄公式サイト ヒストリー

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