1905年9月、砂糖と樟脳を扱う神戸の商社・鈴木商店が、脇浜で小林清一郎氏が営む[1]小林製鋼所を買収し、神戸製鋼所と改称した[2]。買収を決めたのは、当主の鈴木岩治郎氏の没後によね未亡人を立てて経営を握った番頭の金子直吉氏[3]で、鈴木商店は大正期にわが国最大の商社へ成長している。日露戦争後には民間の鉄鋼業が相次いで興り、1907年には日本製鋼所と輸西製鉄所が設立された[4]。1911年6月、製鋼所は鈴木商店から分離し、資本金140万円の株式会社神戸製鋼所として設立された[5]。初代社長には海軍造船少将の黒川勇熊氏[6]を招いている。独立の翌1912年3月にはドリルの生産を始め[7]、全量を輸入に頼っていた切削工具の国産化に踏み込んだ。
1913年に導入した1200トンプレス[8]は船舶用クランクシャフトなどの大型鍛造品を生み、1915年には魚雷用空気圧縮機の製作に成功して以後ほぼ海軍の全需要を満たした[9]。同じ1915年に機械製作の分野へ本格参入し[10]、1916年に鋼材圧延、1917年には門司工場で伸銅品の生産を始めている[11]。1921年には帝国汽船から鳥羽・播磨の造船所を買収し[12]、造船と電機にも手を広げた。1927年4月、母体の鈴木商店が金融恐慌のなかで倒産した[13]が、神戸製鋼所は独立した企業として存続している。第一次大戦後の反動不況と昭和恐慌で採算が悪化すると、1929年に播磨造船所を分離し、線材への進出と砕石機械・電気ショベルの開発で切り抜けた[14]。
1933年4月、第2線材工場を完成させて高級特殊鋼線材の生産に入り、全国の線材生産量の30%以上を占める[15]までになった。1937年にはアルミの分野へ参入し[16]、1940年には日本で初めて溶接棒の生産を始めている[17]。生産拠点も広げ、1939年10月に長府工場[18]、1942年4月に大久保工場を新設した[19]。大久保工場はのちのコベルコ建機にあたり[20]、建設機械の拠点として今も残っている。1937年以降は神戸工場の埋立地区に小型内燃機・火砲・弾丸・戦車の工場を建て、日本で最初の鉄帽や戦車・火砲用の防弾鋼板も手がけている[21]。1943年3月には数次の増資を経て資本金が1億8270万円に達した[22]。工具・鍛鋼・線材・アルミ・溶接材料と、軍需の拡大に合わせて製品の幅は増え続けた[23]。
太平洋戦争の末期には国内外に22カ所の拠点と約7万人の従業員を抱える[24]までに膨らんだが、ほとんどの工場が空襲を受けたまま敗戦を迎えた。終戦時に16あった工場を12へ縮小して再建に着手し[25]、1945年11月には業界に先駆けて出銑し、線材の生産を再開している[26]。機械部門は鋳物やタバコ機械といった民需製品で再出発[27]した。1948年には設備の合理化へ入り、1949年の運搬設備の近代化に続いて平炉の改造と酸素製鋼法を実施した[28]。
1949年5月、同社は東京・大阪・名古屋の各証券取引所へ株式を上場した[29]。同年8月には非鉄合金の2工場と電機の5工場を現物出資して神鋼金属工業と神鋼電機の2社を設立し[30]、本体を本社・名古屋・大久保・日高・尼崎・能登・高知の各工場で立て直している。1953年11月には機械部門の基幹となる高砂工場を新設した[31]。1954年6月には米ファウドラー社との共同出資で神鋼フアウドラーを設立し[32]、1955年7月には日本高周波鋼業へ資本参加している[33]。1957年1月には神鋼金属工業を合金事業部として吸収し[34]、いったん切り離した非鉄を本体へ戻した。
事業の幅は戻ったものの、鉄鋼では転炉法の登場で銑鉄から鋼材までを一社で作る銑鋼一貫メーカーが圧倒的に有利になった[35]のに対し、同社は自社の高炉を持たず、銑鉄の供給を尼崎製鉄に頼っていた[36]。大手6社のうち熱間圧延設備を持たないのも同社だけだ[37]った。1954年に尼崎製鉄へ資本参加した[38]のは、この供給関係を確かなものにするためでもある。線材と鋳鍛鋼の加工メーカーにとどまる限り、成長する鋼板市場には手が届かなかった[39]。
1957年、同社は灘浜の埋め立てに着手した[40]。1962年までに総額370億円を投じ、公称600トンの第1号高炉と1,000トンの第2号高炉を建設している[41]。1959年1月の灘浜1号高炉の火入れによって、鉄鉱石から鋼材までを社内で作る銑鋼一貫メーカーとなった[42]。1905年の小さな鋳鍛鋼工場から数えて54年目の到達点[43]にあたる。並行して機械部門も伸び、1958年5月には東パキスタン向け肥料工場を受注してわが国初のプラント輸出を成約させた[44]。
高炉を得ても、線材と棒鋼だけでは総合鉄鋼メーカーに届かなかった[45]。1965年4月、同社は高炉2基を持つ尼崎製鉄を吸収合併し[46]、粗鋼の基盤を広げている。続いて埋め立てた加古川に新鋭の一貫製鉄所を建て、1970年3月に鉄鋼一貫生産を開始した[47]。加古川では高炉に加えて厚板・熱延・冷延の各設備を順次立ち上げ、1973年の2号高炉稼働で年産能力を600万トンへ引き上げた[48]。線材・棒鋼に鋼板類が加わり、同社は総合鉄鋼メーカーへ姿を変えた[49]。
鉄鋼の一貫化と並行して非鉄と溶接の拠点も広がり、1960年9月にニューヨーク事務所を開き[50]、1961年3月に藤沢工場、同年10月に茨木工場を設けている[51]。1969年8月にはアルミ分野の基幹となる真岡工場を稼働させた[52]。加古川が動き出した1970年7月には西条工場、1975年9月には福知山工場を新設し[53]、アルミ銅と溶接の最新鋭工場を揃えている。1979年6月には神戸環境分析センターを設立した[54]。のちのコベルコ科研にあ[55]たる。
1970年代に入ると石油危機で鉄鋼の需要が細り、業績は伸び悩んだ[56]。鉄鋼各社はエンジニアリングなど本業の外へ拡大を求め[57]、同社も1980年度にはエンジニアリング事業が全社売上の10%を超えている[58]。1974年時点の同社は鉄鋼・重機械・非鉄の三部門を並立させる複合経営を掲げていた[59]。
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|---|---|---|---|---|
| 1905〜1945年鈴木商店の一工場から独立系の複合メーカーへ | 鈴木商店が小林製鋼所を買収し神戸製鋼所として創業 | ★ | ||
| 神戸製鋼所として鈴木商店から分離独立 | ★★ | |||
| 日本初のドリル生産を開始 | ★ | |||
| 機械製作分野に参入 | ★ | |||
| 伸銅品の生産を開始 | ★ | |||
| 母体の鈴木商店が金融恐慌の中で倒産 | ★★ | |||
| アルミ分野に参入 | ★★ | |||
| 溶接棒の生産を開始(日本初) | ★ | |||
| 1946〜1975年高炉なき加工メーカーからの銑鋼一貫への転換 | 町永三郎 | 東京・大阪・名古屋の各証券取引所に株式上場 | ★ | |
| 町永三郎 | 神鋼金属工業・神鋼電機の2社を分社 | ★ | ||
| 浅田長平 | 高砂工場を新設 | ★ | ||
| 浅田長平 | 日本初のプラント輸出商談が成約 | ★ | ||
| 外島健吉 | 灘浜1号高炉の火入れで鉄鋼一貫体制を確立 | ★★ | ||
| 外島健吉 | 尼崎製鉄を吸収合併 | ★★ | ||
| 外島健吉 | 真岡工場を新設 | ★ | ||
| 外島健吉 | 灘浜での自社高炉の建設、尼崎製鉄の吸収合併、加古川製鉄所の新設 線材と鋳鍛鋼を主力としてきた神戸製鋼所が、1957年に灘浜の埋め立てへ着手して1959年1月に第一高炉を稼働させ、1965年4月に高炉2基を持つ尼崎製鉄を吸収合併したうえで、1968年から埋め立てた加古川に新鋭一貫製鉄所を建て、1970年に銑鋼一貫の生産へ入った一連の資本投下。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 1976〜2001年複合経営の拡張と、建設機械事業への集約 | 牧冬彦 | 米ミドレックス社の買収と、天然ガス直接還元製鉄技術の取得 1983年7月、神戸製鋼所は経営不振に陥っていた米ミドレックス社を傘下に収め、天然ガスで鉄鉱石を還元する直接還元製鉄技術を取得した。自社の高炉一貫とは別系統の製法で、当時の用途は電炉向けの鉄源に限られていた。 詳細を読む | ★★★ | |
| 亀高素吉 | ニューヨークに米国総合統括会社Kobe Steel USAを設立 | ★ | ||
| 亀高素吉 | USX社との合弁により米国で鉄鋼一貫生産を開始 | ★★ | ||
| 亀高素吉 | TI社と合弁で半導体製造開始 | ★ | ||
| 亀高素吉 | 阪神・淡路大震災で神戸・加古川両製鉄所が甚大被害 | ★★ | ||
| 水越浩士 | コベルコ建機に建設機械事業を一元化 | ★★ | ||
| 水越浩士 | テキサス・インスツルメンツ社との半導体合弁の設立と、マイクロン・テクノロジー社への全株式譲渡 1990年5月、神戸製鋼所は米テキサス・インスツルメンツ社との合弁でKTIセミコンダクターを設立し、兵庫県西脇市に半導体工場を建てた。1998年に合弁相手を米マイクロン・テクノロジー社へ入れ替えたのち、2000年10月18日に保有株式の全部を同社へ譲渡すると発表し、2001年5月に撤退を完了した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 2002〜2025年電力事業の育成と品質問題からの再建 | 水越浩士 | 電力卸供給事業への参入と、神戸製鉄所構内での石炭火力発電所の建設 1996年3月、神戸製鋼所は関西電力の電力卸供給入札への応募を決め、神戸製鉄所の構内に石炭火力発電所を建てた。2002年4月に1号機、2004年4月に2号機が営業運転に入り、総発電規模は約140万キロワットとなった。電力は鉄鋼と並ぶ『コア事業』に据えられ、2022年の3号機・2023年の4号機で総出力270万キロワットまで広がった。 詳細を読む | ★★★ | |
| 水越浩士 | 新日本製鐵・住友金属工業との相互出資の開始と、23年後の解消 2002年、神戸製鋼所は新日本製鐵・住友金属工業との相互出資に踏み切った。前年12月に新日鉄と包括提携を結んだ際には資本関係を持たないとしていたが、鉄源の共同活用などの連携を確実にするため株式を持ち合う形へ移り、2006年3月には買収提案があった場合に三社で対応を検討する覚書を結んでいる。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 犬伏泰夫 | 神戸発電所2号機の営業運転開始 | ★ | ||
| 犬伏泰夫 | 2009年3月期親会社株主に帰属する当期純損失▲314億円を計上 | ★ | ||
| 佐藤廣士 | 佐藤廣士氏が社長に就任 | ★ | ||
| 佐藤廣士 | 2013年3月期純損失▲270億円、経常損失▲181億円 | ★ | ||
| 川崎博也 | 川崎博也氏が社長に就任 | ★ | ||
| 川崎博也 | 神戸製鉄所の上工程休止と、加古川製鉄所への一貫工程の集約 2013年5月29日、神戸製鋼所は2017年度をめどに神戸製鉄所の高炉を休止し、鋼材の素となる半製品の生産を加古川製鉄所へ集約すると発表した。加古川に約500億円を投じて上工程設備を増強したうえで、2017年10月31日に神戸製鉄所の上工程設備を休止し、集約を完了した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 川崎博也 | 品質データ改ざんの公表と経営刷新——名門・神戸製鋼の信頼失墜と再建 2017年10月、神戸製鋼所はアルミ・銅製品などの検査データを顧客仕様に合わせて書き換えていた品質不正を公表した。不正品の出荷先は最終的に600社を超え、JIS認証の一部取り消しや米司法省の調査、株価急落を招いた。2018年4月に川崎博也会長兼社長が引責辞任し、山口貢社長のもとで品質保証体制の再構築が進められた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 川崎博也 | 2018年3月期純利益632億円に回復 | ★ | ||
| 山口貢 | 山口貢氏が社長に就任 | ★ | ||
| 山口貢 | 2020年3月期純損失▲680億円、特別損失651億円 | ★ | ||
| 山口貢 | 神戸発電所3号機の営業運転開始 | ★ | ||
| 勝川四志彦 | 勝川四志彦氏が社長に就任 | ★ | ||
| 勝川四志彦 | 2025年3月期当期純利益1201億円(過去最高更新) | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(神戸製鋼所)