神戸製鋼所灘浜での自社高炉の建設、尼崎製鉄の吸収合併、加古川製鉄所の新設

銑鉄を買い続ける加工メーカーでいるか、資本を投じて銑鋼一貫へ移るか

時期 1965年4月
意思決定者(推定) 神戸製鋼所 取締役会
論点 銑鋼一貫体制への転換と新鋭製鉄所の建設
概要
線材と鋳鍛鋼を主力としてきた神戸製鋼所が、1957年に灘浜の埋め立てへ着手して1959年1月に第一高炉を稼働させ、1965年4月に高炉2基を持つ尼崎製鉄を吸収合併したうえで、1968年から埋め立てた加古川に新鋭一貫製鉄所を建て、1970年に銑鋼一貫の生産へ入った一連の資本投下。
背景
転炉法の登場で銑鋼一貫メーカーが圧倒的に有利になったのに対し、神戸製鋼所は自社高炉を持たず、銑鉄を尼崎製鉄からの供給に頼っていた。大手6社のうち熱間圧延設備を持たないのも同社だけであった。
内容
灘浜には1957年から1962年にかけて総額370億円を投じ、第1号高炉(公称600トン)と第2号高炉(同1,000トン)を建設した。加古川では高炉に加えて厚板・熱延・冷延の各設備を順次立ち上げ、1973年の2号高炉で年産600万トン体制を整えた。
含意
線材・棒鋼中心の加工メーカーから、鋼板を含む総合鉄鋼メーカーへ姿を変えた。この時に築いた加古川は、半世紀後に神戸製鉄所の高炉が休止された際の集約先となっている。
筆者の見解

身軽さを捨てるという買い物

1964年の講演で「将来のことは別として現在までは必要がなかつたので立ち遅れは感じていません」と答えた湊静男常務取締役は、同じ席で尼崎製鉄との合併を「そろそろ」と語っている。熱間圧延を持たないことを弱点と認めない一方で、銑鉄の供給元を自社に取り込む段取りは進めていた。特殊線材で全国の4割を握り、溶接棒と機械で稼ぐ会社にとって、高炉を持たないことは弱点であると同時に、資本を寝かせずに済む身軽さでもあったとみられる。

加古川は、その身軽さを捨てる買い物であった。1968年の埋め立てから1973年の2号高炉まで巨額を注ぎ込み、3期工事にはさらに3千数百億円の予算が置かれている。しかも完成は石油ショックと重なり、井上浩三郎専務取締役は戦後経験したことのないピンチのなかで加古川3期の計画を語っている。それでも、鋼板を作れる製鉄所を播磨に持ったことが、2010年代に神戸の高炉を畳む余地を残した。投資の当否は稼働の直後ではなく、何を残せたかで測るほかないといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

「名は体を表わさない」会社

神戸製鋼所は1905年に鈴木商店が小林製鋼所を買収して始まった会社で、鋳鍛鋼から出発し、1924年に棒鋼工場、1926年に第1線材工場を設けて圧延へ進んだ。1964年3月期の売上構成は鉄鋼44%・溶接棒8%・機械28%・軽合金伸銅20%で、湊静男常務取締役は社名について「名は体を表わさない代表的なものの一つではないかとさえ感じています」と述べている。鉄鋼専業ではなく、四つの事業部を並べた多角経営の会社であった[1][2]

高炉は1959年に手に入れている。1957年から1962年にかけて神戸市の灘浜地区に総額370億円を投じ、公称600トンの第1号高炉と1,000トンの第2号高炉を建てて銑鋼一貫メーカーとしての装備を整えた。ただし粗鋼では全国生産の5%、業界6位にとどまる。しかも大手6社のうち熱間圧延設備を持たないのは神戸製鋼所だけで、鋼板を作れない会社であった[3][4]

銑鉄をどこから買うか

1950年代後半、転炉の導入によって銑鋼一貫メーカーは単独平炉メーカーに対して圧倒的な強みを持つようになり、有力な平炉メーカーも高炉建設に乗り出した。日本産業史はその代表として、高炉を持つ小倉製鋼を合併しながら主力工場に高炉がなかった住友金属と、高炉を持つ尼崎製鉄を系列化しながら自社高炉を持たなかった神戸製鋼所を並べ、両社が社運をかけて一貫製鉄所の建設に当たったと記している[5]

尼崎製鉄との関係は、相手の危機から始まっている。同社は1954年4月に尼崎製鋼所の経営破綻に遭って危機に直面し、同年11月に神戸製鋼所と提携して同和鉱業を含む態勢を組んだ。当時の尼崎製鉄は日産公称400トンの熔鉱炉1基を持ち、月産1万2,000トンの銑鉄の大半を神戸製鋼所へ送っている。1955年の時点で神戸製鋼所は「尼崎製鉄の経営に進出して銑鋼一貫態勢を固めた」と記録された[6][7]

決断

尼崎製鉄の吸収合併

合併はすぐには進まなかった。湊静男常務取締役は1964年の講演で、以前は世界銀行から財務比率の点でしばらく見合わせるよう言われていたが、尼崎製鉄の財務比率も改善してきたので「そろそろ合併していい時期ではないか」と考え、関係各方面の了解を得ている最中だと説明している。実際の吸収合併は1965年4月で、これによって神戸製鋼所は尼崎製鉄が持つ高炉2基を自社の設備として抱えた[8][9]

1965年4月の合併は、当時相次いだ大型合併の一つに数えられている。日産自動車とプリンス自動車工業、石川島播磨重工業と呉造船所などが続くなかで、各社が公正取引委員会に示した狙いは「重複投資、過当競争の回避と国際競争力の強化」にほぼ集約されていた。財務面では、世界銀行から1965年3月末までに自己資本比率を50対50にするよう指示を受けており、1割配当が可能な期にも8分に据え置き、社内に利益を厚く残していた[10][11]

加古川という新鋭製鉄所

灘浜は面積60万坪足らずの小規模な一貫製鉄所で、線材・棒鋼の専門工場という性格を出られなかった。日本の粗鋼生産が年5,000万トンを超えた1960年代後半、神戸製鋼所は加古川に大型新鋭製鉄所を建てることに踏み切る。1968年から埋め立て工事を始め、1970年に1号高炉へ火が入り、転炉・分塊・厚板・ホットストリップミル・コールドストリップミルが順に立ち上がった。1973年には2号高炉も建ち、年産600万トン体制となった[12]

加古川は、業界からも高度成長期を代表する新鋭製鉄所の一つに数えられた。日本鋼管福山、川崎製鉄水島、八幡製鉄君津、住友金属鹿島と並ぶ位置づけである。建設ではペレタイジングプラント、線材の圧延機、連続鋳造設備など自社の機械事業部の製品が多く使われた。井上浩三郎専務取締役は、そこに複合経営の利点が生かされていると説明している。設備を作る部門と使う部門を一社に抱える構図であった[13][14]

結果

線材メーカーから総合鉄鋼メーカーへ

会社の規模は十数年で桁が変わった。単独売上高は1955年3月期の221億円から、加古川が動き出した1971年3月期に3,925億円、1974年3月期には6,124億円へ伸びている。粗鋼の位置づけも、1963年の全国生産比5%・業界6位から、1973年度には812万6,000トン・シェア6.8%・第5位へ動いた。厚板と熱延・冷延を備えたことで、線材と棒鋼に偏っていた製品構成に鋼板が加わっている[15][16]

投資は鉄鋼だけに向かったわけではない。1974年度の設備投資は工事ベースで約1,050億円が見込まれ、加古川の2期補足工事に加えて、高砂工場の大型鋳鍛鋼設備、溶接棒の福知山工場の新設、真岡工場のアルミ圧延設備が並んでいる。井上浩三郎専務取締役は、これを「鉄鋼・重機械・非鉄の複合経営」と呼んだ。もっとも講演は石油ショックの直後で、井上浩三郎専務取締役自身が、わが国経済は戦後経験したことのないピンチを招いたと述べていた[17][18]

半世紀後に決まった集約先

2013年、神戸製鋼所は神戸製鉄所の高炉を休止し、2017年度までに鉄鋼生産を加古川製鉄所へ集約する方針を決めた。休止の対象となったのは1959年に稼働した第1号の高炉で、阪神・淡路大震災の3カ月後に復旧した象徴的な設備でもある。加古川の年間粗鋼生産量620万トンに対し、神戸は120万トンと国内最小規模であった。川崎博也社長は「忸怩たる思いはあるが、今しかない」と語っている[19]

神戸製鋼所は現在、神戸製鉄所に第三高炉1基、加古川製鉄所に第二・第三高炉の2基を持ち、加古川の第一高炉は休止している。灘浜で1基から始め、尼崎製鉄から2基を引き継ぎ、加古川に3基を建てた高炉の系譜は、2010年代に加古川へ寄せられた。1970年にどこへ製鉄所を築くかを決めた選択が、半世紀後にどの高炉を残すかを規定したとみることができる[20]

出典・参考
  • 証券アナリストジャーナル 1964年 第2巻第7号「神戸製鋼所の概況について—企業分析と業界展望—」(湊静男 常務取締役)
  • 証券アナリストジャーナル 1974年 第12巻第12号「神戸製鋼所 鉄鋼・重機械・非鉄の複合経営」(井上浩三郎 専務取締役)
  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「神戸製鋼所」(東洋経済新報社, 1955)
  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「尼崎製鉄」(東洋経済新報社, 1955)
  • 日本産業史(日本経済新聞社)第2巻「エネルギー産業-石油と電力の結婚」
  • 日本産業史(日本経済新聞社)第3巻 通史「国際化のうねりと大型合併」
  • 日本産業史(日本経済新聞社)第3巻 鉄鋼・金属「鉄鋼-新日鉄誕生し、業界安定期に」
  • 神戸製鋼所「銑鋼一貫生産体制確立50周年について」(2009年12月)
  • 週刊東洋経済 2014年5月9日号「神戸製鋼所 高炉休止で視界開けるか 独立独歩の生き残り策」
  • 神戸製鋼所 会社年鑑(単独業績)

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