東北電力石油専焼火力への依存を改める日本海エル・エヌ・ジー設立とLNGへの燃料転換
燃料の値動きをどう抱えるか——日本海側初のLNG基地を第三セクターで持つという選択
- 概要
- 1978年8月26日、東北電力は液化天然ガスの購入・受入・気化・販売および配送を行う日本海エル・エヌ・ジーを設立した。新潟県、北海道東北開発公庫、石油資源開発、北陸瓦斯とともに資本金120億円を出し合い、新潟東港に日本海側で最初のLNG受入基地を築いて、隣接する東新潟火力発電所の燃料を石油から天然ガスへ替える事業であった。
- 背景
- 1969年に火力が水力を上回って以降、東北電力の発電は輸入原油へ深く傾いていた。1973年の第一次石油危機で原油価格が急騰し、通商産業省もエネルギー源の多様化と公害対策の両面から液化天然ガスの導入を唱えていた。
- 内容
- 東北電力が単独で持つ設備とせず、県・政府系金融機関・ガス田会社・都市ガス会社が並ぶ第三セクターの形をとった。1980年7月に基地の建設へ着手し、1983年9月にインドネシアのアルンから第一船を受け入れ、1984年1月に営業運転を始めた。
- 含意
- 受け入れたガスは東新潟火力の燃料にとどまらず、北陸瓦斯の都市ガス原料や工業用の冷熱利用にも回された。燃料調達の設備を連結の外に置き、地域と分け持つ形で電源多様化を進めた点に、この判断の特徴がある。
燃料を替えるという判断の時間
この判断の芯は、燃料を石油から天然ガスへ替えたこと自体よりも、替えるための設備を東北電力の連結の外へ置いたことにある。若林強社長のもとでまとまった出資構成には新潟県と北海道東北開発公庫、石油資源開発、北陸瓦斯が並び、東北電力の議決権は42.3%にとどまった。120億円の資本金を5者で分け合ったために、新潟東港の受入基地は一社の燃料倉庫ではなく、都市ガスの原料も工業用の冷熱も供給する設備になった。発電会社が単独で建てていれば、この使われ方は生まれなかったとみられる。
もっとも、決めてから燃料が入れ替わるまでの時間は長い。設立から第一船の入港まで5年、コンバインドサイクルへの設備更新まで6年を要し、その途中で第二次石油危機が来て1980年3月期は経常損益85億円の赤字に沈んだ。燃料の判断の当否は決めた年には見えず、10年以上先の電源構成表のうえで確かめるほかない。八島俊章社長が1993年の講演で示した「ガス24%、石油10%」という数字は、若林強社長が決めた設立が15年かけてたどり着いた地点だといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
火力への移行が石油への依存になった
東北電力の発電は、発足からしばらくは只見川水系を中心とする水力が主軸であった。伸び続ける需要に水力だけでは応じきれず、1958年の八戸火力1号機を皮切りに新鋭火力の新増設が重なり、1969年8月に新潟火力発電所4号機(25万kW)が運転を始めた時点で、発電電力量の構成は水力48.6%・火力51.4%と入れ替わった。火力の主燃料は輸入原油であり、電源の中心が移ったことは、そのまま石油への依存が深まったことでもあった[1]。
1973年10月の第四次中東戦争に端を発する第一次石油危機は、この構造を直撃した。世界的な石油供給不安のもとで原油価格が跳ね上がり、電気事業は石油に代わる燃料と電源を同時に探すことを迫られた。通商産業省は同じ1973年の8月に、エネルギー源の多様化と公害対策の両面から液化天然ガスの導入を唱えており、硫黄分やばいじんを出さない燃料という性格も、その後押しになった[2][3]。
日本海側に受入基地がなかった
東北電力は1978年の設立決定に先立ち、1977年4月に新潟東港へ隣接する敷地で東新潟火力発電所1号機(出力60万kW)の運転を始めていた。港湾と発電設備が並ぶ一帯は、船で運ぶ燃料を受け入れてすぐ隣で燃やすには条件が整っていた。ただ、当時の国内のLNG受入基地は太平洋側に集まり、日本海側には一つも置かれていなかった。基地を新潟に築くことは、東北電力の燃料転換にとどまらない話であった[4]。
実際、この基地には発電以外の役割も見込まれていた。気化した天然ガスは都市ガスの原料に回せ、超低温のまま使えば工業用ガスの製造にも生かせる。日本海側で最初のLNG基地は、地域経済の発展や環境保全、さらに「日本海時代」への呼び水という役回りまで背負う構想として語られていた。電力会社一社の燃料倉庫として計画された設備ではなかった[5]。
決断
単独では持たない、という設立の形
1978年8月26日、東北電力は液化天然ガスの購入・受入・気化・販売および配送を行う日本海エル・エヌ・ジーを設立した。資本金は120億円で、出資者は東北電力のほか、新潟県、北海道東北開発公庫、国内でガス田を持つ石油資源開発、新潟の都市ガス会社である北陸瓦斯の5者であった。若林強社長のもとで決まったこの設立は、燃料調達の設備を自社の内側に抱え込まず、地域の公的資金とガス事業者に分け持たせる選択であった[6][7]。
出資の割合も、この会社の性格に対応していた。東北電力の持分は過半に届かず、後年の有価証券報告書では議決権所有割合42.3%の関連会社として記載された。発電の根幹に近い燃料受入設備を、連結の子会社ではない共同会社に委ねた形である。設備投資の負担を分ける効果と引き換えに、東北電力は基地の運営を単独で握らない立場を選んだ[8]。
建設から第一船まで5年
会社を設けてから燃料が届くまでには、なお時間がかかった。受入基地の建設工事に着手したのは1980年7月で、1982年7月には本店を新潟市から立地先の聖籠町へ移した。1983年9月、インドネシアのアルンから最初のLNG船が新潟基地へ入港し、1984年1月に営業運転が始まった。設立の決定から実際の受入開始まで、5年余りを費やした事業であった[9]。
受け入れたガスの使い道は、稼働の初年から複数に分かれていた。1984年6月には自家用の冷熱発電設備が動き、8月には日本エア・リキードへの冷熱供給、10月にはタンクローリーによるLNG供給が始まった。発電燃料の転換という目的の周囲に、冷熱利用と産業用ガスの供給が重なる構造で、新潟基地は動き出した。出資者を広く取った設立の形が、そのまま設備の使われ方に表れていた[10]。
結果
電源構成でガスが石油を上回るまで
LNGの受入が始まると、東新潟火力の設備も別の方式へ替わった。1984年12月、東北電力初のコンバインドサイクルプラントとして東新潟火力発電所3号系列が半量運転(54万5千kW)に入った。ガスタービンと蒸気タービンを組み合わせるこの方式は熱効率が高く、同発電所は国内初の事業用大容量コンバインドサイクル発電所となった。1999年には4-1号系列(80万5千kW)が営業運転に入り、当時世界最高クラスの熱効率55%以上を実現した[11][12]。
電源構成の移り変わりは、後年の経営者の説明にも表れている。1993年11月、八島俊章社長は証券アナリスト向けの講演で、進行中の電源開発が計画どおりに運べば2002年度末の電源構成は水力17%・原子力26%・石炭21%・ガス24%・石油10%・地熱2%になると述べた。石油危機の当時に火力の主軸であった石油は1割まで下がり、ガスがその倍以上を占める想定であった[13]。
転換の効き目が現れるまでの空白
決定の効き目がすぐ表れたわけではない。設立の翌年度にあたる1980年3月期は、第二次石油危機による燃料費の上昇で経常損益が85億円の赤字、当期純損益も81億円の赤字に沈んだ。この時点で基地はまだ着工前後の段階にあり、LNGが実際に届くのは4年先であった。石油からの転換を決めた後も、値上がりした石油を燃やして供給を続けるほかない期間が残っていた[14]。
一方で新潟基地は、東北電力の発電燃料だけを扱う設備にとどまらなかった。1996年4月には新潟から仙台までのパイプラインによる天然ガス供給が始まり、同年6月にはマレーシア、1999年1月にはカタールからの船を受け入れた。調達先はインドネシア一国から複数の国へ広がり、2013年3月には累計受入量が1億トンに達した。石油専焼火力への依存を改めるという当初の目的は、燃料調達そのものの幅を広げる方向へつながった[15]。
- 東北電力 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
- 東北電力 有価証券報告書(2006年3月期)【関係会社の状況】
- 東北電力 沿革(公式サイト)
- 東北電力「発電所・PR館のご案内 東新潟火力発電所」
- 日本海エル・エヌ・ジー「会社概要」「事業概要」
- 電気事業連合会「電力事業の歴史 昭和後期-2(1970〜1988年)」
- 証券アナリストジャーナル 1993年12月号 別冊付録「企業:東北電力」(八島俊章 社長講演、1993年11月26日)
- 東北電力 会社年鑑(1986年版・単独業績)