東京電力ホールディングス の歴史

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創業 1951年
母体 関東配電+日本発送電
創業地 東京都
創業
1951年5月、電気事業再編成令にもとづき関東配電と日本発送電から設備の出資と譲渡を受け、東京電力が発足した。同年8月に東京・大阪の両証券取引所へ上場し、首都圏を供給区域とする発送配電一貫の民間会社となった。発足直後の弱点は水力への偏りで、1953年2月の渇水では猪苗代湖の貯水が残り28日分と伝えられ、流量は平年の81%まで低下した。1955年8月、東京電力は水主火従の設備増強計画を火主水従へ改め、新鋭火力を常時運転させる形へ移した。熱効率が従来の2倍近い新鋭機が現れて火力の経済性が一変したことが、この転換を可能にした。ただし1965年12月の京浜地区は一日中スモッグに覆われ、火力の立地は早くも公害という制約を抱えた。
決断
自前で設備を積み上げた末に、会社の所有者そのものが入れ替わった。1966年7月、木川田一隆社長のもとで福島県双葉郡に福島第一原子力発電所1号機を着工し、1971年3月にGE設計の沸騰水型軽水炉46万kWを動かした。管内に水力の適地が乏しく、建設費を長期にわたり料金原価へ算入できる総括原価方式のもとでは、運転時の燃料費が低い原子力を選ぶ判断は当時の制度に照らして合理的だった。誤算は、福島第二・柏崎刈羽と17基まで積み上げた設備の一部が2011年3月に事故を起こし、賠償と廃炉という期限のない支払い義務へ転じた点にある。2011年3月期の純損失は1兆2,473億円、純資産は2兆4,691億円から8,124億円へ縮み、2012年7月に1兆円の出資と引き換えに議決権の過半を政府へ渡し、以後の設備投資も料金も総合特別事業計画の認可を通る形になった。
現況
発電所をほとんど持たない電力会社が、賠償と廃炉の支払いを続けている。2016年4月にホールディングスへ移行して小売・送配電・燃料火力を分社し、2019年4月に火力と燃料をJERAへ全面的に移管した。2026年3月期の連結売上高は6兆3,285億円、営業利益3,377億円で、小売のエナジーパートナーが売上4兆8,349億円・利益2,550億円、送配電のパワーグリッドが利益817億円を占める。火力のフュエル&パワーは売上37億円に対し利益833億円と、JERAの持分から生じる利益だけが残る。特別損失9,967億円で純損失は4,542億円に転じ、第五次総合特別事業計画は賠償に年約2,000億円、廃炉に年約3,000億円を見込む。事故を起こした設備の後始末が、営業段階で稼いだ利益の行き先を先に決めている。
競合
議決権の過半を国が握る電力会社は、東京電力だけである。JERAを折半で持つ中部電力とは対等の合弁相手だが、送配電と小売を分社して持株会社となった中部電力が自力で再編を決められるのに対し、東京電力の分社も料金も総合特別事業計画の認可を前提とする。関西電力は2015年から2023年にかけて美浜・高浜・大飯の7基を戻して電力大手で最多の稼働基数を取り戻し、原子力の稼働率をそのまま過去最高益へつなげた。東京電力の柏崎刈羽は7基821万kWと国内最大でありながら、事故当事者であることが地元同意の条件を重くし、2025年度にようやく試運転の段階へ入った。競争の焦点は電源の構成ではなく、株主が国であるあいだに経済事業でどれだけ稼げるかへ移った。
東京電力ホールディングス:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2006年3月期2026年3月期

設立ストーリー 9電力体制の一社としての発足と火主水従への転換 (1951年〜)

関東配電と日本発送電を継いで発足する

1951年5月、関東配電と日本発送電から設備の出資および譲渡を受け[1]、東京電力株式会社が発足した。同年8月には東京・大阪の両証券取引所市場第一部へ上場[2]した。発足後は関連会社の設立が相次ぎ、1953年3月に尾瀬林業観光を子会社化[3]し、1954年4月に東興業、1955年4月に東電不動産、同年11月に東電フライアッシュ工業を設立した[4]。1961年10月には名古屋証券取引所市場第一部にも株式を上場[5]した。

  • 東京電力ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1951年5月 関東配電・日本発送電から設備の出資および譲渡を受け東京電力株式会社設立
    • [2]1951年8月 東京・大阪両証券取引所市場第一部に上場
    • [3]1953年3月 尾瀬林業観光の株式を取得し子会社化
    • [4]1954年4月 東興業設立/1955年4月 東電不動産設立/1955年11月 東電フライアッシュ工業設立
    • [5]1961年10月 名古屋証券取引所市場第一部に上場

発足直後の東京電力は、水力に依存する電源構成[6]が生む供給の不安定さに直面した。1953年2月の渇水では電力事情がドン底に追い込まれ、猪苗代湖の貯水は残り28日分[7]と伝えられた。流量は平年の81%まで落ち、10年来の渇水記録[8]となった。通商産業省公益事業局は官報で各地の電力制限を強化したものの、大口工場の陳情に押されて法的制限は早くも乱れ[9]、豊水期までの1か月を凌ぐ策が課題となった。翌1954年1月には『東電だけでも400億からの金を使っているのに、ちょっと雨がふらないとモーターの回転が遅くなるという状況では心細い、電力会社は何をしているのか』[引用元]と需要家の不満が紙面に載った。

  • 読売新聞(1958年7月12日)
    • [6]戦後初期は水主火従が電気事業の常識で火力は補助的な役割にとどまった
  • 読売新聞(1953年2月5日)
    • [7]1953年2月 渇水で電力事情が逼迫・猪苗代湖の貯水は残り28日分
    • [8]1953年2月 流量は平年の81%・10年来の渇水記録
    • [9]通商産業省公益事業局が官報で各地の電力制限を強化・大口工場の陳情で法的制限は乱れた
  • 東京電力ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1951年5月 関東配電・日本発送電から設備の出資および譲渡を受け東京電力株式会社設立
    • [2]1951年8月 東京・大阪両証券取引所市場第一部に上場
    • [3]1953年3月 尾瀬林業観光の株式を取得し子会社化
    • [4]1954年4月 東興業設立/1955年4月 東電不動産設立/1955年11月 東電フライアッシュ工業設立
    • [5]1961年10月 名古屋証券取引所市場第一部に上場
  • 読売新聞(1958年7月12日)
    • [6]戦後初期は水主火従が電気事業の常識で火力は補助的な役割にとどまった
  • 読売新聞(1953年2月5日)
    • [7]1953年2月 渇水で電力事情が逼迫・猪苗代湖の貯水は残り28日分
    • [8]1953年2月 流量は平年の81%・10年来の渇水記録
    • [9]通商産業省公益事業局が官報で各地の電力制限を強化・大口工場の陳情で法的制限は乱れた

渇水を機とした火主水従への電源構成の転換

1955年8月、東京電力は従来の水主火従の原則による電力設備増強計画を火主水従へ改める[10]方針を打ち出した。戦後に海外から導入された技術で熱効率が従来の2倍近い高性能機器[11]が現れ、火力の経済性が一変したことがその前提にあった。先駆けとなった新東京火力発電所は、東京の需要の4分の1と栃木・群馬両県の全需要をまかなう規模[12]を備えた。同社は千住のような非能率火力を渇水期以外は停止し、新鋭火力を常時運転させる[13]ことでコストの切り下げと料金の安定を図る意向を示した。ひとむかし前まで発電といえばほとんど水力を指し、火力は補助にすぎなかった常識[14]が、ここで入れ替わった。

  • 読売新聞(1955年8月13日)
    • [10]1955年8月 水主火従の電力設備増強計画を火主水従へ改める方針
    • [12]新東京火力発電所は東京の需要の4分の1と栃木・群馬両県の全需要に相当する規模
    • [13]千住など非能率火力を渇水期以外は停止し新鋭火力を常時運転させコスト切り下げと料金安定を図る方針
  • 読売新聞(1958年7月12日)
    • [11]戦後導入の新技術により火力発電機器の熱効率が従来の2倍近くへ向上
    • [14]従来は発電といえば水力を指し火力は補助的な役割にとどまった

火主水従への転換と並行して東京電力は関係会社と発電資産を広げ、1957年6月に東京礦油、同年12月にスター礦油と南明興産を相次いで傘下へ加え[15]て、燃料の調達と輸送を担う会社を自前で抱えた。1960年12月には東電建設設計事務所を設け[16]、1963年8月に姫川電力の株式を取得[17]して水力発電の子会社とした。一方で立地の制約は1960年代半ばから重みを増し、1965年12月の京浜地区は一日中スモッグに覆われ[18]、公害対策上、石炭火力の建設は見合わせるべきだという主張[19]が紙面に現れた。新鋭火力の運転は自動制御へ移り、1959年6月にはイスに座って計器とにらめっこする運転作業員[20]の姿が紙面に載っている。

  • 東京電力ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [15]1957年6月 東京礦油設立/1957年12月 スター礦油・南明興産の株式を取得し子会社化
    • [16]1960年12月 東電建設設計事務所設立
    • [17]1963年8月 姫川電力の株式を取得し子会社化
  • 読売新聞(1965年12月11日)
    • [18]1965年12月 京浜地区が終日スモッグに覆われた
    • [19]1965年12月 公害対策上の石炭火力建設の見合わせが論じられ立地規制が前提条件となった
  • 読売新聞(1959年6月24日)
    • [20]1959年6月 火力発電所の運転が自動制御化し運転作業員は計器監視の作業へ変わった
  • 読売新聞(1955年8月13日)
    • [10]1955年8月 水主火従の電力設備増強計画を火主水従へ改める方針
    • [12]新東京火力発電所は東京の需要の4分の1と栃木・群馬両県の全需要に相当する規模
    • [13]千住など非能率火力を渇水期以外は停止し新鋭火力を常時運転させコスト切り下げと料金安定を図る方針
  • 読売新聞(1958年7月12日)
    • [11]戦後導入の新技術により火力発電機器の熱効率が従来の2倍近くへ向上
    • [14]従来は発電といえば水力を指し火力は補助的な役割にとどまった
  • 東京電力ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [15]1957年6月 東京礦油設立/1957年12月 スター礦油・南明興産の株式を取得し子会社化
    • [16]1960年12月 東電建設設計事務所設立
    • [17]1963年8月 姫川電力の株式を取得し子会社化
  • 読売新聞(1965年12月11日)
    • [18]1965年12月 京浜地区が終日スモッグに覆われた
    • [19]1965年12月 公害対策上の石炭火力建設の見合わせが論じられ立地規制が前提条件となった
  • 読売新聞(1959年6月24日)
    • [20]1959年6月 火力発電所の運転が自動制御化し運転作業員は計器監視の作業へ変わった

福島第一から柏崎刈羽へ、原子力17基の体制

1966年7月、東京電力は福島県双葉郡で福島第一原子力発電所1号機の建設に着手した。木川田一隆社長[21]のもとで原子力を基幹電源に据える判断であり、米ゼネラル・エレクトリックが設計した出力46万kWの沸騰水型軽水炉を採用した。1971年3月に営業運転を開始したこの1号機[22]が、国内の40万kW級商用原発の先駆けとなった。同年5月の紙面は、冷暖房・温水器・電子レンジといった家庭電化を支える主役が火力から原子力へ移る[23]と論じ、東京電力が6基の原発を建設する計画[24]も伝えた。高密度化すれば発電所から放出される放射能も増える[25]という指摘は、この時点ですでに載った。

  • 読売新聞(1968年8月23日)
    • [21]1960年代後半の東京電力社長は木川田一隆
  • 読売新聞(1971年5月8日)
    • [22]1971年 福島第一原子力発電所1号機が稼働(同年5月の報道で確認)
    • [23]1971年5月 家庭電化を支える主役が火力から原子力へ移るとの見通しが示された
    • [24]1971年時点で東京電力は6基の原発建設を計画
    • [25]高密度化により発電所から放出される放射能も増えるとの指摘

原子力の増設が1970年代から80年代にかけて続くなか、1973年6月の時点で電源開発は行き詰まり、1975年には需要が供給を上回る危機に追い込まれるのは必至[26]だと見込まれた。

  • 読売新聞(1973年6月10日)
    • [26]1973年6月 電源開発が行き詰まり1975年に需要が供給を上回る事態が避けられないと見込まれた
  • 読売新聞(1968年8月23日)
    • [21]1960年代後半の東京電力社長は木川田一隆
  • 読売新聞(1971年5月8日)
    • [22]1971年 福島第一原子力発電所1号機が稼働(同年5月の報道で確認)
    • [23]1971年5月 家庭電化を支える主役が火力から原子力へ移るとの見通しが示された
    • [24]1971年時点で東京電力は6基の原発建設を計画
    • [25]高密度化により発電所から放出される放射能も増えるとの指摘
  • 読売新聞(1973年6月10日)
    • [26]1973年6月 電源開発が行き詰まり1975年に需要が供給を上回る事態が避けられないと見込まれた

立地規制の強まりと設備拡大が生んだ収益構造

設備の増設は立地をめぐる交渉と表裏にあり、1968年に東京電力が品川区の米軍施設跡地を買い上げて東大井火力発電所を新設する計画[27]を立てると、東京都は公害の恐れがあるとして払い下げを拒む検討に入った。発電に使われる重油中の硫黄が亜硫酸ガスとなって発散する恐れ[28]があり、大気汚染が深刻になっていたことがその理由である。美濃部亮吉都知事は公害防止に断固たる態度で臨み[29]、東京電力側には建設の必要性を説明する具体的で詳細な文書の提出[30]を求めた。木川田一隆社長は、これが予定通りに完成しないと1971年夏には都内の電力が35万kW程度の供給不足になる[31]と訴えた。

  • 読売新聞(1968年8月23日)
    • [27]1968年 東大井火力発電所の新設計画をめぐり東京都が米軍施設跡地の払い下げ拒否を検討
    • [28]重油中の硫黄が亜硫酸ガスとなって発散する恐れが払い下げ拒否検討の理由
    • [29]美濃部亮吉都知事は公害防止に断固たる態度で臨んだ
    • [30]東京都は東京電力に公害防止と工場の必要性を説明する具体的・詳細な文書の提出を求めた
    • [31]1968年 木川田一隆社長が完成遅延時に1971年夏の都内で35万kW程度の供給不足になると訴えた

設備投資の累増は収益構造そのものを変え、1978年4月の時点で東京電力は稼働率56%のまま史上最高の利益を計上[32]して、稼働率の低下がそのまま収益の悪化に結びつく製造業[33]とは逆の姿を見せた。電気は貯蔵がきかないため、需要のピークに見合った供給力を持つ必要[34]がある。夏の冷房需要の増加を反映してピーク需要が急増し、これに対応して各電力会社が発電所の建設を進めた[35]結果、8月の最も暑い日に発電所はフル稼働する一方、それ以外の時期には設備が遊んだ[36]。1987年7月23日午後には首都圏を中心に大規模な停電が起き[37]、電力供給システムのもろさが露呈した[38]

  • 日経ビジネス 1978年4月24日号
    • [32]1978年4月 稼働率56%のまま史上最高の利益を計上
    • [33]製造業では稼働率の低下が即収益の悪化に結びつく
    • [34]電気は貯蔵がきかずピーク(尖頭最大電力)に見合った供給力の保有が必要
    • [35]夏の冷房需要の増加でピーク需要が急増し各電力会社が発電所建設を進めた
    • [36]8月の最も暑い日に発電所はフル稼働しそれ以外の時期は設備が遊ぶ
  • 日本経済新聞(1987年7月25日)社説
    • [37]1987年7月23日午後 首都圏を中心に大規模な停電が発生
    • [38]1987年の停電で電力供給システムのもろさが露呈した
  • 読売新聞(1968年8月23日)
    • [27]1968年 東大井火力発電所の新設計画をめぐり東京都が米軍施設跡地の払い下げ拒否を検討
    • [28]重油中の硫黄が亜硫酸ガスとなって発散する恐れが払い下げ拒否検討の理由
    • [29]美濃部亮吉都知事は公害防止に断固たる態度で臨んだ
    • [30]東京都は東京電力に公害防止と工場の必要性を説明する具体的・詳細な文書の提出を求めた
    • [31]1968年 木川田一隆社長が完成遅延時に1971年夏の都内で35万kW程度の供給不足になると訴えた
  • 日経ビジネス 1978年4月24日号
    • [32]1978年4月 稼働率56%のまま史上最高の利益を計上
    • [33]製造業では稼働率の低下が即収益の悪化に結びつく
    • [34]電気は貯蔵がきかずピーク(尖頭最大電力)に見合った供給力の保有が必要
    • [35]夏の冷房需要の増加でピーク需要が急増し各電力会社が発電所建設を進めた
    • [36]8月の最も暑い日に発電所はフル稼働しそれ以外の時期は設備が遊ぶ
  • 日本経済新聞(1987年7月25日)社説
    • [37]1987年7月23日午後 首都圏を中心に大規模な停電が発生
    • [38]1987年の停電で電力供給システムのもろさが露呈した

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東京電力ホールディングスの沿革1951〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1951〜1965年9電力体制の一社としての発足と火主水従への転換安蔵彌輔東京電力設立
安蔵彌輔東京・大阪両証券取引所市場第一部に上場
高井亮太郎水主火従から火主水従へ──火力を基幹電源に据えた電源構成の転換

1955年8月、東京電力が従来の『水主火従』原則による電力設備増強計画を『火主水従』へ改め、天候に左右されにくい火力を供給の基幹電源に据える転換に踏み切った経営判断。戦後の需要膨張と渇水による供給危機がその引き金となった。

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★★★
木川田一隆名古屋証券取引所市場第一部に上場
木川田一隆姫川電力を子会社化
1966〜1990年原子力17基への傾斜と設備拡大が生んだ代償木川田一隆福島第一原子力発電所の建設と原子力への参入

1966年、東京電力が福島県双葉郡に福島第一原子力発電所1号機を着工し、1971年3月に営業運転を開始した経営判断。米ゼネラル・エレクトリック社が設計した沸騰水型軽水炉を採用し、出力46万kWは日本の40万kW級商用原発の先駆けとなった。木川田一隆社長のもとで原子力を基幹電源に据えた。

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★★★
水野久男福島第一原子力発電所1号機営業運転開始★★
那須翔柏崎刈羽原子力発電所1号機営業運転開始
那須翔テプコケーブルテレビを設立
1991〜2010年「普通の会社」への模索と原発データ改ざんによる信頼の失墜荒木浩テプコ・リソーシズ社設立
南直哉海外電力事業の統括会社TEPCインターナショナルを設立
南直哉原発検査データ改ざん問題の発覚★★
勝俣恒久パワードコムを子会社化し通信事業へ参入
勝俣恒久パワードコムをKDDIと合併し通信事業から撤退★★
勝俣恒久新潟県中越沖地震により柏崎刈羽原発が全基停止
勝俣恒久初の純損失を計上
2011〜2025年福島第一原発事故と実質国有化、4社分割による再編清水正孝東日本大震災・福島第一原子力発電所事故★★
清水正孝FY10に純損失1兆2473億円を計上
西澤俊夫1兆円の公的資金を受け入れ、議決権の過半を政府へ渡す

2012年7月31日、政府が原子力損害賠償支援機構を通じて東京電力へ1兆円を出資し、議決権の50.11%を取得した。同年5月に総合特別事業計画を発表し、6月末には委員会設置会社へ移行して廣瀬直己氏が社長、下河辺和彦氏が会長に就いている。民間電力会社が国の管理下で経営を続ける枠組みがここで成立した。

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★★
廣瀬直己火力発電と燃料調達を中部電力との合弁JERAへ移し、自社の火力発電所を手放す

2015年4月に燃料・火力発電、送配電、小売電気の3つの分割準備会社を設立し、同年10月には中部電力との合弁会社JERAが燃料輸送事業と燃料トレーディング事業を承継した。2016年7月に既存の燃料上流・調達事業と海外火力IPP事業、2019年4月には既存火力発電事業が移り、東京電力は自社の火力発電所を持たない電力会社になった。

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★★★
廣瀬直己東京電力HDに商号変更、HDス体制に移行★★
小早川智明小早川智明が代表執行役社長に就任
小早川智明リニューアブルパワーに再エネ事業を承継
小早川智明ユーラスエナジーHDの株式を全数譲渡
小早川智明FY22に経常損失2853億円、純損失1236億円を計上
小早川智明FY23に経常利益4255億円、純利益2678億円に回復
出典・参考
  • 東京電力ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
  • 日経ビジネス 1978年4月24日号
  • 読売新聞(1953年2月5日)
  • 読売新聞(1955年8月13日)
  • 読売新聞(1958年7月12日)
  • 読売新聞(1959年6月24日)
  • 読売新聞(1965年12月11日)
  • 読売新聞(1968年8月23日)
  • 読売新聞(1971年5月8日)
  • 読売新聞(1973年6月10日)
  • 日本経済新聞(1987年7月25日)社説

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