歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1951年、GHQの電気事業再編成令により、戦時統合で生まれた日本発送電と四国配電が分割再編され、四国電力が香川県高松市で発足した。資本金4億円、初代社長は日本発送電出身の宮川竹馬氏が務めた。全国を9社に分ける民間電力体制の一角として四国4県を独占的に担い、発電から送電・配電・小売までを一体で運営した。経営は国の電源開発政策と歩調を合わせ、需要予測に応じて毎年度の発電所建設を積み上げる事業計画に置かれた。1954年5月に東京証券取引所へ上場した。
決断1969年、愛媛県伊方町から原発誘致の陳情を受け、四国電力は佐田岬半島の先端に伊方発電所の立地を決めた。第一次石油危機で重油偏重の電源構成の脆さを痛感したことが、原子力の導入を進める後押しとなった。1977年に1号機、1994年に3号機を運転開始し、総出力202.2万kWの3基体制で原子力比率を約40%まで引き上げた。燃料費が安い原子力でベースを担い、火力でピークを調整する構成が固まり、四国電力は9電力の中でも安定した収益基盤を持つ会社の一つとなった。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1951年〜1976年 9電力体制で四国を担い火力で量を伸ばした25年
GHQ政令で発足した9電力体制で四国を担う設立期
1951年5月1日、電気事業再編成令により、戦時統合で発足していた日本発送電と四国配電が分割再編され、四国電力は資本金4億円・本社香川県高松市で設立された[1][2]。初代社長には日本発送電出身の宮川竹馬氏が就任した[3]。再編成令は松永安左エ門氏が議長を務めた電気事業再編成審議会の答申を起点とし、[4]国会で法案が成立しなかった事情からポツダム政令という強い権限で全国を9つの民間電力会社に分けた。四国電力は四国4県を独占的に担う一般電気事業者として発足し、業務範囲は発電・送電・配電・小売を一体で行う垂直統合型の体制となった。設立から3年後の1954年5月には東京証券取引所へ株式を上場し、資本市場からの調達ルートを得た[5]。
設立直後の四国は水力発電が中心で、戦後復興期の旺盛な電力需要に応えるには発電設備の絶対量が不足していた。鉱工業生産の回復と家庭電化の進展で需要は年々膨らみ、渇水時の供給不安が経営課題として常時のしかかった。9電力体制の各社は、それぞれの供給区域内で自前の発電所を増設して需給を平準化する責務を負い、四国電力は最初の重油火力発電所として1963年7月に阿南発電所(徳島県)1号機を運転開始した[6]。続く1965年11月には西条発電所(愛媛県)1号機が運転に入り、[7]四国の北側と東側に火力の主力拠点を配置する体制を整え始めた。
四国電力の創業期は、戦時統合で生まれた発送配電一貫の事業体を引き継ぎながら、地域独占という制度的枠組みの下で電源開発を急ぐことに尽きた。同社の経営は、国の電源開発政策と歩調を合わせ、需要予測に応じた発電所建設と設備投資を毎年度の事業計画として積み上げる構図に置かれた。1951年の発足から1960年代半ばまでに、四国電力は水力依存から火力主体への電源構成の転換を完了させ、[8]戦後復興期の電力供給を担う四国唯一の電気事業者として、四国経済の基盤を支える位置を固めた。設立から発電所3拠点の整備までの15年間は、9電力体制という制度の下で四国の電力供給を機能させることが最優先の経営課題となった時期だった。
阿南・西条・坂出 ── 高度成長期に並行整備した3火力体制
1960年代後半から1970年代前半にかけて、四国経済は石油化学・製紙・造船などの臨海工業地帯の整備が進み、電力需要は年率10%前後で膨張した[9]。四国電力は1971年7月に坂出発電所(香川県)1号機を運転開始し、阿南・西条と合わせて3つの火力拠点で四国全体の需要を支える体制を組んだ[10]。坂出発電所1号機は日本初の複合発電方式(ガスタービンと蒸気タービンの組み合わせ)を採用した出力19.5万kWの設備で、燃料効率と起動の柔軟性に優れた新方式を業界に先駆けて投入した[11]。1965年3月の電力需要35億kWhから1975年3月には約2.5倍まで膨らみ、[12]高度成長期の四国経済を電力面で下支えする実績を残した。
3火力体制は単純な拡張ではなく、需要のピーク時に各発電所を組み合わせて運用する設計の前提でもあった。阿南は徳島県東部の電力消費地に近く、西条は瀬戸内工業地域の中央、坂出は瀬戸内海航路の要衝に位置し、4県への送電網と組み合わせた供給最適化が成立した。一方で1965年に四国計器工業(現・四国計測工業)、1961年に四国企業(旧・四電産業)、[13]1970年に四電エンジニアリングと、本体の事業活動を支える子会社群も並行して設立し、[14]計測器・工事・産業サービスの内製化を進めた。電力本体への投資と並行して、グループ内の供給チェーンを自前で組み立てる戦略がこの時期に始まった。
1973年10月の第一次石油危機は、四国電力の経営前提を揺さぶった。火力発電の燃料は当時ほぼ重油に依存しており、原油価格が1年で約4倍に跳ね上がる事態に直面した四国電力は、燃料費の急増で1974年3月期に減益となった。この経験から、燃料を石油に集中させる電源構成の脆さが経営課題となり、燃料分散と脱石油の方向性が業界全体で議論された。四国電力もこの方向に従い、原子力発電所の建設準備を進め、1969年に伊方町から誘致陳情を受けて以降、用地取得と立地交渉を継続していた[15]。1970年代中盤、火力一辺倒の電源構成から原子力を組み込む体制への移行が、四国電力の次の経営課題に位置づいた。
1969年伊方誘致陳情から1973年建設開始までの4年
伊方原子力発電所の立地は1969年、愛媛県伊方町の町長・地主・漁業関係者らが四国電力に対して誘致陳情を行ったことから始まった[16]。佐田岬半島の先端に位置する伊方町は過疎が進んでおり、[17]地域振興と固定資産税収入を目的に原発誘致を選択した。四国電力は同年から立地調査を開始し、1972年11月に原子炉設置許可を取得、1973年から建設工事に着手した[18]。誘致陳情から建設開始まで4年という比較的短い期間で進んだ背景には、町主導の誘致と石油危機後の電源分散の必要性という二つの要素が重なっていた。
1973年8月、地元住民33名は1号炉設置許可処分の取消を求めて松山地方裁判所に提訴し、伊方原発訴訟が始まった[19]。日本における原発設置許可処分の取消を求めた初の行政訴訟で、安全審査の妥当性と司法審査の方法をめぐる長期の法廷闘争となった。1978年4月に一審で住民側敗訴、1992年10月に最高裁が住民側の上告を棄却して判決が確定した[20]。この間、四国電力は1977年9月に伊方発電所1号機(出力56.6万kW)を運転開始させ、1982年に2号機、1994年に3号機が運転を開始した。3基体制の総出力は202.2万kWに達し、[21]四国電力の電源構成における原子力比率は1990年代後半に約40%まで上昇した[22]。
伊方原発の立地は、四国電力の電源構成を石油火力中心から原子力を主力電源とする構成へと不可逆に変えた。同時に、原子力という電源を四国に持つこと自体が、佐田岬半島の地理的特性(中央構造線断層帯の近傍に位置するなど)と相まって、長期にわたる地震・火山リスクの議論を経営の前提に組み込ませた。1970年代後半から1990年代までの四国電力の電源開発は、伊方の3基体制を完成させることが中心命題となり、3号機の運転開始までに通算で25年の歳月を要した[23]。地元の誘致から始まった原子力発電所の立地は、後年の経営を規定する最大の決断となった。
1977年〜2010年 伊方原発3基体制の完成と電力自由化前夜の多角化模索
原子力40%電源構成と燃料費低減で達成した収益安定期
1977年9月の伊方1号機運転開始以降、四国電力は原子力を電源構成の中核に据える時代に入った。1982年3月に2号機(56.6万kW)、1994年12月に3号機(89万kW)が相次いで運転を開始し、伊方発電所の総出力は202.2万kW(うち3号機89万kWは加圧水型軽水炉)に達した[24]。3基体制の完成により、原子力の発電量比率は四国電力の電源構成で約40%まで上昇し、[25]燃料費が低廉な原子力でベースロードを担い、火力でピークを調整する電源構成が固まった。電源構成の安定は経営の安定に直結し、1980年代後半から1990年代の四国電力は、9電力体制の中で比較的安定した収益基盤を維持した会社の一つとなった。
1990年代後半、政府は電気事業法を順次改正し、特別高圧需要家を対象とした小売自由化(2000年)、高圧需要家への拡大(2004〜2005年)と4年余りで市場開放を進めた[26]。1995年には電源調達における入札制度(卸電力供給入札制度)が導入され、[27]9電力会社は地域独占の枠を残しつつも、卸電力市場と新規参入を一定範囲で受け入れる体制へ移行した。四国電力もこの時期に独立系発電事業者(IPP)からの電源調達を始め、1995年に2社のIPPと供給契約を結んだ。電気料金は政府の認可制から届出制へと数年がかりで緩和され、1990年代後半から2000年代前半にかけて、四国電力を含む電力大手は経営合理化と料金引き下げを並行して実施する局面に入った。
電気事業の収益が安定していた時期、四国電力は1989年7月に四電情報ネットワークサービス(後のSTNet)を設立し、情報通信事業へ進んだ。STNetは1989年10月に固定系第一種電気通信事業者として参入し、[28]四国地域の電力契約者を顧客基盤に法人向け通信サービス・データセンター事業を運営した。1996年12月には電力契約者向け無料インターネットサービス「あかりネット」を開始し、[29]1990年代後半の情報通信需要を捉えた。電力本体の収益が安定していたこの時期、四国電力はグループ事業の多角化を電力周辺領域から始め、2002年4月にはSTNetを完全子会社化し、グループの中核事業の一つに位置付けた[30]。
四電エナジーサービスと不動産・建設子会社群によるグループ事業の体系化
2000年代に入り、四国電力は電気事業の規制緩和進展を見据えて、グループ事業の体系化を急いだ。2000年6月には橘湾発電所(徳島県阿南市、火力)1号機(70万kW)が運転開始し、[31]阿南火力に加えて隣接地に建設された新鋭石炭火力として運用に入った。橘湾発電所は四国電力と電源開発の共同出資による発電所の隣接地に位置し、四国の電源開発で最後の100万kW級火力プロジェクトとなった。2003年4月には四電産業と県別ビジネス3社を統合し、四電ビジネスへ商号変更してビル管理・人材派遣事業を集約、[32]2004年6月には坂出LNGを設立してLNG受入基地建設の準備を始め、[33]燃料調達多様化を視野に入れた。
2004年10月にはSTNetとネットウェーブ四国を統合し、[34]2006年9月にケーブルテレビ徳島、2007年12月にケーブルメディア四国を相次いで子会社化、[35]ケーブルテレビと光ファイバ網を組み合わせた地域通信事業基盤を整備した。情報通信事業は四国電力グループの非電気事業のなかでもっとも収益貢献度が高く、電力本体の安定収益と並んで、グループの二本目の柱として育成されていった。FY16の情報通信事業セグメント売上は259億円、セグメント利益41億円となり、電気事業の周辺事業として一定の規模に達した。多角化は電力本体の収益を補完する位置づけにとどまったが、後の自由化時代に向けた地域内顧客基盤の蓄積につながった。
2005年6月には常盤百樹氏が10代目社長に就任し、[36]電気事業の規制緩和進展下での経営方針として、グループ事業の収益貢献度向上を掲げた。経営計画では電気事業の効率化に加えて、情報通信・エネルギー・建設・産業サービスといった非電気事業のグループ全体での収益貢献を10%程度まで引き上げる目標を設定した。だが連結売上高の9割超を電気事業が占める構造は変わらず、グループ多角化は規模面では限定的な進展にとどまった。2009年6月に千葉昭氏が11代目社長に就任した時点で、[37]四国電力の経営課題は電力小売自由化への対応と原子力の安全運転継続という二つに集約されていた。
2003年から始めた中東カタールIPPによる海外発電事業の初参入
2003年度、四国電力は海外初の独立系発電事業(IPP)として中東カタールの火力発電プロジェクトに参画した[38]。電気事業の規制緩和で国内市場の成長見通しが鈍化したこと、規模拡大の機会を海外に求める判断が背景となり、9電力の中でも比較的早い海外進出となった。カタール参画以降、四国電力はオマーン、チリ、米国、アラブ首長国連邦、インドネシア、台湾、ミャンマーへと事業対象地域を拡げ、[39]火力・太陽光・風力を組み合わせた発電事業ポートフォリオを案件単位で組み上げた。海外進出は規模拡大よりも、規制下では経験できない競争入札ノウハウの蓄積が経営陣の主な狙いだった。
海外IPP事業は四国電力本体の規模からみれば小さな部門だが、地域独占の電気事業者として規制下で運営してきた同社にとって、自由競争下の海外市場で発電事業を運営する経験を積む実戦の場となった。2025年3月時点で海外事業の持分容量は火力9件・約131.6万kW、再エネ6件・約43.1万kWに達し、運開済設備の合計は約94万kWとなった[40]。国内の伊方原発3基体制(202.2万kW)の約半分の容量を海外市場で保有する規模に到達し、[41]9電力の中で四国電力の国際事業は中位の位置を占めた。海外事業の運営で得たIPP契約交渉と現地パートナー管理の経験は、国内で進む電力自由化への対応にも還元される構図となった。
2010年代に入り、海外発電事業は四国電力グループの拡張領域に位置付けられた。国内の電力市場が縮小局面に入る中で、海外発電事業からの安定収益は重要性を高めた。FY24の連結業績では、国際事業セグメントの経常利益は約40億円に達し、[42]グループ全体の収益の一翼を担う規模となった。FY30の中期経営計画では国際事業の経常利益目標を80億円と倍増させ、[43]中東・東南アジアを中心に発電案件の追加と新地域への進出を計画した。2003年に始まった海外発電事業は、20年余りを経て四国電力の事業構造のなかで独自の領域として確立された。
2011年〜2026年 福島事故・電力自由化・燃料費高騰がもたらした経営激震と再定義
福島事故から伊方全基停止 ── 連結赤字3年連続の打撃
2011年3月11日の東日本大震災と福島第一原発事故は、四国電力の経営前提を根本から変えた。福島事故後の新規制基準制定と再稼働審査の長期化により、伊方発電所1〜3号機は2011年から2015年にかけて順次定期検査入りし、3基すべてが停止する状態が長期化した[44]。発電量の40%を担っていた原子力が稼働しないなか、火力発電の稼働率を引き上げて需給を維持する運用を続け、燃料費が急増した。FY11は経常利益480億円・純利益236億円の黒字を維持したが、FY12には経常損失19億円・純損失94億円、FY13には経常損失570億円・純損失429億円、FY14は経常損失17億円・純損失33億円と、3年連続の赤字決算となった。
2013年2月、千葉昭社長は家庭向け規制料金の値上げ申請を経済産業省に提出した。平均10.94%の値上げを求める内容で、[45]千葉社長は最後の手段としての値上げという位置付けで苦渋の決断と説明し、伊方原発停止に伴う燃料費増を主要な値上げ理由として挙げた。年平均281億円のコスト削減を3年間で実施する経営合理化計画も同時に提示し、人件費圧縮97億円・修繕費削減71億円を中心とする内訳とした[46]。役員報酬の減額、社員給与の前年比約16%減、[47]採用抑制と修繕費の繰り延べが、値上げを地元と政府に受け入れてもらう前提条件となった。
伊方3号機は2016年8月に再稼働したが、[48]その後も2017年12月の広島高裁による運転差止仮処分決定(阿蘇カルデラ噴火リスクを理由とした司法判断)、2020年1月の同高裁による再差止決定など、[49]運転停止と再開を繰り返す不安定な運用が続いた。1号機は2016年5月に運転を終了して廃炉決定、2号機も2018年5月に運転終了で廃炉決定となり、伊方発電所は3号機の1基体制となった[50]。福島事故前に総出力202.2万kWを誇った伊方発電所は、廃炉決定と再稼働長期化を経て、稼働可能容量89万kWの1基体制へ縮小した。原子力比率は震災前の約40%から10%台へ下がり、[51]火力依存の電源構成への逆行が経営の構造的な負担として残った。
小売全面自由化下での販売電力量の10%流出
2016年4月1日、電力小売全面自由化が施行された[52]。一般家庭を含むすべての低圧需要家が電力会社を自由に選べる制度となり、9電力体制の地域独占は事実上終焉した。四国電力は新電力(PPS)との競争に直面し、域内販売電力量の約10%を新規参入事業者に奪われる事態となった[53]。2015年6月に12代目社長に就任した佐伯勇人氏は、[54]低圧需要家の全面自由化で対象顧客が一般家庭まで広がることによる事業へのインパクトを強調し、競争力強化のための社内変革を経営課題に据えた。佐伯社長はスピード感を持って新時代に適応するしなやかな企業集団づくりを掲げ、グループ事業の多角化と域外販売の強化を経営課題に据えた。
2019年6月に13代目社長に就任した長井啓介氏は、[55]自由化下での顧客基盤の維持・拡大を最優先課題に置いた。長井社長は、地域独占下の供給者意識から脱して、顧客に四国電力を選んでもらう時代に入ったとの認識を全社の課題に据えた。さらに、グループ会社が培ってきた技術やノウハウを異分野と融合させる方針を打ち出し、グループ事業の異業種連携も全社方針に置いた。長井社長の在任期間中、農業(イチゴ栽培)への参入、データセンター事業の強化、ヨンデンコンシェルジュサービスの拡充など、非電気領域への進出が相次いだ。
2020年4月、電気事業法の改正に基づき送配電部門の法的分離が施行され、四国電力は一般送配電事業を四国電力送配電(100%子会社、2019年4月設立)に承継した[56]。発電・小売事業は四国電力本体に残し、送配電事業を別法人化することで、電力システム改革の最終段階に対応した。2020年4月以降の四国電力の事業構造は、発電・販売事業(本体)、送配電事業(四国電力送配電)、情報通信事業(STNet)、エネルギー事業(四電エナジーサービス)、建設・エンジニアリング事業(四電工等)、その他に分かれる5セグメント体制となった。地域独占時代の発送配電一体経営は制度的に終焉し、各事業セグメントが自立的に収益貢献する構造への移行が始まった。
経常赤字225億円から純利益683億円へのV字回復
2022年3月期、四国電力は連結経常損失121億円・純損失63億円を計上し、続く2023年3月期には経常損失225億円・純損失229億円と、福島事故後で最深となる赤字に転落した。ロシア・ウクライナ情勢の緊迫化に伴うLNG・石炭価格の世界的高騰が直接の原因で、燃料費調整制度の上限による未回収額の累積と燃料費高騰の重圧で、伊方3号機の稼働率改善による収益貢献分(経常利益約750億円相当の押し上げ)も相殺された。2022年7月には自由料金の燃料費調整単価の上限を撤廃し、同年11月28日には規制料金の値上げ申請(平均28.08%)を経済産業省に提出した[57]。2023年5月19日に値上げが認可され、6月1日から平均28.74%(送電料金改定の影響を除くと24.10%)の規制料金引き上げが施行された[58]。
2024年3月期、四国電力は売上高7,874億円・経常利益801億円・純利益605億円のV字回復を達成した。規制料金値上げの効果と燃料費の落ち着き、伊方3号機の安定運転継続が業績回復の3要素となった。続く2025年3月期は売上高8,514億円・経常利益916億円・純利益683億円と過去最高の業績を更新し、長期にわたる原発停止と燃料費高騰で疲弊した経営の正常化に区切りがついた。2024年6月、14代目社長に宮本喜弘氏が就任し、就任会見で伊方原子力発電所の安全確保を最優先に低廉かつ安定的な電力供給に努める方針と、変化の中にこそ成長機会があるとの認識を示し、[59]安定収益期に入った経営の次のフェーズに移行した。
2025年9月、宮本社長は「よんでんグループ中期経営計画2030」を発表した[60]。2030年度の連結経常利益650億円以上を目標に掲げ、[61]電気・情報通信をコア事業、国際事業を拡張領域、脱炭素電力供給・エネルギーソリューションを挑戦領域に位置付ける3層構造で経営資源を配分する方針を示した。国際事業の経常利益目標は2025年度見通しの倍となる80億円で、[62]中東・東南アジアの発電案件を中心に拡大を続ける計画とした。電気事業の安定収益と情報通信のキャッシュフローを土台に、国際事業と再エネ・データセンターを次の成長領域に育てる構造は、1951年の発足から75年を経た四国電力の経営の中心命題が、[63]地域独占の電気事業者から複線型のエネルギー・情報通信企業へと移ったことを示している。電源開発で量を伸ばす時代から、収益源を地域・領域の両面で分散させる時代への転換が、ようやく数字で形を取り始めた。