水主火従から火主水従へ──火力を基幹電源に据えた電源構成の転換

渇水のたびに揺らぐ水力偏重の供給を、東京電力はどう作り替えたか

更新:

時期 1955年8月
意思決定者 東京電力 東京電力 経営陣
論点 供給構造と電源構成
概要
1955年8月、東京電力が従来の「水主火従」原則による電力設備増強計画を「火主水従」へ改め、天候に左右されにくい火力を供給の基幹電源に据える転換に踏み切った経営判断。戦後の需要膨張と渇水による供給危機がその引き金となった。
背景
1951年に9電力体制の一社として発足した東京電力は、首都圏という国内最大の需要地を担った。だが発電は水力を主とし火力を従とする常識のもとにあり、1953年の渇水では電力事情が「ドン底」まで逼迫し、天候頼みの供給の弱さが露わになっていた。
内容
水力偏重の設備増強計画を火主水従へ改め、戦後に海外から導入された熱効率2倍近い新技術を備えた新東京火力発電所を先駆けに据えた。非能率な旧火力は渇水期以外は止め、新鋭火力を常時運転させてコスト切り下げと料金安定を図る方針を示した。
含意
天候に左右される水力への依存を、需要膨張と渇水の二重の圧力のなかで手放した判断であった。火力は燃料価格の変動という新たな不安定さを抱え込み、それがのちの原子力への傾斜と、2019年の火力事業のJERAへの移管まで、電源をどこに置くかという問いが形を変えて続いていく。
筆者の見解

基幹電源を何に置くか、という問い

この転換の核心は、天候に左右される水力への依存を、東京電力が需要膨張と渇水の二重の圧力のなかで手放した点にある。水主火従という電気事業の常識を、首都圏最大の需要地を担う会社が率先して火主水従へ書き換えたのは、供給責任を果たすうえで避けられない選択であったとみることができる。渇水のたびに工場のモーターが鈍る不安定さを、基幹電源そのものの入れ替えによって断とうとした判断であり、戦後に導入された火力の新技術がその決断を経済的に裏づけた。

ただし、水力から火力への転換は、電源をめぐる問いの終わりではなく始まりでもあった。火力は燃料価格という新たな変動要因を抱え込み、その不安定さが後に原子力への傾斜を促し、燃料調達力を求めて火力事業そのものを他社と統合する道へつながっていく。基幹電源を何に置くかという1955年の問いは、原子力事故を経てもなお、東京電力の供給構造の底流として今日まで問い直されているとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

9電力体制の首都と、水力に頼る供給

東京電力は1951年5月、GHQの電力再編成令に基づき関東配電と日本発送電の設備を引き継いで発足した。北海道から九州まで9つの電力会社が地域独占で発送配電を一貫経営する9電力体制のなかで、首都圏という国内最大の需要地を一社で担い、販売電力量は全国のおよそ3分の1を占めた。発足当初の電気事業は、発電といえば水力を主とし火力を従とする「水主火従」が常識であり、火力はあくまで補助的な役割にとどまっていた[1]

しかし水力は天候に左右される弱さを抱えていた。1953年2月の渇水期には「電力事情はついにドン底においこまれた」と報じられ、5日の流量は平年の81パーセントで10年来の渇水記録となった。通産省の公益事業局が各地の電力制限を強化し、大口工場からの「電力よこせ」の陳情に押されて法的制限が乱れ始めるなど、水力頼みの供給が渇水の前にたやすく崩れる姿が紙面に刻まれた[2]

需要の膨張と、需要家の不満

翌1954年1月には、需要家の不満が紙面を埋めた。「東電だけでも400億からの金を使っているのに、ちょっと雨がふらないとモーターの回転が遅くなるという状況では心細い、電力会社は何をしているのか」[3]という声は、渇水のたびに工場の動力が鈍る不安定さへの苛立ちであった。戦後復興と高度成長の入口で電力需要は年ごとに膨らみ、天候頼みの水力偏重のままでは首都圏の需要増を安定して支えきれない構造が、誰の目にも明らかになりつつあった。

決断

水主火従から火主水従へ

1955年8月、東京電力は従来の「水主火従」原則による電力設備増強計画を「火主水従」へ改める方針を打ち出した。渇水のたびに供給が細る水力中心の構成を見直し、天候に左右されにくい火力を供給の基幹に据える転換であった。首都圏最大の需要地を担う会社が、電気事業の常識であった水主火従を率先して書き換えた点に、供給責任を果たすための踏み込みがあらわれていた[4]

転換を支えたのは、戦後に海外から導入された火力発電の新技術であった。それまでの火力は熱効率が低く割高であったが、熱効率を従来の2倍近くに引き上げた高性能機器の出現で火力の経済性は一変した。その先駆けが新東京火力発電所であり、火力を補助電源にとどめてきた前提そのものを技術が覆した。大規模な電源開発と相次ぐ火力発電所の建設によって、電気事業は明るい産業へと転じていった[5]

旧火力を止め、新鋭火力を常時運転する

東京電力は、千住のような非能率な旧火力を渇水期以外は止め、新鋭火力を常時運転させてコストの切り下げと料金の安定を図る意向を示した。新東京火力発電所は一カ所で東京の需要のおよそ4分の1、栃木・群馬両県の全需要を賄うほどの供給力を備え、渇水期の補いにとどまっていた火力を、平常時に電気を生む基幹電源へと押し上げた。設備の主役を水力から火力へ入れ替える構想が、供給計画の中心に据えられた[6]

結果

基幹電源となった火力と、その先

火主水従への転換は、首都圏の需要膨張に供給を追随させる骨格になった。1950年代から60年代にかけて東京電力は火力発電所を首都圏沿岸部に次々と建設し、高度経済成長に伴う電力需要の増大に応える供給力を積み上げた。地域独占と総括原価方式のもとで、設備投資を積み増すほど供給力と利益をともに確保できる料金規制の設計が、この積み増しをさらに後押しした。渇水に揺らいだ供給は、火力を基幹に据えたことで安定へ向かった[7]

もっとも火力は、燃料価格の変動リスクを恒常的に抱えた。管内に水力の適地が乏しかった東京電力は、やがて運転時の燃料費が低く建設費を長期にわたり料金原価へ算入できる原子力へ傾斜し、1966年に福島第一原子力発電所の建設に着工する。天候に左右されない基幹電源をどう確保するかという火主水従の問いは、原子力へ、さらに2019年に火力発電事業をJERAへ移管して自社の火力発電所を持たない会社になるまで、形を変えて続いていった[8]

出典・参考
  • 読売新聞(1953年2月5日)「電力ついにドン底・猪苗代湖もあと28日分」
  • 読売新聞(1954年1月20日)「電力まず大丈夫」
  • 読売新聞(1955年8月13日)「最新鋭火力誇る」
  • 読売新聞(1958年7月12日)「火力発電の時代へ」
  • 東京電力 有価証券報告書【沿革】