福島第一原子力発電所の建設と原子力への参入

膨張する首都圏の電力需要に、東京電力はなぜ原子力を基幹電源に選んだか

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時期 1966
意思決定者 木川田一隆 東京電力 社長
論点 電源構成と基幹電源の確保
概要
1966年、東京電力が福島県双葉郡に福島第一原子力発電所1号機を着工し、1971年3月に営業運転を開始した経営判断。米ゼネラル・エレクトリック社が設計した沸騰水型軽水炉を採用し、出力46万kWは日本の40万kW級商用原発の先駆けとなった。木川田一隆社長のもとで原子力を基幹電源に据えた。
背景
高度経済成長で首都圏の電力需要が膨張する一方、東京電力の管内は水力の適地に乏しく、火力は燃料の輸入依存と立地規制の制約を抱えていた。地域独占と総括原価方式が、設備投資を利益に転換できる体力を東京電力に与えていた。
内容
1966年に福島第一1号機を着工してGE設計の沸騰水型軽水炉を採用し、1971年に稼働させた。以後、福島第二・柏崎刈羽と原発を増設し、計17基の体制を築いた。原子力は運転時の燃料費が低く、総括原価方式のもとで建設費を長期にわたり料金原価へ算入できる合理性があった。
含意
供給力を長期に確保する合理的な選択に見えた原子力への傾斜は、収益が稼働率に左右される脆さと表裏であった。2002年の検査データ改ざん、2007年の地震、そして2011年の事故が、その代償を段階的に突きつけた。
筆者の見解

供給を支えた選択と、その代償

この決断の核心は、増え続ける首都圏の需要に対し、東京電力が原子力という資本集約的な基幹電源を自前で抱える道を選んだ点にある。水力の適地を欠き、火力の燃料と立地に制約を抱えた同社にとって、原子力は供給力を長期に確保する合理的な選択に見えた。地域独占と総括原価という制度が、その大きな初期投資を支え、回収を保証した。福島第一の稼働は、日本の商用原子力の先駆けとして、以後の東京電力の電源構成を長く方向づけたとみることができる。当時の判断としては、時代の要請にかなった前向きな一手であった。

ただし、基幹電源の多くを一つの技術に委ねる構えは、稼働率や安全性が揺らいだときに経営全体を揺さぶる脆さと、表裏の関係にあった。改ざんや地震による停止のたびに赤字が突きつけられ、2011年の事故はその脆さを最も重いかたちで露呈させた。供給の安定を求めた合理的な投資判断が、半世紀を経て会社の存立そのものを問う事態へつながっていった経緯は、基幹電源をどこに置くかという問いが、短期の採算だけでは測りきれない射程を持つことを示しているとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

膨張する首都圏の電力需要と供給の制約

戦後復興から高度経済成長へと進むなかで、首都圏の電力需要は年を追って膨張した。家庭電化の広がりと産業活動の拡大が需要を押し上げ、供給力の確保は電力会社にとって最大の経営課題となっていた。東京電力の管内には水力発電の適地が乏しく、供給の主力は臨海部に並ぶ火力発電所であった。同社は1950年代から60年代にかけて首都圏沿岸部に火力を次々と建設し、需要の伸びに応える供給力を積み上げていったが、火力は燃料を輸入に頼り、価格の変動という不確実性を常に抱えていた[1]

供給力の確保は年を追って難しくなりつつあった。臨海部の火力の立地は公害問題と衝突し、1965年の紙面がすでに「公害対策上、石炭火力の建設は見合わせるべきだ」と論じたように、立地規制は1960年代後半から経営判断の前提として重みを増していた。1968年に品川区で東大井火力を計画した際も、木川田一隆社長は計画が予定どおり進まなければ「1971年夏には都内の電力は、35万KW程度の供給不足になる」と需給の逼迫を訴えた。増え続ける需要と、火力の燃料リスク・立地制約という二重の壁が、新しい基幹電源を求める背景にあった[2][3]

設備投資が利益に直結する制度

電力会社の投資判断は、地域独占と総括原価方式という制度に支えられていた。料金は必要な総原価に一定の報酬を上乗せして決める仕組みで、設備投資を拡大するほど料金原価に算入でき、投資額がそのまま利益の確保に結びついた。首都圏という最大の需要地を一社で受け持つ東京電力は、需要の増加に合わせて供給設備を先行して積み増せる体力を、この制度から与えられていた。設計上、初期投資の負担が重くとも長期にわたって建設費を回収できる電源ほど、経営上の合理性を持ちえた。1978年の専門誌の特集は、こうした設備拡大が料金と利益の双方を生む構造そのものに光を当てている[4]

決断

福島第一の着工と原子力への参入

東京電力は、増え続ける需要に応える新しい基幹電源として原子力を選んだ。1966年、福島県双葉郡に福島第一原子力発電所1号機の建設を着工し、米ゼネラル・エレクトリック社が設計した沸騰水型軽水炉を採用した。1971年3月に1号機が営業運転を開始し、出力46万kWは日本の40万kW級商用原発の先駆けとなった。水力の適地に乏しく、火力の燃料リスクと立地制約を抱える東京電力にとって、原子力は電源構成を多様化し、基幹電源を自前で確保する一手であった。国のエネルギー政策も電源の多様化を掲げており、同社の原子力参入は産業政策の柱を一社の設備投資として体現する性格を帯びた[5]

建設が着工から稼働へと向かう時期には、原子力を時代の主役とみる認識が世に広がっていた。当時の紙面は「冷暖房、温水器、電子レンジといった家庭電化をささえる主役は、火力から原子力発電へ移っていく」と報じ、家庭需要の膨張が原子力への移行を後押しすると語った。豊かさの象徴であった家庭電化の裏側で、それを支える電源をどう確保するかという問いが立ち上がっていた。原子力は、その問いに対する当時の有力な答えとして期待を集めていた[6]

なぜ原子力だったか

原子力を選んだ判断には、制度と収益の両面で合理性があった。原子力は初期投資こそ大きいが、運転時の燃料費が火力より低く、総括原価方式のもとで建設費を長期にわたり料金原価へ算入できた。燃料価格の変動に左右されやすい火力と異なり、いったん建設すれば安定して基幹電源を担える点も、需要の伸びを見込む経営にとって魅力であった。1973年の紙面が「電源開発大ピンチ」「この分では1975年には需要が供給を上回る"危機"に追い込まれるのは必至」と供給力不足を懸念したように、需給の逼迫は現実の圧力であり、資本集約的な原子力への傾斜を後押ししたとみることができる[7]

結果

17基体制と、稼働率に左右される収益

福島第一の稼働を皮切りに、東京電力は原子力への傾斜を強めた。福島第一の6基に続いて福島第二4基、柏崎刈羽7基を建設し、原子力発電所は計17基に達した。1985年に営業運転を始めた柏崎刈羽は7基合計821万kWで世界最大級の原発サイトとなり、東京電力は世界有数の原子力事業者となった。基幹電源の多くを原子力に委ねる電源構成が、首都圏の需要を支える供給力の背骨になっていった。産業政策の柱であった電源多様化と基幹電源の自前確保を、一社の設備投資が体現する構図であった[8]

もっとも、この収益構造には裏側があった。1978年に専門誌は、稼働率56%という低さでも史上最高益を生む逆説的な収益構造を指摘し、ピーク需要に備えた設備投資が利益の源泉となる仕組みを問うた。設備を積み増すほど利益が得られる一方で、収益は原子力の稼働率に左右される体質となった。2002年の検査データ改ざんや2007年の新潟県中越沖地震で原発が停止すると、火力の焚き増しで燃料費が膨らみ、東京電力は設立以来初の純損失を計上した。原子力に基幹を委ねた設計は、供給の安定と引き換えに、停止時の脆さを抱えていた[9][10]

出典・参考
  • 読売新聞(1965年12月11日)
  • 読売新聞(1968年8月23日)
  • 読売新聞(1971年5月8日)
  • 読売新聞(1973年6月10日)
  • 日経ビジネス 1978年4月24日号「東京電力 体質蝕む“設備拡大→値上げの構造”」
  • 東京電力 有価証券報告書【沿革】
  • 東京電力 会社年鑑(1976年版)