DCMホールディングス石黒商店によるIBMシステム38の導入と物流センターの設立

問屋の条件を飲むか、補充の仕組みを自前で持つか——海を渡る仕入がもたらした増収減益への対応

時期 1983年
意思決定者(推定) 石黒商店 経営陣
論点 仕入構造と情報・物流投資
概要
1983年、10店舗・年商100億円に達しながら増収減益となった石黒商店(のちの石黒ホーマ、現DCMホールディングス)が、IBMのシステム38を導入すると同時に物流センターを設立し、全店の発注をジャスト・イン・タイムで一括処理する体制へ改めた経営判断。
背景
本州から商品を運ぶには海を渡るため、問屋はコンテナ単位での引き取りと運賃の上乗せを求めてきた。青森までは問屋が商品をバラで補充しており、その差が仕入価格に乗って、売上の伸びが利益に変わらなくなっていた。
内容
システム38に全店の発注を集めて一括処理し、一括検品・一括値付け・一括配送の三つを物流センターに持たせた。本州であれば問屋が担う補充と仕分けの作業を、自社の拠点へ置き直す設計であった。
含意
使いこなすまでに2年以上を要したが、ロス率は下がり、デッドストックは消え、商品回転率は2倍になった。1987年4月には商号を石黒ホーマへ改め、1989年2月期の業界順位は7位、同年10月に株式の店頭公開を実現した。
筆者の見解

原価で負けている相手に、回転の速さで並ぶ

青森までは問屋が商品をバラで補充し、海を渡った先ではそれが受けられない。この差は、石黒商店がどれだけ売っても消えなかった。1983年の増収減益に対して経営が動かしたのは、仕入価格ではなく在庫の置き方であった。システム38に全店の発注を束ね、検品も値付けも配送も物流センターへ集めた結果、商品回転率は2倍になっている。原価で負けている相手に、商品の回る速さで並びにいく判断だったとみられる。

効き始めるまでには間があった。使いこなすまでに2年以上かかり、その間も本州との仕入条件の差は残っている。1989年2月期の業界順位は7位で、北海道で強い会社ではあっても全国の上位ではない。一番進んだ小売業になっていたという言葉も、店頭公開を控えた社長自身の評価である。それでも経営は、問屋の条件に合わせて品揃えを削るのではなく、発注と在庫を自社の側で握る道を選んでいる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

釧路の金物商が川下へ移るまで

1919年、石黒信市郎氏が釧路市に石黒金物店を開いた。これが石黒商店の始まりである。金物の卸と小売を併せて営み、問屋から仕入れた商品を地域の商店や工事業者へ流しながら、店頭でも売った。1951年12月には、業務の拡大にあわせて組織を強めるため、釧路市北大通に株式会社石黒商店を設けている。北海道の東端に店を構えるこの金物商が、のちにDCMホールディングスを作る3社の一角となる[1]

川下へ動いた理由は、原油価格にあった。1973年のオイルショックを境に低成長の時代に入ったと石黒商店は判断し、2年ほどの試行錯誤を経て、1976年4月に釧路市へホームセンター第1号店の中園店を開いた。転換は順調に運んだ。小売の経験が生き、工事を伴う商品を長年扱ってきたことが顧客にDIYの手ほどきをするうえで役立ち、卸や工事より粗利が高かったためである。1978年1月には、営業本部を釧路市から札幌市へ移した[2][3][4]

10店舗・年商100億円の年に出た減益

1983年、店舗数は10、年商は100億円に達した。ところが、その年の決算は増収でありながら減益となった。原因は店の運営ではなく、商品が北海道へ届くまでの経路にあった。本州から商品を運ぶには海を渡らねばならず、問屋はコンテナ単位での引き取りと運賃の上乗せを求めてくる。仕入価格はそのぶん高くなる。売上を伸ばせば仕入も増えるため、売り場を足すほど利益が削られた[5]

本州の同業との差は、補充のされ方に出る。青森までは問屋が商品をバラで補充しており、海の向こうの北海道では同じ補充が受けられない。ホームセンターでは、仕入の経路がそのまま粗利に効く。のちに四国のダイキが、粗利益率26.7%という他社より高い水準の理由を、住宅資材が自社の住宅機器部門を通して卸値で入る点に求めたのも同じことである。仕入の条件を相手方に委ねる限り、石黒商店は原価で本州の同業に届かなかった[6][7]

決断

システム38と物流センターを同時に置く

仕入の条件を交渉で動かせない以上、変えられるのは自社の側だけである。石黒商店が選んだのは、IBMのシステム38を導入すると同時に物流センターを設立することであった。全店の発注をシステムに集め、ジャスト・イン・タイムで一括処理できるようにしている。店ごとに問屋へ注文していたやり方を一本に束ねれば、まとめて引き取れという問屋の条件と、店頭には売れる分だけ置きたいという要請を、同時に満たす余地が生まれる[8]

物流センターには、一括検品、一括値付け、一括配送の三つを持たせた。本州であれば問屋が担う補充と仕分けの作業を、自社の拠点へ置き直す設計である。機械と拠点を用意すれば回る、というものではなかった。使いこなすまでには2年以上を要しており、1983年に決めた投資が数字に表れたのは1980年代の後半である。情報ネットワーク型の流通システムを築いた企業として業界で名が知られたのも、その頃であった[9]

結果

ロス率、デッドストック、商品回転率

効果は在庫の側に出た。ロス率が下がり、デッドストックがなくなり、商品回転率は2倍になった。売り場に並ぶ商品の鮮度も改善している。仕入価格の不利はそのままでも、同じ売上を作るのに要する在庫が半分で済めば、資金の回りと値下げ処分の負担は軽くなる。売れ残りの処分で削られていた粗利が戻れば、増収減益の構図はほどける。問屋との条件で失っていた利益を、在庫の回し方で取り返した形である[10]

石黒靖尋社長は1989年10月の講演で、ネックを解消してみたら一番進んだ小売業になっていた、と当時を振り返っている。仕入の不利を埋めるために入れた仕組みが、結果として同業より進んだ運営を会社にもたらした、という説明である。そこで株式の店頭公開を目指すこととし、1989年10月にこれを実現した。1989年2月期の業界順位は、ダイヤモンド・フリードマン社の調査で7位であった[11][12]

商号を石黒ホーマへ改め、扱う商品も変わる

仕組みが動き出すと、会社は看板を替えた。1987年4月、商号を石黒ホーマ株式会社へ改め、あわせてCISを導入している。ホーマはホーム・アメニティを縮めた言葉で、DIY用品を中心とするホームセンターから、自分らしさを再発見する場としてのホームアメニティセンターへと、店の性格を移した。金物店の系譜から出発した会社が、住まいと暮らしを提案する売り場を名乗るまでに、11年が経っていた[13]

売れ筋も、金物と建材から離れた。1989年2月期の部門別売上構成比は、カー用品やレジャー・スポーツ用品を含むホームレジャー・家庭用機器が41.2%、インテリア・家具や家庭用品を含むホームファニシング・家庭用品が33.8%で、塗料・接着剤や建築金物を含むホームインプルーブメントの20.7%を上回った。季節の変化が激しい北海道では、うっかりすると商品が足りなくなるか余るかに振れる。回転の速い品揃えは、その振れを抱えきるための条件でもあった[14][15]

出典・参考

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