DCMホールディングスカーマによる176店舗のドラッグストアチェーン構想の撤回と、ホームセンターへの業態転換
薬局の店数を積むか、住まいまわりの売場を作るか——出店を縛る規制の下での業態の選び直し
- 概要
- 1972年6月に薬局6社が合併して発足したカーマが、愛知県を中心に176店舗のドラッグストアチェーンを築く構想を1年で下ろし、1973年10月、名古屋市にホームセンターの1号店を開いた業態転換。合併で集めた店と人と資本はそのままに、売る商品を住まいまわりへ入れ替えた。
- 背景
- 鏡味順一郎氏が1947年に開いたかがみ薬局を源流とし、1970年2月設立の大高商事が1971年8月にカーマへ商号を改めた。翌1972年6月の6社合併はドラッグストアの多店舗化を狙ったものであったが、法規制により年1店ほどしか出店できないことが判明した。
- 内容
- 1973年、鏡味社長は流通業の研究で渡米し、米国のホームセンターの隆盛を見て日本でも必要とされると確信した。同年10月に名古屋市へ1号店を開き、1976年7月に岐阜県、1978年10月に静岡県、1980年11月に三重県へと出店先を広げた。
- 含意
- 1980年6月の発注業務の電算化、1981年9月の物流センター開設、1983年8月の北陸オスカーとの資本提携が続き、中部圏に店を集める型が固まった。1995年3月期には売上高1,120億1,500万円・直営86店舗でホームセンター業界第2位となった。
手段を残し、目的を差し替える
6社の合併は、176店舗のドラッグストアチェーンを築くために行われた。その目的が「1年に1店舗ぐらいしか出店できない」と分かるまでに、1年もかからなかった。合併を解くことも、規制が緩むのを待つこともできたはずである。鏡味社長が選んだのは、集めた店と人と資本をそのままにして、売る商品のほうを住まいまわりへ入れ替える道であった。1号店の開店は合併から1年4カ月後にあたる。手段を残して目的を差し替える速さに、この転換の性格が表れている。
後年から見れば筋の通った転換だが、当時それを保証するものは何もなかった。1号店を開いた1973年10月はオイルショックの直前で、住関連を総合的に売る店に客が向かう保証はどこにもない。残したドラッグストアも、1995年3月期で13店舗・売上比2.3%にとどまり、二本目の柱にはならなかった。それでも、平均600坪の売場を中部圏に集めて物流費と管理費を抑える型は、この時期の出店で固まっている。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
薬局6社の合併と176店舗の構想
カーマの出発点は、1947年10月に鏡味順一郎氏が名古屋市で開いたかがみ薬局にある。合資会社クスリのかがみ、株式会社かがみと法人の形を改めながら広がり、1970年2月に大高商事株式会社を設立、1971年8月に商号を株式会社カーマへ変えた。翌1972年6月、以前から親交のあった牧清氏の株式会社花園、原博和氏の原商事株式会社、サンケイ薬品株式会社、それに鏡味氏が経営する他の2社を加えた6社が合併した[1]。
社名のカーマは、鏡味氏の「ka」、原氏の「h」、牧氏の「ma」という3氏の姓の頭文字を組み合わせたものであった。持ち寄られたのは、3氏がそれぞれ経営していた薬局6社である。合併の狙いは明確で、愛知県を中心に176店舗のドラッグストアチェーンを築くことにあった。薬局は個人経営の店が地域ごとに散らばる業種であり、6社を一つの資本の下にまとめたのは、その店数を一気に積み上げるための手立てであった[2]。
1年に1店舗という制約
ところが、構想はほどなく行き詰まった。鏡味社長は後年の講演で、「もろもろの法規制があって1年に1店舗ぐらいしか出店できないことがわかり」と振り返っている。176店舗という目標は、この速さでは百年を超える歳月を要する計算になる。6社分の店と人と資本を一つにまとめた直後に、その合併が目指した到達点そのものが手の届かない場所にあると判明した[3]。
一方で、店を出す先の市場は動いていた。鉄道への依存より自動車への依存が大きい中京地区では、大手スーパーを中心に郊外へ商業施設を築く動きが早くから盛んになり、1970年代後半から全国へ広がった。名古屋を本拠とするカーマは、郊外化と自動車の普及がもっとも早く進む土地に店を構えていた。出店を縛っていたのは薬局という業種にかかる規制であって、郊外に生まれつつあった売場そのものではなかった[4]。
決断
渡米で見た業態と、1973年10月の1号店
1973年、鏡味社長は流通業を研究するために渡米した。そこで目にしたのは、住まいまわりの品を一つの売場に集めた米国のホームセンターの隆盛であった。鏡味社長は、この業態が「日本でも必要とされるようになると確信した」ことが進出の動機であったと述べている。帰国後の動きは速く、同じ1973年10月、愛知県名古屋市にホームセンターの1号店を開いた。6社が合併してから1年4カ月後であった[5][6]。
ただし、ドラッグストアを畳んだわけではない。176店舗の構想は下ろしたものの、薬の商いは残り、1995年3月期の時点でも直営13店舗が営業していた。フランチャイズ方式でも7店舗を抱えていた。売上に占める比率は25億9,000万円・2.3%にとどまり、主力の座はホームセンターへ完全に移った。捨てたのは薬局という業態ではなく、薬局だけで規模を作るという設計であった[7]。
転換を支えた四つの条件
進出を支えた条件は一つではなかった。住宅関連の商品を総合的に売る店舗形態そのものが日本では新しく、その利便性が消費者に受け入れられたこと。1973年のオイルショックを機に節約意識が高まったこと。余暇が増えたこと。自動車が普及したこと。後年の企業紹介記事は、同社が昭和50年代に出店を拡大させた背景として、この四つを並べている。どれか一つだけでは説明がつかない[8]。
同じ読みをした薬局はほかにもあった。島根県の順天堂薬局を前身とするジュンテンドーの飯塚道正氏は、食と衣に続く住の時代がホームセンターという業態を生んだと述べ、DIYが省力化という時代の言葉に合っただけでなく、生活を楽しむ機運が客の側に芽ばえたと振り返っている。薬局から住関連の売場へ向かう道筋は、1970年代の地方小売業に共有された読みであった[9]。
結果
中部圏を面で埋める出店と、低費用の仕組み
1号店の後、カーマは愛知県で店を重ねながら商圏を外へ広げた。1976年7月に岐阜県、1978年10月に静岡県、1980年11月に三重県へ出店し、東海4県を面で押さえた。1983年8月には、富山・石川・福井の3県でホームセンターを営む株式会社オスカーと資本提携し、1990年4月に吸収合併した。飛び地を避け、隣り合う県を順に埋める出店であった[10]。
出店と並行して、店を支える裏側にも手を入れた。1980年6月には業界に先駆けて発注業務を電算化し、1981年9月には業務の効率化を目的に物流センターを開設した。1店舗あたりの売場面積は平均600坪と同業各社より広く、出店先を中部圏に集めたことで物流費と管理費を低く抑えられた。1993年9月末のパートタイマー比率は約6割、POSは導入せず、その10分の1の費用で同等の仕組みを組んでいた[11][12]。
後発の参入と、姿を変えて残った規制
カーマが1号店を出した4年後の1977年4月、アルミサッシ建材メーカーのトーヨーサッシが全額出資でビバホームを設立し、ホームセンター業界へ入った。1973年のオイルショック以降の住宅不況に多角化で応じたこと、週休2日制の普及で住まいの補修や車の手入れを自分で行う人が増えていたことが、その理由に挙げられている。カーマが先に読んだ市場へ、住宅・建材の側から大手が入ってきた[13]。
もっとも、出店の自由が戻ったわけではない。1974年3月に施行された大規模小売店舗法は1979年の改正で大型店の抑制を強め、各社は売場500平方メートル未満の小型店やフランチャイズで規制をかわす道を探った。薬局の店数を縛った規制は、売場面積を縛る規制に姿を変えて残った。それでもカーマは中部8県で店を増やし、1995年3月期には売上高1,120億1,500万円、直営86店舗でホームセンター業界第2位に達した[14][15]。
- 証券 1996年1月号(第48巻第1号)「新規上場会社紹介 株式会社カーマ」
- 証券アナリストジャーナル 1994年1月号(第32巻第1号)「カーマ」(鏡味順一郎社長 講演要旨・1993年12月14日)
- 証券アナリストジャーナル 1989年5月号(第27巻第5号)「ジュンテンドー」(飯塚道正社長 講演要旨)
- 証券 1987年4月号(第39巻第4号)「新規上場会社紹介 ビバホーム株式会社」
- 有沢広巳監修『日本産業史 3』(日経文庫, 日本経済新聞社, 1994)「流通-コンビニエンスストアの台頭」