古河機械金属足尾銅山の閉山と、機械部門への主力の移行
鉱量は残っていた──それでも96年目の銅山を閉じ、ボーリング機械の稼ぎを次の柱へ回したのはなぜか
- 概要
- 1972年から1973年にかけて、古河鉱業が1877年以来96年営んだ足尾銅山を閉山し、14年ぶりの85億円増資と定款変更によって機械部門と電子材料へ資金と事業目的を振り向けた経営判断。
- 背景
- 足尾銅山には鉱量が残っていたが、銅価がトン当たり35万円まで下がって採算が合わず、各金属会社は海外の銅資源開発へ向かっていた。1970年1月には下山田炭鉱を閉じて石炭からも撤退していた。
- 内容
- 1972年5月に定款を変更して石油製品の販売・電子材料・建設業を目的へ加え、同年に85億円を増資して設備計画42億円の一部と石炭撤退時の借入10億円の返済に充てた。1972年11月に採鉱停止を発表し、1973年2月28日に足尾銅山を閉山した。
- 含意
- 1972年3月期は売上高370億円のうち機械が180億円を占め、ボーリング機械だけで110億円を稼いでいた。埋蔵量ではなく採算で祖業を畳み、稼ぐ部門へ資金を寄せた選択が、のちの古河機械金属の骨格となった。
埋蔵量ではなく、採算で事業の輪郭を引き直す
足尾銅山には鉱量がかなり残っていた。それでも1973年2月に閉じたのは、掘れるかどうかではなく、トン当たり35万円の銅価では合わないという採算の計算による。同じ年度、機械部門は売上高370億円のうち180億円を稼ぎ、ボーリング機械だけで110億円を挙げていた。1970年の石炭撤退から3年で二つの祖業を手放し、設備計画42億円と85億円の増資を機械と電子材料へ向けたこの連続は、埋蔵量ではなく採算で事業の輪郭を引き直す作業だったとみることができる。
機械への配り直しが、すぐ形を得たわけではない。奥村豊氏が提携先を山一証券に相談したのは足尾の閉山と同じ頃で、紹介されたユニックの買収に至るまでには14年を要した。足尾でも製錬部門だけは輸入鉱石で1988年まで操業を続け、掘る事業と製錬する事業が同じ日に終わったわけではない。1972年の増資は、設備計画42億円の一部充当と石炭撤退時の借入10億円の返済を並べて使途に掲げていた。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
石炭を畳んだ1970年と、残された銅山
戦後、鉱業各社は金属部門と石炭部門をそろって切り離したが、古河鉱業は双方を分離せず、一つの会社で釣り合いを取りながら経営してきた。その方針が変わったのは1962年の暮れ頃で、石炭部門の縮小に入り、第二会社を設けて直営5か所の炭鉱を2か所まで減らした。残る2鉱山も1970年1月末に閉鎖し、1894年9月に古河市兵衛氏が下山田炭鉱を譲り受けて始めた石炭事業から手を引いた。撤退にあたっては国から10億円を借り入れた[1][2]。
部門の構成比は10年ほどで入れ替わった。石炭が盛んだった1950年代から1956・57年頃にかけては、石炭が全体の60〜65%、金属が25%、機械が10%ほどを占めていた。それが1972年には機械が65%、金属が25%、残りを化学と燃料関係が分け合う構成へ変わった。石炭を畳んでも従来どおり経営を続けられたのは、初期から機械と化学の部門を確実に育ててきたためである[3]。
トン当たり35万円の銅価と、海外鉱への出遅れ
金属部門の足元は苦しかった。足尾鉱業所と足尾製錬所では銅・金・銀・亜砒酸・蒼鉛・鉄精鉱などを産し、主要製品である銅の需要は国内外とも増えると見込まれていた。ところが足尾銅山は鉱量がかなり残っていながら、銅価がトン当たり35万円という安値のため、採算の面で非常に困難な状況に置かれた。掘っても合わないという事情は古河鉱業だけのものではなく、各金属会社が海外の銅資源へ目をつけて開発に踏み切っていた[4]。
鉱量の中身にも制約があった。足尾銅山は戦時の非常時増産運動を受けて無計画な乱掘に至り、この時期に河鹿鉱床のような巨大鉱床は見つからず、小規模な鉱脈しか出なかった。戦後の産銅量は増えたものの、最盛期には遠く及ばない水準にとどまった。その一方で古河鉱業は、三井金属鉱業と新日鉄が営む日比共同製煉所へ20%を出資して委託製錬を始め、足尾製錬所の月約2,700トンと合わせて処理量を月7,000トン近くへ引き上げる見通しを立てた。掘る仕事と製錬する仕事は、閉山より前に切り離されはじめていた[5][6]。
決断
定款に書き足した石油・電子材料・建設業と、14年ぶりの85億円増資
1972年5月、古河鉱業は定款を変更し、会社の目的に石油製品の販売、電子材料の製造販売、建設業の3つを書き加えた。同時に授権株式数を2億株から4億株へ引き上げ、英文商号をFURUKAWA CO., LTD.と定めた。英文名から鉱業の語が消えた。翌6月には福島県いわき市にいわき工場、東京都日野市に日野研究所を建て、前年10月には群馬県多野郡吉井町へ吉井工場を建てていた[7][8]。
事業目的の書き換えには、資金の手当てが伴った。同じ1972年、古河鉱業は14年ぶりとなる85億円の増資へ踏み切る。資本金55億円を9月末払込みで半額増資し、これに一般公募で400万株ほどを加えた合計である。使途は本年度分の設備計画42億円の一部充当と、石炭撤退時に国から借りた10億円の返済に置かれた。増資の負担は1973年3月期にすべてかかるが、1割配当は変わらないとされ、近く半期売上500億円を目指すとしていた[9]。
ボーリング機械の稼ぎと、1973年2月28日の閉山
機械部門の稼ぎが、この組み替えを支えた。1972年3月期は売上高370億円のうち機械が180億円を占め、その中でボーリング機械だけで110億円を稼いだ。1972年9月期は全売上400億円超、機械65%、ボーリング機械180億円が見込まれていた。他社が米国から輸入して開発したのに対し、古河鉱業は鉱山機械を応用して独自に技術を開発した。生産は1971年9月に400機、10月に800機、1972年4月から1,300機へ伸びた[10][11]。
ボーリング機械が生んだ現金をどこへ置くかは、社内でも論点になっていた。当時経理部長だった奥村豊氏は後年、ボーリングブームでその機械から相当の儲けを出したものの、借金を返すだけではつまらない、将来に備えて使い道はないかと考えたと振り返った。機械部門を伸ばす提携先を山一証券に相談したところ、赤字ながら技術を持つクレーンメーカーとしてユニックを紹介された。そして1972年11月、古河鉱業は足尾銅山の採鉱を止めると発表する[12][13]。
結果
鉱山は消え、製錬所は輸入鉱石で残った
1973年2月28日、足尾銅山は閉山の日を迎えた。1877年2月に古河市兵衛氏が譲り受けてから96年、創業の2年後に手に入れて会社を育てた本業を、古河鉱業は自ら閉じた。ただし足尾からすべてが消えたわけではない。製錬部門は閉山後も輸入鉱石を搬入して操業を続け、国鉄足尾線の民有化を機に1988年へ事実上の廃止に至る。掘る工程を切り、買鉱を処理する工程だけを15年残した[14][15]。
機械と電子材料の側では、増資で掲げた計画が順に立ち上がる。1973年4月に栃木県下都賀郡壬生町の壬生工場を建て、1974年7月にはいわき鋳造工場を、1976年7月には高崎新工場を完成させて移転した。定款へ書き足した電子材料は、いわき工場の高純度金属砒素として実を結ぶ。純度99.999%の製品は米国のモンサントやテキサス・インスツルメンツから品質の評価を得て、年300キロほどの生産を計画していた。社名から鉱業の2文字が消え、古河機械金属となるのは1989年10月である[16][17]。
- 経済時代 1972年
- 日経ビジネス 1987年4月27日号
- 古河機械金属 有価証券報告書 第159期(2026年3月期)【沿革】
- 日光市「足尾銅山の歴史」