松尾鉱業 の歴史

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創業 1914年
創業者 中村房次郎
創業地 横浜市
創業
1913年6月、横浜の貿易商である中村房次郎氏が、岩手県松尾村で1882年ごろに大露頭の見つかった松尾鉱山の鉱業権を取得した。翌1914年8月1日、本格的な開発のため資本金30万円で松尾鉱業株式会社を設立し、本社を横浜市中区本町に置いて自ら初代社長に就任した。出資したのは、横浜貿易業者の草分けだった中村房次郎氏の商社である増田屋を中心とする同族である。硫黄はこのころ主として輸出物資で、当初の事業は自家製錬所にかけた精製硫黄の生産販売に限られ、産出の大部分は海外へ出た。設立の直後に欧州大戦で市価が暴騰して一時の活況を得たが、1920年には戦後不況の余波を受けて休山の危機に直面している。
決断
埋蔵量では国内一位、品位では劣位という条件を、設備投資で埋めようとし続けた。松尾鉱山は本邦硫化鉱埋蔵量の86%を擁する一方、硫黄含有量は34%と低く、粗鉱の比重も2.4〜2.5と他鉱山の金属硫化鉱より2割軽い。1934年に屋敷台と大更を結ぶ松尾鉱山鉄道12.3キロを自前で敷き、1960年に浮遊選鉱設備、1961年に流動製錬設備を完成させ、同年10月には神戸製鋼所日産化学工業と東北鉱化工業を設立して山麓へ硫酸工場を建てた。1964年5月、最大の債権者である第一銀行の要望で神戸製鋼所から山野上重喜社長を迎えると、露天掘りと排ガスの硫酸化でトン8,000円の原価低減を掲げる。業界全体が要望した合理化資金30億円を10億円上回る約40億円が、松尾鉱業1社に出た。
現況
更生手続に入っても人員は減らず、売れない硫黄を1年つくり続けた。1968年12月18日に東京地方裁判所へ会社更生法の適用を申請し、24日に財産保全命令が出る。1969年1月に万座硫黄社長の浅田寛二氏が管財人となり、3月19日には東京証券取引所第一部が松尾鉱業の上場を廃止した。大口債権者の金融機関は当初から人員整理を求めたが、管財人は退職資金が無いとしてこれに応じず、1,000人余りを抱えたまま生産を続ける。同年10月、石油業界からの1億5,000万円の協力費と硫黄・硫化鉱の在庫をかき集め、1人平均25万円、規定額の4分の1という退職金で決着した。製品ではなく滞貨のほうが、11月11日の総退職の原資を作った。
競合
業界を追い詰めたとされる相手より先に、自ら値を崩していた。倒産の理由として当時説明されたのは、重油脱硫で出る安価な回収硫黄が鉱山硫黄を締め出したという筋である。ただし回収硫黄が量を出したのは富士石油・大協石油・東亜燃料・日本石油の後発4社が常時操業に入った1969年1月からで、松尾鉱業の更生法申請より後にあたる。出鉱の半分が硫黄鉱だった松尾鉱業が受ける影響度は15%と算定されている。松尾鉱業のほうは1968年9月にトン2万円の大台を割って1万9,000円で売り、鉱山硫黄業界全体へ年20数億円の損害をもたらした。硫化鉱では会社単位で柵原・花岡をもつ同和鉱業に次いだが、一山だけを掘る会社に価格を戻す余力は残っていなかった。
長期業績の推移 1951〜1969年
松尾鉱業:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1957年3月期1963年3月期

創業ストーリー 横浜の貿易商が買った松尾鉱山と、輸出品だった硫黄 (1914年〜)

横浜の貿易商が買った松尾鉱山と、輸出品だった硫黄

創業ストーリー(1)

1882年の大露頭発見と貿易商増田屋の同族資本

岩手県松尾村の山中で硫黄の大露頭が見つかったのは1882年ごろで、発見したのは地元の村民だった[1]。松尾鉱山の地質は複輝石安山岩質の溶岩と凝灰岩からなり、その中に硫黄が巨大な塊状鉱床をつくって存在する[2]。主要鉱物は遊離硫黄と硫化鉄であり、上部鉱床は硫化鉄を、下部鉱床は遊離硫黄を多く含む[3]。1882年の露頭発見当時に採掘の対象となったのが第1鉱体で、遊離硫黄と黒色硫化鉄が混在し、広がりは1,000メートル×1,200メートル、厚さは30〜40メートルに達する[4]。露頭が見つかったあと、松尾鉱山の鉱業権は幾人かの手を経て移った[5]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
    • [1]明治15年ころ地元村民が山中に硫黄露頭を発見したのが端緒
    • [5]幾人かの手を経て鉱業権が移った
  • 硫酸 1965年「工場見学 松尾鉱業株式会社松尾鉱業所見学記」
    • [2]鉱山の地質は複輝石安山岩質の溶岩や凝灰岩で構成され、その中にイオウが巨大な塊状鉱床となって存在する
    • [3]主要鉱物は遊離イオウおよび硫化鉄で、上部鉱床は硫化鉄、下部鉱床は遊離イオウを多く含む
    • [4]第1鉱体は明治15年露頭発見当時のもので、遊離イオウと黒色硫化鉄が混在し、鉱床の大きさは1,000×1,200×厚さ30〜40m

横浜の貿易商である中村房次郎氏が松尾鉱山の鉱業権を取得したのは、1913年6月である[6]。中村房次郎氏は硫黄鉱床として有望だった松尾鉱山の本格的な開発を目的に、1914年8月1日、資本金30万円で松尾鉱業を設立した[7]。初代社長には中村房次郎氏が就任[8]。本社は横浜市中区本町4の39に置いた[9]。資本を出したのは、横浜貿易業者の草分けだった中村房次郎氏の貿易商社である増田屋を中心とする同族だった[10]。松尾鉱業の設立は、大露頭の発見から32年後にあたる。岩手県の山中にある鉱山の開発を、横浜に本社を置く会社が担った[11]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
    • [6]中村房次郎は横浜の貿易商で、大正2年6月に松尾鉱山の鉱業権を取得していた
    • [7]硫黄鉱床として有望な松尾鉱山の本格的開発を目的に、大正3年8月1日、資本金30万円で設立
    • [8]初代社長に中村房次郎が就任
    • [9]本社は横浜市中区本町4の39
  • 実業の世界 1969年10月号
    • [10]横浜貿易業者の草分けだった中村房次郎が、貿易商社増田屋を中心に同族の資本金30万円で株式会社を創立
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
    • [11]岩手県の松尾鉱山を対象とし、本社は横浜市中区本町4の39

貿易業者だった中村房次郎氏が硫黄開発に乗り出したのは、当時の硫黄が主として輸出物資だったからである[12]。1914年の設立とともに、松尾鉱山では本格的な硫黄製錬が始まった[13]。当初の事業は精製硫黄の生産販売に限られた[14]。遊離硫黄を多く含む鉱石を硫黄鉱と呼び、自家の製錬所にかけて精製硫黄として売った[15]。国内の用途はまだ開けておらず、生産した硫黄の大部分は海外へ輸出した[16]。設立の直後に欧州大戦が起こると硫黄市価が暴騰し、松尾鉱業は一時の活況を得た[17]。しかし1920年には戦後の経済不況の余波を受けて、休山の危機に直面した[18]

  • 実業の世界 1969年10月号
    • [12]貿易業者が硫黄開発事業に手を出したのは、当時硫黄が主として輸出物資だったため
  • 硫酸 1965年「工場見学 松尾鉱業株式会社松尾鉱業所見学記」
    • [13]大正3年に資本金30万円で松尾鉱業が設立され本格的なイオウ製錬が開始された
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
    • [14]当初は精製硫黄のみ
    • [15]遊離硫黄の多いものを硫黄鉱とし、自家製錬所で製錬して精製硫黄として販売
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
    • [16]当時はまだ国内用途が開けぬためその大部分が海外に輸出されていた
    • [17]欧州大戦が勃発し一時は硫黄市価の暴騰によって活況を呈した
    • [18]大正9年には戦後の経済不況の余波を受けて休山の危機に逢着
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
    • [1]明治15年ころ地元村民が山中に硫黄露頭を発見したのが端緒
    • [5]幾人かの手を経て鉱業権が移った
    • [11]岩手県の松尾鉱山を対象とし、本社は横浜市中区本町4の39
    • [14]当初は精製硫黄のみ
    • [15]遊離硫黄の多いものを硫黄鉱とし、自家製錬所で製錬して精製硫黄として販売
  • 硫酸 1965年「工場見学 松尾鉱業株式会社松尾鉱業所見学記」
    • [2]鉱山の地質は複輝石安山岩質の溶岩や凝灰岩で構成され、その中にイオウが巨大な塊状鉱床となって存在する
    • [3]主要鉱物は遊離イオウおよび硫化鉄で、上部鉱床は硫化鉄、下部鉱床は遊離イオウを多く含む
    • [4]第1鉱体は明治15年露頭発見当時のもので、遊離イオウと黒色硫化鉄が混在し、鉱床の大きさは1,000×1,200×厚さ30〜40m
    • [13]大正3年に資本金30万円で松尾鉱業が設立され本格的なイオウ製錬が開始された
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
    • [6]中村房次郎は横浜の貿易商で、大正2年6月に松尾鉱山の鉱業権を取得していた
    • [7]硫黄鉱床として有望な松尾鉱山の本格的開発を目的に、大正3年8月1日、資本金30万円で設立
    • [8]初代社長に中村房次郎が就任
    • [9]本社は横浜市中区本町4の39
    • [16]当時はまだ国内用途が開けぬためその大部分が海外に輸出されていた
    • [17]欧州大戦が勃発し一時は硫黄市価の暴騰によって活況を呈した
    • [18]大正9年には戦後の経済不況の余波を受けて休山の危機に逢着
  • 実業の世界 1969年10月号
    • [10]横浜貿易業者の草分けだった中村房次郎が、貿易商社増田屋を中心に同族の資本金30万円で株式会社を創立
    • [12]貿易業者が硫黄開発事業に手を出したのは、当時硫黄が主として輸出物資だったため
創業ストーリー(2)

精製硫黄だけの品目から硫化鉱兼営への1921年転換

1920年の休山の危機を抜けるため、松尾鉱業は1921年ごろから硫黄製錬の設備を石炭竈に改めた[19]。あわせて硫化鉱の生産販売も兼営に加え、扱う品目は精製硫黄だけから硫黄と硫化鉱の2つになった[20]。松尾鉱山では遊離硫黄の多い鉱石を硫黄鉱、硫化鉄の比較的多い鉱石を硫化鉱と呼び分けた[21]。硫化鉱を売り始めた背景には硫酸工業の発展があり、1921年から鉱石をそのままの形で出荷した[22]。石炭竈への改造と硫化鉱の兼営によって経営は上向いた[23]。以後の松尾鉱業は、硫黄と硫化鉱の需要増大に合わせて生産設備を増やし、産出量を拡充した[24]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
    • [19]大正10年ごろより硫黄製錬を石炭竈に改善
    • [20]硫化鉱の生産販売も合わせ行った
    • [23]石炭竈への改善と硫化鉱兼営により徐々に好転の機運に向かった
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
    • [21]遊離硫黄の多いものを硫黄鉱、硫化鉄の比較的多いのを硫化鉱とする
  • 硫酸 1965年「工場見学 松尾鉱業株式会社松尾鉱業所見学記」
    • [22]大正10年に硫酸工業の発展に伴いその原料として鉱石のままの販売を始めた
  • 実業の世界 1969年10月号
    • [24]大正10年から硫化売鉱を兼営し、以後硫黄硫化鉱の需要増大とともに生産を拡充

1920年代の半ばから後半にかけて製紙と人絹が勃興し、松尾鉱業の硫化鉱に対する内需が急増した[25]。硫黄はスフやパルプの業界へ、硫化鉱は硫酸や硫安の原料として流れた[26]。さらに化学肥料工業が急速に発達したため、硫化鉱の販路も伸びた[27]。その後も関連化学工業の勃興に伴って、松尾鉱業は鉱山の規模を段階的に拡大した[28]。生産量は1930年に硫黄1万6000トン、硫化鉱3万7000トン程度だった[29]。それが1938年には硫黄6万4000トン、硫化鉱60万トン超に達し、松尾鉱業は記録的な最盛期を迎えた[30]。硫黄の生産量は8年で4倍、硫化鉱は16倍を上回る規模になった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
    • [25]大正末期より昭和初頭にかけて勃興した製紙、人絹等による内需が急増
    • [27]化学肥料工業の急速な発達によって硫化鉱の販路も大いに伸びた
    • [29]昭和5年に硫黄1万6000屯、硫化鉱3万7000屯程度
    • [30]昭和13年に硫黄6万4000屯、硫化鉱60万屯を越え、記録的な最盛期を出現
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
    • [26]硫黄の主需要先は化繊、合繊、人絹スフ用パルプ業界、硫化鉱は硫酸、硫安、農薬などに使われる
    • [28]昭和初期よりパルプ、肥料等の関連化学工業の勃興に伴い漸次その規模を拡大

生産量が8年で数倍に増えた一方、鉱石を山から運び出す手段は開業以来の馬車のままだった[31]。初期には鉱石を馬車で花輪線の大更駅まで運び、そこで貨車に積み替えていた[32]。硫酸工業の原料需要が増え続けたため、馬車の輸送では量をさばききれなくなった[33]。松尾鉱業は松尾鉱山鉄道を計画し、1934年に完成させた[34]。路線は屋敷台と大更の間を結び、同じ時期に八戸港の船積施設も拡充した[35]。専用鉄道である松尾鉱山鉄道は、大部分を松尾鉱業の製品輸送にあてた[36]。鉄道の完成で輸送量は増え、松尾鉱業は硫酸工業の原料需要に応える輸送力を得た[37]

  • 硫酸 1965年「工場見学 松尾鉱業株式会社松尾鉱業所見学記」
    • [31]初期には鉱石を馬車で大更駅まで運搬して貨車積みをしていた
    • [32]鉱石を馬車で花輪線の大更駅まで運搬して貨車積みをしていた
    • [33]漸次需要が増加してきたのでこれに応じるため松尾鉱山鉄道を計画した
    • [34]需要増加に応じるため松尾鉱山鉄道を計画し昭和9年に完成
    • [37]鉄道により輸送量の増大と合理化を行ない硫酸工業の原料需要の増加にこたえた
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
    • [35]昭和9年に屋敷台〜大更間に専用鉄道を敷設し、八戸港の船積施設を拡充
    • [36]松尾鉱山鉄道は大部分が松尾鉱業製品の輸送にあたる
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
    • [19]大正10年ごろより硫黄製錬を石炭竈に改善
    • [20]硫化鉱の生産販売も合わせ行った
    • [23]石炭竈への改善と硫化鉱兼営により徐々に好転の機運に向かった
    • [25]大正末期より昭和初頭にかけて勃興した製紙、人絹等による内需が急増
    • [27]化学肥料工業の急速な発達によって硫化鉱の販路も大いに伸びた
    • [29]昭和5年に硫黄1万6000屯、硫化鉱3万7000屯程度
    • [30]昭和13年に硫黄6万4000屯、硫化鉱60万屯を越え、記録的な最盛期を出現
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
    • [21]遊離硫黄の多いものを硫黄鉱、硫化鉄の比較的多いのを硫化鉱とする
    • [26]硫黄の主需要先は化繊、合繊、人絹スフ用パルプ業界、硫化鉱は硫酸、硫安、農薬などに使われる
    • [28]昭和初期よりパルプ、肥料等の関連化学工業の勃興に伴い漸次その規模を拡大
    • [35]昭和9年に屋敷台〜大更間に専用鉄道を敷設し、八戸港の船積施設を拡充
    • [36]松尾鉱山鉄道は大部分が松尾鉱業製品の輸送にあたる
  • 硫酸 1965年「工場見学 松尾鉱業株式会社松尾鉱業所見学記」
    • [22]大正10年に硫酸工業の発展に伴いその原料として鉱石のままの販売を始めた
    • [31]初期には鉱石を馬車で大更駅まで運搬して貨車積みをしていた
    • [32]鉱石を馬車で花輪線の大更駅まで運搬して貨車積みをしていた
    • [33]漸次需要が増加してきたのでこれに応じるため松尾鉱山鉄道を計画した
    • [34]需要増加に応じるため松尾鉱山鉄道を計画し昭和9年に完成
    • [37]鉄道により輸送量の増大と合理化を行ない硫酸工業の原料需要の増加にこたえた
  • 実業の世界 1969年10月号
    • [24]大正10年から硫化売鉱を兼営し、以後硫黄硫化鉱の需要増大とともに生産を拡充
創業ストーリー(3)

資本金800万円への増資と坑内落盤の変災

設備の増設と拡充を賄うため、松尾鉱業は設立時の30万円から資本金を数度にわたって増額した[38]。1939年4月の資本金は800万円となった[39]。増資で得た資金を生産設備の増設と拡充に充て、松尾鉱業は堅実な基礎を確立した[40]。鉱床の探査も並行して進み、1937年には第2鉱体が見つかった[41]。第2鉱体は第1鉱体と同じ成分で、広がりは1,200メートル×600メートル、厚さは60〜90メートルに及ぶ[42]。鉱床は北西から南東へ10度ほど傾斜している[43]。第2鉱体の発見によって、松尾鉱業の採掘対象は第1鉱体だけではなくなった[44]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
    • [38]資本金は数度の増額を経た
    • [39]昭和14年4月に資本金800万円
    • [40]設備の増設拡充を図って堅実な基礎を確立
  • 硫酸 1965年「工場見学 松尾鉱業株式会社松尾鉱業所見学記」
    • [41]第2鉱体は昭和12年発見
    • [42]第2鉱体は第1鉱体と同じ成分で、鉱床の大きさは1,200×600×厚さ60〜90m
    • [43]鉱床は北西から南東に向かって10度ぐらい傾斜している
    • [44]昭和12年に第2鉱体を発見

1939年11月、松尾鉱業は松尾鉱山で坑内落盤の変災に遭った[45]。この事故で多数の犠牲者が出て、松尾鉱業は甚大な損害を受けた[46]。変災は、硫黄6万4000トンと硫化鉱60万トン超を産した最盛期の翌年に起きた。そのころから戦時体制が強化され、松尾鉱業の硫黄と硫化鉱の事業は平和産業として抑制の対象に置かれた[47]。統制が進むにつれて経営の困難はしだいに増し、松尾鉱業に残された道は、鉱床周辺の褐鉄鉱を採掘して販売することだけになった[48]。褐鉄鉱の販売で経営を保ったまま、松尾鉱業は1945年の終戦を迎えた[49]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
    • [45]昭和14年11月坑内落盤の変災に遭遇
    • [46]多数の犠牲者と甚大な損害を被った
    • [47]そのころより戦時体制が強化され、事業は平和産業として漸次抑制を強化された
    • [48]鉱床周辺の褐鉄鉱の採掘販売を合わせ行うことにより経営を維持しうる状態であった
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
    • [49]戦時統制の強化とともに鉱床周辺の褐鉄鉱を生産して経営を維持し終戦を迎えた

1940年から1941年にかけて、松尾鉱業の松尾鉱山は日本最大の硫黄鉱山になった[50]。硫黄と硫化鉱の需要増大に合わせて生産を拡充してきた結果である[51]。国内最大の硫黄鉱山を抱えた時期に、社長は中村房次郎氏から息子の中村正雄氏へ代わった[52]。中村正雄氏は安部磯雄氏の女婿にあたる[53]。1943年ごろには一時的に住友の資本が入り、専務ほかの役員にも住友からの参加があった[54]。終戦後、松尾鉱業は住友の資本を返還し、同族経営へ復帰した[55]。終戦時の資本金は1000万円だった[56]。設立時の30万円から数えて、資本金は31年で33倍に増えた。

  • 実業の世界 1969年10月号
    • [50]昭和15〜16年から我が国最大の硫黄鉱山となった
    • [51]硫黄硫化鉱の需要増大とともに生産を拡充した
    • [52]社長は中村房次郎から息子の正雄に継がれた
    • [53]中村正雄は安部磯雄の女婿
    • [54]昭和18年ごろから一時住友の資本が入り、専務その他の役員参加もあった
    • [55]終戦後、住友の資本を返還し同族経営に戻った
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
    • [56]終戦時の資本金は1000万円
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
    • [38]資本金は数度の増額を経た
    • [39]昭和14年4月に資本金800万円
    • [40]設備の増設拡充を図って堅実な基礎を確立
    • [45]昭和14年11月坑内落盤の変災に遭遇
    • [46]多数の犠牲者と甚大な損害を被った
    • [47]そのころより戦時体制が強化され、事業は平和産業として漸次抑制を強化された
    • [48]鉱床周辺の褐鉄鉱の採掘販売を合わせ行うことにより経営を維持しうる状態であった
    • [56]終戦時の資本金は1000万円
  • 硫酸 1965年「工場見学 松尾鉱業株式会社松尾鉱業所見学記」
    • [41]第2鉱体は昭和12年発見
    • [42]第2鉱体は第1鉱体と同じ成分で、鉱床の大きさは1,200×600×厚さ60〜90m
    • [43]鉱床は北西から南東に向かって10度ぐらい傾斜している
    • [44]昭和12年に第2鉱体を発見
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
    • [49]戦時統制の強化とともに鉱床周辺の褐鉄鉱を生産して経営を維持し終戦を迎えた
  • 実業の世界 1969年10月号
    • [50]昭和15〜16年から我が国最大の硫黄鉱山となった
    • [51]硫黄硫化鉱の需要増大とともに生産を拡充した
    • [52]社長は中村房次郎から息子の正雄に継がれた
    • [53]中村正雄は安部磯雄の女婿
    • [54]昭和18年ごろから一時住友の資本が入り、専務その他の役員参加もあった
    • [55]終戦後、住友の資本を返還し同族経営に戻った

硫黄・硫化鉱ともに全国首位となった1952年

創業ストーリー(4)

硫化鉱の重点生産で戦前水準へ戻した坑内外の復旧

終戦後の逼迫した食糧事情のもとで、松尾鉱業は化学肥料の原料である硫化鉱の増産を要請された[57]。硫化鉱の重点生産を目標に掲げ、戦時中に荒廃した坑内外の生産設備を復旧整備し、さらに拡張新設を図って増産に努めた[58]。その結果、1950年ごろにようやく戦前の生産量に回復し、その需要を満たすまでになった[59]。硫黄についてもGHQの要請で肥料増産のためのフル生産に入り、証券界でも人気の株であった[60]。従業員は最高で6000人を数え、松尾鉱山のある岩手県松尾村に近い盛岡市の繁華街では、松尾のバッジを胸につけていれば初めての客でもツケがきいたという[61]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
    • [57]戦後の逼迫した食糧事情のため、化学肥料の原料である硫化鉱の増産を要請された
    • [58]硫化鉱重点生産を目標に、荒廃した坑内外の生産設備を復旧整備し拡張新設を図って増産に努めた
    • [59]1950年ごろに戦前の生産量に回復し、その需要を満たすまでになった
  • 実業往来 1969年
    • [60]戦後GHQの要請で肥料増産のため硫黄のフル生産を行い、証券界でも人気の株だった
    • [61]従業員は最高で6000人を数え、岩手県松尾村に近い盛岡市の繁華街では松尾のバッジを胸につけていれば初めての客でもツケがきいた

松尾鉱業は創業以来、松尾鉱山ただ一つを対象とする一山一社経営を続けた[62]。硫化鉱は月産5万トンで全国比30%を占め、会社単位では柵原・花岡をもつ同和鉱業に次いだが、鉱山単位では断然他を圧した[63]。硫黄も月産3000トンに上り、全国の47%を占めた[64]。採掘した鉱石は、遊離硫黄の多いものを硫黄鉱、硫化鉄の比較的多いものを硫化鉱として分け、硫黄鉱は自家製錬所で製錬し精製硫黄として販売した[65]。松尾鉱山は本邦硫化鉱埋蔵量の86%を擁する一方、硫黄含有量は34%と低位で立地条件もやや劣り、その難は延長12キロの松尾鉄道を利用した八戸港での船積みで若干補われた[66]

  • 新日本経済 1951年
    • [62]創業以来、一山一社経営で今日に至っている
    • [63]硫化鉱は月産5万トンで全国比30%に上り、会社としては柵原・花岡をもつ同和鉱業に次ぐが、鉱山単位では断然他を圧した
    • [64]硫黄は月産3000トンに上り、全国の47%を占めた
    • [66]本邦硫化鉱埋蔵量の86%を擁する一方、硫黄含有量は34%と低位で立地条件もやや劣るが、延長12キロの松尾鉄道を利用した八戸港での船積みで若干補われた
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
    • [65]遊離硫黄の多いものを硫黄鉱、硫化鉄の比較的多いのを硫化鉱とし、硫黄鉱は自家製錬所で製錬して精製硫黄として販売する

硫化鉱と硫黄の増産に合わせ、松尾鉱業は輸送と製品加工の幅も広げた。1948年3月、それまで自社製品を運んでいた鉄道で地方鉄道による一般運輸事業を開始[67]。松尾鉱山鉄道は東八幡平と国鉄大更線を結ぶ12.3キロの路線で、松尾鉱業製品の輸送を主としながら一般貨物輸送も担った[68]。1950年5月2日には東京証券取引所へ株式を上場した[69]。同年11月には精製硫黄を原料として自家粉化工場で粉末硫黄の製造を始めた[70]。硫化鉱のほうは粉砕・ふるい分け・浮遊選鉱の過程を経て精鉱とし、硫酸・硫安・農薬に使う関連会社へ納入した[71]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
    • [67]1948年3月、地方鉄道による一般運輸事業を開始した
    • [68]松尾鉱山鉄道は東八幡平〜国鉄大更線間12.3キロで、大部分は自社製品の輸送にあたるが一般貨物輸送も担当する
    • [69]1950年5月2日に東京市場へ上場した
    • [70]1950年11月、精製硫黄を原料とし自家粉化工場において粉末硫黄の製造を開始した
    • [71]硫化鉱は粉砕・ふるい分け・浮遊選鉱などの過程を経て精鉱とし、硫酸・硫安・農薬などに使う関連会社に納入する
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
    • [57]戦後の逼迫した食糧事情のため、化学肥料の原料である硫化鉱の増産を要請された
    • [58]硫化鉱重点生産を目標に、荒廃した坑内外の生産設備を復旧整備し拡張新設を図って増産に努めた
    • [59]1950年ごろに戦前の生産量に回復し、その需要を満たすまでになった
  • 実業往来 1969年
    • [60]戦後GHQの要請で肥料増産のため硫黄のフル生産を行い、証券界でも人気の株だった
    • [61]従業員は最高で6000人を数え、岩手県松尾村に近い盛岡市の繁華街では松尾のバッジを胸につけていれば初めての客でもツケがきいた
  • 新日本経済 1951年
    • [62]創業以来、一山一社経営で今日に至っている
    • [63]硫化鉱は月産5万トンで全国比30%に上り、会社としては柵原・花岡をもつ同和鉱業に次ぐが、鉱山単位では断然他を圧した
    • [64]硫黄は月産3000トンに上り、全国の47%を占めた
    • [66]本邦硫化鉱埋蔵量の86%を擁する一方、硫黄含有量は34%と低位で立地条件もやや劣るが、延長12キロの松尾鉄道を利用した八戸港での船積みで若干補われた
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
    • [65]遊離硫黄の多いものを硫黄鉱、硫化鉄の比較的多いのを硫化鉱とし、硫黄鉱は自家製錬所で製錬して精製硫黄として販売する
    • [67]1948年3月、地方鉄道による一般運輸事業を開始した
    • [68]松尾鉱山鉄道は東八幡平〜国鉄大更線間12.3キロで、大部分は自社製品の輸送にあたるが一般貨物輸送も担当する
    • [69]1950年5月2日に東京市場へ上場した
    • [70]1950年11月、精製硫黄を原料とし自家粉化工場において粉末硫黄の製造を開始した
    • [71]硫化鉱は粉砕・ふるい分け・浮遊選鉱などの過程を経て精鉱とし、硫酸・硫安・農薬などに使う関連会社に納入する
創業ストーリー(5)

価格統制解除を機に転じた硫黄増産と3割配当

硫黄は、化繊やパルプなど関連産業の目ざましい復旧に伴って需要が急激に高まった[72]。松尾鉱業は硫化鉱需要の安定を機会として、しだいに硫黄の増産へ重点を切り替え、1951年3月の価格統制解除を契機に全面的な硫黄増産対策を確立した[73]。硫黄の主な需要先は化繊・合繊・人絹スフ用のパルプ業界で、松尾鉱山で採った硫黄鉱は自家製錬所を経て精製硫黄となった[74]。1949年度に起工した第一鉱床の総合開発計画も完成し、硫黄製錬設備20基が出そろったことなどによって採鉱は著しく活発化した[75]。増産と並行して周辺事業も広げ、1951年7月には乗合バスによる一般旅客輸送を始めた[76]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
    • [72]硫黄は化繊・パルプ等の関連産業の目ざましい復旧に伴い需要が急激に高まった
    • [73]硫化鉱需要の安定を機会に漸次硫黄の増産に重点を切り替え、1951年3月の価格統制解除を契機に全面的な硫黄増産対策を確立した
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
    • [74]硫黄の主需要先は化繊・合繊・人絹スフ用パルプ業界で、硫黄鉱は自家製錬所で製錬し精製硫黄とする
    • [76]1951年7月、乗合バスによる一般旅客輸送を開始した
  • 新日本経済 1951年
    • [75]1949年度に起工した第一鉱床の綜合開発計画が完成し、硫黄製錬設備20基の完成等によって採鉱は著しく活発化した

戦後の復旧資金に充てるため、松尾鉱業は終戦時の資本金1000万円から3回の増資を重ね、1951年6月に1億8000万円とした[77]。同年10月には再評価積立金の資本組入による倍額増資を行い、3億6000万円へ引き上げた[78]。増資と設備の拡充は生産量に表れ、1951年9月期には硫化鉱27万7012トン、硫黄1万7286トンに達した[79]。主体である硫化鉱は同期に27万トンとなって前期比20%増、売上金額は4億1000万円余で前期比26%増に伸びた[80]。硫黄も同期の生産が前期比18%増であるのに対し、金額では前期比28%の増加となった[81]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
    • [77]戦後の復旧資金に充当するため終戦時の資本金1000万円より3回の増資を経て、1951年6月に1億8000万円となった
    • [78]1951年10月に再評価積立金の資本組入による倍額増資を行い3億6000万円となった
  • 新日本経済 1951年
    • [79]1951年9月期には硫化鉱27万7012トン、硫黄1万7286トンに達した
    • [80]主体である硫化鉱は9月期27万トンに達して前期比20%増、金額で4億1000万円余と前期比26%増となった
    • [81]硫黄の9月期生産は前期比18%増であるのに対し、金額では前期より28%増大した

金額の増勢が数量の増勢を上回った理由は、買取価格の引き上げにある[82]。硫化鉱の買取価格は1951年3月にトン当たり59円上がって1422円となり、9月1日にさらに22円上がって1455円、12月には55円高の1509円へ改定された[83]。硫黄は1951年11月にトン1万4700円へ引き上げられ、ようやくトン当たり1300〜1400円の黒字に転じて、低物価政策の犠牲となっていた硫黄部門の採算が好転した[84]。価格と生産の両面から収益が増えた結果、1951年9月期の純益金は資産再評価償却金8540万円余を控除しても8290万円に上り、利益率は20割を超えた[85]。松尾鉱業は前期並みの特配1割を加えた3割配当を行った[86]

  • 新日本経済 1951年
    • [82]金額の増勢が数量のそれを上回るのは買取価格引上げによる増収である
    • [83]硫化鉱買取価格は1951年3月にトン当たり59円値上げで1422円、9月1日より22円引き上げ1455円、12月より55円高の1509円となった
    • [84]硫黄は1951年11月よりトン1万4700円となり、ようやくトン当たり1300〜1400円の黒字に転じ、低物価政策の犠牲となっていた硫黄部門の採算が好転した
    • [85]1951年9月期の純益金は資産再評価償却金8540万円余を控除しても8290万円、利益率20割超
    • [86]前期並の特配1割を加えた3割配当を行った
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
    • [72]硫黄は化繊・パルプ等の関連産業の目ざましい復旧に伴い需要が急激に高まった
    • [73]硫化鉱需要の安定を機会に漸次硫黄の増産に重点を切り替え、1951年3月の価格統制解除を契機に全面的な硫黄増産対策を確立した
    • [77]戦後の復旧資金に充当するため終戦時の資本金1000万円より3回の増資を経て、1951年6月に1億8000万円となった
    • [78]1951年10月に再評価積立金の資本組入による倍額増資を行い3億6000万円となった
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
    • [74]硫黄の主需要先は化繊・合繊・人絹スフ用パルプ業界で、硫黄鉱は自家製錬所で製錬し精製硫黄とする
    • [76]1951年7月、乗合バスによる一般旅客輸送を開始した
  • 新日本経済 1951年
    • [75]1949年度に起工した第一鉱床の綜合開発計画が完成し、硫黄製錬設備20基の完成等によって採鉱は著しく活発化した
    • [79]1951年9月期には硫化鉱27万7012トン、硫黄1万7286トンに達した
    • [80]主体である硫化鉱は9月期27万トンに達して前期比20%増、金額で4億1000万円余と前期比26%増となった
    • [81]硫黄の9月期生産は前期比18%増であるのに対し、金額では前期より28%増大した
    • [82]金額の増勢が数量のそれを上回るのは買取価格引上げによる増収である
    • [83]硫化鉱買取価格は1951年3月にトン当たり59円値上げで1422円、9月1日より22円引き上げ1455円、12月より55円高の1509円となった
    • [84]硫黄は1951年11月よりトン1万4700円となり、ようやくトン当たり1300〜1400円の黒字に転じ、低物価政策の犠牲となっていた硫黄部門の採算が好転した
    • [85]1951年9月期の純益金は資産再評価償却金8540万円余を控除しても8290万円、利益率20割超
    • [86]前期並の特配1割を加えた3割配当を行った
創業ストーリー(6)

1万2400トンの割当輸出とIMC統制解除後の市価低落

硫化鉱の重点生産で戦前の水準を取り戻し、価格統制の解除を境に硫黄へ重点を移した松尾鉱業の生産は、1951年に硫化鉱65万トン、1952年に硫黄6万2000トン余へ達し、いずれも全国鉱山中で首位を占めた[87]。硫黄は世界的な重要不足物資として、IMC(国際原料割当会議)による国際的な需給統制の対象となり、松尾鉱業もその要請に基づいて1952年中に1万2400トンの割当輸出を行った[88]。同じ年の10月には女牛鉱山で金・重石・石灰石の採掘準備を開始し、創業以来続けてきた一山一社経営の枠を越えて硫黄と硫化鉱以外の鉱種へ手を伸ばした[89]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
    • [87]生産面において1951年に硫化鉱65万トン、1952年に硫黄6万2000トン余に達し、いずれも全国鉱山中首位を占めた
    • [88]硫黄は世界的な重要不足物資としてIMC(国際原料割当会議)による国際的な需給統制が行われ、その要請に基づいて1952年中に1万2400トンの割当輸出を行った
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
    • [89]1952年10月、女牛鉱山において金・重石および石灰石の採掘準備を開始した

しかし1953年、世界生産の9割を占める米国が低コスト硫黄を大幅に増産し、世界需要も漸減したため、IMCによる国際統制は解除された[90]。国際価格は米国硫黄に鞘寄せして急落し、割当に支えられていた輸出は停滞して、山元には出荷先の決まらない硫黄が滞貨として積み上がった[91]。輸出に回らなくなった分は国内市場を圧迫し、硫黄の市価も低落へ向かった[92]。この市況不振を打開するため、1953年10月と翌1954年1月に求償貿易形式の輸出が行われ、松尾鉱業は全輸出量1万8300トンのうち7700トンを輸出した[93]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
    • [90]世界生産の9割を占める米国の低コスト硫黄の大幅増産と世界需要の漸減によって、1953年にIMCによる国際統制は解除された
    • [91]国際価格も米国硫黄に鞘寄せして急落し、輸出は停滞して山元滞貨を生ずるに至った
    • [92]国内市場も圧迫されて市価は低落した
    • [93]市況不振打開のため1953年10月と1954年1月に行われた求償貿易形式による輸出には、全輸出量1万8300トンのうち7700トンを松尾鉱業より輸出した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
    • [87]生産面において1951年に硫化鉱65万トン、1952年に硫黄6万2000トン余に達し、いずれも全国鉱山中首位を占めた
    • [88]硫黄は世界的な重要不足物資としてIMC(国際原料割当会議)による国際的な需給統制が行われ、その要請に基づいて1952年中に1万2400トンの割当輸出を行った
    • [90]世界生産の9割を占める米国の低コスト硫黄の大幅増産と世界需要の漸減によって、1953年にIMCによる国際統制は解除された
    • [91]国際価格も米国硫黄に鞘寄せして急落し、輸出は停滞して山元滞貨を生ずるに至った
    • [92]国内市場も圧迫されて市価は低落した
    • [93]市況不振打開のため1953年10月と1954年1月に行われた求償貿易形式による輸出には、全輸出量1万8300トンのうち7700トンを松尾鉱業より輸出した
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
    • [89]1952年10月、女牛鉱山において金・重石および石灰石の採掘準備を開始した

福田董社長のもとで膨らんだ人員と長期不況

創業ストーリー(7)

中村正雄社長の逝去で専務から昇格した福田董社長

1954年2月、2代社長の中村正雄氏が逝去し、専務だった福田董氏が後任社長に就任した[94]。福田董氏は中村正雄氏の妹の夫にあたる義弟で、中村正雄氏と同じく篤いクリスチャンであり、上智大学経済学部の教授でもあった[95]。松尾鉱業の経営方針は人道的で信仰的なものとなり、岩手県の松尾鉱山は当時『山上の文化都市』と称された[96]。海抜878メートルに置かれた鉱山事務所から見おろす台地には鉄筋コンクリートのアパートが並び、住宅施設が完備していた[97]。松尾鉱業は硫化鉱で1951年に65万トン、硫黄で1952年に6万2000トン余りを産し、いずれも全国鉱山中の首位にあった[98]。鉱石の推定埋蔵量は1億トン以上と見積もられた[99]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
    • [94]1954年2月に2代社長の中村正雄氏が逝去し、福田董氏が専務から後任社長に就任した
    • [98]1951年に硫化鉱65万トン、1952年に硫黄6万2000トン余りに達し、いずれも全国鉱山中首位を占めた
  • 実業の世界 1969年10月号
    • [95]福田董氏は中村正雄氏の義弟(正雄氏の妹の夫)で、篤いクリスチャンであり上智大学経済学部の教授だった
    • [96]松尾鉱業の経営方針は人道的信仰的たらんとし、当時「山上の文化都市」と称された
  • 硫酸 1965年「工場見学 松尾鉱業株式会社松尾鉱業所見学記」
    • [97]海抜878メートルの鉱山事務所が建つ台地に鉄筋コンクリートのアパートが並び、住宅施設が完備していた
    • [99]松尾鉱山の鉱石の推定埋蔵量は1億トン以上

福田董社長のもとで松尾鉱業がまず取り組んだのは製錬コストの引下げだった。1955年1月に乾式連続硫黄製錬設備の建設を始め、同年秋に一部を操業させた[100]。同年3月には資本金が8億900万円となった[101]。鉱床の探査も続き、1950年に遊離硫黄を多く含む第3鉱体を、1956年には硫化鉄を多く含む第4鉱体を発見した[102]。第1・第2・第3鉱体からの鉱石のうち、遊離硫黄25%以上のものは硫黄製錬の原料として自家消費に回り、全硫黄36%以上のものは25ミリ以下に粉砕した松尾粉鉱となった[103]。第4鉱体の鉱石は遊離硫黄2〜3%、硫化鉄鉱態硫黄32〜34%と品位が低く、破砕・摩鉱・浮選の工程を経て硫黄50%の硫化鉄鉱精鉱に仕上げた[104]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
    • [100]1955年1月にコスト引下げのため乾式連続硫黄製錬設備の建設に着手し、同年秋に一部操業した
    • [101]1955年3月に資本金が8億900万円となった
  • 硫酸 1965年「工場見学 松尾鉱業株式会社松尾鉱業所見学記」
    • [102]第3鉱体は1950年、第4鉱体は1956年に発見され、第4鉱体はおもに硫化鉄を多く含む
    • [103]第1〜第3鉱体の鉱石は遊離硫黄25%以上を硫黄製錬原料として自家消費し、全硫黄36%以上は25mm以下に粉砕して松尾粉鉱とした
    • [104]第4鉱体の粗鉱は遊離硫黄2〜3%、硫化鉄鉱態硫黄32〜34%で、破砕・摩鉱・浮選を経て硫黄50%の硫化鉄鉱精鉱とした

しかし1954年からの供給過剰による業界不況は底が深く、1955年から1956年にかけての小康景気も需要業界の過剰輸入で途切れた[105]。5000人近い従業員を抱えた松尾鉱業では、群馬の諸山より低い品位の鉱石と運賃高が響き、硫黄を年6〜7万トン、硫化鉱を年50万トン生産してもコストは下がらなかった[106]。粗鉱の比重は2.4〜2.5で、他鉱山の金属硫化鉱の3.0〜3.8に比べて20%ほど軽く、運搬容積の割にトン数が少ないぶん運搬費を押し上げていた[107]。再度の再建計画も労働組合の反対ストライキにあい、効果は薄かった[108]

  • 実業の世界 1969年10月号
    • [105]1954年からの供給過剰による業界不況は底が深く、1955〜56年の小康景気も需要業界の過剰輸入で終わった
    • [106]5000人近い従業員を抱え、群馬の諸山より低い品位の鉱石と運賃高では硫黄年6〜7万トン・硫化鉱年50万トンを生産してもコストが高かった
    • [108]再度の再建計画も労働組合の反対ストにより効果が薄かった
  • 硫酸 1965年「工場見学 松尾鉱業株式会社松尾鉱業所見学記」
    • [107]松尾鉱山の粗鉱の比重は2.4〜2.5で、他鉱山の金属硫化鉱の3.0〜3.8に比べ20%程度軽く、運搬費が割高になった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
    • [94]1954年2月に2代社長の中村正雄氏が逝去し、福田董氏が専務から後任社長に就任した
    • [98]1951年に硫化鉱65万トン、1952年に硫黄6万2000トン余りに達し、いずれも全国鉱山中首位を占めた
    • [100]1955年1月にコスト引下げのため乾式連続硫黄製錬設備の建設に着手し、同年秋に一部操業した
    • [101]1955年3月に資本金が8億900万円となった
  • 実業の世界 1969年10月号
    • [95]福田董氏は中村正雄氏の義弟(正雄氏の妹の夫)で、篤いクリスチャンであり上智大学経済学部の教授だった
    • [96]松尾鉱業の経営方針は人道的信仰的たらんとし、当時「山上の文化都市」と称された
    • [105]1954年からの供給過剰による業界不況は底が深く、1955〜56年の小康景気も需要業界の過剰輸入で終わった
    • [106]5000人近い従業員を抱え、群馬の諸山より低い品位の鉱石と運賃高では硫黄年6〜7万トン・硫化鉱年50万トンを生産してもコストが高かった
    • [108]再度の再建計画も労働組合の反対ストにより効果が薄かった
  • 硫酸 1965年「工場見学 松尾鉱業株式会社松尾鉱業所見学記」
    • [97]海抜878メートルの鉱山事務所が建つ台地に鉄筋コンクリートのアパートが並び、住宅施設が完備していた
    • [99]松尾鉱山の鉱石の推定埋蔵量は1億トン以上
    • [102]第3鉱体は1950年、第4鉱体は1956年に発見され、第4鉱体はおもに硫化鉄を多く含む
    • [103]第1〜第3鉱体の鉱石は遊離硫黄25%以上を硫黄製錬原料として自家消費し、全硫黄36%以上は25mm以下に粉砕して松尾粉鉱とした
    • [104]第4鉱体の粗鉱は遊離硫黄2〜3%、硫化鉄鉱態硫黄32〜34%で、破砕・摩鉱・浮選を経て硫黄50%の硫化鉄鉱精鉱とした
    • [107]松尾鉱山の粗鉱の比重は2.4〜2.5で、他鉱山の金属硫化鉱の3.0〜3.8に比べ20%程度軽く、運搬費が割高になった
創業ストーリー(8)

1958年3月期からの無配と南ローデシアのスツケ鉱山

業界不況は配当に直に出て、松尾鉱業は1958年3月期から無配を続けた[109]。人員の削減も繰り返し、1958年に320人、1960年に800人を減らした[110]。硫黄の埋蔵量は豊富でも、硫黄と硫化鉱はいずれも需要が伸び悩み、松尾鉱山は苦難期に入っていた[111]。硫黄の主な納入先は化繊・合繊・人絹スフ用のパルプ業界、硫化鉱の納入先は硫酸・硫安・農薬の各業界で、いずれの需要業界の停滞も松尾鉱業の販売を直に押し下げた[112]。株価も低迷し、東京市場での1960年中の高値は52円、安値は33円と、額面50円を割り込む水準にとどまった[113]。1961年に入って株価が額面を上回ってからも、復配はこの先2、3期は難しいと見込まれた[114]

  • 野田経済 1961年4月24日号
    • [109]松尾鉱業は1958年3月期から無配を継続した
    • [114]1961年1月以来株価は額面を上回ったが、業績はここ2〜3期復配困難の予想だった
  • 実業往来 1969年
    • [110]人員整理は1958年に320人、1960年に800人
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
    • [111]松尾鉱山は硫黄の埋蔵量は豊富だが硫黄・硫化鉱とも需要が伸び悩み苦難期に入っていた
    • [112]硫黄の主需要先は化繊・合繊・人絹スフ用パルプ業界、硫化鉱は硫酸・硫安・農薬に使われた
    • [113]1960年中の東京市場の株価は高値52円・安値33円(額面50円)

合理化は選鉱と製錬の両面で進んだ。1960年に浮遊選鉱設備を完成させて外販鉱石の品位を引き上げ、1961年には流動製錬設備を完成させた[115]。運輸部門は1960年9月に分離し、八幡平観光と松尾貨物運送の2社を設けた[116]。1961年10月には神戸製鋼所日産化学工業との共同出資で資本金5億円の東北鉱化工業を設立し、松尾鉱山山麓の屋敷台に日産300トンの硫酸工場を建設した[117]。八幡平観光は八幡平国立公園の松尾鉱山口の開発に進出し、夏冬兼用リフトと観光ホテルの建設、定期バス路線の延長、貸切バス営業、スキー場の造成を進めた[118]

  • 硫酸 1965年「工場見学 松尾鉱業株式会社松尾鉱業所見学記」
    • [115]1960年に浮遊選鉱設備を完成して外販鉱石の品位向上を図り、1961年に流動製錬設備を完成した
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
    • [116]1960年9月に運輸部門を分離して八幡平観光と松尾貨物運送を設立した
    • [117]1961年10月に神戸製鋼所・日産化学工業との共同出資で資本金5億円の東北鉱化工業を設立し、松尾鉱山山麓の屋敷台に日産300トンの硫酸工場を建設した
    • [118]八幡平観光は八幡平国立公園の松尾鉱山口開発に進出し、夏冬兼用リフト・観光ホテルの建設、定期バス路線の延長、貸切バス営業、スキー場の造成を進めた

硫黄の需要先である化繊・パルプ工業の不振は、硫黄に頼る事業構成そのものを先細らせた[119]。松尾鉱業は1957年ごろから鉱山の宝庫といわれる南アフリカへ技師2人を送り込んで踏査を行い、1960年に南ローデシアのソールスベリーに近いスツケ鉱山を得た[120]。この鉱山はペグマタイト鉱床で、タンタルとベリリウムの原鉱石を精鉱換算で25万トン埋蔵すると予測された[121]。採掘にあたっては同系列の増田屋を通じて現地法人マツオローデシア・マイニング・カンパニーを設立し、資本金2500万円は全額を松尾鉱業が出資した[122]。当初はタンタル原鉱を月2トン、ベリリウム原鉱を15トン採掘する計画だった[123]

  • 野田経済 1961年4月24日号
    • [119]化繊・パルプ工業の不振とともに硫黄中心では時代の波に乗り遅れると判断した
    • [120]4年前(1961年時点)から南アフリカに技師2人を送り込んで踏査を行い、1960年に南ローデシアのソールスベリーに近いスツケ鉱山を得た
    • [121]スツケ鉱山はペグマタイト鉱床で、タンタル・ベリリウムを精鉱換算25万トン埋蔵と予測された
    • [122]同系列の増田屋を通じて現地法人マツオローデシア・マイニング・カンパニーを設立し、資本金2500万円は全額松尾鉱業の出資
    • [123]当初はタンタル原鉱月2トン、ベリリウム原鉱15トンで採掘を始める計画だった
  • 野田経済 1961年4月24日号
    • [109]松尾鉱業は1958年3月期から無配を継続した
    • [114]1961年1月以来株価は額面を上回ったが、業績はここ2〜3期復配困難の予想だった
    • [119]化繊・パルプ工業の不振とともに硫黄中心では時代の波に乗り遅れると判断した
    • [120]4年前(1961年時点)から南アフリカに技師2人を送り込んで踏査を行い、1960年に南ローデシアのソールスベリーに近いスツケ鉱山を得た
    • [121]スツケ鉱山はペグマタイト鉱床で、タンタル・ベリリウムを精鉱換算25万トン埋蔵と予測された
    • [122]同系列の増田屋を通じて現地法人マツオローデシア・マイニング・カンパニーを設立し、資本金2500万円は全額松尾鉱業の出資
    • [123]当初はタンタル原鉱月2トン、ベリリウム原鉱15トンで採掘を始める計画だった
  • 実業往来 1969年
    • [110]人員整理は1958年に320人、1960年に800人
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
    • [111]松尾鉱山は硫黄の埋蔵量は豊富だが硫黄・硫化鉱とも需要が伸び悩み苦難期に入っていた
    • [112]硫黄の主需要先は化繊・合繊・人絹スフ用パルプ業界、硫化鉱は硫酸・硫安・農薬に使われた
    • [113]1960年中の東京市場の株価は高値52円・安値33円(額面50円)
    • [116]1960年9月に運輸部門を分離して八幡平観光と松尾貨物運送を設立した
    • [117]1961年10月に神戸製鋼所・日産化学工業との共同出資で資本金5億円の東北鉱化工業を設立し、松尾鉱山山麓の屋敷台に日産300トンの硫酸工場を建設した
    • [118]八幡平観光は八幡平国立公園の松尾鉱山口開発に進出し、夏冬兼用リフト・観光ホテルの建設、定期バス路線の延長、貸切バス営業、スキー場の造成を進めた
  • 硫酸 1965年「工場見学 松尾鉱業株式会社松尾鉱業所見学記」
    • [115]1960年に浮遊選鉱設備を完成して外販鉱石の品位向上を図り、1961年に流動製錬設備を完成した
創業ストーリー(9)

小島岩太郎社長と得能善太郎専務による1082人の整理

福田董社長は1961年に退任した[124]。後任には中村正雄元社長に見込まれて入社した譜代の元専務・小島岩太郎氏が就き、住友の逸材として長く鉱業所長を務め常務だった得能善太郎氏が専務となった[125]。小島岩太郎社長と得能善太郎専務は人員整理と硫黄の月7〜8000トンへの能率アップを励行し、流動製錬と直熱製錬の研究・試験を並行させて相当のコストダウンにつなげた[126]。松尾鉱業は1962年に1082人を整理し[127]、同年秋の1000余名の人員整理と経営陣の交替により再建に着手した[128]。焼取製錬竈の燃料を石炭から重油へ切り替える改造工事も1962年10月に始め、1963年4月までに30基を終えた[129]

  • 実業の世界 1969年10月号
    • [124]福田董社長は1961年に退任した
    • [125]中村正雄元社長に見込まれて入社した譜代の元専務・小島岩太郎氏が社長に、住友の逸材で長く鉱業所長を務め常務だった得能善太郎氏が専務となった
    • [126]人員整理と硫黄月7〜8000トンへの能率アップを励行し、流動・直熱の研究と試験を併行して相当のコストダウンに寄与した
  • 実業往来 1969年
    • [127]1962年の人員整理は1082人
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
    • [128]1962年秋の1000余名の人員整理と経営陣交替により再建に着手した
    • [129]焼取製錬竈の燃料を石炭から重油に転換するため1962年10月に改造工事へ着手し、1963年4月現在30基を完了した

再建の柱は硫酸への一貫化と人件費の圧縮だった。東北鉱化工業の硫酸工場は1963年1月に操業を開始し、松尾鉱業は焙焼硫化鉱の月約1万トンを全量供給した[130]。従業員は1963年3月末で2484人、平均年齢は36.6歳を数え、5000人近くを抱えた1950年代半ばからおよそ半分に減った[131]。資本金10億円に対し、借入金は21億円から23億円程度にとどまっていた[132]。販売実績では1962年9月期に硫鉱が53.3%、精製硫黄が34.2%、鉄道営業が8.4%を占め、1963年3月期にはそれぞれ49.9%、38.7%、8.0%となった[133]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
    • [130]東北鉱化工業の硫酸工場は1963年1月から操業し、焙焼硫化鉱月約1万トンを全量供給した
    • [131]1963年3月末の従業員は2484人、平均年齢36.6歳
    • [133]1962年9月期・1963年3月期の販売実績で硫鉱53.3%・49.9%、精製硫黄34.2%・38.7%、鉄道営業8.4%・8.0%
  • 実業の世界 1969年10月号
    • [132]借入金は21億〜23億円程度、資本金は10億円

1963年6月末の大株主は第一銀行神戸製鋼所がともに持株比率2.5%で並び、日の本産業2.4%、日東化学工業2.4%、倉敷レイヨン2.1%がこれに次いだ[134]。松尾鉱業は財閥系の親会社を持たず、単独で経営を支える大口株主を欠いていた[135]。硫黄で30%、硫化鉱で15%の市場占有率を握り、この2品目で売上高の9割を占めた[136]。岩手県の松尾鉱山のほかに青森県唐川と岩手県都南の鉱山で金・銀・銅・亜鉛を産したが、量は少なく他社へ売鉱していた[137]。それでも無配は解消せず、品位の低い鉱石と運賃高から来るコスト高が、10年近く続いた硫黄不況のもとで残った[138]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
    • [134]1963年6月末の大株主は第一銀行2.5%、神戸製鋼所2.5%、日の本産業2.4%、日東化学工業2.4%、倉敷レイヨン2.1%
    • [135]大株主の最大持株比率は2.5%で、財閥系の親会社を持たなかった
    • [136]硫黄30%、硫化鉱15%の市場占有率をもち、硫黄・硫化鉱で売上高の9割を占めた
    • [137]青森県唐川・岩手県都南の鉱山で金・銀・銅・亜鉛を産したが量的に少なく、他に売鉱していた
  • 実業の世界 1969年10月号
    • [138]10年近く続いた硫黄不況のもと、低品位の鉱石と運賃高でコストが高かった
  • 実業の世界 1969年10月号
    • [124]福田董社長は1961年に退任した
    • [125]中村正雄元社長に見込まれて入社した譜代の元専務・小島岩太郎氏が社長に、住友の逸材で長く鉱業所長を務め常務だった得能善太郎氏が専務となった
    • [126]人員整理と硫黄月7〜8000トンへの能率アップを励行し、流動・直熱の研究と試験を併行して相当のコストダウンに寄与した
    • [132]借入金は21億〜23億円程度、資本金は10億円
    • [138]10年近く続いた硫黄不況のもと、低品位の鉱石と運賃高でコストが高かった
  • 実業往来 1969年
    • [127]1962年の人員整理は1082人
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
    • [128]1962年秋の1000余名の人員整理と経営陣交替により再建に着手した
    • [129]焼取製錬竈の燃料を石炭から重油に転換するため1962年10月に改造工事へ着手し、1963年4月現在30基を完了した
    • [130]東北鉱化工業の硫酸工場は1963年1月から操業し、焙焼硫化鉱月約1万トンを全量供給した
    • [131]1963年3月末の従業員は2484人、平均年齢36.6歳
    • [133]1962年9月期・1963年3月期の販売実績で硫鉱53.3%・49.9%、精製硫黄34.2%・38.7%、鉄道営業8.4%・8.0%
    • [134]1963年6月末の大株主は第一銀行2.5%、神戸製鋼所2.5%、日の本産業2.4%、日東化学工業2.4%、倉敷レイヨン2.1%
    • [135]大株主の最大持株比率は2.5%で、財閥系の親会社を持たなかった
    • [136]硫黄30%、硫化鉱15%の市場占有率をもち、硫黄・硫化鉱で売上高の9割を占めた
    • [137]青森県唐川・岩手県都南の鉱山で金・銀・銅・亜鉛を産したが量的に少なく、他に売鉱していた

神戸製鋼所から来た経営陣と40億円の合理化計画

創業ストーリー(10)

第一銀行の要望で送り込まれた神戸製鋼所の3人

10年近く続いた硫黄不況のなか、世界各国の需要急増による世界需給の転換と国内の供給不足気配から、硫黄は1963年7月と10月の2度にわたり各トン2000円程度の値上がりとなった[139]。その矢先の1964年5月、最大の債権者であり大株主でもあった第一銀行の要望で、小島岩太郎社長と得能善太郎専務が退任した[140]。後任には神戸製鋼所の山野上重喜専務が社長として送り込まれ、神戸製鋼所への鉄鉱石供給者である日本高周波鉱業の中村武晴常務が副社長に就いた[141]。先に入社していた前神戸製鋼所顧問で元通産省機械局長の佐枝新一専務と合わせ、3人で経営にあたった[142]第一銀行は、松尾鉱業の硫化鉄鉱を資源化する意欲から大株主となっていた系列下の神戸製鋼所に、松尾鉱業への経営乗り出しを要請していた[143]

  • 実業の世界 1969年10月号
    • [139]10年近く続いた硫黄不況が世界需給の転換で反転し、1963年7月と10月に各トン2000円程度値上がりした
    • [140]1964年5月、第一銀行の要望で小島岩太郎社長と得能善太郎専務が退任した
    • [141]神戸製鋼所の山野上重喜専務が社長、日本高周波鉱業の中村武晴常務が副社長として着任した
    • [142]前神戸製鋼所顧問で元通産省機械局長の佐枝新一専務と3人で経営陣を組んだ
    • [143]第一銀行が系列下の神戸製鋼所に松尾鉱業への経営乗り出しを要請し、神戸製鋼所は硫化鉄鉱の資源化を狙って大株主となっていた

経営陣が入れ替わった時期、硫黄業界は貿易自由化への対応を迫られていた[144]。硫黄は自由化困難な産業としてハード・コア・ウェイバー品目とされていたが、1961年のガット総会で同制度を1962年から廃止する決議が行われ、通産省は硫黄を1968年度または1970年度までに自由化する方針を立てた[145]。通産省の試算では、1968年度の国内需要35万トンに対し、軽質油からの回収硫黄が理論計算で22万トン、最小でも15万トン、自由化により輸入が5万〜10万トンとなり、鉱山硫黄の需要対象は10万〜15万トンにすぎない[146]。通産省は、輸入価格トン1万5000円と競争できるコストダウンが要ると結論づけた[147]。工場渡し1万7000円で成り立つ合理化ができるかという諮問に対し、全国の業者を一丸とする日本硫黄企業連盟は、業界全体の合理化資金合計30億円の低利資金斡旋その他の条件が満たされれば合理化目標を達成できると答申した[148]

  • 実業の世界 1969年10月号
    • [144]1961年当時、貿易自由化の声が高まり各産業界で自由化対策が検討された
    • [145]硫黄はハード・コア・ウェイバー品目とされたが1961年のガット総会で同制度の廃止が決議され、通産省は1968年度または1970年度までの自由化方針を立てた
    • [146]1968年度の国内需要35万トンに対し回収硫黄15万〜22万トン、輸入5万〜10万トンで鉱山硫黄の需要対象は10万〜15万トン
    • [147]輸入価格トン1万5000円と競争できる合理化コストダウンが必要と結論した
    • [148]工場渡し1万7000円の諮問に対し日本硫黄企業連盟は合理化資金30億円の斡旋を条件に達成できると答申した

松尾鉱業は業界第一の生産量を持ちながらコストが高く、大手のなかで最も弱く、過去2度の再建計画も実績が上がらなかった[149]。山野上重喜社長らは、松尾鉱山で研究と試験を重ねていた流動製錬・直熱製錬と、終戦直後にGHQから示唆された第1鉱体の露天掘り化を3本の柱とする計画を立てた[150]。露天掘り採掘で硫黄トン当たり3000円、流動製錬・直熱製錬と排ガスの硫酸化で5000円、合わせて8000円のコストダウンを行い、大更渡し1万3500円に需要工場までの平均運賃トン2000円を加えた工場渡し1万5500円でペイし得ると称し、所要合理化資金約40億円の斡旋を通産省に要請した[151]。通産省の当局者は東北開発公庫と興業銀行に極力推薦し、第一銀行その他の民間銀行との協調融資で40億円の借款を取り結ばせた[152]。業界全体が要望した合理化資金30億円を10億円上回る資金が、松尾鉱業1社に出た[153]

  • 実業の世界 1969年10月号
    • [149]松尾鉱業は業界第一の生産量を持つがコストが高く大手中最も弱体で、過去2度の再建計画も実績が上がらなかった
    • [150]流動製錬・直熱製錬と終戦直後にGHQから示唆された第1鉱体の露天掘り化を3本の柱とする計画を立てた
    • [151]露天掘りで3000円、流動直熱製錬と排ガス硫酸化で5000円、計8000円のコストダウンで工場渡し1万5500円としてペイすると称し約40億円の斡旋を要請した
    • [152]通産省が東北開発公庫・興業銀行に推薦し、第一銀行ほか民間銀行との協調融資で40億円の借款が結ばれた
    • [153]業界全体が要望した30億円を10億円上回る資金が松尾鉱業1社に出た
  • 実業の世界 1969年10月号
    • [139]10年近く続いた硫黄不況が世界需給の転換で反転し、1963年7月と10月に各トン2000円程度値上がりした
    • [140]1964年5月、第一銀行の要望で小島岩太郎社長と得能善太郎専務が退任した
    • [141]神戸製鋼所の山野上重喜専務が社長、日本高周波鉱業の中村武晴常務が副社長として着任した
    • [142]前神戸製鋼所顧問で元通産省機械局長の佐枝新一専務と3人で経営陣を組んだ
    • [143]第一銀行が系列下の神戸製鋼所に松尾鉱業への経営乗り出しを要請し、神戸製鋼所は硫化鉄鉱の資源化を狙って大株主となっていた
    • [144]1961年当時、貿易自由化の声が高まり各産業界で自由化対策が検討された
    • [145]硫黄はハード・コア・ウェイバー品目とされたが1961年のガット総会で同制度の廃止が決議され、通産省は1968年度または1970年度までの自由化方針を立てた
    • [146]1968年度の国内需要35万トンに対し回収硫黄15万〜22万トン、輸入5万〜10万トンで鉱山硫黄の需要対象は10万〜15万トン
    • [147]輸入価格トン1万5000円と競争できる合理化コストダウンが必要と結論した
    • [148]工場渡し1万7000円の諮問に対し日本硫黄企業連盟は合理化資金30億円の斡旋を条件に達成できると答申した
    • [149]松尾鉱業は業界第一の生産量を持つがコストが高く大手中最も弱体で、過去2度の再建計画も実績が上がらなかった
    • [150]流動製錬・直熱製錬と終戦直後にGHQから示唆された第1鉱体の露天掘り化を3本の柱とする計画を立てた
    • [151]露天掘りで3000円、流動直熱製錬と排ガス硫酸化で5000円、計8000円のコストダウンで工場渡し1万5500円としてペイすると称し約40億円の斡旋を要請した
    • [152]通産省が東北開発公庫・興業銀行に推薦し、第一銀行ほか民間銀行との協調融資で40億円の借款が結ばれた
    • [153]業界全体が要望した30億円を10億円上回る資金が松尾鉱業1社に出た
創業ストーリー(11)

トン8000円のコストダウン計画と実績の乖離

松尾鉱業は1964年10月、5カ年計画による剥土資金・設備資金計約40億円の融資を得て合理化に着手した[154]。露天掘りは冬季も通して1965年5月までに340万立方メートルを剥土し、同月から採鉱を始める目算だったが、冬季の作業不能と1日2万立方メートルという剥土能率の予定が空転し、採鉱開始は1967年5月にずれ込んだ[155]。流動製錬・直熱製錬は1966年1月に操業を開始し、4月から月計3350トンを生産する予定が7月からの試験開始にずれ、その後も故障と修理が続いた[156]。排ガスは高低差60メートル・距離300メートル下方の東北鉱化工業の硫酸工場へ送ったが、硫化水素と硫黄ミストが浄化されず不純な硫酸しかできないとわかり、日産化学のパテント浄化装置やアメリカからの触媒輸入で2年を空振りした[157]。修理その他で約6億円、当初の設備資金と合わせて約10億円を投入し、1968年春にようやく正常運転に入った[158]

  • 実業の世界 1969年10月号
    • [154]1964年10月から5カ年計画の剥土資金・設備資金計約40億円の斡旋融資を得て合理化に着手した
    • [155]露天掘りは1965年5月までに340万立方メートルを剥土する予定が空転し、採鉱開始は1967年5月にずれ込んだ
    • [156]流動製錬・直熱製錬は1966年1月操業開始、4月から月3350トン生産の予定が7月からの試験開始にずれ、故障と修理を繰り返した
    • [157]排ガスを東北鉱化工業の硫酸工場へ送ったが硫化水素と硫黄ミストが浄化されず、浄化装置と触媒輸入で2年を空振りした
    • [158]修理その他で約6億円、当初の設備資金と合わせ約10億円を投入し1968年春に正常運転に入った

1968年になって露天掘りも流動製錬・直熱製錬もまがりなりにも正常操業となったが、実績は計画から外れた[159]。剥土採鉱費は鉱石トン当たり550円の計画目標に対し、償却と金利を抜いて1000円以上かかった[160]。流動製錬・直熱製錬の実収率は遊離硫黄に対し80%の計画目標が60〜65%にとどまり、硫黄1トンにつき鉱石5トンという計画に対して実際は7〜8トンを消費した[161]。排ガスの利用は鉱石換算で月1万1000トンの計画に対し月2200トン、効率は20%にすぎない[162]。大更渡しコストを硫黄トン当たり2万1500円から8000円下げて1万3500円とする計画のうち、少なくとも50%のダウン効果を上げなければならなかったが、実績は逆に前のコストより上がった[163]

  • 実業の世界 1969年10月号
    • [159]1968年になって露天掘りも流動直熱もまがりなりにも正常操業となったが実績は計画から外れた
    • [160]採鉱費は鉱石トン当たり550円の目標に対し償却金利抜きで1000円以上となった
    • [161]実収率は遊離硫黄に対し80%の目標が60〜65%、硫黄1トン対鉱石5トンの計画が7〜8トンを消費した
    • [162]排ガスは鉱石換算月1万1000トンの計画に対し月2200トン、効率20%にとどまった
    • [163]トン2万1500円を8000円下げて1万3500円とする計画に対し実績は逆に前コストよりアップした

合理化が停滞していた1967年春、松尾鉱業は850名の希望退職案を打ち出し、11億円の資金計画を立てて金融機関に融資を懇請した[164]。賃金差と福利厚生費差で月4000万円を節減するという理由だったが、金融機関の多くは断った[165]。経営者が通産省に泣きつくと、鉱山局の課長が東北開発公庫と興業銀行へ出向いて政策的なテコ入れを約し、11億円の退職金融資を得て1967年9月に900名を整理した[166]。しかし硫黄が2000トンの減産となり、月4000万円の節減効果はゼロに終わった[167]。借入金は山野上重喜社長の就任前の22億〜23億円から5年で65億円に膨らみ、累積赤字は18億5000万円、実質23億円に増えた[168]。売掛金その他を含む債務は約80億円に達し、1968年6月には日本ブルドーザー工事の受取手形額面2億円の不渡り問題が起き、通産省の懇請による東北開発公庫の緊急融資で危機を脱した[169]

  • 実業の世界 1969年10月号
    • [164]1967年春に850名の希望退職案を打ち出し11億円の資金計画で金融機関に融資を懇請した
    • [165]450名の臨時下請で賃金差・福利厚生費差により月4000万円を節減する理由だったが金融機関の多くは断った
    • [166]通産省鉱山局の課長が東北開発公庫と興業銀行に嘆願し、11億円の退職金融資を得て1967年9月に900名を整理した
    • [167]硫黄2000トンの減産で月4000万円の節減効果はゼロに終わった
    • [168]借入金は就任前の22億〜23億円から65億円に拡大し、累積赤字18億5000万円、実質23億円となった
    • [169]売掛金その他を含め債務は約80億円、1968年6月の日本ブルドーザー工事の受取手形2億円の不渡り問題は東北開発公庫の緊急融資で回避された
  • 実業の世界 1969年10月号
    • [154]1964年10月から5カ年計画の剥土資金・設備資金計約40億円の斡旋融資を得て合理化に着手した
    • [155]露天掘りは1965年5月までに340万立方メートルを剥土する予定が空転し、採鉱開始は1967年5月にずれ込んだ
    • [156]流動製錬・直熱製錬は1966年1月操業開始、4月から月3350トン生産の予定が7月からの試験開始にずれ、故障と修理を繰り返した
    • [157]排ガスを東北鉱化工業の硫酸工場へ送ったが硫化水素と硫黄ミストが浄化されず、浄化装置と触媒輸入で2年を空振りした
    • [158]修理その他で約6億円、当初の設備資金と合わせ約10億円を投入し1968年春に正常運転に入った
    • [159]1968年になって露天掘りも流動直熱もまがりなりにも正常操業となったが実績は計画から外れた
    • [160]採鉱費は鉱石トン当たり550円の目標に対し償却金利抜きで1000円以上となった
    • [161]実収率は遊離硫黄に対し80%の目標が60〜65%、硫黄1トン対鉱石5トンの計画が7〜8トンを消費した
    • [162]排ガスは鉱石換算月1万1000トンの計画に対し月2200トン、効率20%にとどまった
    • [163]トン2万1500円を8000円下げて1万3500円とする計画に対し実績は逆に前コストよりアップした
    • [164]1967年春に850名の希望退職案を打ち出し11億円の資金計画で金融機関に融資を懇請した
    • [165]450名の臨時下請で賃金差・福利厚生費差により月4000万円を節減する理由だったが金融機関の多くは断った
    • [166]通産省鉱山局の課長が東北開発公庫と興業銀行に嘆願し、11億円の退職金融資を得て1967年9月に900名を整理した
    • [167]硫黄2000トンの減産で月4000万円の節減効果はゼロに終わった
    • [168]借入金は就任前の22億〜23億円から65億円に拡大し、累積赤字18億5000万円、実質23億円となった
    • [169]売掛金その他を含め債務は約80億円、1968年6月の日本ブルドーザー工事の受取手形2億円の不渡り問題は東北開発公庫の緊急融資で回避された
創業ストーリー(12)

1969年11月11日の総退職と5名だけの残務整理

松尾鉱業は1968年12月18日に東京地方裁判所へ会社更生法の適用を申請し、東京地裁は同年12月24日に財産保全命令を出した[170]。1969年1月15日、通産省と非鉄金属業界からの推薦で万座硫黄社長の浅田寛二氏が管財人に指定され、更生手続開始が発令された[171]。3月15日に第1回関係人会議が開かれ、12月25日までに更生計画を確立するよう指示があった[172]。更生計画の確立期限は通例6カ月のところ、ほぼ1年後に置かれた[173]。裁判所の意見聴取や管財人の決定でも債権者の意向はほとんど無視され、主として通産省の意見で事が運ばれ、大口債権者の金融機関から抗議が出た[174]。手形不渡りの直前に更生を申し立てたため銀行取引は停止とならず、従来の生産販売業務の継続が許された[175]。3月19日、東京証券取引所1部が更生または整理を事由に松尾鉱業の上場を廃止した。

  • 実業の世界 1969年10月号
    • [170]1968年12月18日に東京地方裁判所へ会社更生法の適用を申請し、12月24日に財産保全命令が出された
    • [171]1969年1月15日、通産省と非鉄金属業界の推薦で万座硫黄社長の浅田寛二氏が管財人に指定され更生手続開始が発令された
    • [172]3月15日に第1回関係人会議が開かれ12月25日までに更生計画を確立するよう指示された
    • [173]更生計画確立までの期間は通例6カ月だが松尾鉱業ではほぼ1年後の12月25日とされた
    • [174]管財人決定などで債権者の意向はほとんど無視され通産省の意見で運ばれ、大口債権者から抗議が出た
    • [175]手形不渡り直前の更生申立のため銀行取引は停止とならず生産販売業務の継続が許された

倒産の理由については、重油脱硫による回収硫黄が安価で大量に出回り鉱山硫黄が売れなくなったからだという説明が当時の各紙・各局に共通し[176]、通産省・旧経営者・管財人も同じ理由を挙げた[177]。これに対し、原因の大部分は通産省の指導の誤りと旧経営者の合理化・経営の失敗にあるという見方もあった[178]。重油脱硫の回収硫黄が伸びたのは、富士石油・大協石油・東亜燃料・日本石油の後発4社が常時操業を始めた1969年1月からで、松尾鉱業の倒産より後になる[179]。1969年1〜9月の回収硫黄生産は月平均1万2240トン、うち重油脱硫分は6240〜6740トンで、鉱山硫黄への影響度は約30%、出鉱の半分が硫黄鉱だった松尾鉱業が受けるべき影響度は15%と算定された[180]。安売りはむしろ鉱山側にあり、松尾鉱業は1968年9月からトン2万円の大台を割って1万9000円でダンピングを始め、これが鉱山硫黄業界全体に年間20数億円の損害をもたらした[181]

  • 実業往来 1969年
    • [176]松尾がピンチに立った理由として一般に言われていたのは、回収硫黄の進出で競争ができなくなったという見方だった
  • 実業の世界 1970年
    • [177]閉山の原因を各テレビ各新聞が重油脱硫の回収硫黄に帰し、通産省・旧経営者・管財人にも都合のよい理由づけだった
    • [178]本当の原因理由の大部分は通産省の指導の誤りと旧経営者の合理化および経営の失敗にあり、回収硫黄の影響は若干部分にすぎない
    • [180]1969年1〜9月の回収生産は月平均1万2240トン、うち重油脱硫分6240〜6740トン、鉱山硫黄への影響度約30%、松尾の受くべき影響度15%
  • 実業の世界 1969年10月号
    • [179]重油脱硫の回収硫黄が伸びたのは後発4社の常時操業が始まった1969年1月頃からで松尾の倒産以後のことだった
    • [181]松尾鉱業が1968年9月から2万円の大台を割り1万9000円でダンピングを始め、鉱山硫黄業界全体に年間20数億円の損害をもたらした

大口債権者の金融機関は更生手続開始の当初から大幅な人員整理を求めたが、管財人の浅田寛二氏は退職資金がないとしてこれを行わず、1000人余りの従業員を抱えたまま売れない硫黄の生産を続けた[182]。同年9月末には、労組代表に閉山の止むなきに至ったと伝えている[183]。10月に松尾村と岩手県が緊急に動き、全日本金属鉱山労働組合の中央行動、通産・大蔵・労働各省への陳情、石油業界からの1億5000万円の協力費提供を経て、硫黄と硫化鉱の在庫を根こそぎかき集め、1人平均25万円、規定額の4分の1の退職金支払いで決着した[184]。11月11日限りで職員・従業員と管理職員のすべてが退職し、一切の作業が止まった[185]。松尾鉱業鉄道は1969年12月に全列車を運休した。松尾鉱山は1971年に閉山し、黄鉄鉱に絞った後継会社が1972年に鉱業権を放棄して完全閉山となった。同年10月10日、松尾鉱業鉄道が全線を廃止した。

  • 実業の世界 1969年10月号
    • [182]大口債権者の金融機関は大幅な人員整理を求めたが浅田寛二管財人は退職資金がないとして行わず、1000人余の従業員を抱え売れない硫黄の生産を継続した
  • 実業の世界 1970年
    • [183]1969年9月末に浅田寛二管財人が労組代表に閉山の止むなきに至ったと吐露した
    • [184]10月の松尾村・岩手県の活動、全鉱の中央行動、通産・大蔵・労働各省への陳情、石油業界の1億5000万円の協力費提供を経て1人平均25万円(規定額の4分の1)で決着した
    • [185]1969年11月11日限りで職員従業員と管理職員のすべてが退職し一切の作業を停止した
  • 実業の世界 1969年10月号
    • [170]1968年12月18日に東京地方裁判所へ会社更生法の適用を申請し、12月24日に財産保全命令が出された
    • [171]1969年1月15日、通産省と非鉄金属業界の推薦で万座硫黄社長の浅田寛二氏が管財人に指定され更生手続開始が発令された
    • [172]3月15日に第1回関係人会議が開かれ12月25日までに更生計画を確立するよう指示された
    • [173]更生計画確立までの期間は通例6カ月だが松尾鉱業ではほぼ1年後の12月25日とされた
    • [174]管財人決定などで債権者の意向はほとんど無視され通産省の意見で運ばれ、大口債権者から抗議が出た
    • [175]手形不渡り直前の更生申立のため銀行取引は停止とならず生産販売業務の継続が許された
    • [179]重油脱硫の回収硫黄が伸びたのは後発4社の常時操業が始まった1969年1月頃からで松尾の倒産以後のことだった
    • [181]松尾鉱業が1968年9月から2万円の大台を割り1万9000円でダンピングを始め、鉱山硫黄業界全体に年間20数億円の損害をもたらした
    • [182]大口債権者の金融機関は大幅な人員整理を求めたが浅田寛二管財人は退職資金がないとして行わず、1000人余の従業員を抱え売れない硫黄の生産を継続した
  • 実業往来 1969年
    • [176]松尾がピンチに立った理由として一般に言われていたのは、回収硫黄の進出で競争ができなくなったという見方だった
  • 実業の世界 1970年
    • [177]閉山の原因を各テレビ各新聞が重油脱硫の回収硫黄に帰し、通産省・旧経営者・管財人にも都合のよい理由づけだった
    • [178]本当の原因理由の大部分は通産省の指導の誤りと旧経営者の合理化および経営の失敗にあり、回収硫黄の影響は若干部分にすぎない
    • [180]1969年1〜9月の回収生産は月平均1万2240トン、うち重油脱硫分6240〜6740トン、鉱山硫黄への影響度約30%、松尾の受くべき影響度15%
    • [183]1969年9月末に浅田寛二管財人が労組代表に閉山の止むなきに至ったと吐露した
    • [184]10月の松尾村・岩手県の活動、全鉱の中央行動、通産・大蔵・労働各省への陳情、石油業界の1億5000万円の協力費提供を経て1人平均25万円(規定額の4分の1)で決着した
    • [185]1969年11月11日限りで職員従業員と管理職員のすべてが退職し一切の作業を停止した

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沿革年表 1882〜1982年

松尾鉱業の沿革1882〜1982年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
地元村民が岩手県松尾村の山中で硫黄の露頭を発見
横浜の貿易商中村房次郎氏が松尾鉱山の鉱業権を取得★★
1914〜1945年横浜の貿易商が買った松尾鉱山と、輸出品だった硫黄松尾鉱山の本格開発を目的に松尾鉱業を設立★★★
戦後不況の余波で休山の危機に直面
硫黄製錬の石炭竈化とあわせ硫化鉱の生産販売を開始★★
生産量が硫黄1万6000トン・硫化鉱3万7000トンに到達
輸送力確保のため屋敷台~大更間に専用鉄道を敷設★★
生産量が硫黄6万4000トン・硫化鉱60万トン超の記録的最盛期に到達★★
増資により資本金を800万円に増額
坑内落盤の変災により多数の犠牲者と甚大な損害が発生★★
1946〜1953年硫黄・硫化鉱ともに全国首位となった1952年硫黄・硫化鉱の採掘と硫黄製錬に復帰★★
地方鉄道による一般運輸事業を開始
東京証券取引所に株式を上場
自家粉化工場で粉末硫黄の製造を開始
硫黄の価格統制解除を機に全面的な硫黄増産対策を確立★★
乗合バスによる一般旅客輸送を開始
再評価積立金の資本組入を含む増資で資本金を3億6000万円に増額
硫黄6万2000トン・硫化鉱65万トンでいずれも全国鉱山中首位を獲得★★
IMCの国際需給統制に基づき硫黄1万2400トンを割当輸出★★
女牛鉱山で金・重石・石灰石の採掘準備を開始
米国の低コスト硫黄の増産でIMCの国際統制が解除され輸出が停滞し山元滞貨が発生★★★
1954〜1963年福田董社長のもとで膨らんだ人員と長期不況2代社長中村正雄氏の逝去にともない福田董氏が社長に就任
コスト引下げのため乾式連続硫黄製錬設備の建設に着手★★
運輸部門を分離して八幡平観光と松尾貨物運送を設立
神戸製鋼所・日産化学工業との共同出資で東北鉱化工業を設立★★
1000余名の人員整理と経営陣交替により再建に着手★★★
東北鉱化工業の硫酸工場が操業を開始
1964〜1972年神戸製鋼所から来た経営陣と40億円の合理化計画第一銀行の要望で小島岩太郎社長が退任し神戸製鋼所の山野上重喜氏が社長に就任★★
露天掘り・流動製錬・直熱製錬を柱とする総額40億円の合理化計画に着手★★★
通産省が斡旋した退職金融資11億円で900名を整理★★
出光興産千葉製油所の直接脱硫が動きだし回収硫黄が市場に出回り始める★★
会社更生法の適用を申請★★★
東京証券取引所1部の上場を廃止★★
全職員・従業員が11月11日限りで退職し操業を停止★★
松尾鉱業鉄道が全列車を運休
松尾鉱山が閉山★★
黄鉄鉱に絞った後継会社が鉱業権を放棄し完全閉山★★
松尾鉱業鉄道が全線を廃止
旧松尾鉱山の坑廃水対策として新中和処理施設の建設を決定★★
旧松尾鉱山新中和処理施設が本格稼働★★
出典・参考 8件
出典・参考
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
  • 実業の世界 1969年10月号
  • 新日本経済 1951年
  • 野田経済 1961年4月24日号
  • 硫酸 1965年「工場見学 松尾鉱業株式会社松尾鉱業所見学記」
  • 実業往来 1969年
  • 実業の世界 1970年

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